11月5日(水)に購入した『明治新刻三國志全』小宮山五郎(金榮堂書屋、1887年6月)について今回は触れたい。
まず『明治新刻三國志全』はどういった本なのか。12cm×8.5cmの大きさで全53ページ、三国志(おそらく演義)に登場する人物が1ページに1人描かれており、その人物の横に簡潔にその人物について紹介する一文が記されている。おそらく子供向けの絵本であろうと考える。NDLにてデジタルデータが公開されているため、お時間がある際に一読されてはいかがだろうか。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三国志
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/884890
そこに掲載されている序文と人物の説明文は次の通りである。
旧字や異体字など表記できない字などを除き、可能な限り原文のママで表記する。また送り仮名は補わず、特殊な読みに関しては( )で読み方、誤字については赤字でを表す。
なお順番は収録順で記述する。
三國の事を記せし唐文は有と虽も幼児等(こどもら)の
客事(たやすき)讀得る事奈(な)らばまた通俗登(と)名付し文
も其巻頗(すこぶ)る夥(おびただ)し暫く之を譬(たとう)れバ烏獲任鄙能(の)
挙難りし大石も碎て是を小すせバ千里の臺(とをき)耳(に)
うつ須(す)事婦女の力に安かりなん今其大石を打碎き非
力の児童に授んと其要領を抜抄し一部の冊子に編
奈(な)せり固(もと)を里(り)大人君子の為ならず宜しく卑■(ろく)を恕し曰へ
卯月末つ登(ど)小宮山の下尓(に)へんしや記■
※■=入力、読み取り不可
劉備玄徳
劉備字ハ玄徳 中山靖王の後胤なり 漢の統をつぎ巴蜀に帝位を襲
太史慈子義
大史慈字ハ子義 孫策を狙撃せんとし後呉の輔弼たり
董卓仲穎
董卓字ハ仲頴 性暴悪 天子を蔑尓(に)し獨り霊権を逞しふす
黄蓋公覆
黃葢字ハ公覆 呉國の臣尓(に)して水戦の名将なり 江東の河東を守り蜀魏を防ぐ
典韋
典韋 曹操の近臣多して勇猛比なく曹操能(の)代り討死ス
許褚仲康
許褚字ハ仲康 魏主曹操の愛臣尓(に)て裸尓(に)て張飛を罵る
魯粛子敬
魯粛字ハ子敬 呉国の謀臣尓(に)して周瑜と孫権を助く
夏侯惇元譲
夏侯惇字ハ元譲 魏の臣尓(に)して長鎗の手練を究むとぞ
荀紣文若
荀紣字ハ文策 魏国曹操の謀臣尓(に)して常尓(に)政練を取む
周瑜公瑾
周瑜字ハ公瑾 智深く能孫権を助け赤壁尓(に)て魏の八十万の兵を打破連(れ)り
張昭子布
張昭字ハ子布 周瑜と呉国の股肱た里(り)
徐晃公明
徐晃字ハ公明 初免(め)土賊の部下た里(り) 後魏の将た里(り)
関羽雲長
関羽字ハ雲長 河東解良の人な里(り) 稱して美髯公と云
廖化元倹
廖化字ハ天倹 初免(め)黄巾の張角の部下た里(り)が後蜀の武官た里(り)
龐徳令明
龐徳字ハ令明 初免(め)馬超の武将た里(り) 後魏に降たる
龐統士元
龐統字ハ子元 英才孔明に亞ぐ
穆皇后呉氏
穆皇后呉氏 陳留の人呉素の女なり
樊氏
趙範の嫂樊氏 容顔優て美也 賢才多
陸遜伯言
陸孫字ハ伯言 呉郡の人 蜀主江東へ侵入の時大将た里(り)し
費禕文偉
費禕字ハ文偉 蜀主尓(に)使へ政練をとり國家を護須(す)
司馬懿仲達
司馬懿字ハ仲達 魏国の功臣なり 権謀尓(に)通じ屡孔明と兵を争ふ
孫乾公祐
孫乾字ハ功徳 蜀主刘備の謀臣尓(に)して忠实正良の名士人
丁奉承淵
丁奉字ハ𣴎淵 呉郡の人 勇猛尓(に)して弓馬に達す
祝融夫人
南蛮主孟獲の妻祝融夫人 勇猛尓(に)して女子と虽男子の如し
司馬炎安世
晉帝司馬炎字ハ安世 魏の丞相司馬懿の孫尓(に)して遂尓(に)魏を斃ス
郤正令先
郤正字ハ令先 蜀主尓(に)使へて忠实を盡し屡戦功あ里(り)
張飛翼徳
張飛字ハ翼徳 長樊橋尓(に)て魏軍十餘万を一喝尓(に)退ぞく
程普徳謀
程普字ハ徳謀 呉国尓(に)仕へて能忠良を盡す
関平
関羽の長子関平 膽勇父尓(に)類須(す) 屡戦功あ里(り)
以上が本書に掲載されている内容である。序文に中国戦国時代の秦代の烏獲と任鄙の名が挙がっていることから、この本が出版された当時は、彼らの名前がある程度知られていたのではないかと推測する。
またTwitterにて、にゃもさんが以下のようにおっしゃった。
本書が出版される一年前に、『三国志銘々義伝』小宮山五郎(東洲堂、1883年)が出版されていた。もちろん著者は同じである。こちらも幸運なことにNDLにて公開されていた。
近代デジタルライブラリー - 三国志銘々義伝. 1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881158
上のライブラリーで『三国志銘々義伝』と『明治新刻三國志全』を比較すると、描かれている人物の容姿や構図や服装等が共通点が多く、にゃもさんの前者を藍本として後者が描かれたのではないかという推測に頷ける。
右:『三国志銘々義伝』荀紣図
左:『明治新刻三國志全』荀紣図
また前者の絵師は「葛飾正久」と名が記されていたが、後者には絵師の名前がどこにも記されていなかったため、おそらく別の人物が描いたのではないかと考える。どちらも似た構図で人物を描いているため、二人が共通の「何か」を見て描いたのではないだろうか。
次回は『三国志銘々義伝』について取り上げたいと考える。