正史における馬岱について

先日より調べている馬岱について、どのような役割が与えられ、それが変化しているのかを検証するため、まずは正史の記述を以下にピックアップする。

(章武)二年卒,時年四十七。臨沒上疏曰「臣門宗二百餘口,為孟紱所誅略盡,惟有從弟,當為微宗血食之繼,深託陛下,餘無復言。」追謚超曰威侯,子承嗣。位至平北將軍,進爵陳倉侯。超女配安平王理。
【『三國志』卷三十六 蜀書六 馬超伝】

章武二年(222年)に馬超が47歳で死去する。臨終の際に「一族の200人余りが曹操によって誅殺されたが、従弟の馬岱だけが生き残っている。馬氏の血食を継ぐ者として陛下に託す。」と上疏した。馬超に威侯と追諡され、子の馬承が嗣いだ。馬岱の位は平北将軍に至り、陳倉侯に進爵した。

延士衆知曲在延,莫為用命,軍皆散。延獨與其子數人逃亡,奔漢中。儀遣馬岱追斬之,致首於儀,儀起自踏之,曰:「庸奴!復能作惡不?」遂夷延三族。
【『三國志』卷四十 蜀書十 魏延傳】

魏延の士卒は、魏延に非があることを知っていたため命令に従う者はなく、軍兵は四散した。残された魏延と息子たち数人は逃亡し、漢中に出奔した。楊儀馬岱に追跡させ彼とその三族を処刑した。

(青龍)三年,遷太尉,累筯封邑。蜀將馬岱入寇,帝遣將軍牛金擊走之,斬千餘級。
【『晉書』卷一 高祖宣帝】

青龍三年(235年)に司馬懿は太尉に遷され、封邑を加増された。その頃、馬岱が攻めてきたため将軍の牛金を派遣して迎撃させ、千余りを斬った。


正史には馬岱に関する記述が以上の四ヶ所のみしか残されていないため、彼に関することは一切不明であるため、馬岱の実態については追及することができない。
また従弟という記載があるため、馬岱馬超よりも年下とし彼の経歴を以下にまとめておきたい。

生年に関する記述がないため、どうしても細部を掘り下げれないがとてもつらい。


次回は現在最も通行している『毛宗崗批評本三國演義』の馬岱を見たい。