無題

3.11を契機にパラダイムシフトが起こったことに気付いた人と、そうでない人には天と地ほどの差がある。それに真っ先に気付くべき人たちが、気付いていない、気付かないふりをしている現在の状況は、どんなに甘く評価しても世紀末的だと言わざるを得ないだろう。
ただ、今の状況を嘆いたり、文句を言っているだけでは、「空気」に抗えなかった戦前の日本と同じだ。
気付いた人が自分の足元から一歩ずつ歩みを進めていくことでしか、未来を切り開くことはできないだろう。
宮台真司の言うように、任せる政治から引き受ける政治への転換ができるかどうかが、これからの日本を希望ある国に成熟させることができるかどうかの試金石なのだと思う。

グルーネヴァルトの17番線ホーム

 もう一年近く前になりますが、冬に行ったベルリンのことをちょっとだけ記しておこうと思います。

 ちょうどベルリンに行ったのはクリスマスイブの日でした。日本のクリスマスとは異なり、ほとんどの店は終日お休み。スターバックスも閉店してしまいます。テレビからはどのチャンネルを回してもクリスマスソングが流れていました。

 翌日のクリスマス当日に、旧東ドイツの秘密警察の跡地の博物館へ行きました。今なお残る独特な雰囲気は威圧的で気分が悪くなります。
 そのあと、ポツダムへ向かう途中にある郊外のグルーネヴァルト駅へ向かいました。グルーネヴァルトは大きな公園があることで有名なのですが、今回の目的は駅そのものです。

 この駅はナチス政権下でユダヤ人を収容所へ移送するいわばターミナル駅でした。
 着いたのは6時くらいであたりは真っ暗。民家もまばらで、きっと人目につかず都合が良かったのだと思います。

 この駅の17番線ホームは、ユダヤ人追悼のモニュメントになっていて、ホーム全体が鉄の枠で覆われています。
 そこには、ユダヤ人が移送された年月日、移送先、人数が延々と記されています。
 ホームの一番先には碑が立てられたくさんの花々が供えてありました。

 ふと見ると、ホームの途中に一輪だけ花が供えてありました。
 その列車に乗せられて亡くなった人の遺族が、今この時代にこの場所で追悼をしている。
 歴史の重さを感じざるを得ませんでした。

 以前ドイツに行ったときと、今回の旅行でチェコに行ったときにも強制収容所に足を運びました。
 どのようなことが行われたのかということは、時には目を覆いたくなるような展示を見れば理解はできます。
 ただ、どちらに行った時も、あまりにも日常との隔たりが大きすぎて、ぴんとこないという印象を持ちました。

 この駅の17番線ホームの脇の列車が止まる場所には木が生い茂っていて、長い年月が経ったことを物語っていました。
 ただ、レールはそのまま残されていました。
 もしこの木が切られてしまったら、同じことが行われるかもしれない。そんな想像をせずにはいられませんでした。
 私がいまここに存在していることと、歴史上の出来事とは切り離すことなどできない。
 そのことを少しは実感できたという気がしました。

久しぶりに

書いてみようと思います。
 例の試験はうまくいかずでした。面接のときのことを今思えば、仕事からの逃げの部分を見透かされたような気がしました。最近は少し気を入れなおして仕事をしています。新たな知識を入れながら仕事をするというのは楽しいですね。もう少し頑張ってみたいと思います。
 もうちょっとしたら中欧に旅立ちます。壁の崩壊から20年、旧東側のこの地域にどのような変容が起こりつつあるのかを少しでも感じ取れたらと思っています。ヴァイツゼッガーの演説集をちょうど買ったところだったので、持っていってみようかな。
 あと、子どもたちの絵で有名なテレジーンの強制収容所にも行ってきます。行く前に本を読まねば。 
 また帰ったら書こうと思います。ではまた。

まだ若いなあ

 教職課程の社会科教育法でお世話になった奥富敬之先生の新刊が、たまたま書店に出ていたのでぱらぱら見ていたら、1年ほど前に亡くなられていたことが分かった。
 初回の授業のときに「私は出席を重視します。今から出席簿をまわすので、正の字を3つ書いておいてください」って言っていたなあ。
 単に楽勝なだけではなく、苗字や名前の由来、暦の読み方など、日本史の基本的な事項を具体的な話を踏まえて話されていて、興味深い内容だった。今でもノートは大事に保管してある。
 まだ70才前後のはずで、大河ドラマの監修をはじめ、いろいろと残されていたお仕事はあったはず。天国でさらなる研究に勤しんでおられることだと思う。ご冥福を祈りたい。

お〜

私の亡き友人のことが載っていました。山田五郎さすが!
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000480905180002
記事がそのうち消えてしまうと思うので、転載。


山田五郎のワケあり!

壁黒猫(豊島区・雑司が谷

2009年05月16日

◆吾輩は愛されている

 寺町には猫がよく似合う。東京でいえば、台東区の谷中がいい例だ。そして豊島区の雑司が谷にも、一風変わった人気の町猫がいる。

 南池袋公園から鬼子母神にかけて出会えるその猫は、雨が降ろうが風が吹こうが微動だにしない。それもそのはず、猫といっても、壁や電柱に黒いスプレー塗料で描かれた落書きだから。

 名づけて、「雑司が谷(あるいは南池袋)の壁黒猫」。誰がいつ何のために描いたのかは、わからない。

 ポーズは、横向きと後ろ姿で数種類。いずれもなかなかの秀作だ。シルエットだけの単純な絵で、タッチも素人っぽいのだが、猫の雰囲気をよくとらえ、いかにもいそうな場所を選んで描いている。落書きなのに多くが消されず残っているのも、猫好きが多い土地柄になじんでいると認められた証拠だろう。

 雑司が谷2丁目にお住まいの成田邦宏・ひろみさんご夫妻は、02年の7月ごろに「壁黒猫」を発見して以来、町中を探し回って、手作りの分布マップを作製。ある道筋に沿っているので、同一人物が一晩で描いた可能性もあるという。その後、別人の手によると思われる新作も発見された。

 南池袋3丁目で「古書往来座」を営む瀬戸雄史さんは、近所の小学校が統廃合で取り壊される際、「壁黒猫」が描かれた塀の一部をコンクリートごと切り出してもらい、店の横に飾っている。「壁黒猫」のモデルは、鬼子母神の裏道にいた野良猫で、近所の人から「黒ちゃん」などと呼ばれ愛されていた黒猫ではないかとのこと。ちなみにこの黒猫は、昨年11月に他界した。

 「壁黒猫」も、そんな寺町・猫町ならではの人情に守られてきたわけだ。雑誌やネットで話題になったこともあり、今では「壁黒猫」を見るために雑司が谷を訪れる人もいる。

 いうまでもなく落書きは、刑法に定められた器物損壊にあたる犯罪だ。「雑司が谷の壁黒猫」にしても、迷惑している人もいるだろう。

 だが、その一方で、この落書きが町に一定の活力と潤いを与えていることも確かな事実。落書きは決してほめられた行為ではないが、それを受け入れる町の懐の深さは手放しでほめたたえたい。

本日の物件 判定は…
★★★★☆

判定のワケ
描かれたワケは不明だが、消されずに愛されてきたワケは町のあちこちで実感できたので、ワケあり度は星四つ。

◆電信柱の下にもひっそり

「壁黒猫」のいる雑司が谷地区は、「吾輩(わがはい)は猫である」で有名な夏目漱石も眠る雑司ケ谷霊園があり、ゆっくり走る都電など、閑静で懐かしい雰囲気が漂う。昨年6月には地下鉄副都心線の駅が開業した。成田さんの調べで20カ所ほどいたという「壁黒猫」は、描かれていた壁が壊されたり消されたりして、いまの数は減っている。南池袋3丁目の法明寺の近辺などに比較的多く残っており、電信柱の下など思いがけないところにいるようだ。

辺見庸『しのびよる破局』

 青年たちが、障害者が、あるいは年老いた人びとが、排除されてもよいものとして路上に放りなげられているときに、それを痛いとも感じなくなって、わが身の幸せだけを噛みしめるような人生というのはなんてつまらないのだ、なんて貧しいのだ、なんてゆがんでいるのだという感性だけは失ったら終わりだとぼくはおもいたいのです。(p.123)


 大学で辺見庸が担当していた授業に出たことがありました。うまい話し方ではないものの、言葉の一つ一つに彼の思いが込められていて、思わず引き込まれてしまった記憶があります。病に倒れられて、さらに言葉に磨きがかかった気がします。

今日の新聞より

 私たちの取るべき責任は・・・市民生活が健全に保たれるように政府・企業を監視し、法を守らせ、一人一人の命と暮らしを守る政治を行わせる、という責任である。「お金がないから仕方ない、不況だから仕方ない」と言って、結果的に弱者の命を削ることになる政策を採用しようとする政治家は、いくらでもいる。しかしそのとき、医者は「この患者を見殺しにしろと言うのか」と、介護ヘルパーは「この寝たきりのお年寄りを放置しろと言うのか」と、労働者は「今日まで一緒に働いてきたこの仲間を路上に放り出せと言うのか」と異議申し立てしなければならない。それが、市民としての責任だ。

 
 上の文章は、今日の朝日新聞朝刊の湯浅誠さんの言葉です。岩波新書『反貧困』の大仏次郎論壇賞の受賞を受けての文章でしたが、新書ともども秀逸。
 現在の政治に対する愚痴や不満の類は巷に溢れています。しかし、そんな愚痴や不満を口にする人々のなかでどれだけの人が、その状況を真に自分自身や自身の身の回りの問題として考えているでしょうか。隣の席の派遣社員が解雇されそうになった時に「今日まで一緒に働いてきたこの仲間を路上に放り出せと言うのか」と果たしてどれだけの正社員が言えるでしょうか。とても難しいことだと思います。でも、せめてそのような事態に対しての「痛覚」は鈍感にしたくない。そう思います。