写真

綺麗な絵が写真の様だと譬えられた場合、その裏には写真は綺麗であるという考えが潜んでいる。どうして写真は綺麗でなければならないのだろうか。
同じ光景が最終的に二次元の平面に収められたとしても、絵画は、二つの目で見たものを画家の脳で一つの映像に処理し、それを画家の脳と肉体などによって一つの平面に描き出したものである。
写実的、とはどういうことだろうか。字面を見る限り「実を写す」らしいが、その「実」の認識自体、各個人に差がある。
とても近眼で、遠くの山並みを常にぼやけたようにしか見たことがなかった人がいるとする。シャープに写された山の写真をその人がみたとき、その人はその写真をリアルだと感じるだろうか。
写真が当初、絵画に比べ大きなアバンテージを持っていたと認識されたのは、その細密描写によってであった。
写真における省略の技法というものは、恐らくそう発展してはいない。もしくは、皆大きい声で語ろうとはしない。
いつの間にか、写真的なものの見方がリアルなものの見方である、という認識が世界に染み付いて来ている。
あなたは今日一日みた写真の数を挙げることが出来るだろうか。朝、新聞を眺める。雑誌をめくる。街路で広告を見る。喫茶店のメニュー。携帯の待ち受け画面。WEBサイト。果ては、テレビ。そこには何枚の写真が載っているだろうか。
シャッターを押して現在を写しとめたように思っても、写真そのものは常に過去である。
我々は現在の写真を撮ることは出来ない。
我々は未来の写真を撮ることは出来ない。
写真は死の技法である。