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赤錆拾い このページをアンテナに追加 RSSフィード

2004/12/04(Sat)

[]vermilion::text、99階、五十六階から来た男 vermilion::text、99階、五十六階から来た男を含むブックマーク vermilion::text、99階、五十六階から来た男のブックマークコメント

「大変だ、早く奴を止めないと下の階が水没しちまう」

薄汚いベッドの上で、汗まみれで目覚めた男はそう言った。ベッドを囲んだ人間たちは一様に訝しげな表情を浮かべて、互いに視線を交わしあう。

「まあ、水でも飲みな」

部屋の隅に居た背の高い男が腕組みを解くと、テーブルの上にあった銀色のカップを男に手渡した。男は何か恐ろしいものが部屋のどこかに潜んでいるかのように部屋中を見回してから、カップの水を一気に飲み干した。

「あんた、何階から来たね」

質問した男が手近な椅子に座ると、周囲の男達もそれに倣った。男達の座る椅子は木で出来た粗末なもので、窓の無い渇ききった漆喰の壁と、無骨な石畳の床とともに、頼りなげに燃えるランプによって薄暗く照らし出されていた。目覚めたばかりの男は、水を飲んだせいか幾分落ち着いていた。

「五十六階さ」

そう言って自分の身を改め、男達の上に控えめな観察の視線を送った。男達はどこかの砂漠の民のように頭にターバンを巻いていた。陽に焼けた赤銅の顔は精悍で、日々の労働に鍛えられたであろう締まった筋肉が緩やかな外套の隙間から垣間見えていた。男達は腰に湾曲した長刀を佩いていた。

「ここは、何階なんだい」

男の質問に、先ほど水を渡した男が答える

「九十九階さ」

仲間からドクトルと呼ばれているその男の言うところによると、五十六階から来たという男は彼らの街の真っ只中にうわ言を呟きながら倒れていたのだそうである。男の格好から他階からの客人と知ったドクトルは、彼の仲間の手を借りて男を介抱したのである。

「それで、なんで下の階が水没しちまうんだ」

あごひげを捻りながらドクトルが言うと、男はベッドの上に座って話しはじめた。

それは男が覚えている限りでは昨日の話であった。その朝、男が五十六階の自室で目覚めて窓の外を見ると、そこには見慣れた街の姿はなく、一面の海原が広がっているのであった。どうやら塔の低階層と周囲の街は水面下に沈んでしまったようで、壊れた家のものらしい折れた木材や看板、家具や絨毯…つまり街の断片が海面に浮遊していた。驚いた男が窓を開けて外を見ていると、はるか彼方の水平線で一匹の鯨が跳ねた。

どしん、というひどく重いものが水にたたきつけられた衝撃に近い音がして、しばらくしてから遠くから高波が来て男の住む朱色の塔を洗った。波は男の住む五十六階までは届かなかったが、男の部屋は大きく揺れた。大変だ、と思った男は急いで服を着て大切なものを鞄に詰め込みはじめた。

どん、と音がして再び部屋が揺れる。男は窓から身を乗り出した。鯨は着実に塔に近づいてきていて、波は回数を重ねるごとに高くなっていた。男は部屋を飛び出し、半ば恐慌に陥いりながら非常階段を上へ上へと登った。太陽は黄金色に輝いていて、男の足元で鯨の送る波の飛沫がきらめいた。

どどん、と音がして波が男の足を洗った。男は足をもつれさせながら、必死で階段を登る。

どどん、と次の音が鳴ったそのとき、男はなんとか上階への扉を上に跳ね上げ、ずぶぬれになりながらもそれをくぐった。

「それっきり意識をなくしてしまって、気づいたらこの部屋ってわけなんだ」

その話を聞くと、男以外の皆は不思議そうな表情で顔を見合わせた。

最近地上を見たが、部屋の隅に居た筋肉質の男が言った、水没なんてしていなかったぜ。

五十六階から来た男は、呆然とした表情でその男を見つめた。

「自分の目で確かめてみればいい」

ドクトルがそう言って、部屋の奥のドアを開いた。部屋の外は月夜であった。ドアは、ところどころを松明で照らされた石造りの回廊につながっており、一行は差し込む月光の中、ドクトルに先導されて回廊を進んだ。はたしてその回廊の突き当りには、内側に雨戸の付いた小さな窓があった。不思議なことにその雨戸からは昼間の光がさしており、男が雨戸を開けると、そこから眩しい太陽の光が差し込んできた。男は自分の顔が入るほどしか無い小さな窓から地上を眺めた。窓から見える下界は半ばを雲に覆われていたが、雲に覆われていない大地は一様に熱砂の色をしていた。砂の海のところどころに、孤島の様にオアシスが浮かび、はるか遠くに蟻の列の様に隊商が歩んでいる姿が見えた。地平線の彼方に、大きな都と霞む海がかすかに認められた。男はその光景を眺め終わると、黙って回廊を振り返った。

「あんた、変な夢でも見たんじゃないのか」

黙りこんだ男に誰かがそう言い、男とドクトルを除いた皆が笑った。男は振り返ると今一度、下界の光景を目に焼き付けるように長い間眺めると、ゆっくりと雨戸を閉めた。

ドクトルが覚えている限り、その男は死ぬまで一度も笑うことがなかったという。