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à la lettre

2011-11-09

「ラカン学派の精神病研究――「精神病の鑑別診断」から「普通精神病」へ」

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UTCP(21世紀COEプログラム「共生のための国際哲学交流センター」)の企画で,東大駒場キャンパスでお話させていただきます.


「ラカン学派の精神病研究――「精神病の鑑別診断」から「普通精神病」へ」というタイトルです.


日時: 2011年11月25日(金)18:00〜

場所: 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム3


ラカンの30年代(エメ),50年代(シュレーバー),60年代(シュレーバー再論),70年代(ジョイス)のそれぞれの精神病論を概説し,それがどういう風に臨床に使えるのかを簡単にお話しながら,これまで紹介の少ないラカン亡きあとのラカン学派の精神病研究の流れを紹介していきます.

どうぞお越しください.

詳細はこちらからお願いいたします.

2011-09-06

「症状精神病のメタサイコロジーにむけて」抄録

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 来たる10月14日に,「第34回日本精神病理・精神療法学会」にて,ラカンに関連する演題を発表させていただく予定です.以下に抄録を公開します.

第34回日本精神病理・精神療法学会 パネルディスカッションIII-P-5-2(10月14日午前)

症状精神病のメタサイコロジーにむけて


(抄録) 「外因反応型」に関するBonhöfferの一連の臨床観察は,症状精神病において症状がどのように(How)起こるのかを精緻に記述している.一方,彼の理論には症状精神病の症状がどうして(Why)生じるのかという視点が不十分であるように思われる.彼は症状精神病の原因を身体の基礎疾患から二次的に生じる「代謝障害」に見定め,それを「病原的仲介体(ätiologische Zwischenglieder)」なる物質の作用に還元しているが,結局のところそれはブラックボックスなのである.私たちは症状精神病の症状形成をどのように捉えればよいのだろうか.

 また,症状精神病における幻覚妄想は,統合失調症の幻覚妄想とどのように異なるのだろうか.両者の違いは通常は意識障害の有無によって示されるが,とりわけ急性精神病の臨床においてその鑑別が難しい症例は数多い.私たちは本発表で,とりわけ症状精神病の幻覚妄想の症状形成に焦点をあて,それが統合失調症の病理とどのように異なるのかという問題を考えてみたい.

 まず,Bonhöffer自身が外因反応型を構想する際にモデルとした「アルコール精神病」の問題に目を向けてみることが,この問題に接近するための糸口となるように思われる.

 Lasègueは「アルコール精神病は,精神病ではなく夢である」(1852)において,アルコール精神病を本来の精神病(délire:妄想病)とは一線を画する「夢の病理」として捉えることを提唱している.しかし一方で,Moreau de Tours(1845)はすべての精神病を夢に由来する病理として捉えている.つまり,彼にとっては精神病は内因性/外因性の別を問わず,すべて「睡眠なしの夢(rêve sans sommeil)」なのである.彼の考えはその後Eyによって発展的に継承され,夢は「精神病理学における原基的事実(fait primordial)」であるとされる.Eyは,内因性精神病と外因性精神病の区別を撤廃し,急性精神病を「意識の病理」と一括して説明する.つまり,フランス精神医学には,外因性精神病を夢の病理として説明し,本来の精神病(統合失調症)とは一線を画すものとみる見解(Lasègue)がある一方で,内因性/外因性の区別なしに,すべての精神病を夢の病理に還元する見解(Moreau de Tours, Ey)もあるといえる.

 つぎに,症状形成と夢の関係についてさらに追求するために,「夢の科学(La science des rêves)」を自認する精神分析の意見を聞いてみよう.

 Tausk(1915)もまた,アルコール中毒患者の作業せん妄を夢と類比して解明しようとした.彼はまず,不安感のうちにさまざまな作業を次々と繰り返す夢を分析し,この夢が性的不能の恐れから発生したものであるとする.そして,アルコールせん妄患者の幻覚は,このような性的不能に関する夢と同じものであると結論づける.つまり,アルコールせん妄患者は,アルコールのために性的不能に陥り,そのために作業の夢を形成するが,この夢が睡眠下ではなく意識障害下で体験されてしまうために幻覚や作業せん妄が生じるというのである.なお,Tauskは内因性精神病をこの作業せん妄論と同じ水準で理解しようとしており,Moreau de Tours やEyの見解に重ねられる.

 一方,「夢の病理」を徹底的に吟味し,症状精神病と統合失調症を区別しようとしたのがFreud(1915,1917)である.彼はメタサイコロジーの観点からアメンチア(症状精神病含む)と統合失調症を比較し,アメンチアでは語表象が対象表象へと退行(局所論的退行)し,幻視をはじめとした夢の病理が前景化するとされる.一方,統合失調症では局所論的退行が障害されており,語表象は対象表象へと退行できず,語表象そのものが前景化することから,種々の言語性病理が出現するとされる.つまり,アメンチアの幻覚は夢に類似した「退行モデル」で理解でき,統合失調症の幻覚は「言語モデル」で理解できるというのである.

 付言するなら,このメタサイコロジー的理解は,症状精神病の理解だけにとどまるものではない.Malevalは,ヒステリー性精神病とアメンチアの妄想を夢幻様妄想(délire onirique)として「夢」の次元において捉え,統合失調症の妄想とは異なるものと考える.また,本邦の小出は,非定型精神病は,不眠が続くことによって正常な夢作業がなされず,覚醒下で「前意識の湧出」がみられることによって起こると考える.このような理論を参照することによって,症状精神病,ヒステリー性精神病,非定型精神病といった非統合失調症性の幻覚妄想についての精神病理学的理解を深めることができるかもしれない.

学会の詳細は以下のURLからお願い致します.

https://sites.google.com/site/jspp34in2011/

2010-11-29

ヤスパース『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』における「要素現象」

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 以前,「要素現象(phénomène élémentaire)」というラカンの用語が,実はヤスパースの『精神病理学総論』に登場する「elementares Phänomen」という用語に由来するものである,ということを紹介した.その後にパリ留学中の精神科医の知人から教えていただいたところによると,どうやらフランスではこのことは半ば常識となっているようであるという.私が調べたところでは,唯一,ジャック=アラン・ミレールの論文「L’invention du délire」*1において,要素現象がヤスパースの議論と関連付けて論じられていた.ラカンはセミネール3巻『精神病』で,たしかに要素現象をクレランボーに由来する概念であると述べている*2が,この発言はクレランボーの精神自動症から受けた影響をヤスパースのものと言ってしまった,ある種の失錯行為である可能性が高いだろう.日本では要素現象を論じるときに『精神病』が参照されることがほとんどであるが,フランスでは要素現象を論じるときには,『精神病』よりもラカンの学位論文を参照することが多いという.このように,参照のコーパスの問題もあるようである.

 さて,その後も,要素現象の概念をめぐって,ヤスパースの著作を断続的に読んでいるのだが,つい最近は1922年の『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』 にも「elementares Phänomen」が登場することを発見した.ただし「elementares Phänomen」は「原発性体験」と訳されていた.以下に引用して示す.

 要素現象(elementares Phänomen)とは,〔病的〕過程そのものによって発現するものであり,あらゆる反省に先立って,無媒介に体験される現象をいう.ストリンドベルクでは,自我意識,感情,行動などの領域では著明な変化はない.彼は主として対象意識の内容および形式の異常についてのみ報告している.重要なことは,これらの内容は決して比喩的に(als ob),たとえば一定の感覚が外界からの遠隔的作用として解釈されるのではなく,むしろ,これらの現象は無媒介に現実として存在し・・・あたかもわれわれの知覚内容のごとき無媒介性を以て現れる.

(『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』,邦訳p.80/原書p.100.邦訳は適宜変更した.)

 『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』は,ヤスパースがスウェーデンの劇作家・小説家であるストリンドベリとゴッホを統合失調症として捉える一種の病跡学的研究であるが,精神医学を離れて間もないヤスパースの筆になることもあり,『精神病理学総論』とほぼ同じ分析手法と術語が使われている.これは「要素現象」についても同様であるし,むしろ,『精神病理学総論』では「要素的体験」や「要素的症状」などと呼ばれていた様々な原発性の症状のすべてを「elementares Phänomen」として総称しようとしているようにも読める.*3

 なお,『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』が発表された1922年は,まさにヤスパースが『精神病理学総論』の第2版(1919),第3版(1922)を大幅な加筆修正を加えて再版し,自らの体系をさらに充実させようとしていた時期に相当する.この時期のヤスパースの思索を追うためには,彼の『精神病理学総論』第2版,第3版や,同時期の哲学的著作にも直接当たらなければならないだろう.

 なお,ヤスパースの精神病理学と哲学との相互の影響関係については,すでに加藤敏先生による綿密な研究*4がある.この論文はこれまで手に入りにくかったが,先日遂に単行本化され入手しやすくなった.その他の論文も,西洋哲学を中心に病理との関係が緻密に,ときに大胆に論じられており,哲学と精神病理学に興味のある向きには間違いなくお勧めできるものである.


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*1:Miller, J.-A.:L’invention du délire. La Cause Freudienne, 70:81-93, 2008

*2:Les psychoses, p.28

*3:余談であるが,Strindberg und van Goghのフランス語訳は1953年に,モーリス・ブランショの序文を付せられて出版されている.ラカンは『精神病』のセミネールを開講する前に本書を読んだ可能性もあるだろう.

*4:加藤敏:カール・ヤスパースにおける精神病理学と哲学――架橋の試み.コムニカチオン,16:19-35,2009

2010-09-23

10月に2つの学会発表を行ないます

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 10月7日,10月29日に,それぞれ「第33回日本精神病理・精神療法学会」「第14回精神医学史学会」にて,ラカンに関連する演題を発表させていただく予定です.

 内容としましては,精神病理学会のほうでは,今年当blogで取り上げたラカンの「要素現象」について,特にクレランボーに対する批判という点に注目し,出来る限り記述精神病理学的な観点からラカンとヤスパースの関係に迫ろうと思っております.精神医学史学会のほうでは,ラカンの精神医学上の先駆者であったセグラやセリエが哲学者ベルクソンを援用しながら論じていた「無媒介性の病理」を取り上げ,彼ら(およびラカン)のクレランボーとの対立という構図を描きます.つまり,2つの発表はそれぞれ,「要素現象」ないし「無媒介性の病理」から,それぞれ「シニフィアン」と「内言語」について考えようとするものです.

 私の考えでは,セグラ一派における「内言語」は,ラカンの「シニフィアン」の概念に関して,ソシュールの「シニフィアン」よりも大きな影響を与えています.この意味で,この2つの発表はお互いに関連したものであると考えています.

 盛会のうちに終了いたしました。ご来場の皆様、ありがとうございました。


第33回日本精神病理・精神療法学会 一般演題A-4(10月7日午前)

要素現象(phénomène élémentaire:Lacan, Jaspers)からみた統合失調症症状の出現過程


(抄録) Lacanが『精神病』のセミネールで提出した「要素現象(phénomène élémentaire)」の概念は,これまでClérambaultの「小精神自動症」に由来する用語とされてきた.しかし,Jaspersの『精神病理学総論』をよく読んでみると,これとほぼ同じ「元素的現象(elementaren Phänomens)」(p.60, 65)という術語が認められる.Lacanは学位論文を執筆するにあたり,Jaspersをひとつの重要な準拠枠としていることを考えると,要素現象はJaspersの議論と関係が深いものと思われる.本論で,私たちはこの用語について考察し,各種の統合失調症症状を要素現象からの発展形態として把握することを試みる.

 Jaspersにとって,要素現象は先行する心的体験との了解関連なしに原発的に生じ,患者に無媒介に侵入し,妄想体験についての確信と訂正不能性を作り出し,後の精神病症状の基礎となるものである.これは「過程」の一次的表現とも考えられる.例えば,Jaspersは原発性妄想体験,実体的意識性,妄覚,思考障害,思考奪取,作為体験などを「要素的」な症状と考えている.

 フランスでは,LacanがJaspersの要素現象を継承した.彼は学位論文(1932年)で,妄想が「原発的に」生じることを強調し,妄想解釈は先行する心的体験から推論されえないと考えた.それゆえ,彼は妄想を先行する精神自動症に対する二次的な反応に過ぎないと考えるClérambaultとは意見を異にしており,妄想についてはむしろJaspersの見解を継承している.要素現象は先立つ心的体験からの推論なしに,突如として無媒介に患者に立ち現れる一つの先行者なき出来事である.そして患者は,気がついたときには常にすでに,その出来事の強度に圧倒される受動的立場を強いられる.

 1950年代のLacanは「Jaspersの過程を人間のシニフィアンへのもっとも根本的な関係によって定義する」(Ecrits, p.537)ことを目的とし,要素現象を謎のシニフィアンの患者への突然の出現として再定義した.謎のシニフィアンとは,その明確な意味を知り得ないが,何かを指し示していることは分かる「読めない外国語」のような純粋なシニフィアンである.

 精神病の初期段階において,患者はこのシニフィアンの突然の出現に困惑し,その非意味の力に圧倒される(妄想気分,妄想知覚の第一段階).次に,このシニフィアンは患者自身を指し示す.患者は他の人々から見られている,ないしすべてのものが彼に関係していると感じる(自己関係づけを伴なう妄想知覚の第二段階,あるいは「病的な自己関係づけ」).最後に,このシニフィアンは患者にとって特定の意味を持ち始める(自己関係づけと特定の意味を伴なう妄想知覚の第三段階).この最後のプロセスは「妄想的隠喩」によって行われる.妄想的隠喩によって,特定の妄想的他者が現れ,患者は彼の経験した不可思議な体験はこの妄想的他者によって動かされていたのだと結論づける.彼は妄想的他者に従属し,この他者に対して妄想的意味を生産することを強制される.要素現象にはじまる妄想体験は,究極的には生み出すという行為を妄想的他者から一方的に強要されるという形式に至る.意味を生産させられる場合は妄想体系が築かれ,性的な生産を強いられる場合は生み出す性としての女性に変貌させられるという女性化(féminisation)の主題が展開する.このような妄想的他者による強制体験のもとでは,患者は他者に享楽される対象aの位置に失墜してしまう.つまり,患者は妄想的他者の享楽の対象であることを構造的に要請される.私たちはこの構造を「精神病者のディスクール」と呼び,統合失調症における言語構造の侵入と圧倒的他者の突出という二重の病理のあり方を示す一般的な公式として据える.

 同じことが言語性幻覚および対話性幻聴にもいえる.言語性幻覚は患者の頭の中への無意味なシニフィアンの突然の出現として始まる.この幻覚的シニフィアンが他者性と聴覚性を獲得し,他者から語りかけられる形式の言語性幻聴となる.患者は次第に幻聴の問いに対して返答することを強制され,最後には患者の返答までもが他者性を獲得し,患者は複数の人間の問答の幻聴を聞くようになる.

 要素現象の構造は「現実界へのシニフィアンの侵入」として位置づけられる.私たちは要素現象とHuberらの基底症状との関連性を述べ,基底症状の力動的側面を,Freudが問題としたリビードの障害,またLacanが問題とした享楽の病理から光を当てたい.最後に,私たちは,Jaspersは現代の記述精神病理学の創始者の一人であり,彼の記述に耳を傾けることの重要性を指摘する.

第14回精神医学史学会(10月29日) 一般演題A-1(10月29日午前)

フランスの精神病研究におけるベルクソンの哲学――セグラからラカンへ


(抄録) 哲学の改訂を目的としてHusserl, E.によって開始された現象学は,精神医学に重大な影響を与えている.一方,20世紀初頭のBergson, H.の哲学の流行は,同時期の現象学運動に比類すべきものである.しかし,Bergsonの精神病理学の領域における影響は十分な評価を得ているとは言えない.

 Séglas, J.は1914年の心理学協会の会合で,精神幻覚の分類を再検討している.彼は,Bergsonの「意識に無媒介に与えられるもの」という表現を援用し,精神病では二次的・反省的意識とは一線を画す「内言語が直接的・無媒介に与えられる病理」が生じることを強調する.

 さらに1927年のパリ精神医学会において,Ceillier, A.はClérambaultの批判を行う.彼は,妄想を精神自動症に対して二次的に発生してくるものと考える妄想二次説を批判し,「妄想もまた無媒介に与えられる」と主張する.さらに,彼はClérambaultの「人格の二重化の二次説」をも批判する.Ceillierの講演はSéglasに比べてさらにベルクソニスムの色が強く,Bergsonの用語がいくつも散りばめられている.

 ところで,内言語が「意識に無媒介に与えられたもの」であるというSéglasの考えは,『試論』のBergsonはある種の反言語論といった趣をもつがゆえに,一般的なBergson理解からは奇異なものに思える.Bergsonの哲学に見られる反言語論的な側面については,特にLacan, J.が批判を加えている.

 しかし, Séglasのいう「無媒介に与えられる内言語」という考えを再考し,そこから何らかの有意義な結論を引き出すよう試みることも私たちにはできるように思われる.そのためには,Bergsonにおける言語の問題を再考することから始めなければならない.


Le philosophie de Bergson dans la psychopathologie française – De Séglas à Lacan

Résumé: Le mouvement phénoménologique influença beaucoup sur la psychiatrie de la première moitié du XXe siècle. L' engouement pour la philosophie de Bergson à la même période peut être mise en parallèle avec le mouvement phénoménologique. En 1914, Séglas employait l'expression de Bergson "données immédiates de la conscience". Il affirmait que le langage intérieur est donné "immédiatement" pour nous, et que l'hallucination verbale n'est pas le jugement secondaire ou réfléchi à d'autres expériences psychiques, mais le langage intérieur donné "pathologique". En 1927, du point de vue du bergsonisme, Ceillier a critiqué la théorie de Clérambault sur les délires et la personnalité second, et a affirmé que les délires et le dédoublement de la personnalité sont aussi des phénomènes «immédiats». Enfin, nous avons réévalué la philosophie de Bergson sur le langage, et essayé d'inclure la théorie de Lacan sur la psychose dans l'histoire de la théorie sur la pseudo-hallucination en France.

それぞれの学会の詳細は以下のURLからお願い致します.

http://www.sysconet.jp/jspp33/

http://jshp.blog20.fc2.com/blog-entry-59.html


※ 画像はセグラ(Jules Séglas).生没年はフロイトと同じ1856-1939年.画像がWeb上のどこにもないのでアップ.

2010-05-14

『精神病』についてのあれこれ――パロールを捉える?

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 ラカンの『精神病』のセミネールは,いまだ統合失調症の病理を考える上で重要なツールであり続けていると私たちは考える.とりわけ「精神病の精神分析」と銘打ちながらも,実際はヒステリーの重症例の分析であるような分析,つまりは神経症の重症例を「精神病」と呼び習わしているにすぎない「精神病の精神分析」とは一線を画す,強力な切断線が『精神病』にはある.

 ところで,ラカンはむしろ,分析それ自体によって「精神病」が引き起こされてしまうことがあることに注意をむけていた.

かなり持続的で,時には決定的な妄想が極めて急激に発現するという,よくある症例の原因は,想像界をそのまま認証し,象徴的平面での再認の代りに,想像的平面での再認を行うことを旨とする分析関係の操作の仕方に由来していると言わねばなりません.分析は,その当初から精神病を引き起こすことがあるという事実は,よく知られています.

(Lacan:精神病,邦訳上巻p.22-23)

 もちろん,このような「精神病化現象」は,本当に精神病が発病したというよりは,想像的関係を重視する分析の不注意な操作によって,人間が元来もつパラノイア性が突出してくるという事態であろう.ラカンに従えば,自我それ自体がパラノイアの構造を持っているのだから.

 しかし,ときにはそのような不注意な操作を行わなくとも,分析それ自体によって,見紛うことのない精神病が発病することがあるとラカンはいう.

前精神病者に分析的に接近したとすれば,どういうことになるかを私たちは知っています.彼らは精神病者となります.つまり見事な精神病が……少々熱心な分析の初期のセッションから発症するということです.たとえば,この時から急にその分析家が,患者に一日中何をすべきか,何をすべきでないかを言ってくる声の発信者となります.

(Lacan:精神病,邦訳下巻p.159-160)

 このような分析による精神病の誘発という事態はどうして起こるのだろうか.ラカンはおそらく,自由連想を介して自分の頭に浮かんだすべての言葉を自分の言葉として語るという特殊な分析実践の性質によるものと考えている.ラカンのセミネールは次のように続く.

他を探すまでもなく,まさに私たちの〔分析〕経験において,精神病の入り口にある動因の核心にあるものに触れているのではないでしょうか? つまり人間に課せられるもののなかで最も困難なこと,彼の世界内存在がそれほどしばしば立ち向かうことではないこと,それはつまり「prendre la parole」と呼ばれるもののことです.つまり,自分の語り(parole)を為すということであって,これは隣人の語りに「はい,はい」と言うこととはまったく反対のことです.これは必ずしも語で表現されるわけではありません.臨床が示すところでは,非常にさまざまな水準でこの瞬間を位置づけることを知るならば,精神病が発病するのはまさにこの瞬間なのです.

(Lacan:精神病,p.285/邦訳下巻p.160,筆者訳)

 すなわち,隣人の語り(パロール)に同調するのではなく,自分自身の語りをなすということが,分析においては求められる.たしかに,「自分自身の語りをなす」ということは,よくよく考えれば考えるほど希少なことであり,「人間に課せられるもののなかで最も困難なこと」「世界内存在がそれほどしばしば立ち向かうことではないこと」という表現もあながちオーバーな表現ではあるまい.

 このように理解すれば,上記の引用文中で原文のままにしておいた「prendre la parole」の意味は明瞭であろう.すなわちそれは「発言すること」である.つまり,人の言葉を借りるのではなく,自分自身の言葉で,主体定立的に発言することが,精神病構造を持っている人にとっては発病の契機となりうるのである.

 ところで,「prendre la parole」は邦訳では「パロールを捉える」と訳されており,これでは何のことか分からない.すでに形成されている既存の語りを「捉える」ことが問題なのではなく,何も依拠するもののないところからex nihiloに自らの語りを紡ぎ出すという含意が「prendre la parole」にはある.「パロールを捉える」ではむしろ反対の意味にすらとられかねない.『精神病』のきわめて秀逸なレジュメというべき小出浩之の『シニフィアンの病』でも,この誤訳は同様である.ちなみに英訳は「speak out(正々堂々と意見を述べる)」となっており,主体定立的な含みが十分に表現されている.「prendre la parole」は特殊な用語ではなく,日常的な会話で使うかどうかは分からないが,少なくとも論説では「発言する」という普通の意味で一般的に使われる言葉であり,もちろんフランス語の辞書にも例外なく載っている言葉である.なお,『精神病』より後に訳された『自我』のセミネールでは「prendre la parole」は「発言する」と正しく訳されている(le Moi, p.194).

 ラカンは,子供が出来るときや,結婚相手の父に会いに行くときなど,さまざまな例をつかって,精神病の発病契機となる父の機能に直面するときを表現している.このような事態は,状況因としては,進学・就職・婚姻などの「出立の契機」として捉えることができる.笠原は,ある論文*1において,このような出立の契機が状況因となり統合失調症の発病を招くことを論じている.臨床的にも,くわしく病歴を聴取すればするほど,このような出立の契機において発病したであろうことが観察できる症例は少なくない.

 しかし,おそらくそのような状況としての出立が問題なのではなく,その状況が招く「自分自身の言葉で語ることの突然の要請」が問題なのである.こう言って良ければ,それは「語りの出立」ということになろう.自分自身の言葉で,誰の助けも借りずに発言すること.このような状況では,人は父の機能に対する問いに直面させられることになる.精神病者の発病契機となる事態は,「自分自身の言葉で語ることが不成功に陥る」こととして一括できる.例えば,会社の朝礼で他の社員の前に立たされ演説をさせられたある女性は,その翌日から被害的内容を持つ幻聴と実体的意識性の出現をみた.そして,当時を回想して「(朝礼のときは)うまく喋ることができなかった」と語る.このように,前精神病者は,自分自身の言葉で発言しようとした瞬間,語りが「うまくいかない」という事態に陥る.ここにおいて,宮本のいう「言語危機」*2をラカンの理論と対応させることができよう.

 分析がときに精神病の発病を招くという事実は,自由連想の規則がまさに自分自身の言葉で話すことを求めることによる.

 この事態はさらに,想定的知の主体に対する転移という側面からも捉えられるだろう.Colette Solerのテクストの一節を以下に載せる.

さらにLacanがテクストのなかで強調している非常に独特な難しい点がある.それは精神病者にとって転移が発病の要素であるという点である.Freud自身も,患者がFlechsigの人格に対してなした転移のうちにSchreberを精神病へと陥れたものがあることを認めていた.迫害,つまり迫害的な人物の突然の出現は,Schreberにとってすでに転移の効果であることになる.それゆえ,妄想的同性愛は疾患の原因ではなく,その一つの表れであるということになる.それならば,転移それ自体が精神病者にとって病原的であるならば,転移によっていかに操作を行うのだろうか? Lacanはセミネール3巻のなかで実際に,精神病発病前の主体を分析するということは,一般的に言って結果的に精神病の発病を招くことを示唆している.自由連想において想定的知の主体を動員することは,Lacanが<父-の-名>への呼びかけと呼ぶものと等価なのである.

(Soler, C. :La psychose: une problematique. L'inconscient a ciel ouvert de la psychose, p.19)

 一般に自由連想という場におかれると,人は分析家に想定的知の主体の位置をとらすようになる.これは精神病者においても同じである.しかし,精神病者にあっては,これが発病を招く.そして,精神病者が転移において,自分が知らない知を分析家が持っていると想定することは,他者が自分に対して特定の意図を持ち,自分を操作しようとするかもしれないという極めてパラノイア的な妄想を賦活するのである.精神病性転移によって他ならぬ医師や分析家からの迫害妄想が生まれることは,シュレーバーの例を見れば良い.つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」*3と呼んでいる.

 それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.私たちはむしろ,狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,彼らの生きる構造的二重見当識を十分に尊重することが必要である*4


 さて,さらにラカンのセミネールの続きを見てみよう.

そのときまで蚕のように繭の中で生きてきた主体にとって,時に実にささいな「発言する(prendre la parole)」という仕事が引き金となるのです.これは高齢女性の「精神自動症」という名によってクレランボーが見事に取り出した形態です.

(Lacan:精神病,p.285/邦訳下巻p.160,筆者訳)

 なぜ女性にとって,高齢になって初めて「発言すること」が求められるのかはここでは明らかではない.女性が父性機能を担わされる機会は,伝統的な男尊女卑の社会ではそれほど多くはなかっただろうと考えられる.そのように生きてきた女性が,高齢になって初めて「発言すること」を求められるというのは,おそらく夫の死別などによって対人的孤立状況に陥り,発言の拠り所とするものを失うことに一つの原因があるのではないだろうか.精神医学は,高齢女性が,死別などの喪失体験から対人的孤立状況に陥り,パラノイア的な病像を呈する一群を「接触欠損パラノイド(Kontaktmangelparanoid)」(Janzarik, W.)と名付けているが,ラカンが語っているのはこの一群ではなかろうか.

 最後に,ラカンが上述の箇所で触れているクレランボーの一節を引いておこう.

あらゆる幻覚性被害妄想病が精神自動症をもって発病すると考えているのではない.はじめから本来の意味での幻覚が出現する例も存在する.そうした例では,精神病は最初の原因後まもなく生じ,主体は一般に30歳以下である.一方,精神自動症をもって発病する例は,遠因による潜行型として40歳頃発展する.そうした例では侵襲は最大限に体系的であり,感情と知的活動は保たれている

クレランボー:精神自動症,邦訳p.43)

 つまり,クレランボーは精神病を年齢で大きく二群に分けて論じており,彼のいう精神自動症は高齢初発群に頻発するものだとされている.<若年―解体型>は30歳以下に発病し,精神自動症などの初期症状を認めずに解体に陥る.反対に,<高齢―非解体型>は40歳ごろ発病し,精神自動症などの初期症候を認め,解体を認めない.

 年齢による発病過程,症状進展,および転帰の違いという点は,十分に考慮されてよいだろう.何よりも,精神分析における精神病の主要な準拠枠であるシュレーバーこそ,高齢初発のもっとも良い例なのだから.

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言語と妄想―危機意識の病理 (平凡社ライブラリー)
宮本 忠雄
平凡社
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*1笠原嘉:「内因性精神病の発病に直接前駆する「心的要因」について」

*2:宮本忠雄:言語と妄想ーー危機意識の病理.

*3:Autres Ecrits, p.217.

*4:加藤敏:統合失調症の語りと傾聴.