ヒーロー稼業の悲哀

 

あんぱんまんあんぱんまん
やなせ たかし

フレーベル館 1976-05
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かなり久々の更新である。読者数も初期値にリセットされたことであろう。
 
転居から2ヶ月、ようやく新居での日常生活のリズムが定まってきた。
下の子が保育園から幼稚園に転園し、懐かしの「園ママ生活」に復帰。よって私の苦手な「降園後の親子ぐるみのおつきあい」もめでたく復活。
そして何組かの親子と家を行き来するうちに気が付いたのは、親(私)の興味の偏りがそのまま育児に反映する我が家の怪しさである。
なにしろ息子の友達が持っているようなオモチャが我が家には無い。
ポケモンカードも、ムシキングも、プレステもDSもなければ、音や光の出る戦いごっこの武器もない。
ナゼ無いのかと言えば、それらは私の趣味ではないからだ。
要するに私は自分の趣味を幼い我が子に押しつける鬼母なのだ(爆)。
 
 
まだ上の子が1歳にも満たない頃、ママ友と「アンパンマンを我が家に受け入れるか否か」で真剣に議論したことがある。
彼女も私と同じく自分の好みがはっきりしている女性で、気を抜くと家中に入り込むキャラクターグッズを警戒していた。
結局その時は満場一致で(二人だが)
アンパンマンは著しく我々の美意識に反する。よって断固却下」
という結論に至ったが、その後まもなく我々の鉄壁は老親から孫へのプレゼント攻撃によりあっさり崩壊した(笑)。
 
「美しくない」という身も蓋もない理由で出入り禁止となったものの、唯一例外的に私自身が家に持ち込んだアンパンマンがいる。
それが、やなせたかし氏の原作絵本「あんぱんまん」である。
 
確か小学校低学年の頃だ。近所の歯医者の待合室にその絵本はあった。
アンパン好きの私は一も二もなくそのタイトルに引き寄せられ、手にとって一気読みした感想はただ「私もあんぱんまん食べたい!」
焦げ目のしっかり付いた手作り感溢れるそのアンパンの顔は、子供心に実においしそうだったのだ。
(それに比べて大量生産の工業製品のようなアニメのアンパンマンの味気なさといったら・・) 
無論ヒーローとしてのあんぱんまんの存在理由やその行動にも何の疑問も持たなかった。
 
だが、オトナになって再会したこの絵本は実にツッコミどころ満載だった。
 
アンパンマンの公式サイトによると、この作品のテーマは
「傷つくことを覚悟しなくては正義は行えないということと、献身と自己犠牲」なんだとか。
冷静に考えるとかなーりグロテスクな手法とはいえ、確かに弱者の為に文字通り我が身を差し出すあんぱんまんの姿にはヒーローらしい正義感が溢れている。
でもそれをわざわざ作り手が献身だの自己犠牲だのと美辞麗句で祭りあげるのは興醒めというものだ。
ヒーローがそれを言っちゃあおしめえよ!
だいたいこの捨て身のヒーローの「傷」はやたら安直に復元されるのだ。
そのせいか我が身の一部を失っても平然としている。
もっとも、そうでないと話が猟奇ホラーになってしまうが・・(爆)
これでは肝心の「傷つくことを覚悟したヒーローの悲壮感」が全く伝わってこない。「さすがあんぱんだけに・・・やっぱり大甘だな!」
なんてつまらんオヤジギャグの一つも言いたくなってくる。
 
「傷つくことを覚悟しなくては…」という文章を読んで私が思い浮かべたのは、ワイルド作の「幸福な王子」である。
フランダースの犬並みに泣ける有名な童話である。知らない人は今すぐ検索の価値有りだ。
この話のヒーローは本気で捨て身である。
その一途さは地味ながら鬼気迫るものがあり、幼い私は挿絵を直視できなかった。
この話を読んだ後にアンパンマンを再読するとへそで茶が湧かせること請け合いである。
 
ということで私が思う「あんぱんまん」の真のテーマはこれだ。
 
「マンネリに耐える覚悟がなければヒーローなんてやってられない」
 
この点に関し、アンパンマンは偉大である。何しろただ喰われるために生き、淡々とその使命を全うしているのだから。
 
 
ところでうちのコドモ達(小3女子&年長男子)に「ヒーローと言えば?」と聞くと、
デラックスファイター(@秘密結社鷹の爪)」という答が返ってくる。
いかん、こんなところにも親の趣味の影響が・・・(汗)
ハッキリ言って彼らが今このネタで同年代の友達と盛り上がれる可能性はかなり低い。
だが、他人と違うことを良しとする我が家の育児の信条にはかなっている。
よしよし、うちの子らしく育っているぞとほくそ笑む父母なのであった。