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2009-09-28

[]森有正−還っていく場所 / 片山恭一(2009) 森有正−還っていく場所 / 片山恭一(2009)を含むブックマーク 森有正−還っていく場所 / 片山恭一(2009)のブックマークコメント

こだわり人物伝 2009年8ー9月 (NHK知る楽/水)


★大ベストセラー作品「世界の中心で、愛をさけぶ」で有名な片山恭一氏による「こだわり人物伝」です。


哲学者、森有正氏が、単身渡ったフランスのパリでかなり切り詰めた、ストイックな学研生活を送っていたことが興味深かったです。怠惰に過ごす時間を自分に許さない、まるで修道士や修行僧を思わせる暮らしぶりだったようです。雑念、すなわち主観や自我といったものの紛れ込む余地が残されなかったのです。「おのれを殺す」ということが、森有正の思索生活においても大きな意味をもっていたのではないかと指摘されています。


確かに、仕事も、学業も、特に現代は高度情報化社会ですから、何していても非常にせわしないですね。しかし一方で、人間の身体的な時間というものは、もう少しゆるやかな時間の流れ方をしているのではないかと片山氏は述べています。


自分にとって最大の拠りどころは自分の中に、自分の時が流れはじめたことである。これは僕にとっても何ものにも代えがたいものである。これを自覚する時、どんな苦しみもしのびたいと思う。このことは僕一箇の問題ではあるが、僕一箇だけに止まっては、自分の時間が流れているという意識と切りはなすことができない。

(『流れのほとりにて』森有正エッセー集成〈1〉ちくま学芸文庫)


森有正氏の生活の中に、効率や採算を度外視するような、「無私の精神」が生じていたと考えられています。精神の活動の中に、人為の及ばないような「聖なる時間」を確保することは、非常に大切なことなのではないかと考えさせられました。


やはり、ポイントは、片山氏が、そういった時間を「無私の時間」あるいは「聖なる時間」と呼んでいるところです。確かに、森有正氏の生活スタイルから、そのように呼ぶのが相応しいと思われます。自分のような煩悩の多い人間であったら、このような時間を「私の時間」と呼ぶところでした。しかし、その逆なんですね。

2009-09-27

[]秋風のこころよさに 秋風のこころよさにを含むブックマーク 秋風のこころよさにのブックマークコメント

枳殻邸(渉成園)、東本願寺、西本願寺と、東から西へ参りました。

秋の京都を歩いているうちに、石川啄木の詩を思い出しました。ちょうどこの部分、京都の風情とあっているように感じます。

秋の辻

四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の

あと見えずかも


秋の声まづいち早く耳に入る

かかる性持つ

かなしむべかり


目になれし山にはあれど

秋来れば

神や住まむとかしこみて見る


わが為さむこと世に尽きて

長き日を

かくしもあはれ物を思ふか


石川啄木 −秋風のこころよさに−『一握の砂』より 新潮文庫


枳殻邸(渉成園)

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フウ(マンサク科)

この木もきっと綺麗に紅葉するのでしょう。

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ムラサキシキブ(クマツヅラ科)

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カラタチ(ミカン科)

枳殻邸という名前は、かつてこの敷地が枳殻(カラタチ)の生垣で囲まれていたことに由来します。トゲが凄いですね。泥棒の侵入も防止したのでしょうか。

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東本願寺

御影堂は改修工事が終わりました。それにしても大きなお堂です。お西さんよりも大きいですね。

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西本願寺

ちょうど西の空に夕日が。

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[]セカンドハウス七条西洞院 セカンドハウス七条西洞院を含むブックマーク セカンドハウス七条西洞院のブックマークコメント

建物も立派で、ケーキとイタリアンが楽しめるカフェです。いい感じです。

http://www.secondhouse.co.jp/menu3.jpg

TEL: 075-342-2555 OPEN : 10:00-23:00 HP

京都市下京区東中筋通七条上る文覚町402

(七条通西洞院西入ル北側)

2009-09-26

[][]バス駆除 バス駆除を含むブックマーク バス駆除のブックマークコメント

さとかんの野外活動で外来種のブラックバス、ブルーギル駆除を行いました。琵琶湖の西側、比良山のふもと、北小松港まで。


今の日本は国レベルで侵略的外来種駆除の方向にあります。オオクチバス、コクチバス、ブルーギルはその対象です。一方で、これらの種は、ゲームフィッシングの対象魚として世界的に人気が高いことでも知られています。これらを巡って様々な利害が対立します。例えば、漁業と釣りレジャー産業など。利害が絡み合い、裏表もあり、一筋縄ではいきません。


1925年、食用、釣り対象魚として養殖の容易な魚であることから政府の許可の下に、アメリカから箱根の芦ノ湖に放流されたのが最初とされます。


自分は、頭の中では、ブラックバスやブルーギルは駆除すべきと考えています。しかし、釣りをやったことがない人が、そのような主張をしてしまうことには、個人的に違和感を覚えます。バス・ギル釣りがどれくらい楽しいのか、一度体験してみる必要があると思いました。


結果、バス・ギル釣りは非常に楽しいと感じました。大物が釣れた時の引き具合など快感です。もっと工夫してもっと記録を作りたいと思い始めました。バサーの気持ちがわからないでもないです。また、食してみると、バスの方は、なかなかいける魚であることもわかりました。


今回は、バス・ギルを釣り、そして食べる。文字通り体で体験できた1日でした。

しかし、頭で考えると侵略的外来種の生態系に対する悪影響は簡単に受け入れられるものではありません。


日本人の精神は、その国土(自然)から多大な影響を受けてきたという意見があります。神道や仏教といった宗教よりも根深いとも言われます。極論を言えば、日本を破壊しようと思えば、その自然を破壊すればよいのかも知れません。生物で言うと在来種です。


バス・ギルを駆除するか、保護するかは、いずれもイデオロギーの問題となってくるのかも知れません。どちらを支持するかは、その人の倫理観の問題です。もちろん今は法律がありますが。



琵琶湖は波が少なく穏やかです。どことなく瀬戸内の海を思い出させます。

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鮎の稚魚がたくさんいます。もちろん在来種です。

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初めて釣れたのが、ブルーギル。

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自分が釣った中で一番大きいバスです。

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ブラックバスです。可愛そうですが、処分します。合計約3キロ

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ブルーギルです。可愛そうですが、処分します。合計約4キロ

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炭火で焼いて、食べてみました。キャッチ&イートの実践です。

しかし、ブラックバスの美味しさには驚きました。タラほどではないけれど、いけるクチです。ホイル焼き、ムニエルにもいいかも知れません。

ブルーギルは、見た目は鯛みたいで、骨も多く、これはあら炊きにしたら美味しいかもと思いました。

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樹下(じゅげ)神社

コンビニに寄ったついでに立ち寄ってみました。樹下神社というのは日吉大社の摂社だそうです。志賀町に多くあるようです。

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2009-09-25

[]「本当の自分」 「本当の自分」を含むブックマーク 「本当の自分」のブックマークコメント

東京の禅道場で坐禅指導などしていると、色々な人がやってくる。もちろん坐禅に関心があるのだろうが、ある種の不安や屈託を抱えてやってくる人もいる。中でも若い人に多いのは、「自分のしたいことがわからない」「本当の自分が知りたい」という悩みである。 こういう話を聞くと私はよく思う。発想を変えろ、と。案外「自分は他人の役に立つ何ができるのか」を考えた方が、早く「自分のしたいこと」がわかるのではないか。「本当の自分を知る」ことができるのは、目の前の他人が自分にとってどういう存在なのか知ることによってではないか、と。

http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2009/09/post_5b95.htmlより

自分も、興味の向くままに書籍を読み、他人の意見を聞いているうちに、ひとつ、ふたつと自分の血となり肉となった考え方があります。そのひとつは、「本当の自分なんてどこにもいない」というものです。どこかに行けば、あるいは沈思黙考して探していけば、本当の自分が見つかるという考えはありません。そこで見つかるのは、その場での自分です。いわゆる「自分探し」というものは、言葉のあやくらいに思っています。


坐禅をしてみようと思ったのは、もちろん「自分探し」のためではありませんでした。その時にはすでにそういう考え方はなくなっていました。きっかけとして挙げるなら、「自分に対して自覚的でありたい」となるでしょうか。仏教的に考えていくと、すなわち、「関係性」というものを考えていくと、自分に対して自覚的であるということは、周りの人、あるいは環境に対しても自覚的であるということだと思います。


「本当の自分なんてどこにもいない」は、いいかえると、本当の自分は、その時々、その場ごとに生じているといえるかと思います。「他人を目の前にして、自分がどういう存在なのか知ることが大切」だと、身をもって感じています。

2009-09-24

[]「生と死の想像力」 「生と死の想像力」を含むブックマーク 「生と死の想像力」のブックマークコメント

森岡正博氏が、紀伊國屋書店・新宿店の人文書売り場の「じんぶんや」で、「生と死の想像力」というテーマで選書されているのを見つけました。41冊あるみたいです。コメントを読んでみると、どれも興味深いです。

http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn541.html

2009-09-23

[]禅の心を看る 禅の心を看るを含むブックマーク 禅の心を看るのブックマークコメント

嵐山電鉄沿線にある寺院の枯山水の庭を拝観する「嵐電でめぐる枯山水の庭〜禅の心を看る」という案内があります。


そこで挙げられているのが、龍安寺「石庭」、妙心寺退蔵院「元信の庭」、妙心寺大心院「阿吽庭」、嵯峨野宝筐院「庭園」、天龍寺宝厳院「獅子吼の庭」、天龍寺弘源寺「虎嘯の庭」、嵐山鹿王院「本庭」、天龍寺「曹源池」です。


紅葉の季節になると、人が多すぎて庭本来の良さがわかり難くなる。しかし、春秋じゃないと特別公開されない庭もある。そんなジレンマを抱えながら、紅葉にはまだ早いけれど、庭本来の良さがわかるであろうこの中途半端な時期に、嵯峨・嵐山エリアのいくつかの寺院を拝観してきました。


天龍寺塔頭宝厳院「獅子吼の庭」

大亀山 宝厳院(だいきざん ほうごんいん)は、臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院のひとつ。寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公により、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されたと伝えられます。

庭園は天龍寺開山夢窓国師の法孫である策彦禅師の作とされ、嵐山を巧みに取り入れた回遊式山水庭園です。「獅子吼」という名称は「仏が説法する」ことを意味し、庭園内を散策し、鳥の声、風の音、水の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じることができるといわれます。


現在、秋の特別公開中なので、天龍寺の庭と比較しながら、この宝厳院の小ぢんまりとしながらも、内省的で力強さを感じさせるこの宝厳院の庭を拝観してみるのもいいかもしれません。

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この庭園の大きな石は「獅子岩」と名づけられています。よくみると獅子に見えてきますよね!?

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天龍寺弘源寺「虎嘯の庭」

特別公開は10月3日からということです。残念ですが、また来ましょう。

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嵯峨野宝筐院「庭園」

現在の宝筐院(ほうきょういん)は、京都嵯峨野にある臨済宗の寺院です。平安時代に白河天皇(1053〜1129)の勅願寺として建てられました。ちなみに、勅願寺とは、勅願によって鎮護国家・玉体安穏のために建立された寺のことをいい、東大寺・大安寺・薬師寺などがこれに当たるそうです。


この庭を歩いていると、すべての音が何かに吸い込まれていくようで、耳が痛くなるくらいでした。こういう風情を感じたくて来たので大満足です。

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清涼寺

いつもながら三門の額縁の向こうには異界が広がっているように見えます。

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嵐山鹿王院「本庭」

臨済宗系の単立寺院。山号は覚雄山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義満、開山(初代住持)は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)。嵐電「鹿王院」駅降りてすぐです。本庭は、嵐山を借景としており、苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園です。参道を含め、椿の名所としても有名です。


また素晴らしい参道に出会ってしまった気がします。

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[]鬼灯(ほおずき) 鬼灯(ほおずき)を含むブックマーク 鬼灯(ほおずき)のブックマークコメント

町やを改造した居酒屋です。ご飯も美味しく、お酒も豊富なのでよいと思います。

http://www.joymu.com/all_data/images/sb_page/shop_img.jpg

HP

〒604-8122 京都府京都市中京区柳馬場通四条上ル西側

2009-09-21

[]文脈 文脈を含むブックマーク 文脈のブックマークコメント

法事のためこの連休は実家に帰ってきています。当然、両親、弟妹とも話す機会が多くなります。この歳になってくると、色んな現実的な話が出てきます。親の老後のこと、実家のこと、親類との関係のこと、村のこと、色んな文脈があることに気付かされます。先日、勉強会で発表した世代間倫理の話が現実的なものとして立ち上がってきます。


このように自分が負う文脈が増えることを、「大人になり、世界が広くなった」というのでしょう。自分が接続する社会が広いにこしたことはありません。しかし、幼年期、少年期に感じていたある種の存在の不安のようなものが消えてしまったのかというと、そうだとは思えず、むしろ誤魔化されていくだけなのだと思います。


病院のベッドで独り寝たきりの母方の祖母と対面したときに、こみあげてくる感情はなんなのか。こらえきれず、こぼれる涙はなんなのだろうか。世の中の不条理に対する憤りなのだろうか。それもあるかもしれないけど、それだけではないような気もします。幼少期、青年期の思い出という文脈が流れています。


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2009-09-20

[]一蓮托生 一蓮托生を含むブックマーク 一蓮托生のブックマークコメント

一蓮托生(いちれんたくしょう)とは、死後、極楽の同じ蓮華の上に生まれることです。法事でお坊さんの話で聞きました。最近、この言葉は、主に、悪い結末が予想される時に使われることが多いようですが、本来は、上記のような意味です。


自分は説教じみたことをいえる様な立場ではありませんが、仏教における蓮の花の話はとても好きです。その理由の一つは、蓮は泥池に咲くことにあります。綺麗な花に視線が向かうのは人の心理だと思います。しかし、よくよく考えてみると、その花を生み出したのは泥池です。


あるお坊さんが、「私は蓮の花になるより、むしろ泥になりたい」と言ったのを何かの本で読んで、心が洗われる気持ちになったことがあります。どんな人の人生においても泥池のような役割を果たしてくれた人がいる(いた)のではないだろうかと思いました。泥となった人は、結果的には花になれず救われなくても、泥のような存在であり続けることを願い、体現化していくその人の行為そのものに徳が宿るような気がするのです。


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2009-09-18

[]9.18(曽爾高原の植物) 9.18(曽爾高原の植物)を含むブックマーク 9.18(曽爾高原の植物)のブックマークコメント

18という数字も9を二つ重ねているので、とても愛着があります。2009.9.18は僕にとって特別な日であるはずです。

そんな日に先日曽爾高原で撮影した植物を一挙公開したいと思います。


マルバハギ(マメ科)

ハギなので、秋の七草のひとつ。

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ウド(ウコギ科)

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チカラシバ(俗称シケンカンブラシ)

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地衣類

ブロックの白くなっている部分

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ヨモギ(キク科)

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オオバコ(オオバコ科)

「車前草」とも書きます。車(牛車・馬車)が多く通る道の端に多く生えることからこの名がついたそうです。

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ワラビ(シダ植物:コバノイシカグマ科)

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ナデシコ(ナデシコ科)

秋の七草のひとつ。

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フジバカマ(キク科)

秋の七草のひとつ。

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ツリガネニンジン(キキョウ科)

これレアです。

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ナンバンギセル(ハマウツボ科)

1年生の寄生植物です。ススキや、サトウキビなどの根に寄生します。

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アザミ(キク科)

一瞬、オナモミと間違えました。

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ツユクサ(ツユクサ科)

早朝に咲いた花は午後にはしぼんでしまいます。名前もロマンチックですね。

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ツキミソウ(アカバナ科)

夜に観察しました。

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ゲンノショウコ(フウロソウ科)

実は前夜飲みすぎて胃が痛かったのですが、これの葉っぱを食べるとすぐに治りました。すごいですね。

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ミズヒキ(タデ科)

のしなどに懸ける紅白の水引が名前の由来です。

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ツチアケビ(ラン科)

ブレブレですが、ヒノキの林床に咲いていました。

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オミナエシ(オミナエシ科)

秋の七草のひとつ。

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2009-09-17

[]仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす / ティク・ナット・ハン (1999年) 仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす / ティク・ナット・ハン (1999年)を含むブックマーク 仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす / ティク・ナット・ハン (1999年)のブックマークコメント

仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす (中公文庫)


★目次

第1章 苦しむだけでは充分でない

第2章 三つの宝石

第3章 感情と認識

第4章 実践の真髄

第5章 平和のために働く

第6章 相互生存

第7章 日常生活においての瞑想


★ティク・ナット・ハンは、詩人、平和活動家としても名高く、現在、欧米において最も影響力のある仏教指導者の一人といわれます。マーティン・ルーサー・キング牧師によってノーベル平和賞候補に推された話は有名です。


かつて歴史上戦争の絶えなかった中国では、仁(人間愛)と礼(規範)に基づいた理想社会の実現を主張した儒教が広まりました。


ティク・ナット・ハンの独自性は、十四の戒律の制定にあります。この十四戒律が生まれたのも、そのヴェトナム戦争の最中で、仏教徒たちは、その徹底した中立主義ゆえに、南北の双方からスパイ扱いされました。さらには米軍の爆撃で多くの仲間のいのちが奪われました。しかし、仏教徒たちは十四の戒律という高い理想をもとに行動することを教義としたのです。


この戒律は、「〜しなければならない」というような義務論ではないところもひとつの特徴ではないでしょうか。通常、戒律というものが、「殺してはならない」というように身体に関する禁止事項から始まるのに対して、心に関する事柄が最初にきています。それは仏教では、心が、そのほかのすべてのものの根源だからといわれます。


仏教においてもっとも貴重な実践は瞑想であるといわれます。瞑想とは、自己の内面に起こっていること、周囲に起こっていること、社会や環境に起こっていることをはっきり知ることだと説かれています。


自分個人のレベルで本書を読んだ感想としては、坐禅の重要性、自己を見つめることの大切さについては、再確認できました。「体の中の体を静観する」と表現されているのですが、例えば、「今私は怒っている」と自分の感情の動きに自覚的であることは、衝動に駆られて取り返しのつかないことをやってしまうことを防ぐのにつながります。


さらには、日常という現実においては、「今」と「私」がどんどんと失われていくシステムになっていることを感じました。例えば、何をするにしても、過去の知見を踏まえつつ、将来の計画を立てることが多いからです。そのように情報の取捨選択に長けた人は、とても優秀な人とされます。そして、その判断が普遍的かつ再現性のあるものであればあるほど、高い評価が得られます。このような風潮では、「今」と「私」が限りなく狭められていくようにも感じられます。


それでも現実世界では、計画的に、論理的に、理性的に振舞うことの方が上手に生きていくことができます。科学的な知見(技術)は色んな利益をもたらしてくれます。自分の生命さえも保護してくれます。


理性と本能。この二つが相互浸透することが、一番の理想かもしれません。


自分が坐禅をするのは、「今」と「私」を一時的にでもよいから、取り戻すためであるのかもしれません。その上で行動をしたいと思います。


いろんなことに自覚的でありながら生きていければと思います。

2009-09-16

[]Chants, Hymns and Dances / Gurdjieff, Tsabropoulos Chants, Hymns and Dances / Gurdjieff, Tsabropoulosを含むブックマーク Chants, Hymns and Dances / Gurdjieff, Tsabropoulosのブックマークコメント

Chants Hymns & Dances


★曲目

1. Chant from a Holy Book

2. Bayaty

3. Prayer

4. Duduki

5. Interlude I

6. Trois Morceaux après Hymnes Byzantins I

7. Trois Morceaux après Hymnes Byzantins II

8. Trois Morceaux après Hymnes Byzantins III

9. Dance

10. Chant

11. Interlude II

12. Assyrian Woman Mourners

13. Armenian Song

14. (No. 11)

15. Woman´s Prayer

16. Chant from a Holy Book, var. 1

1〜5,11〜16:作曲;George Gurdjieff,Thomas de Hartmann,

6〜10:作曲;Vassilis Tsabropoulos

Anja Lachner(Violoncello),Vassilis Tsabropoulos(Piano)


★ゲオルギイ・グルジエフは、キング・クリムゾンのロバート・フリップが影響を受けていることから興味が出て聴いてみました。しかし、よくよく調べてみると、「20世紀最大の神秘思想家」とか、「ヒッピーの世界での三大グルの一人」とか、「エニアグラム」を世に知らしめた人物であるとか、なにやら胡散臭い神秘的な香りがプンプンしてきました。


Wikipediaなんかを参照する限りでは、人生において何度も魂の危機を経験しているようで、かなり数奇な運命をおくった人なのかもしれません。


といいつつも、音楽を聴く限りでは、心地よいものがあります。民族的なものがあって、東ヨーロッパ、ロシア、北欧系の作曲家やロックバンドが奏でるメロディを思い出させます。


演奏はすべて、ギリシャのピアニスト、ヴァシリス・ツァブロプーサスとチェロのアニア・レヒナーのデュオによるものです。作曲は、1〜5,11〜16がグルジエフ、6〜10がツァブロプーサスです。ちなみに、ツァブロプーサスはクラシック、ジャズの両面からECMレーベルが強力に売り出している新鋭アーティスト。


グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマンとの共作で数々のピアノ曲を残したとのこと。グルジエフの曲は作風の違いから、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)と、いくつかに大別されているようです。このアルバムは、タイトルより「聖歌」の範疇に入るものと思われます。


エニアグラム」もついでにやってみました。タイプとしては、5、1、6が高かったです。この診断の良いと思うところは、それぞれのタイプが自分に持ち合わせていないものを持っていると考えるところで、あるタイプに固着させるのではなく、自分の弱点を常に補完させようと、サークル内を巡っていくところだと思います。


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2009-09-15

[]蒸し鍋 蒸し鍋を含むブックマーク 蒸し鍋のブックマークコメント

最近、内食をする家庭が増えているというニュースを聞きます。スーパーでは、野菜が1個売りしてあったり、調理器具が充実させてあったりするのを見かけます。


蒸し鍋は良いです。こんなんで料理しているなんて言えないけれど、色んな意味で良いと思います。調理の手間が少ない、野菜が多く、脂分が少ないのでヘルシー、洗い物が少ない、残り野菜を使いきれる、などなど。特に蒸し鍋は、野菜が短時間で柔らかくなり、かつ水っぽくならないので、とても良いです。ギョーザ、シューマイを入れると、若干、飲茶気分も味わえます。


手順もあってないようなものです。土鍋の底にプレートを敷いて、少し水分を入れて、10〜15分中火〜弱火で蒸すだけで、出来上がります。そして、ごまドレッシングか、ポン酢につけて食べます。最後に残り汁を使って、雑炊をすれば、完璧です。


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2009-09-13

[]曽爾高原 曽爾高原を含むブックマーク 曽爾高原のブックマークコメント

さとかんのイベントで奈良の宇陀郡にある曽爾(そに)高原で1泊2日の自然観察会&勉強会に参加しました。宿泊施設は曽爾青少年自然の家を利用しました。


日本一の茅場(すすき野原)と言われるだけあって、見事に一面のススキでした。ススキはイネ科です。かなり地味ですが花が咲きます。花粉は風によって媒介され、受精します。それぞれの穂を見てみると、赤い花が咲いているものと、花が散って白い種が膨らみ始めているものが混在していました。今は、ススキたちにとって、もっともにぎやかな季節です。


ススキは、曽爾村の萱葺き屋根の材料として長年使われてきました。人の利用のためにこのような風土が形成されていったのです。この周辺にもかつては茅葺の家がたくさんありましたが、最近はほとんど見かけなくなりました。


自分の心の原風景にはない自然の様子でした。しかし、どういうわけか心落ち着くものがありました。最近、美意識というものは、どこからくるのだろうかとよく考えさせられます。遺伝子レベルでどこかに刻み込まれているのか。何かの観念が天から降ってきて心に生じるのか。幼少期の思い出が心の奥底に眠っているのか。それとも、今回のように、自然を目の当たりにすることによって、また新たに経験値として、美しいイメージが追加されていくのか。いずれにせよ、この風景を目の前にして、美しいと思う人は多いのではないでしょうか。


ちなみに、秋の七草は、はぎ、ききょう、すすき、くず、おみなえし、ふじばかま、なでしこ です。


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植物の中で最も人類に利用されている分類群は、イネ科だと言われます。イネ(米)、コムギ(小麦)、トウモロコシ、オオムギ、ライムギなど、狭義の穀物はイネ科に属します。ススキ、パンパスグラス、サトウキビやタケなど馴染深い資源植物が多く含まれます。

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ゲンノショウコ

フウロソウ科の多年草。生薬のひとつであり、植物名は「(胃腸に)実際に効く証拠」を意味するそうです。葉っぱをちぎって食べたのですが、本当によく効きました。

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[]室生寺 室生寺を含むブックマーク 室生寺のブックマークコメント

ずっと以前から参りたいと思っていた女人高野の室生寺に立ち寄ることができました。


この寺は、真言宗室生寺派大本山の寺院です。「女人高野」として有名で、女人禁制だった高野山に対し、(江戸時代中期頃から)女性の参詣が許されるようになりました。また、桂昌院(徳川綱吉の母)が寄進して堂塔を修理したというエピソードもあります。境内はシャクナゲの名所としても知られます。


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スギの大木が神木として祀られているのを見て、神木の習慣は、神道由来のものかと思っていたので、少し驚きでした。例えば、山中にある鞍馬寺と由岐神社の境内でも樹齢約千年の杉の大木が祀られています。


室生寺、鞍馬寺ともに奈良・平安時代に建てられたことを考えると、これは神仏融合の時代の名残なのかなとか、山寺は自然崇拝の役割も担っていたのかなとも、思いました。

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2009-09-11

[][]9.11に思う 9.11に思うを含むブックマーク 9.11に思うのブックマークコメント

不謹慎なことに、まことに不謹慎なことに、毎日毎日平凡な日々が続くと、台風でも来ないかなと思ったりもします。戦国時代を生き抜いた英雄の話を見ていると、かっこいいと思ってきます。この日本は平和ボケしているなと感じる度に、クーデターでも起こらないかなと思ってきます。ふやけた日常よりも、エキサイティングな非常時に生きたいと妄想するのは、僕だけでしょうか。特に10代の頃は、そういう傾向が強かったのも事実です。


そんな時に起こったのが9.11同時多発テロでした。テレビでツインタワーの崩壊を見ました。現実のものとは信じられませんでした。それと同時に、想定以上のショックを受けるはずの出来事が現実に起こっているにもかかわらず、どうしてこんなに現実味を感じないのかと、そのことにひどく傷つけられました。


森一郎著「ニーチェと戦争論」を読みました。読解することにより、少し勉強したいと思います。


 ニーチェの哲学的見地にもとづくと、近代国民国家が軍隊を常備軍として保有していることは、道徳的不整合、つまり不誠実さが見出されます。というのも、「それは自国には道徳性を、隣国には不道徳性を取っておくことを意味する」からです。


著者は、ニーチェの平和論の特質を、平和を戦争の反対、その欠如態と見るのではなく、むしろ戦争の一環つまり「勝利」ないし「戦果」と見立てている点にあると解釈しています。「勝利」とは、自発的に軍隊を廃棄してしまう気前よさだと言及しています。その潔さこそ最も有効な「武器」であると。


一方で、ニーチェにより「現実的平和」の基礎をなすものとして「心の平安」が問題にされています。「心の平安」とは、死の恐怖に駆り立てられた自主防衛的な安全第一主義(心の不和)の対極にあるもの、相手に悪意をなすりつけるよりは、いっそ信頼された相手に殺されたほうがましという、超潔癖な精神のことです。


ニーチェの「心の不和」を潔いとしないこの倫理観と、ソクラテスのそれとは親和性があると考察されています。ただし、「ぶざまな復讐をしない」という新しい価値を掴みとる以上、弱さを正当化するという「ルサンチマン」の論理には陥ってはいないとされます。


ソクラテス−ニーチェ的な自分の「心の平安」の選択は、まさに自己本位な態度であると言えます。被害者への同情に基づく、他者本位の「道徳」とは異質のものです。


このような超潔癖性の倫理観は、綺麗事過ぎて、無意味だとさえ批判を受けるでしょう。むしろ現実の世界は、正当防衛のためには核兵器さえ容認される可能性も孕んでいます。


ニーチェについて語れるほど知識はないのですが、イメージを一言でいうと「ロマンティスト」です。本音では機械化していく世界に、生命が無意味化されていく近代社会に、耐えられなかったのではないだろうかと思います。そのことは上記の論文でも感じられます。ロマン主義に裏付けられたニヒリズムを感じます。


その一方で、徹底してニヒリズムな人物がいます。それは、ドストエフスキーの『悪霊』の中の主人公スタグローギンです。読者の身が凍りつきそうなくらい酷いことをやってしまいます。ドストエフスキーは、この悲劇の男について、「ロシア的な人物であり、同時に典型的な人物です」と語りました。この男は、極度の観念癖によって大地から切り離されたロシア知識人たちの象徴であるとも分析されています。


ドストエフスキーの小説におけるこの場合における「無神論」の意味としては、「神のまなざし」を奪うという人間の傲慢さがあるのではと思います。「神のまなざし」を奪うとは、他者の痛みに対して無関心になることと言えるのではないでしょうか。


しかし、現代のメディアが発達し、インターネットという仮想の場に人間の意識が部分的に切り出されたかのように現れる時代において、この自分を含め、果たして誰をロシア的でないと言う事ができるのかと思えてきます。


ニーチェ的な意味での「神」はもとより、ドストエフスキー的な「神のまなざし」さえも失われつつあるこの時代に、いかにして人間の生命への無関心傾向を抑制することができるのでしょうか。


いや、むしろ、もっと徹底したニヒリズムを経由しなければ見えてこないものでしょうか。ソクラテスやニーチェが身をもって示したように。スタヴローギンを通じて描かれたように。

2009-09-10

[][][]Erbarme dich, mein Gott Erbarme dich, mein Gottを含むブックマーク Erbarme dich, mein Gottのブックマークコメント

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)』を読み始めました。また自然と聖書を開くことになります。

ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(『新約聖書』マタイの福音書)

これは「ペテロの否認」と呼ばれる有名なシーンです。ヨハン・セバスチャン・バッハは、このドラマをモチーフに『マタイ受難曲』の中で、アリア「憐れみ給え、わが神よ(Erbarme dich, mein Gott)」を書きました。ときに様々な感情が複雑に入り混じる人間の本質を描いているようにも聴こえます。


このシーンは、僕が最も好きなシーンです。『ユダの裏切り』のドラマよりもずっと心に突き刺さるものがあります。このペテロの号泣のシーンがなかったら、それほど聖書には興味を持たなかったかもしれません。


茂木健一郎さんは『脳のなかの文学 (文春文庫)』の「見られることの喜びと哀しみ」の中で、他者の視線について言及されています。

人間は他者との関係性のうちに愛や共苦といった生きる上での根源的な価値を見出す一方で、現実の、あるいは想定された他者の視線を巡ってぐるぐると回る、そんな心理の泥沼に陥ることもある。


ペテロも自分の心の中にそっと他者の視線を忍び込ませておかなかったとしたら、激しく泣くこともなかっただろう。


しかし、

他者の視線(見る/見られること)が不可分に混ざっている場合でも、それは無垢なるものの汚染ではなく、むしろ地上の全てを生み出すエラン・ヴィタール(生命の跳躍)の一つの現れではないか。


人間は他人の視線からは本質的に免れえない存在なのかもしれません。例えば、自分でもこのようにブログを書いていることは、これでも(?)他人から見られることを前提にしている部分があります。


もっと高邁な理想を持った方のことを想像してみると、例えば、オペラ歌手でも「私のそばには女神様がいると信じている」と仰る方もおられます。


他にもこんな話も聞いたことがあります。ドイツにケルン大聖堂というゴシック様式の建築物があります。高さは157mで、京都タワーの131mよりもまだ高いです。この塔は頂上部分にまで細かい彫刻がなされており、地上から肉眼では到底その模様を認識することができません。では、なぜ人の目に見えない部分にまで彫刻を施す必要があるのか。この質問に対して、芸術家は人間には見えなくても神には見えていると答えるのです。


他者の視線とは、元々は父親あるいは母親のまなざしだったのかもしれません。しかし、人によっては、特に芸術家と呼ばれるような人たちにおいては、身近な人の視線から徐々に神の視点へと変わっていく場合もあるのかもしれません。


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2009-09-09

[][]The Beatlesの思い出 The Beatlesの思い出を含むブックマーク The Beatlesの思い出のブックマークコメント

ザ・ビートルズ 1962年~1966年(赤盤)(期間限定) ザ・ビートルズ 1967年~1970年(青盤)(期間限定)


2009年9月9日と9が三つも並びました。9を縁起の良い数字とする中国では今日は結婚式なんかのハレの儀式が多いとも聞きました。


僕も9月生まれだし、苗字に「く」がつくしと、とても「9」に愛着があります。小学生のころ、当時としては古い目の漫画が好きで、松本零士の「銀河鉄道999」や「潜水艦スーパー99」、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」をはじめ、「9」がつくものが多かったような気がします。


9というのは、桁が上がる直前の不安定な数字に見えます。999なら1をたして1000にしたくなります。見ているだけで不安になる数字。それが9です。しかし、はじめから安定したきりのいい数字、例えば1000を見た場合、それがどうして999に1をたして1000になったなんて考えるでしょうか。現前する不安定な数字である999に人間が対峙した場合、頭の中で1を足すことが促されます。不完全から完全にしたいというような、ある種の観念が想起されます。


不安定な数字「9」。原罪を背負っているかのような不完全な存在。苦しみの「9」。一桁の数字の中では最高位の「9」。そんな「9」に魅力を感じてなりません。


こんな縁起のいい日(?)に何かいいことあったかと言えば、何もありませんでした。ただ一つだけ、「ザ・ビートルズ」のリマスター版が出たというニュースを聞いたのが、少しの救いでした。


そういえば、高校のときやっていたバンドでは、ビートルズのコピーばかりしていました。毎日毎日ビートルズばかり聴いていました。ジョン・レノンが作った曲と、ポール・マッカートニーの曲とを比べて、やっぱりジョンだなぁって変に共感を抱いていました。「僕はビートルズを死ぬまでに何回聴くのだろうか」とよく考えていました。


ベタですが、赤盤と青盤がお気に入りです。初期の頃(赤盤)のメンバーの身なりと後期の頃(青盤)の時のメンバーの雰囲気の違いが凄いですね。特にジョン・レノンの変わり様!これこそ「ロック」だと、当時から信じています。


何歳になっても、やはり人間は不安というものから抜け切れないのではと思います。自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安があります。不安は「苦」であります。


音楽にもいろいろあるけれど、特に10代のころは、人類の中でも、ジョン・レノンをはじめ何人かのミュージシャンこそが、そういう不安と正面きって格闘している人たちに見えました。


「きっと僕は苦しみの数だけビートルズを聴くのだろう」

2009-09-07

[][]逍遥の記録 逍遥の記録を含むブックマーク 逍遥の記録のブックマークコメント

逍遥(しょうよう)という言葉を知ったのは、キルケゴールに関する論文を読んでいるときでした。といってもそれほど難しいことは考える能力は持ち合わせていないので、憂さ晴らし程度に出かけるといった方が良いでしょう。


はてなのブログも、自分が知らない間にどんどんとサービスが豊富になっているようです。面白い機能のひとつに、地図上に自分の写真をプロットさせていくというシステムがあります。海外の写真サイトなんかではよく見かけますよね。早速、一部の写真について位置情報を付加させてみました。


これです→ http://f.hatena.ne.jp/lalakoora/Rambling%20(Japan)/?mode=map


京都を中心に、大阪、神戸、地元あたりでぶらぶらと逍遥していることがわかります。ただ、掲載していない写真もいくつかあるので、これがすべてではありません。こうやって見てみると、自分は軽く写真撮影を趣味としていることにも気づきました。


ついでに、過去の自分の日記も読んでみました。気恥ずかしくなるものばかりでした。よくこんなことを公開しているなと思いつつも、いまだにこれを続けている自分がいることに驚きでした。文章の書き方も淡々と書くように心がけています。ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィッチの一日』のタッチが理想かな。


 自分にとっても逍遥の意味は、英語ではramblingあるいはrambing onと訳をあてがっていますが、気持ちのリセットする役割を果たしているのではと思います。本当の意味での逍遥は、独りで出歩くことです。一時期は街に出てカフェでゆっくりするというスタイルを好んでいましたが、最近は専ら寺社巡り(たまに山ハイキング)となっています。自転車に乗ったり、歩いたりすることの方が、気分のリフレッシュ感があります。


自分はどちらかと言えば、人に自分のことを打ち明けて、ストレスが解消されるタイプではないのだということもこの歳になってわかってきました。どこかで、結局、自分のことは自分でしか解決できないというのがあります。しかし、誰からも考えるチャンスが与えられないという意味ではありません。他人からそのチャンスは大いに享受すべきだと思います。その上で「自分のことを棚上げにせず」自分を見つめることが大切なのではないかと思います。逍遥とは、憂さ晴らしと言いつつも、全行程のコアの部分には、こういった内省的時間が含まれているのかもしれません。


いつもながら最後に話がかなり飛躍しますが、最近、生命や環境について多くの問題が取りざたされています。このような問題を生じさせる根源はどこにあるのでしょうか。何が、誰が、悪いのでしょうか。もしかりに、諸悪の根源は自分の外部にあるのではなく、自分の内部にあるのだと考えるなら、どうなるでしょうか。

2009-09-06

[]随心院・勧修寺 随心院・勧修寺を含むブックマーク 随心院・勧修寺のブックマークコメント

少し涼しくなってきたので、また色々と出回ろうかと思っています。今日は、ふらりと心のままに随い、近場の山科小野まで。


随心院

真言宗善通寺派の寺です。小野小町の邸宅跡という話もあります。

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小野小町は絶世の美女だったと伝えられています。

花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

歌意:桜の花の色つやはあせてしまったことだなぁ。そのように私の容色もすっかり衰えてしまった。むなしく世に生きつづけ、降りつづく長雨をながめ暮らして、物思いに沈んでいるうちに。

マックミラン・ピーター氏が英訳をされています(『英詩訳・百人一首香り立つやまとごころ (集英社新書 485F)』)。

A life vain.

My looks, talents faded like these cherry blossoms

paling in the endless rains that I gaze out upon, alone.

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勧修寺(かじゅうじ)

真言宗山階派大本山。開基は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音です。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院とされます。

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宸殿

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這柏槇(はいびゃくしん)

徳川光圀寄進と伝えられる燈籠があります。少し埋もれていますね。

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梅の木の3世代同居です。

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フジってマメ科なんです。

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ツクツクボウシの鳴き声が夏の終わりを告げます。

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氷室の池

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こんなに近くでカルガモを見るのは初めてでした。

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観音堂

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2009-09-05

[][]生命は最高善か 生命は最高善かを含むブックマーク 生命は最高善かのブックマークコメント

キリスト教による生命と世界の転倒が、その後に起こった行為と観照の転倒と重ね合わされたとき、それが近代の発展全体の出発点となった。<活動的生活>は、<観照的生活>という原理を失ったときになってはじめて、まったく文字通り活動的生活となった。そしてこの活動的生活が唯一の原理として生命に結びつけられていたからこそ、生命そのもの、つまり人間が労働を通じて行う自然との新陳代謝が、活動的となり、生命の繁殖力を完全に解放することが出来たのであった。(『人間の条件』第44節.志水速雄訳)

活動的生活を実践的生、観照的生活を理論的生と訳すとわかりやすくなるかもしれません。さらに具体的には、観照的生活とはソクラテスのような哲学者的な生活といえるかと思います。


アーレントは、生命が最高善であることの起源はキリスト教にあると指摘しているのです。古代ギリシアでは、プラトンが奴隷を軽蔑したのに対して、キリスト教時代には自らの生命を絶つことの方が奴隷であることよりもより悪であるとみなされたと言われます。


現代の社会は、もしかすれば、生命あるいは生活する(生きていく)ことに最も価値が置かれている時代であるのかもしれません。今後も科学技術の発展にともない、その傾向が強まる可能性があります。


しかし、アーレントが「生の神聖さ」を現代の問題として取り上げたのは、生の価値を否定するためではないと思われます。そうではなく、社会の構造として、生の優先が「自明の真理」となって、人々が生に対して問いかける能力が奪われていることを指摘するためではないでしょうか。全体主義的な生命至上主義になることを批判しているのでしょう。


ソクラテスの言葉に、

もっとも大切にしなければならないことは、生きることではなくて、善く生きることである。(『クリトン』久保勉訳)

というものがあります。「人間らしい生」とは、「ただ生きる」ことではないのだと言われています。「ただ生きる」というのは、アーレント的に言えば、私的領域に閉じ込められて、<労働>と<仕事>により得られた報酬により、なかば機械的に(あるいは家畜的に)生活することになるでしょうか。


一方で、「善く生きる」、すなわち「人間らしく生きる」とは、生に対して問いかけながら生きることと解釈できるのではないでしょうか。それは何らかの生の観念を抱きながら生きるとも言えるのかもしれません。そのあり方として、自律的に生きる、何かの宗教の教義に従って生きる、人類に幸福をもたらすことを目的に生きるなど、様々な在り様が存在しうると思います。


冒頭のアーレントの主張を鑑みると、各自が生に対して問いかけるという精神的(観照的)活動を営み、かつ公的領域(社会)で実践的に活動していくことが大切であると説かれているのではないだろうかと思いました。

2009-09-04

[][]アーレントのイエス論 アーレントのイエス論を含むブックマーク アーレントのイエス論のブックマークコメント

自分はどうやら「赦し」あるいは「慈悲」というものに興味があるようです。以前に、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んだり、ユリウス・カエサルの寛容(Clementia)について知ったりして、余計に考えるようになりました。


この度、森一郎著の論文「アーレントのイエス論()」を読みました。この論文を読解することにより、少し勉強をしたいと思います。上では、『人間の条件』の第10節を中心に、下では第33節を中心に考察がなされています。結論だけを掻い摘んで述べる形になりますが、アーレントによれば、公的領域における罪は、人格への尊敬によって赦されるというのです。

愛はそれ自身の狭く区切られた分野に留まっているのにたいし、尊敬はそれよりも広い人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛(ピリア・ポリチケー)」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人物への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが称賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。だから、たとえば、近代によって尊敬が忘れられたということ、あるいはむしろ尊敬というものは称賛や高い評価が与えられるからこそ生まれるという確信は、公的・社会的生活の非人格化が進んでいる明白な印である。ともあれ、尊敬というのはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行った行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。(『人間の条件』第33節.志水速雄訳)

これは自分の倫理観かもしれませんが、被害者による復讐欲に駆動された報復というものをみていると心が苦しくなってきます。さらに、被害者の気持ちを察するとより苦しさが増します。底なしの沼のように見えてきます。


アリストテレスの『弁術論』の中に

報復と懲罰は別のものである。なぜなら、懲罰はそれを受けた人のためにあるのだし、報復はそれ行う人のためにあり、その気持ちが満足することを目的としているからである。

と、あります。ここで言われている気持ちとは復讐欲のことです。懲罰とは、罰せられる人、つまり犯罪者自身のためになされるという意味です。被害者の気持ちを満足させることを目的として、罰を行う場合、罰することができない、すなわち、赦すことができないものに対しては、半永久的に罰が続きかねません。「罰とは合法的復讐である」という言葉の通りです。


それでは、何によって罪は赦されるのでしょうか。アーレントの答えはこうです。「<何>によって、ではない。<誰であるか>によって、なのだ」と。<赦すことのできる人>であるかどうかこそ問題の中心だという意味でしょう。


ここでの、モノではなく、ヒトという観点は確かにキリスト教から得られた態度であるとするものの、アーレントは、個人間の愛および博愛といったキリスト教的「愛による赦し」という反政治的な可能性に期待は寄せていません。


結局、アーレントが政治・社会的(公的)領域において赦しの可能となる条件として挙げているのは、「尊敬」という人格的関係です。


他者に対する気遣いには二つの態度があって、一つは世話焼き型の態度、もう一つは放任型の態度です。アーレントのいう尊敬は、後者に近いと考えられます。本人が解決すべき問題はその人自身にゆだねて任せること。ただし、全くの無為ではなく、自分自身の生き方の手本を示すことによって、他者が自分に固有な生き方を自分でつかみとるようほのめかすのです。


「復讐」も「処罰」もしない、という仕方での「赦し」は、むしろ「新しく始めること」だといわれます。相手の「罪」を打ち消すことによって、取り返しのつかない過去のしこりを「一新」するということです。人間だれでも自分自身に許しを与えることができない、とアーレントは言います。「世界(公的領域)」においては、われわれは他者に依存しており、他者によって、当人の<人格>は形成されていると考えているからです。


この「尊敬による赦し」の考え方をもとに、日本と中国、日本と米国の関係について考えてみると、何かひとつのあり方が見えてきそうな気もします。

2009-09-03

[]Take The Long Road And Walk It Live / The Music Take The Long Road And Walk It Live / The Music を含むブックマーク Take The Long Road And Walk It Live / The Music のブックマークコメント

イギリス・リーズ出身の4人組ロック・バンド、ザ・ミュージックもまた素晴らしい音楽を演っています。演奏が進むにつれてどんどん高揚していくこの感じ。グルーヴ感とはこのことを言うのだと改めて感じさせられました。ノリの主導権は、やはりドラムとベースにあると思います。決して楽譜には現れない、2拍、4拍目を刻むスネアドラムの微妙なズレ。やはりバンド演奏は、理論よりも経験なのでしょう。


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2009-09-02

[]Sour Times / Portishead Sour Times / Portisheadを含むブックマーク Sour Times / Portisheadのブックマークコメント

マッシヴ・アタック、ラムを紹介したら、ポーティスヘッドを挙げないわけにはいかないですね。これら3バンドは、トリップホップというジャンルに入れられることが多く、ブリストルサウンドとも言われます。しかし、厳密にはマッシヴ・アタックとポーティスヘッドはブリストル出身ですが、ラムはマンチェスターを中心に活動をしています。また、多くのミュージシャンがそうであるように、カテゴライズされることを嫌悪する態度がしばしば見受けられます。

 ポーティスヘッドとラムは、ともに女性Voです。どちらが暗いかと言えば、前者だと感じます。ラムのVoのルイ・ローズは、例えばGabrielでも感じられるように、ポジティブな歌詞も多いのに対して、ポーティスヘッドのベス・ギボンズの作風はPVを見てもわかるように、どこかシニカルな雰囲気が漂っています。イギリスのニルヴァーナと言ってしまうとまた語弊があるでしょうか。


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