人間核弾頭と呼ばれたドルフ・ラングレンはどうしているのか?
80年代にスタローン、シュワルッツェネッガーの次はこいつだ!的な存在だったはず・・・。

人間核弾頭というすばらしすぎるニックネームを頂戴したのに90年代以降はさっぱりで、もっぱら
B級映画スター状態、不発の核弾頭となりました。

世界の核問題にまつわるニュースを聞くたびに、ドルフ・ラングレンの事を思い出す、不謹慎な私です。

大往生だよね・・・

.夢をありがとう…オグリキャップよ、永遠に
7月10日18時37分配信 産経新聞(引用)


 1980年代後半に競馬ブームを巻き起こして「怪物」の異名を取ったオグリキャップが3日、放牧先の北海道で逝った。25歳の天寿をまっとうした。地方の笠松競馬(岐阜)から中央競馬に移籍して、GIレースで4勝するなど活躍。限界をささやかれた90年12月23日、ラストランとなった有馬記念で劇的な勝利を飾り、芦毛の名馬は伝説となった。


 ■誕生から試練の日々

 85年3月27日に生まれたオグリキャップ。父は地方の笠松競馬で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップ、母はホワイトナルビーだった。深夜に生まれた芦毛の子馬は誕生時、右前脚が大きく外側を向き、競走馬としては大きなハンディキャップを背負っていた。ただ食欲が旺盛で、気性面でも負けん気の強い馬は、関係者の努力でハンディキャップが矯正され、他馬に見劣りしない馬体に成長した。

 笠松競馬場で87年5月19日に行われたデビュー戦(ダート800メートル)は出遅れて2着に敗れた。勝ったマーチトウショウには4戦目でまたも出遅れで2着に負けている。この時期、オグリはひづめの手入れを怠ったためにひづめの内側が腐る病気にかかり、能力を十分発揮できる状態ではなかったようだ。この病気を克服して以降、オグリは笠松などで8戦8勝と連勝街道を驀進(ばくしん)。当然のように「オグリをこのまま笠松で終わらせていいのか」との声が沸き起こった。この人気に支えられるように、88年に中央競馬へ移籍した。

 移籍初戦。単勝2番人気を背負い、最終コーナーでスパートし優勝。続く2戦目は追い込み馬に不利とされる重馬場にも左右されることなく優勝をさらった。自在性のある脚質でその能力の高さを発揮していったが、残念ながらクラシック登録がなされておらず、皐月賞などのクラシック競走には出走できなかった。競馬ファンの間では物議を醸したが、オグリは吾関せずと、その代わりに出走したレースで連勝し、秋競馬に期待が膨らんだ。

 中央移籍後、6連勝で迎えた天皇賞・秋。前年秋から7連勝しているタマモクロスを抑えて単勝1番に支持された。最後の直線で7番手から最も速い上がりタイムを記録したが、同じ芦毛タマモクロスに1馬身1/4馬身及ばず、2着に泣いた。雪辱を期したジャパンカップタマモクロス(2着)とともに米国馬ペイザバトラーの3着に敗れた。ここで陣営は、名手・岡部幸雄に騎乗を依頼。「一戦限り」の条件付きで挑んだ有馬記念は最後の直線で6番手から抜け出し、タマモクロスの猛追を1/2馬身の小差でかわして雪辱を果たすとともに、初のGI制覇を成し遂げた。

 その翌年、タマモクロスが引退。オグリは不屈の闘志と頑健さで競馬ブームを引っ張っていった。ただ、順風満帆にみえた競走馬としての道程に陰りが差し始めた。3カ月半で6つのレースに出走。ここでも、賛否両論の議論を巻き起こした。それだけ注目度の高い馬だったことの証明になる。オグリは1着、1着と来て、天皇賞・秋を2着。続くマイルチャンピオンシップでは絶望的な位置からバンブーメモリーを差しきり1着。続くジャパンカップでは勝ったニュージーランドホーリックスと同タイムの世界レコードをたたき出したが、首差の2着と、死力を尽くす姿がファンの琴線に触れ、さらなる感動を呼び起こした。ところが、有馬記念では5着と連覇どころか初の惨敗を喫してしまい、年度代表馬のタイトルを逃した。

 この連闘の代償が翌90年に跳ね返ってきた。初戦の安田記念は進境著しい武豊を初めて鞍上に迎え、見事1着。しかもコースレコードのおまけまでついた。そして、ついに通算獲得賞金額は歴代1位に躍り出た。だが、次戦の宝塚記念では直線で伸びを欠いての2着。レース直後に両前脚に骨膜炎を発症するなど、芸術品といわれるサラブレッドの繊細な脚に限界にきた。度重なる脚部不安天皇賞・秋6着、ジャパンカップ11着と惨敗。「オグリは終わった」とささやかれた。

 ■伝説のラストラン

 「このまま引退させるべき」と世論が高まる中、オグリは1カ月後に最後の雄姿と決めた有馬記念に復活をかけた。

 90年12月23日−。冬晴れの中山競馬場で第35回有馬記念が開催を迎えていた。中山競馬場はこの日朝から異様な雰囲気に包まれていた。オグリキャップの引退レースの当日であり、最後の雄姿をひと目見ようと17万7779人が来場、当時の中山競馬場の最高入場者数に達していた。

 ラストランで中団の外目を追走していたオグリは、3コーナー過ぎからジワジワと先頭集団に並びかけ、最終コーナーで先頭に立つと、メジロライアンの猛追を3/4馬身しのぎきり、1着でゴール。2度目の手綱を取った武豊は“怪物”の首をそっとなで、健闘をたたえた。あまりにも劇的な勝利に、17万人の観衆から「オグリコール」が沸き起こった。脚部不安から80%の能力しか出せなかったはずのオグリだが、武は「オグリの手前を替えさせることだけを考えた」と、手前を替えるのがへたで4コーナーでもたつくオグリの特性を見抜いた騎乗で「奇跡の復活」を演出した。これ以降、競馬界の人気を背負っていく天才騎手のナイスサポートがなければ果たし得なかった世紀の一戦だった。

 ■記録より記憶に

 だからだろう。3日にオグリキャップ死亡の報に接した武豊は、「競馬の歴史にすごい名を残した馬に2度騎乗させてもらって本当にありがたかった。誇りに思う。オグリを知らない若い世代のファンもいらっしゃるので、あのスーパーホースのすごさを伝えていきたい」と最大限の賛辞を込めたコメントを出した。

 引退後は種牡馬となったが産駒には恵まれず、現役時代の華やかさとは裏腹に寂しい晩年だったのが残念だ。

 オグリは3日、北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで放牧中に右後肢を骨折し、安楽死の措置が取られた。25歳だった。人間なら80歳に相当する。優駿の村田繁実社長は「最期は大往生だったかと思います。これだけファンに愛された馬はいないと思います」と惜別を惜しむコメントを出した。

 シンザンシンボリルドルフを超えるような強い馬は、今後も出る可能性がある。しかし、ハイセイコーオグリキャップのようにファンの心をとらえる国民的人気馬は、もう出ないかもしれない。オグリでの中央での戦績はすべて重賞で20戦12勝、地方12戦10勝、獲得賞金は約9億1251万2千円(地方含む)。残した戦績は一流だが、記録より、記憶に残る名馬だったといえる。
  

血統だけが競馬の全てじゃないと若かった自分にまざまざと見せ付けてくれた本当の意味の名馬だったなぁ。
この馬をきっかけに本当に競馬が娯楽として認められた気がします・・・。

ディープもナリタブライアンも強くて華のある名馬だったけどこんなに強烈なドラマを見せる名馬はもういないのかなぁ・・・・。

昼飯は納豆とキムチと米ざんす

 職場で食べる食事というのは、普通一般的にはどのようなものをもぐもぐと食べるのかが少し気になってしまっていたりする。

 大抵、女の子達は小さな弁当箱に小さいおかずと小さい米を入れていき、ちょろりちょろりと食べるけれど、私達のようなどちらかというとすでに終わっている系の男子というのは、とにかく食いたいものを食うというスタイルで昼休みに突入する場合が多い。

 私が最近食べているものといえば、それはもうとにかく白米を持っていき、そこの納豆とキムチを突っ込んで、ただただ貪り食うというだけであり、この職場に女性がいたりした場合は、えーなにこの人となること必至なのだろう。

 でも美味いものは美味いわけだし、体に良いものは体に良いのである。 食ってるか食ってないのかわからんような少食なんかやってやれっかてやんでぃとなるのはこれ仕方なく、本日もやはりそのとてもシンプルな飯をただつらつらと食べてご機嫌が良くなったということである。

 明日はどんな飯にしようかな。 そんなことを言ってみたいとは思うけれど、今のままで十分である。

今日でミカンが無くなった。

 毎日沢山のミカンを食べ続けて、美味しいなぁ美味しいなぁとミカン中毒になっていたんですけども、とうとう本日でミカン箱に入っていたミカンが全てなくなってしまいました。

 ミカンってどうしてこう、あんなにも美味いのかと考えて今はそろそろ昼休みに入ろうかという感じなんですが、困ったことにミカンよりも貧相な昼飯を食べなくてはいけない僕は、これならいっそ毎日全食ミカンだと決められた方が心地よく歳を重ねていけるのではないかと思ってしまったりするのです。

 本日のご飯は白米がメインとなり、果たしてそこにおかずというものが存在するのか? 予想としては、そこに巨大な漬物が入っていて、『とりあえず食っとけ』的な雰囲気をプンプンと漂わせた昼食に箸をつけることになるのではないかと思っている昼下がり。 昼下がりでもないですけど。

 皆さんは良い食事をちゃんと摂ってますか? そうですか。 それは良かったですね。

もらったミカンを食べてみると

 先日おっちゃんにもらったミカンを、今日意を決して食してみることにした。

 皮がすでにヘロンヘロンになっており、こんなもん果たして食べられるものなのだろうかと正直かなり訝った分はあるにはあるが、とにかくこれを食わずして日本男児とはいえないだろうと無理やり皮をむき始めて、ちょびりちょびりと食べ初めてみた。

 感想は『思っていたよりは食えた』 といった状況であり、美味くもないし、別段まずくて食えないといった状況でもなく、ネタ好きの私としては正直物足りなさを感じずにはいられなかったというのが本音と言えば本音である。

 ちなみにまだその他のミカンはしっかりと室内に残っており、これを明日また食べることにして今日は美味しい晩飯を食うことにしようぞとおかずを買うのもまた楽しけり。

みかんをもらうが悲しい現実に苛まれ

 先日、近所の顔見知りのおじさん、というかおじいちゃんみたいな人がフラフラと歩いていたので、おはようございますと挨拶をすると、その人はいつも以上にぺらぺらと何事かを話し、ちょっとそこで待っていろと近くに停めてあった車の中をごそごそとやり、オレンジ色のものを持ってきた。

『食え』 とそのおじちゃんは言い、手渡されたものを見るとそれは若干干からびたミカンで、ありがとうございますとは言ったもののそれを食すかどうか正直迷った。

 そのミカンは市販されているような袋に入っているわけでもなく、思いっきり幹からぽきりと折ったのがみえみえで、ポジティブに考えればそのおじちゃんの畑で出来たものを僕にくれたのだと判断したいが、ネガティブに考えるとそれはよその家から頂いてきたような気がして、これは困ったと正直迷った。

 おじちゃんはいつもだらしなく、くわえタバコでそこらをふらふらと歩き、知り合いに会うとよく話す。


 決して悪い人ではないのだが、このミカンに関してだけは、なぜかずっと疑心が消えず今もバスケットの中で食されるのを待っている。