(21) 学生がその後どうなるのか

大学にいる時には、人材育成の概念に非常に疑問を持ちました。学生の進路が定まらない理由の中には、自己責任の部類に含まれることも多いとは思いますが、根本的に、大学院の研究室というところは、進学してきた学生がその後どうなろうが知ったこっちゃないというところに非常に問題があるように思えます。


この問題については、かなり思うところが強いので、この機に少し書き留めておきます。
大学では、学生が途中で研究室を辞めて出て行っても、学位取得ができず留年することになっても、基本的に教官は別に何ら傷付かないのです。研究室運営の全般的な流れからするとそれほど問題にならないのです。学生の将来が自分の経歴に影響するわけでもないし、ずるずるといたとしても自腹の給料を払うわけではないからです。別に大きなデメリットはないんです。


かなりきつく書いたが、もちろん、能力がない、やる気がない、感性が合わない人間を向かい入れれば、研究がうまくいかなくなる可能性は高くなるだろうし、研究室全体としてもよろしくはない。
だから、研究がうまくいきそうな人材を選ぶし、研究がうまくいくように指導もする。
また、教官らも一人の人間なのだから、学生が停滞すれば心は傷付いているかもしれない。誠意を尽くして、学生の指導にあたり、能力や経験に恵まれて素晴らしい学生が巣立っていくように教育する良心的な教官がいることも決して否定はしない。
また、研究というものはうまくいくかどうかはわからないのだから、それを全て教官のせいにするというのは酷なのかもしれない。


しかし、例えば、偏っているかもしれないが悪い例を出せば、10に1つ当たるような研究課題を10人に与えて、9人がやめても、1つ大きく当たればほくそえむ研究指導者もたくさんいるだろうと感じます。ライフサイエンス分野はそもそも性質的に博打的要素が強く、特にそういう傾向が強い気がするし、実際横でそういう人的資源の量活用による博打ものを幾度となく見てきました。また、研究競争の苛烈さが、そういった人的資源の使い捨てを加速している気がします。他人の将来など構ってる暇がなくなってきているんです。自分の将来に全てを注ぐために。


教官や指導者が、学生に真摯に教育・指導するという場合も根本の意図はどうでしょうか。多くの場合、それは学生の研究成果が彼らに還元されるからという理由ではないでしょうか。つまり、学生の成果が、彼らの成果の一部となり、彼らの利益になるからです。
そうでない場合、学生の面倒を見る、学生の将来を考えるということは、見返りのない、なるべく避けたいことになるのではないでしょうか。競争が熾烈化している昨今の状態では特に。
ゆえに、例えば、アカデミア以外でも学生がしっかり進路設計できるように指導するのは、教官にとって魅力的なことには決してなり得ません。一切、彼らの利益にならないから。


大学院や研究室管理者は、在学生の修士課程・博士課程の質、及びその後の進路設計に責任を持たなくてもよいという、こういった現状は非常に問題なのではなかろうかと思います。
学生の将来は、ほとんど指導教官の『良心の呵責』に支えられていると言っても過言ではないのではないでしょうか。
たしかに学生自身の能力も重要な因子です。また、教官と喧嘩しながら関係を断絶しながらも研究を進め、完成させる人も大勢いるでしょう。しかし、学生の教育、研究指導、学位取得、就職斡旋などに、指導教官の存在が大きく影響することは明らかだと思います。
最近、こういうことを益々強く思うようになりました。というのも、若手PIや研究員の間の競争も益々熾烈化してきているから、学生やポスドクを「うまく使って」キャリアアップを計るという場面が多くなってきていると思うからです。残念ながら、この状況は益々悪化すると予想します。
もしも、「他人の人生設計まで面倒見切れない、自己責任だ。」というなら、それを前もって明らかにしておくべきです。あくまで、大学は教育機関であるのだから。


さて、今後、企業やその他アカデミア以外の選択肢を取る博士が増える時代が来ると(来ざるを得ないと思いますが)、卒業していった先輩学生達が、その後どのような進路を取ったかという情報は、研究室の運営に深く関ってくるように思えます。「毎年5人進学しているけど、誰も卒業していない」では、もはや人間は集まらないでしょう。個人によるキャリア設計を推し進めるなら、学生自身が研究室の卒業状況を確認するようになるのは自明の理であるように思えます。


ところで、企業では人材育成の考え方はどうでしょうか。企業の方が素晴らしいという気は毛頭ありません。今はまだ研修中なので何とも言えませんが、感じをつかめてきたら、また書きたいと思います。おそらく、アカデミアの良い所悪い所、企業の良い所悪い所があるでしょう。