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スピード楡男

2012.02.22(Wed) あぶくま質素

日記 01:01

最近、目が覚めると右手に血が通わずしびれていることがある。二度寝以降によくみられる気がする。右手はあおむけの腹の上に載せられている。そこまで血液が及ばないのだろうか。そういえば、ちょっとしたことで鼓動が激しくなったり、かと思えばあまりにもかすかで手を当てても鼓動が感じられないくらいのときもある。

会社説明会というものに行ってきたが特に面白いものでもなく。まあ自分の将来のこと考えさせられるアレではある。

帰り、部室 A に寄ってだらだらして、それから帰宅し、食事ののち詠める:

感情が鈍いというのはよく思う。判定を下さないというか。きっと世界にはほんとは意味なんてどこにも隠されてないのだが、でもわれわれはそれに無理を強いて意味の網目のなかに世界を存立させてる。そのことをまともに内面化すれば、自分の感じてることがどちらか一方向に決定的に正しいなんて言えない。

いや、そういう話ではない。緩慢な条件反射だけが残った。楔だ。もはやはっきりした理由はないけどどうしてもそのことに触れるとダメ、そういうものが人生にはいくつか残っていくんだろうと思う。少なくとも向こう、そうだな、三年くらいはそうじゃないですか。つらいっていうか、動揺するというのが適当かもしれない。平穏な精神生活を乱すそれ。まあ俺が勝手に乱れてるわけですが。がー。

新しい石鹸を箱から出して、ビニルをはがして、手に取ると、ずっしりと質量。昨日まで使っていた、やせた石鹸が、もとはこんな確かな質量を持っていたことに驚いた。質量は存在の核だ。質量を感じることは、その存在を知ることだ。君の体温より、きみの体重を感じたい。

2012.02.19(Sun) kissa boost

[][]日記 23:02

何時に起きたか忘れた、が、ツイッターの発言を見ると十時半すぎ起床、ということになる。

福祉国家がうまくいっているか調べるには、保護されるべき人の満足度を見ればよい。言い換えれば、保護されるべき人たちは、福祉国家の到達度をみるのに役立つ。それゆえ、保護されるべき人には価値がある――みたいな推論にはどこか欺瞞があるに違いないのだが、どこがおかしいのかはっきり指摘できない。似たようなのだと、「温度が存在しなければ温度計は機能しえない。言い換えれば、温度計が機能するために温度は役に立つ。それゆえ、温度には価値がある」というのも考えた。先のものよりも奇妙な結論を出しているが、読んでくるとなんとなくそれらには「価値がある」ような気もしてくる。そしてそこがポイントなのだろうかと当てをつけている。次の記事:2012-02-06 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめは、僕は十分に理解できていないが、そこで語られていることは、これと似たような匂いがする。

で、こういうことを言ってなにかというと「その日の起床時刻を特定できるのだから、 Twitter には価値がある」とここで結論することはどうなのか?と(いや、同種の話ではないのですが)。この場合はそこまで難しい話ではなくて、価値があるはあるけど、だからといって Twitter を全面肯定する根拠にはならないね、という評価になる。そういえば上の段落で出した例にも当てはまるけど、「価値がある」というのがしばしば全面肯定に聞こえるということは気をつけなきゃいけない点だ。ただ、温度計の例だとそれとは別の問題として、なんか価値の創出みたいなことが起きてて(温度を計るために温度計ができたのが、温度計のおかげで温度に価値があることになっている)、それをどうほぐしたらいいのかはまだわからない。

午後は買い物に行った。海へ行くつもりだったが寝坊したので買い物。石鹸*1ハンドクリーム、カメラブロアー。あと音叉を買おうとしたが見つからなかった。それから少しだけ本屋にいて、いくつかメモ。『科学的思考のレッスン』、『意識は実在しない』。軽めの本をざくざく読んでいけたらいいな。それから、『数学を哲学する』。あと、微積を勉強する機運が高まっている;小平『解析入門』をぱらぱら見て、なかなかよさそうだった。そのあとツタヤで CD を借りて帰る。

読み了えた:『現代詩の鑑賞 101 』、新書館、1998。

現代詩の鑑賞101 (Literature handbook)

とてもいい本だと思う。現代詩って自分から読もうとしないと読まないし読んでもよくわからないので、読める人の読み方(の一例)から学ぶことができるこうした本は貴重だ。さいわいわけのわかる「鑑賞」になっていて、いや解説が比喩を駆使して悪いのかといえば、でもそう語るしかない部分は確実にあるのだろうと思う。表現がいくら文学的だといっても、同時に表現に対して真摯であることもわかる。はい。「現代詩手帖」に載ってる文章よりはだいぶとっつきやすいです。

*1:関係ないがこの鹸という字は異体字扱いである(『漢辞海』第三版)。親字は右側が「驗」(験の旧字)と同じで、つまりいわば旧字となるべきものが親字となっている。これは「鹸」が常用漢字に入っておらず、旧字がアップデートされないままになっている、ということだろう。ちなみに親字のほうが環境依存文字。醤油の醤なんかも同じ状況になってますね

2012.02.17(Fri) ふたりは赤道で結ばれてる

ぜんぜん生きてる。 19:53

八時起床、目覚ましは七時。眠いわけではなかったが、特に目的もなく起床を延ばしている。惰性ですね。九時過ぎに家を出て、大学に向かう。電車では『現代詩の鑑賞 101 』を読み進めていた。残り四分の一を切っていて、ひさびさに読み通せそうな本。十一時前に大学着。事務的な用事をいっこつぶして、図書館へ。パソコン室で作業。

作業が一段落したので十二時直前に切り上げる。読もうと思っていた夏目漱石『行人』を買って、お弁当を買って、部室 B に行って食べた。奇遇にも自分の他に二人いた。

一時からまた図書館で作業し、九十分くらいで一段落したので早めに切り上げて本日の第二部を開始;『マンキュー入門経済学』を読み始めた。定番教科書だけあって親切で読みやすい、のだが、いかんせんこちらが社会科系の話を読むのに慣れてないのがあり、それから勉強する習慣をしばらく野ざらしにしてたのもあり、以外に早く集中が途切れてしまった。というわけでまたしても(笑)予定より早く切り上げて、禅堂に行って坐禅してた。

坐るのはひさびさ、というほどではない(一箇月空いてない)が、最近いろいろと不安定な時期を経験していたからか、効果抜群であった。日々見慣れていたはずの石がこんな模様だったことを発見したし、帰りの電車では車内の電灯がむき出しになっていることに初めて気づいた。まあ最寄り駅に着く頃には魔法が半分がた解けたところだったけど、ニュートラルな気分はまだ続いている。

そういえば今日はまともにツイッターを見ていない。昨日は知り合いと飲んでいて、それを機にまた方向性変えてみたのだった。惰性になってるところ攻撃するのはわたしの感触では出来のいい規則だ。結果としては快調。ツイッター見てるときはだいたい物欲しそうな顔してたし、そこを切るというのは限りなく妥当な選択肢ではあろう。あろうってか。

そういえば昨日の飲みは後輩二人相手だったんだけど酒入ったら自分の口が動くようになるの明らかに感じたね。普段の飲み会とかで酒入っても変わんないように見えるのは、もともと話しづらい状況だから酒入ってもそんなに話せないって話ですね。昨日のもそんな大幅に変わったわけじゃないし、レベルが一個上がったぐらいのものですわな。で何が言いたかったのかは忘れた。

[] 20:01

いたずらに起床時刻を延ばすという“惰性”も断ち切ったら? と思われるが、それは簡単ではないのよね。きっかけになるものがないから。起床というのはそれをもって一日のすべてが開始するので、その前に何かを経験して惰性を変えるきっかけとする、ということが論理上ありえない。いや、まあ、ふとんの中でツイッター開いて……くらいのことはかろうじてできるんですが。そこでできる経験なんてちっぽけなものではないですか。

2012.02.14(Tue) 絶望用途

do not see 11:43

「見ようかな」と選択肢が浮かんでは「いや見まい」とそれを取り消す、ということを繰り返している。もう数日それが続いている。見ようとすれば指先ちょちょいで見れるわけだ。数十秒で確認できるわけだ。でもそれを一貫して「見ない」の判断を下し続けている。見ようかという思いが生じ続けるのもあまりないが、それを棄却し続けているのはさらになかなかない。やってることとしては、禁煙に近いのかもしれない。誘惑に一貫して断り続ける作業。そしてこれが、死ぬまで続くのであれば、確かに楽ではないのだろう。

「見ようか」という提案をこうしてことごとく却下し続けることは、自分にはめったにないことだ。だいたいどこかでひょいと覗いてしまうものだ。だいたい、自分には、「○○でなければならない」という絶対的規定が少なくて――あるいは欠けていて、たばこの例を続ければ、「たばこには害がある」と「たばこには益がある」ということを同等の権利を持たせて扱っている。言い換えれば、たばこには害があるからといって、それを吸ってはならない、ということにはならない。いやまあそれはそうなのだ。ただ強調したいのは、僕にはそうしたたぐいの強迫観念というのか、がなくて、たぶん禁煙を破るときには「吸っちゃだめだ、だめなんだけど手が止まらない」みたいな思いにはならなくて、「まあいいか」と、禁煙の誓いをなかったことにしてまた吸い始めるんだろうと思う。いや、たぶん多くの人がそうなんだろうな。

とにかく斯く様にしてひとは意志が弱いものですが、にもかかわらず例のそれを「見る」ことを断念し続けられている今の状況はなんなんだろう、と考える。きっと恐ろしいのだろうと思う。それを見てしまうと自分が辛くなるのがほとんど確実に予測できている。うちの親は咳が止まらなくなるからたばこを止めたというが、そうした明白なデメリットがあれば、ひとは誘惑を退けることができるのだろう。それに僕の場合はそれを見たとて何か利益があるわけではない……わけでも必ずしもないのだが、最近は「知らないほうがいいこともある」なんて言葉に同意している。前は、知っていることが増えることは無条件でいいことだ、知って辛くなるのは、知り方が足りないからだ、と思っていたのだが、まあでもいつも一挙にすべてを知ることができるわけではないわけで。

そもそもそれを見ることになにか喜びを見いだしたりしているわけでもない。それを見ることが何らかの点で自分に有利に作用するわけでもない。なのに見ようかという気を起こしてしまう。楔のようなものだ。ひとをある行為に張り付けるのは、習慣だけではない。

2012.02.13(Mon) タブ録402

日記だイェイ 20:33

8 時半起床。目覚まし 7 時。やっぱ起きなきゃいけない時間にしか起きないんだと思った。就寝 0 時ね。今日はレポートの提出期限であった。

ゆるりと準備して 9 時半に家を出て、 11 時に大学に着いて、図書館に直行してレポートのつづきを書いた。家でやるよりずっとはかどる。ツイッターなんて横に置いて作業するからろくなことにならんのだ。ツイッターだけでなく、家にいると、なんかしら気になる。例のことも気にかかるしまあ基本的に例のことだけが気になる。そのおかげで午後は「なにをしてもむなしい」と判断していた。でもまあレポートはそれなりに順調に進んで、お昼んなったので学内のセブンイレブンでカップ焼きそばとおにぎりを買って部室 A で喰って、喰ったらすぐ図書館に戻ってレポート書いてたら提出期限一時間半前に完成した。けっこうあぶない。あまり焦らなかったが危険だわ。

完成して刷ったやつをぱらぱらっとやりながら内容を思い出すに、そのお粗末さにがっかりする、けっこう苦労して登ったはずなのに、自分が到達した高さはせいぜい公園のすべり台ぐらいのもので、道は長いなという感じがする。これの積み重ねなのか。

それから簡単な用事を済ませて、再度部室 A に寄ったあと帰った。時間が空いたので一時間カラオケした。なんかもうカラオケする時期終わってんじゃないかと思っていたが案外楽しめた。でもまあ違う遊びを考えるわ。もうちょい生産的に見えることをしてないと、ちょっとつらい。

帰宅後はレポートから解放されていろいろと興味の触手が伸びてきたのでインターネット検索などする。あと部活 B のお仕事関係でも検索する。レポート一個あっただけでこうも視野が狭まるものか。もんですね。普段へらへらしてるのは安全な場所にいるからだし。