チェ・ゲバラはただの山賊以外の何者でもない(2)

3.ゲリラ活動
地元組織との連携に失敗する

 海外進出事業は適切な地場の企業との協力が不可欠である。筆者の従事した鉄道事業では、ボリビア日系企業と合弁することができ、おかげで随分と助かった。ゲリラ事業も同じである。地元をよく知るグラスルーツの革命組織との連携は欠かせない。ところが、ゲリラ開始早々に、ゲバラはラパスを拠点とする共産党の書記長マリオ・モンヘと決裂してしまう。

ゲバラ「ゲリラ部隊の副隊長のお出ましだな」


モンヘ「まさか、ボリビア国内で革命をするのだから、ナンバーワンはおれをおいてほかはない」
ゲバラの内心はこうだったであろう。
ボリビアサンタクルスに開設したのはキューバ支店だ。革命を成功させた経験のあるおれが支店長だ。ボリビアの地から南米全土に革命支店を広げる」
 謙虚さが欠如した海外プロジェクトは必ず失敗する。 

多国籍軍団を統率できない
 プラント建設の海外事業では、従事する社員の国籍は20〜30にわたる。ゲバラのゲリラ軍団は、キューバ人16名、ボリビア人23名、ペルー人3人、アルゼンチン人のたかだか4カ国程度から成る混成部隊である。だがゲバラはうまく統率できない。とりわけ、キューバ人とボリビア人の間の不信感は最後まで解消しない。

「私は、先遣隊内にキューバ人を見下す傾向があるのに以前から気付いており、その傾向については昨日カンバが、リカルドとの諍いがあって以来自分のキューバ人に対する信頼感が日増しに希薄になっているとコメントしたことで、いっそう表面化したように思う」(ゲバラ日記)

 東京の展覧会を訪れると分かるが、ゲバラの撮った写真の被写体の多くは遺跡か工場などの建物で、人は驚くほど少ない。人間が苦手だったのである。
 多国籍軍を束ねるには、リーダーか副官が人間関係の機微の中に入り込み、日々不満を解消する必要がある。さもないと、個々員の負の感情が内向し、グループは瓦解する。

地元のボリビア隊員を敵に回す

「私はパコ、ぺぺ、チンゴロ、エウセビオにも、働かないものは食うべからずと申し渡し、解雇すると宣言した。私は彼らの煙草の配給を一時停止し、彼らの私有物についても彼らよりも困っている同志たちに再配分した」
 この4人は全員ボリビア人であり、「ゲバラ日記」では徴兵不合格組と訳されている。けれども、日常よく使うresacaというスペイン語の意味からすると、二日酔い組としたほうが相応しい。彼らは行軍では始終もたもたしていたようだ。実際どこかの村で地酒を手に入れて、仕事にならないことがあったのではないか。
 ボリビアの地酒、ブドウから作った蒸留酒シンガニ、トウモロコシを発効させたアンデス系のチチャ、それに山猫のミルクといわれるなんだかわからない低地の酒、とあれこれ村ではふるまってくれるものだ。

 よっぱらいを解雇と宣言したならば、すぐに出て行ってもらうか、排除する必要がある。まったく別の立場だが、筆者の従事した鉄道事業でも左翼系の活動家が労働者をオルグするために入ってきたので、早々解雇した。さらによっぱらいのガードマンにわざと殴らせ、サッカーの試合のように大袈裟に倒れ、即回顧した。

 もし解雇しなければ、それは当時の中南米(80年代)や今の中近東、アフリカなどでは生死にかかわる問題となる。実際、少し前には、アフリカで筆者も勤務したことのある日本企業が企業内の内通者がいたせいもあって凄惨なテロの被害にあっている。

 逆にもし、今後もゲリラとして継続勤務してもらいたいならば、人前で叱責するような面子を潰す行為は避けねばならない。彼らの敵愾心に火をつけるだけである。
 結局、解雇宣言の3カ月後、彼らは脱走し、ボリビア軍への情報提供者となる。武器、医薬品、食糧、文書類の隠し場所が暴かれたのは致命傷だった。
 

ボリビアの特殊性を最後まで理解していない
 海外事業を成功させるためには、地域の特殊性を把握し、適正技術、適正規模、適正プロジェクト形態を作ることが欠かせない。だが…

「カンバとチャパコは軟弱者たちである」

 二人ともボリビアの低地の出身者である。ゲバラ日記ではカンバ族と翻訳されているが、誤解されやすい。人種や民族による区分ではない。ボリビア全土で低地の人間はカンバ、高地の人間はコーヤといい、文化・生活様式が大きく違う。
 高地はどちらかというと先住民の血が濃い人々が住む。日本人が思い描く、山高帽をかぶってケーナの笛やチャランゴでフォークロ―レを奏でる人々である。けれどもその地域の人間ならば白人であってもコーヤと呼ばれる。勤勉で政治的で忍耐強く倹約家で酒飲みである。労働運動や共産主義に親和的なのはコーヤのほうだ。 

 一方カンバの住む低地は、先住民は少なく、混血か白人の血が濃い。人生の価値は享楽的で酒、女、カーニバル。音楽も陽気なクンビアである。ゲリラには向かないし、主義のために死ぬなどばかばかしいと本来考える人々である。

 結局、カンバはゲリラ戦数カ月で脱退を申し出、脱走する。チャパコは精神を患ったまま、脱走せずに最後までつきあい機銃掃射で殺される。なおチャパコとは、アルゼンチン国境のタリハ州の人間を指し、青い目の美人が多く、日本では知られていないが素晴らしいワインの産地である。
 ゲバラは社会的、地理的条件によってゲリラ戦の形態や手法も変わってくると理論上考えていたが、日記にはこのような文化の相違の記述はない。

兵站の杜撰さ

ゲバラ日記」には食べ物にかかわる記載が充満している。第二次世界大戦のときのインパール戦や南太平洋での日本陸軍を思わせるほど兵站は杜撰である。食糧や水は現地調達。だから隊員はいつも腹が減っている。子猿、野ブタ、鳥 椰子の芽(パルミータ)を狩猟し、荷物運搬用の馬を次々に殺して食べていく。
 さらに会計事務所のあったラパスやキューバ本社や前衛隊と後衛隊との通信手段さえない。ハンディトーキーも他の無線機器も持っていない。ゲバラトランジスターラジオでニュースを聞くだけである。

盗み食いが頻発する
 空腹の前で革命は虚しい蜃気楼となる。

ミルク缶を取りに出向いたところ、不可解にも23缶が蒸発していることを発見した。モロが48缶置いてきたが、誰にも横領する暇はなかった筈だ」
「私は、べニーニョを、缶詰を食したにもかかわらずそれを否認したことで、ウルバノを、チャルキ(干肉)を皆に隠れてこっそり食べたことで、そしてアニセトは食べ物に関係することならなんでも熱心に手伝うのに、それ以外はなにひとつ協力したがらないことで非難した」

 ゲリラの生き残りの1人キューバ人のアラルコン・ラミレス(キューバに幻滅し94年にフランス亡命 2016年没)は「8月になると40度の炎暑の中、6日間水がなかった」と述懐している。食糧も水もなければ当然、士気は堕ちる。それどころかボリビア人戦士でキューバ留学経験者のチャパコは精神が崩壊した。(続く)