『Das ungelöste Welträtsel: Frida von Uslar-Gleichen und Ernst Haeckel [3 Bände]』

Norbert Elsner(Hrsg.)

(2000年刊行,Wallstein Verlag, Göttingen, 1341 pp., ISBN:3-89244-377-7 [set])

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【紹介】

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ヘッケルはダーウィンと同じくらい筆まめで,過去にも妻や親族宛の書簡がすでに出版されています.しかし,今回出版された全3巻に及ぶこの書簡集の意義は,1世紀以上にわたって堅く「封印」されてきたヘッケルの女性関係の全貌を初めて明らかにした点にあります.



相手の Frida von Uslar-Gleichen はゲッティンゲン近郊の Gelliehausen に領地をもつ貴族の長女で,ヘッケルの進化論普及書『自然創造史』に感銘を受けたことが,彼との文通の始まりとなりました(1898年).このとき,フリダは34歳,ヘッケルは64歳.30歳の年齢差を埋めるように頻繁な文通が始まりました.



ちょうどこの頃,ヘッケルは一元論哲学に基づく『宇宙の謎』(Die Weltraethsel)の原稿を準備しており,その校正刷をフリダにチェックしてもらうこともありました.フリダ自身は宗教や精神にかかわることまでも一元論的に説明し去ろうとするヘッケルの姿勢には終始批判的で,『未解決の宇宙の謎』というこの書簡集のタイトルは,そのままフリダの見解でもあるわけです.



未解決(ungelöst)あるいは解決できない(unlösbar)という言葉は,この二人の人間関係の別の側面をも表わします.当時,ヘッケルは2度目の妻であるアグネスと家庭をもっており,子どももいました.一方のフリダは独身で母親や姉妹たちとともに暮らしていました.すでに社会的名声の高かったヘッケルとの交際はスキャンダルともなりかねず,往復書簡のはしばしには「これからどうしようか」というやりとりが見られます.この点に関しては,いささか弱気なヘッケルを,フリダが終始励ますという構図が見られるのは興味深いことです.



もちろん,かなり早い段階で,"Sie" の距離が "du" と呼び合う仲にまでなっていたわけですから,それ相応の覚悟があったものと想像されます.その一方で,精神的に不安定な妻と娘を抱えたヘッケルが「心の妻」(Herzensfrau)と呼び,フリダが応えて「わが夫」(mein Mann)と言い合う関係は確かに unlöbare Liebe ですね.



第1巻には,フリダとヘッケルの伝記,ならびに1898〜1900年までの書簡が収められています.第2巻は,1900〜1903年までの書簡です.フリダとヘッケルとの往復書簡は,19〜20世紀をまたぐ6年間しか続きませんでした.ヘッケルがイタリアに滞在していた1903年の暮れに,フリダは心臓発作のため急逝したからです.第3巻には,フリダの死後ヘッケルが残されたウスラー-グライヒェン家の人々と交わした書簡,およびフリダとの往復書簡の扱いに関わるヘッケルの証書,ヘッケルの死後,その書簡を整理した甥のハインリッヒ・ヘッケルのメモ,本書簡集の編者であるノルベルト・エルスナーによる解説,注釈付き人名索引,書簡の保存場所が含まれています.



ごく短期間に交わされたにしては膨大な量の手紙や絵葉書は,当時の書簡文化のあり方をも示唆しているようです.似たような状況での濃密な人間関係は,たとえばゲーテシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との交際が思い起こされますが,ヘッケルとフリダは,ゲーテの事例を十分に承知していたようです.



同じく大量の書簡を残したダーウィンには,こういうタイプの往復書簡はないですねぇ.ヘッケルとの性格・人格的な違いが如実に現われているということかな.



ヘッケル/フリダの書簡集を読んで印象に残るのは,ヘッケルの画才です.二人の文通期間に,ヘッケルはたびたびお気に入りのイタリアに静養に出かけたり,パリの万国博覧会に出席したり,遠くは(当時の表現で言えば)セイロンから蘭領インド(バタヴィア)そしてスマトラまで足を伸ばしています(1900〜1901).そして,行く先々からフリダ宛に,自筆の水彩画のポストカードを送り続けます.この書簡集のもう一つの見所は,ヘッケル自筆の数多くの水彩画をカラー図版で鑑賞できることです.



ヘッケルの話題作『自然の芸術的形態』を読んだフリダは,「私は,母なる地球が生んだ神秘に満ちた驚異の世界への扉を開き,人智を越えた美と芸術の国を自然の偉大なる演奏者に導かれて進む」(第2巻,p.860)とその読後感をつづっています.わかりやすい文章だけでなく,同時に印象に残る絵画を通して,ヘッケルの影響が社会に浸透していったことをうかがわせます.

ヘッケルとフリダの関係は「封印」されてきたわけですが,ヘッケルの死後(1919年)しばらく経って「発覚」しかけたことがあります.それは,ヘッケル/フリダの書簡が現在までの1世紀の間にたどってきた経緯によるものでした(本書簡集の編者であるエルスナーによる解説:第3巻,pp.1205-1221).



フリダの死後(1904年)に,ウスラー-グライヒェン家を訪れたヘッケルは,フリダとの書簡・日記などを返却してもらいます.その後,甥のハインリッヒ・ヘッケルにフリダとの関係を告白したヘッケルは,自らの死後はヘッケル/フリダ文書のいっさいをハインリッヒに委譲するという証書を残します(1905年).ヘッケルが死んだ後(1919年),ハインリッヒは委譲された文書の整理にとりかかり,抜き書きから成るメモを残しました(第3巻,pp.1121-1202).



しかし,ハインリッヒ自身が2年後に急死し(1921年),文書はその兄弟であるユリウスとゲオルクを経由して,ヘッケルの息子であるワルターの手に渡ります.ワルターは,ライプチッヒの出版社である Koehler にヘッケル/フリダ文書を持ちこみました.Koehler社からは,ヘッケルのいくつかの著作がすでに出ていました.で,この文書の取扱いを引き受けたのが,同社の顧問でもあったヨハネス・ウェルナーでした.ヨハネスは,同文書の編集を通じて,数年後に一冊の本を上梓します:Johannes Werner(編)『Franziska von Altenhausen: Ein Roman aus dem Leben eines berühmten Mannes in Briefen aus 1898/1903』(1927年,Verlag bei Koehler & Amelang)



「フランツィスカ・フォン・アルテンハウゼン」とは,もちろんフリダを指しています.そして,副題にある「ある高名な男」とはヘッケルのことで,文中では「博物学パウル・ケンペル」という名前を付けられています.要するに,ヘッケル/フリダを匿名にすることで,二人の関係をスキャンダラスに売り込んだわけです.ウェルナーは,本書以前にも同様の「匿名告白もの」を同社から出版していました.



もちろん,ヘッケルの親族や教え子らがこの匿名出版に仰天したことはいうまでもありません.しかし,本のたいへん売れ行きがよかったようで(1943年までに14万部を売ったとのこと),私の手元にある第6刷(翌年の1928年)には,ウェルナーによる序文の追加が載っています:「“パウル・ケンペル”が何者であるかはすでに知られてしまっているようだ」.しかし,ドイツ語版では,まだヘッケル/フリダとも匿名のままでした.



しかし,ヘッケルの著作の読者はドイツ語圏だけに限定されていたわけではありません.この本が出た3年後には,早くも英訳が出ました:Johannes Werner(編)『The Love Letters of Ernst Haeckel, Written between 1898 and 1903』(1930年,Harper & Brothers).『ヘッケルのラブレター』という直裁なタイトルを付けられたこの英訳本では,フリダはドイツ語版と同様“フランツィスカ”のままでしたが,“パウル・ケンペル”なる偽名はすべて“エルンスト・ヘッケル”という実名に置き換えられています.



ウェルナーによる「編集」では元文書は文字どおり「切り刻まれ」(zerschnitten)ました.彼による「編集」の過程で損なわれたり失われたりした書簡や日記の頁は数知れず,『フランツィスカ』には載っているのに,現物が失われた書簡がいくつもあるようです.しかも,Koehler 社では元文書を焼却処分したとワルターに伝えていたとのことでした.しかし,実際には,ヘッケル/フリダ文書は同社に長らく保存されており,第2次世界大戦中のソ連軍によるライプチッヒ侵攻をくぐり抜けて,現在はベルリン図書館に保管されています.



ウェルナー編集の『フランツィスカ』の序文の末尾で「本書の愛人たちが感じたように−ゲーテシャルロッテ・フォン・シュタインのごとく,フランチェスカとパオロのごとく」(p.7)と書かれているように,この本は「禁じられた恋愛関係」にもっぱら焦点を当てた編集でした.もちろん,“フランツィスカ”と“パウロ”という偽名の設定そのものが,ダンテの『神曲』の第5曲「第2獄:色慾の罪人リミニのフランチェスカ」に登場する愛人フランチェスカとパオロを連想させます.



今回,新たに編集された3巻本の書簡集は,ウェルナーによる編集の傷痕はぬぐい去れないものの,ヘッケルとフリダの関係の全貌をさまざまな視点から知る上で貴重な資料となるでしょう.

【目次】

Band 1
Einfuerung 7- 13
Biographische Vorbemerkungen
Frida von Uslar-Gleichen 15- 28
Ernst Haeckel 29- 57
Hinweise zur Texteinrichtung 58- 59

Frida von Uslar-Gleichen und Ernst Haeckel
Briefe und Tagebuecher 1898-1900 61- 478



Band 2
Frida von Uslar-Gleichen und Ernst Haeckel
Briefe und Tagebuecher 1900-1903 487- 935



Band 3
Anna von Uslar-Gleichen an Ernst Haeckel 1899-1904 943- 949
Luise von Uslar-Gleichen an Ernst Haeckel 1903-1919 951- 988
Briefwechsel zwischen Bernhard von Uslar-Gleichen und Ernst Haeckel 1903-1919 989-1116
Testamentarische Bestimmungen Ernst Haeckels 1117-1120
Briefe und Notizen Heinrich Haeckels 1121-1202
Anhang
Editorischer Bericht 1205-1221
Kommentierendes Personenregister 1222-1331
Literatur 1332-1335
Danksagung 1336-1338
Aufbewahrungsorte 1339-1340
Bildnachweise 1341

中尾佐助著作集・第I巻『農耕の起源と栽培植物』

(2004年12月25日刊行,北海道大学図書刊行会,isbn:4832928619



【目次】
文化を生んだ栽培植物/ユウマイ文化圏
第I部 農業起原論
第II部 栽培植物と農耕の起源
第III部 栽培植物の世界
第IV部 農耕文化と雑穀・イモ栽培
四大農耕文化の系統/タローイモの起原と文化
第V部 半栽培植物
栽培からの脱出雑草/作物と雑草/半栽培という段階について/
パプア・ニューギニアにおける半裁培植物群について
解説 中尾佐助・農耕起源論の成立過程 堀田満
解題
あとがき
索引

中尾佐助著作集・第III巻『探検博物学』

(2004年12月25日刊行,北海道大学図書刊行会,isbn:4832928511



【目次】
第I部 秘境ブータン/二十三年目のブータン
第II部 農業起源をたずねる旅−ニジェールからナイルへ
第III部 探検紀行−小興安嶺・モンゴルとヒマラヤ
小興安嶺湯旺河紀行/厳冬のモンゴル高原マナスル1953年科学班の旅/
カラコラムの印象
第IV部 私の探検論
冒険とは−死を伴うゲームの感覚 堀江青年と北極犬ソリ隊/
探検と私照葉樹林を認識するまで/雲南周辺の植物探検概史
解説 探検と学術調査−エスノボタニスト中尾佐助の辿った道 佐々木高明
解題
あとがき
索引



参照→中尾佐助著作集北海道大学図書刊行会サイト)