『江戸の旅日記:「徳川啓蒙期」の博物学者たち』

ヘルベルト・プルチョウ

(2005年8月22日刊行,集英社新書0304F,ISBN:4087203042



江戸時代の旅行者・博物学者・民俗学者の小伝をまとめた新書として,なかなかおもしろい.貝原益軒本居宣長が“博物学者”として登場しているので,ちょっとびっくり.序論の部分で朱子学における分類の「政治的意義」について述べられている:




朱子は自らの理論に基づき,博物学的分類と自己修養が大切であることを強調した.つまり,博物の分類を彼は自己修養の手段,ひいては国家秩序をつくり上げていくための一つの手段であると考えていたのだ.…… このように万物を分類することによって,天下すなわち万物を支配できるという思想は,中国では早くから生まれていたのだ.(p. 10)



本草学・博物学における,中国由来の「個物重視」の姿勢の出自が見えてくるような気がする.

第8章の旅芸人・富本繁太夫の紀行文は確かにおもしろい.しかし,それ以上に,紀行文体の変遷 — すなわち「何」を見ているかではなく「どのように」見ているか — が旅行者ごとに少しずつ変異をともなって現れてくるところが興味深い.第9章に登場する渡辺華山は,そのむかし岩波文庫の『華山・長英論集』(1978年8月16日刊行,岩波文庫[青025-1],ISBN:4083302516)を読んで以来,ひとりの“画家”として気になっていた人だ.

著者は,日本における「啓蒙思想」の起源は明治維新に始まるという通説に反対し,本書に挙げられたような江戸時代の旅する博物学者たちの言動をふまえて:




私のようなヨーロッパ人から見ると,明治初期の日本の思想にヨーロッパの啓蒙思想に似ているところが,もちろんところどころにあるにもかかわらず,本書で見てきたような江戸時代の思想のほうが,ヨーロッパ啓蒙主義の諸条件に類似している点が多いように思えるのだ.(p. 228)



と主張する.いまだ“点”の枚挙の段階かもしれないが,納得できる見解だ.

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