【書評】
※Copyright 2000 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved
なぜ「差異」が生まれたのか?
1998年に本書("Guns, Germs and Steel")でコスモス国際賞を受賞したダイアモンド教授は、大阪と東京で開催された受賞記念講演会のタイトルを「過去13,000年間、人類はなぜ異なった大陸で異なった発展をしたのか」と付けました。このタイトルは、このたび訳された本の問題設定をもっとも凝縮したかたちで表現したものです。この問題に対する著者の回答は明快です:「それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物的な差異によるものではない」(上巻: 35)。この主張が、単純な環境決定論のように受け取られることをあらかじめ見越して、著者はこう述べます:
こうした環境上の差異を持ちだすのは“環境決定論”であるとお怒りになる歴史学者もいる。環境決定論という言い方には、人間の創造性を無視するような否定的なニュアンスがあるかもしれない。人間は気候や動植物相によってプログラムされたロボットで、すべて受動的にしか行動できないというニュアンスだ。しかし、それはまったくの見当ちがいである。人間に創造性がなかったら、われわれはいまでも、一〇〇万年前の祖先と同じように石器で肉を切り刻み、生肉を食べているだろう。しかし、発明の才にあふれた人間はいずれの社会にもいる。そして、ある種の生活環境は、他の生活環境にくらべて、原材料により恵まれていたり、発明を活用する条件に恵まれていた。それだけのことである」(下巻: 302)
著者のこの主張は、地理的な「初期条件」の差異が人類の歴史の差異を生みだしたという主張であると私は解釈しました。生物学的決定論や人種差別主義に抗しつつ、しかもナイーブな環境決定論とも一線を画して、人類史を再構築しようというのが、本書の掲げる大きなテーマです。
自然地理的・生物地理的な初期条件の差異に加えて、さまざまな偶然的要因が作用することで人間の歴史が作られてきた−この考えは人類史を生物進化史としてとらえなおすことにほかなりません。実際、本書では、議論を進めるにあたって、多くの歴史科学(historical sciences)−進化生物学・進化生態学・進化心理学・生物地理学・自然地理学・地質学・歴史言語学など−の成果を縦横に駆使します。つまり、テーマはあくまでも「歴史(history)」だが、アプローチは「科学(science)」であるという認識です(上巻: 36)。
進化学の背景知識がある読者ならば、おそらくまったく違和感なく、本書を読み進んでいけると私は思います。むしろ、人類史を進化学の観点から見直した本書は、これまでになく「するりと染み込んでくる本」であるように感じました。「人類史の研究を、進化生物学や地質学や気候学のような歴史科学として確立させる」(上巻: 44)という基本路線を著者が打ち出した以上、本書が全体としてこの方針をどこまで貫けるかという点に関心が向かいます。
いまから「13,000年前」すなわち最後の氷河期の終了時点が人類史のスタートラインと位置づけられます(上巻: 48)。第1部(上巻)では、このスタートラインに立った人類の初期分岐を見渡します。ポリネシアとインカ帝国の例が示されます。続く第2部(上巻)では、スタートラインが同じでも、なぜある地域だけが他よりも「一歩先」を進むことができたかを探ります。キーワードは「食料生産」。スペインがインカ帝国を征服できた至近要因は【銃・病原菌・鉄】であったとしても、それだけでは究極要因を示せたことにはなりません。
著者は、食料生産こそ、人類史の究極要因を解く要であると考え(上巻: 125, 図4-1)、動植物の栽培化と家畜化が世界のどの地域で可能であったかを詳細に論じます。首尾よく食料生産ができた地域は「一歩先」を進むことができ、銃や鉄を作ったり、疾病に対する免疫力を付けることができたのだということです(上巻: 148)。農業・畜産業の史的成立を論じた第2部の記述は具体的かつ詳細です。
栽培化や家畜化の成功例と失敗例を生物地理的に概観した上で、著者は人種ではなく地理が究極要因であると結論します(上巻: 286)。大陸の地理的特性は、家畜化あるいは栽培化が可能な動植物のレパートリーを条件付けました。そして、その一方で大陸の地形的特性−とくに東西南北への広がり−は、農業や技術の伝播のスピードを決定しました。このような環境要因が各地域の「最初の一歩」の踏み出しに影響を与え、そのわずかなちがいが最終的には世界的な「差異」に結びつくというストーリー展開になります(第3部以降)。
後半の第3部(上巻〜下巻)は、究極要因(地理)と至近要因(銃・病原菌・鉄)とを結ぶ因果連鎖に踏み込んでいきます。
第11章は、病原菌とそれに対する免疫についての議論です。家畜を飼い始めた地域では家畜経由の病原菌の感染の可能性が増大します。「自然淘汰の産物」(上巻: 292)である病原菌は、宿主である人間側の抵抗性(免疫)を増大させつつ、自らも広がっていきました。地域によって、病原菌に対する免疫にちがいがあるとき、地域間で接触が起きると免疫力のない地域の人間は劣勢にまわらざるをえません。著者は人類史の中では病原菌による地域間対立の決着の事例が多いと指摘します。
第12章は、食料生産がいかにして「文字」の発明に結びついたのかを論じます。文字の発生は少数だが、伝播によって各地でさまざまな「文字」が作られた事例を挙げていきます。続く第13章は、「技術」の発生と伝播についての章です。開発された技術はいったん受容されたならば「自己触媒作用」−発明は必要の母−により増幅され、地域間の差異を押し広げます。ユーラシア大陸が他の地域よりも技術面で優位に立てたのは、「知的に恵まれていたからではなく、地理的に恵まれていたからである」(下巻: 83)と著者は持論を反復します。
最後の第4部では、ここまでで考察された至近要因・究極要因が、実際にどれくらい適用できるかを検討します。対象地域は、オーストラリアとニューギニア(15章)・中国(16章)・オーストロネシア(17章)・アメリカ大陸(18章)・アフリカ(19章)。
私が本書を読んでいてもっとも感銘を受けたのは、比較的短い「エピローグ:科学としての人類史」でした。ここでは、本書全体を要約するだけでなく、今後解かれるべき問題と並んで、人類史の進化生物学的な再構築に向けての行動指針が示されています。なぜ「差異」が生じたのかというそもそもの疑問に対する、著者の解答は「大陸ごとに環境が異なっていたから」(下巻: 297)ですが、その具体的内容は、下記の4点です:
1)「栽培化や家畜化の候補となりうる動植物種の分布状況が大陸によって異なっていた」(下巻: 298);
2)「伝播や拡散の速度を大陸ごとに大きく異ならしめた要因」(下巻: 300);
3)「異なる大陸間での伝播に影響を与えた」(下巻: 300);
4)「それぞれの大陸の大きさや総人口のちがい」(下巻: 301)。
こういった、地理的な「初期条件」のちがいが「差異」を生んだと著者は本書全体を要約します。
残された問題は何か?:
「われわれにとっての挑戦は、人類史を歴史科学として研究することにある。過去にあった事物を科学的に研究する天文学や地質学や進化生物学のように、人類史を研究することにある」(下巻: 303)
この行動指針に沿って、著者はより定量的な分析を踏まえて地理的・時間的に fine-grained な研究が今後必要になると著者は言います(下巻: 303-304)。さらに、人類史の全体的パターンを見るときには、「文化の特異性」とか「個々の人間の影響」という要因−著者はこれらは歴史の予測不能性をもたらす【ワイルドカード】とみなしています−が大きな効果をもちます(下巻: 316-317)。これらの「環境とは無関係」(下巻: 318)な要因が、「どのくらいの影響を与えうるかという疑問に対する答えはまだ出ていない」(下巻: 321)。
私が思うに、著者は「地理的要因」が人類史の総体的パターンを生みだした【共通要因】(common cause)であるのに対し、個々の文化や個人の効果は【個別要因】(separate cause)であるとみなしているようです。この解釈は人類史が歴史科学にしなければならないという著者の基本姿勢に照らせば、ごく当然の帰結でしょう。
エピローグの最後の節「科学としての人類史」では、歴史科学(本書では「歴史」history と「歴史科学」historical sciences とはきちんと分けられている)についての著者の考えが述べられています。
歴史学者で、みずからを科学者ととらえ、自然科学や科学的手法を身につけた人はほとんどいない」(下巻: 321)。
「歴史とはこまごまとした事実の集積にすぎないという考え方」(下巻: 321)に抗して、著者は「歴史から一般則を導き出す」(下巻: 321)ことの可能性を論じます。まずはじめに、「広い意味での歴史科学に属する学問は、物理学、化学、分子生物学などの自然科学と一線を画す特徴を多く共有している」(下巻: 322)という点を指摘します。共有される特徴とは下記の4点です:
1)「実験を通じてではなく、観察や比較を通じてデータを収集しなければならない」(下巻: 322);
2)「直接的な要因と究極の要因のあいだにある因果関係を研究対象とする」(下巻: 322);
3)「結果からさかのぼる説明は可能であっても、先験的な説明は難しい」(下巻: 323);
4)「歴史は、究極的には決定論的であるが、その複雑性と予測不能性は因果の連鎖があまりにも長すぎることで説明できるかもしれない」(下巻: 325)
要するに、歴史科学の中での因果関係の推論は、確かに「困難」(下巻: 325)ではあるのだが、それは他の歴史科学における困難さと大きく異なるものではないと著者は言います。その困難さの理由は、歴史科学の対象が「個々[のシステム]がユニーク(唯一無二)であるため、普遍的な法則を導くことができない」(下巻: 326)からです。
著者は、歴史科学がもつこのような特徴を踏まえた人類史の研究を以下に進めるべきかについて「研究手法として有効なのは、データを比較検討する方法であり、大自然の実験から学ぶ方法である」(下巻: 326)とまとめます。過去の歴史事象に関する因果学(「古因学」palaetiology)を人類史の研究に全面的に導入した点で、本書は画期的であると私は考えます。
訳文も質が高く、分量が膨大であったにもかかわらず、ごく短期間で通読できました。ただし、原著にはある図版(32葉)と参考文献(約30ページ)が訳書ではすべて省かれており、この点で資料的価値を下げています。また、私が見るところ、索引が原著に比べて簡略化されているようです。しかし、全体としてみたとき、今回の翻訳は高く評価されます。今年度の自然科学書(歴史書としてだけでなく!)のランキングの上位に入ることはまちがいないでしょうね。
長くなりましたが、私の感想は以上の通りです。
三中信宏(10/December/2000)