「蒐書は流転する」

ひとりの研究者が蒐集した書籍・雑誌・論文は,退職引退したりあるいは逝去したあとは,潔く古書業界に流してしまうのが最善の選択肢ではないかと思う.在籍した大学や研究機関が個人蔵書を引き取って “未来永劫にわたって” 保管し続けてくれる可能性は現在ではほとんどゼロだから.三年あまり前,「研究上のライブラリーはいかにして生き延びられるか?」(2011年6月19日)という記事を書いたが,当時に比べて状況がよくなったという証拠はどこにもない.

研究者の蔵書は各人ごとにパーソナライズされている.だから,その研究分野が組織的に安定していて後継者にとっても利用価値があるシアワセな場合を除いては,個人蔵書を後に残しても邪魔者扱いされて死蔵の憂き目に遭ったり,廃棄処分(除籍本)される可能性も高い.研究者が残した論文別刷りはいまとなっては廃棄するしかしかたない.問題はパーソナライズされた著書や資料.古書業界で売れるだけの市場価値はないけれども,資料価値はあるかもしれない(その逆の場合もある).

公費購入本の場合はどうしようもないので,死蔵なり廃棄される運命を甘受するしかない.私費購入本については売り払うのがいい結果をもたらすのではないか.ワタクシ自身,図書館や大学からの除籍本を古書店で買い求めた経験は少なくない.自分の蔵書が会ったこともないどこかの読者の手にわたるというのはそんなに不幸なことではない.個人蔵書は「からだの一部」みたいなものなので,本人が “いなくなって” しまえば,ムリして保全したりしないで,あとは散逸にまかせるのがベストかも.後の研究者はまた一から個人蔵書を一生かけてつくればいい.

書籍や資料の電子化によって保存や閲覧が容易になれば,その公共的意義はまちがいなくある.その一方で,電子化され得ない周辺情報を得るにはブツに実際アクセスできるかが決めて.日本に一冊もない本を手にするときそれを実感する.