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21-09-2015 ヘッケルと進化の夢(書評)

[]『ヘッケルと進化の夢:一元論、エコロジー、系統樹

佐藤恵子

(2015年9月20日刊行,工作舎,東京, 418 pp., 本体価格3,200円, ISBN:9784875024668目次版元ページ

【書評】※Copyright 2015 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


ヘッケル山脈の裾野ははてしなく


かつて岩波文庫に『生命の不可思議』(後藤格次訳,1928年刊行,全2冊)が入るくらいには知名度があったエルンスト・ヘッケルだが,現在では図版集『生物の驚異的な形』(小畠郁生監修|戸田裕之訳,2009年4月30日刊行,河出書房新社,141 pp., 本体価格2,800円,ISBN:9784309252247紹介目次版元ページ新装版])を除けば,ヘッケルの日本語訳著作はほとんど入手できなくなってしまった.


しかし,地球上の生物多様性とその系統的体系をその卓越した画才を発揮して存分に描ききったヘッケルの功績は色あせてはいない.ヘッケルは生物の系統関係に基づく壮大な体系を系統樹という樹形ダイアグラムを通して可視化した.現代の最先端の生物進化学において用いられている系統樹は,その推定手法こそ一世紀半前のヘッケルの時代とは様変わりしているとはいえ,生物多様性を説得力のあるダイアグラムを用いて視覚化するという点でヘッケルの直接の影響を受け続けている.彼と同時代のチャールズ・ダーウィンが絵がとても下手だったことを考えあわせるならば,系統樹というインフォグラフィック・ツールの手法を芸術的に磨き上げたヘッケルは時代を超えてその意義を積極的に評価しなければならないだろう.ワタクシたち系統学者はヘッケル師に足を向けては寝られないはずである.


19世紀なかばから20世紀はじめにかけての長い人生でヘッケルが残した膨大なドイツ語著作は,生物学だけでなく哲学・思想・芸術の分野にも及ぶはてしない裾野の広さゆえ,今となっては登攀すら困難な “山脈” を築き上げているように見える.ワタクシの手元にも古書店を探し歩いては少しずつ蒐めたヘッケルの分厚い本が何冊もあるが,彼の執筆活動の全体を見渡したとはとうてい言えない.


このたび出版された『ヘッケルと進化の夢:一元論、エコロジー、系統樹』の目次構成を見ると,第一部は生物学的な内容に重きが置かれているが,第二部ではむしろ生物学の「外」でのヘッケルの影響を様相に光が当てられている.前半の第一部「生涯と一元論の構想」(pp. 21-143)では,ヘッケルの主著である『有機体の一般形態学』(1866年)を中心に据えて,彼の生涯とその生物学的業績を広く見渡すとともに,その背後を流れる一元論を当時の思想的状況をふまえて明らかにしようとする.そして,後半の第二部「一元論をもたらしたもの:文化・社会への影響」(pp. 149-385)では,ヘッケルの一元論が当時のドイツにおいてどのような支持と反論を引き起こしたのかについて,ヘッケルが関わったさまざまな論争や活動の事例を通して解明する.


まずは第1部「生涯と一元論の構想」から始めよう.第1章「ヘッケルの生涯と一九世紀ドイツ:進化論との遭遇および一元論への開眼」(pp. 22-65)はヘッケルの短い評伝である.のちに展開されることになる一元論の思想をヘッケルがいつどこで身に付けたかに主眼が置かれている.「一元論(Monismus)」は本書全体を貫くキーワードなので,著者が引用するヘッケルの言葉をここで掲げておこう:


「この時から私は本物の一元論者となり,信仰のあらゆる虚構の縛りから解かれて,情け容赦のない決然とした態度で,統一的な[一元論的な]世界観を主張することになった.これは,世界の進化過程のあらゆる場所に,作用する原因(causae efficientes)だけを認め,いかなる合目的な原因(causae finales)」も認めないものであり,すべての事物の中に自然の進化という唯一の機会的な原動力を見出す世界観なのだ」(pp. 53-54)


第2章「一元論と『有機体の一般形態学』」(pp. 66-100)はヘッケルの主著(1866)の分析である.この本:Ernst Haeckel『Generelle Morphologie der Organismen (2 Bände)』(1866年刊行,Georg Reimar, Berlin)は現在ではインターネット上に丸ごと電子化公開されている(→ Internet Archive).続く第3章「[資料篇]『有機体の一般形態学』の章立てと概要」(pp. 101-143)は,この章にかぎり上下二段組にして,『有機体の一般形態学』全2巻の内容を章ごとに簡潔にまとめている.半世紀前に出た出版百周年記念論文集:Gerhard Heberer (Hrsg.)『Der gerechtfertigte Haeckel : Einblicke in seine Schriften aus Anlaß des Erscheinens seines Hauptwerkes « Generelle Morphologie der Organismen » von 100 Jahren』(1968年刊行,Gustav Fischer Verlag, Stuttgart, x+588 pp. → 目次)にも『有機体の一般形態学』からの抜粋が掲載されていたが,この第3章では網羅的に全章の要約が付けられている.他書では見たことがない内容で,資料的価値の高い章といえる.


後半の第2部「一元論をもたらしたもの:文化・社会への影響」はヘッケルをとりまく当時の状況についていろいろな方向から光を当てて考察している.最初の第1章「魅惑的な生物発生原則」(pp. 150-179)は『有機体の一般形態学』で提示された仮説「生物発生原則」を論じる.ヘッケルの名を一躍有名にし,のちに彼の足を引っ張ることになる「生物発生原則」について,著者は次のように述べる:


過去の生物を直接に調査することはできない.それを語るには,わずかな,しかも不完全な形状で出土する化石以外には依拠するものがなかったが,これに頼っていれば途方もなく長い時間がかかり,目標達成の道はかなり険しい.そこで強力に補うツールとしてヘッケルが用いたのが「生物発生原則」なのである.彼の一元論的な自然観によれば,ある生物個体の胚発生は,その生物種の辿った系統発生(進化の道筋)を反復するものとなる.これが正しければ,観察のできる個体発生のプロセスから祖先形態を推察して,進化の仮説をつくることができる.もしその祖先生物の存在が現実に証明されれば,つまり,化石や,あるいは世界のどこかで生息しているのが発見されれば,その仮説も,そしてまた生物発生原則も正しいものとなり,真実に近づくという方法論である.(p. 152)


ヘッケルの「生物発生原則」が後世に残した正負の知的遺産について,著者は現代の進化発生生物学にいたる影響ともからめて考察している.19世紀当時のドイツ形態学の変遷については,本書でも繰り返し引用されている:スティーヴン・J・グールド[仁木帝都・渡辺政隆訳]『個体発生と系統発生:進化の観念史と発生学の最前線』(1987年12月10日刊行,工作舎,東京, 649 pp.)の他に:


  • Lynn K. Nyhart『Biology Takes Form: Animal Morphology and the German Universities, 1800-1900』(1995年10月刊行,The University of Chicago Press[Series: Science and Its Conceptual Foundations], Chicago, xiv+414pp., ISBN:0226610861 [hbk] / ISBN:0226610888 [pbk] → 目次版元ページ


がたいへん参考になる.


本章では,なぜヘッケルがここまで強い影響力を持ちえたのかという点にも触れられている.ある一節「当時のヘッケル・イメージ —— 熱狂と憎悪」(pp. 176-179)の中で,著者は遺伝学者リチャード・ゴールドシュミット(リヒアルト・ゴルトシュミット)が回想録の中で生前のヘッケルの人となりについて書き残していると記している(p. 176).その回想録とは:Richard B. Goldschmidt『Portraits From Memory: Recollections of a Zoologist』(1956年刊行,University of Washington Press, Seattle)である.彼の自伝:Richard B. Goldschmidt『 In and Out of the Ivory Tower : The Autobiography of Richard B. Goldschmidt』(1960年刊行,University of Washington Press, Seattle)とは別に回想録が書かれていたことをワタクシは初めて知った.ゴールドシュミットの回想には次のようなことが書かれているそうな:


何度か噛みしめるように,現在の世代(一九五〇年代の人々のこと)には,ヘッケルが当時果たした役割の大きさ,その影響力の大きさを推し量ることはおよそ難しいだろうと述べられている.ヘッケルの書いた書物(特に『自然創造史』と『人類発達史』)は,多くの若者の心,一般の素人の心,また学者たちの心をも捉え,老いも若きも,ドイツ国内も国外も合わせれば,何十万という人々に影響を与えたという.(p. 176)


第2章「ミッシングリンクの夢──ガストレア、モネラ、ピテカントロプス」(pp. 180-224)は,生物発生原則をよりどころとしてヘッケルが想像した仮想生物たちのエピソードである.とりわけ,始原生物モネラをめぐる「バチビウス・ヘッケリ論争」(pp. 186-189)が興味深い.また,ヘッケルが提唱した人類進化をめぐる「ピテカントロプス仮説」(pp. 213-224)のなかで,想像上の「レムリア大陸」が人類発祥地として当時はリアルに受け取られていたと書かれている.


続く第3章「科学の自由について」(pp. 225-244),第4章「ドイツ一元論者同盟と教会離脱運動」(pp. 245-264),そして第5章「ヘッケルの人種主義と優生思想」(pp. 265-290)は,ヘッケルの思想的立場と政治的信念さらには社会活動について考察している.とくに,ヘッケルの政治的信条がのちのナチス・ドイツにどのように継承されていくのかは議論が多々あって錯綜しているようだ.ヘッケル自身もナチス時代には “典型的アーリア人” として家系分析された上で政治的に利用されたのだ(→ Heinz Brücher『Ernst Haeckels Bluts= und Geistes=Erbe : Eine Kulturbiologische Monographie』1936年刊行,J. F. Lehmann, München → 目次).


第6章「エコロジーの誕生」(pp. 291-312)ではふたたび生物学に戻る.現在にも継承されている「生態学(Oekologie)」ということばを「分布学(Chorologie)」の対語として造語したヘッケルだが,いわゆる生態学的研究を自ら手がけたわけではないらしい.生物学史的エピソードとしては,次の第7章「プランクトン論争」(pp. 313-333)はとてもおもしろい.19世紀末,ヘッケルは海洋プランクトン調査を主導したヴィクトール・ヘンゼンと大論争を繰り広げた.進化的なスタンスでプランクトン生態学を進めるべきだとするヘッケルに反発したヘンゼンは,のちに統計分析に基づく定量的な海洋生態学研究法の基礎を築くことになる.


第8章「自然の芸術形態」(pp. 334-357)では,アートやグラフィック・デザインの世界にもかぎりない影響力を及ぼしたヘッケルの著作『Kunstformen der Natur』(1899-1904年,Bibliographisches Institut, Leipzig und Wien → 『新装版・生物の驚異的な形』2014年8月27日刊行,河出書房新社 → 版元ページ)に目を向ける.著者はこれまで何度も復刻されてきたこの図版集を可能にした一因として,顕微鏡の性能向上とカラー印刷技術の進歩があったと指摘する(pp. 348 ff.).


最後の第9章「結晶の魂──結晶、ゼーレ、実体則」(pp. 358-385)はとても興味深い内容だった.長命なヘッケルの遺著『結晶の魂(Kristallseelen)』(1917年)では,オットー・レーマンの液晶理論とリヒャルト・ゼーモンのムネーメ(記憶子)論が,ヘッケルの一元論的哲学と共鳴したという.つまり,無機物から有機体への生命誕生の根源を透視することができたと老ヘッケルは感じ取ったようだ.


生前から毀誉褒貶が際立っていたヘッケルをめぐっては,今世紀に入って本格的伝記が相次いで出版された:



この2冊の伝記はいずれも600ページもある大冊で,ヘッケルのたどった足跡を真正面から科学史的に論じることがいかにたいへんな力仕事であるかを物語っている.


19世紀から21世紀の長きにわたってそびえ立つ “ヘッケル山脈” を見上げるとき,まったく予期していなかった本書のような本格的評伝が日本語で出版されたことはとてもありがたい.巻末には文献リストと索引が完備されている(ワタクシ側から言えば「蒐書はまだ当分終わりそうにないな」という感を強くした).19世紀ドイツ進化形態学の錯綜した様相を理解するためにも,当時の自然科学や人文・社会科学周辺との密接なかかわりについて知る上にも,さらには科学と一般社会との関係を考察する際にもまちがいなく必読書だろう.掛け値なく読書の秋にふさわしい一冊である.


三中信宏(2015年9月21日)

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