ミシェル・フーコー「性の歴史II 快楽の活用」

性の歴史三部作の第二作目。
「性の歴史I 知への意志」では権力の話に主眼が置かれていたが、今回は古代ギリシャ・ローマにおける恋愛・性愛がテーマ。まさに性の歴史と呼ぶにふさわしい内容となっている。

これまでのフーコーのお仕事である「知の考古学」に対して、このシリーズは「性の考古学」に相当する。そのためか幾度も引用されるのがプラトンの「饗宴」と「パイドロス」。特に「饗宴」はあらかじめ読んでおいたほうがいい。少なくともギリシャ時代の性愛の基礎知識(パイデラスチアとか)は押さえておこう。

さて、まず「快楽の活用」という言葉。これは、欲望のままに従っては理性的じゃないしよりよい快楽は得られないよ、倫理に悖るよ、だからガマン重要だよ、ガマンしたほうが人知的な極みである愛に近づけるよ、そういう風にうまく快楽をコントロールして、よりよく生きようねという話だ。
倫理が論理的に語られるあたりが、いかにもギリシャって感じだ。一言でいえばガマン汁を出せ、ということだろうか。

このように、ギリシャにおいて欲望をコントロールする術がいかに大事であったかが、第一章で語られる。また軽々しく出しちゃったりすると、精力が減退しちゃうことから、精力をいかにして保つかが性愛の問題に深く関わってくることになる。そこに来て第二章「養生術」につながってくるのだから巧い。

ひととおり性愛について語られ終わると、次の第三章にて家庭や結婚の問題が語られる。
女が夫に対して貞節を尽くすのは他の女に対して妻の優位性を見せつけるためであるのに対して、男が貞節を尽くすのは家庭を経営し崩壊しないようにするためであるというのが、古代ギリシャにおける一夫一婦制の価値観であったようである。もしかすると、これは今でも変わっていないのかも知れない。

ここまできて翻って問題になってくるのは、肉体的快楽もわかった、家庭の在り方もわかった、じゃあそれ以前に恋愛ってなんなのさ?ということだ。これが第四章、第五章につながってくる。恋愛という概念が、これまでの章で語られてきたことと、どのように繋がってくるのかをビシビシと指摘してゆくさまは爽快である。
ここでひとつ大事な指摘がある。ひとつの原則として性的関係と社会的関係に相関関係があるよ、ということだ。性的交渉においては、男性が能動的な性であるのに対し、女性は受動的な性である、それが社会的優劣にまで影響しているというわけだ。そこにおいて同性愛がひとつの重要な意味を持って来るというのである。

第五章は「真の愛」と題され、ここで特に分析されるのは少年愛、若者愛、つまり古代ギリシャにおける男性同性愛である。古代ギリシャにおいては男性同性愛は禁止されていたどころか、むしろ推奨されていた。
つまり肉体的性愛ではなく、精神的な天上世界における恋愛をここにおいて目指そうとしていたというのであり、これこそが真の愛というわけだ。
このテーマをクライマックスにもってくるあたり、やっぱりフーコーだ。

章立てが流れるように繋がっているので、フーコーの著作のなかでも飛び抜けてわかりやすい。逆に言うと、後書きにも書かれているように、フーコー味が薄いと言えるのかもしれないが。

前作の「知への意志」で挫折しそうになった人でも、とりあえずこっちは読みやすいので安心。

かの有名な球体アンドロギュヌスの話がでてくるの巻