『冷戦文化論』トークセッション、無事終了

 無事、終了しました。いらっしゃった方々、誠にありがとうございます。
 いまどき「冷戦」がテーマの対談など、どれだけお客さんが入るのだろう、と心配していました。とはいえ、それなりの人数に達し、安心した次第です。
 丸川哲史さん、米谷匡史さん、ほんとうにありがとうございました。私は、熱くアジアを語るおふたりが大好きです(恋愛感情は抜きにして……)。共有できるものも、たくさんあります。「来年あたり、年2回くらい発行する書籍扱いの雑誌をやりましょうか……」などと私が戯れ言をいうと、ふたりとも協力を誓ってくれました。ありがたや、ありがたや。

 出版社は、もっともっと著者の「顔」と「声」とが、読者に見えるようなイベントを手がけたほうがいいと思っています。読者も著者の「顔」や「声」を見たがっています。
 さらにいえば、書店でイベントをやるのがいいと思います。なぜかといえば、書店人の方々も読者と同様に、著者との接点を求めているからです。当たり前でしょう。日々、顔の見えない著者の本を棚にならべるよりも、イベントという共同作業を著者とおこなえば、その著者の本を売るモチベーションが高まります。さらに、対談ができるような場所のある書店は、比較的アクセスのよい場所にあります。
 出版社は書店でのイベントをとおして、著者と読者をつなぎ、著者と書店をつなぐことができます。サンボマスターの山口さんが、対談やらライブやらで、しばしば人と人とがつながることのたいせつさを語ります。まさに、ごもっとも。つながれば、何かが起こるかもしれません。何かが始まるかもしれません。
 私には、出版社がそのような「つなぎ」の役割を引き受けているようには、あまり思えません。「本だけだしてりゃ、いいんだよ」というのは、ちょっと違うでしょう。出版社があまりイベントをやらないのは、もしかしたら「本を出すこと」と「対談」とは違う次元のことであると考えている人が多いからかもしれません。前者が高尚で、後者は低俗だ、と決めつけている人が、出版人のなかにはいるようです。だから、対談本は「軽い」とか「売れない」というように、決めつけている人もいるようです。
 人が何かを決めつけてしまうと、なかなかその決めつけから解放されません。私としては、あえてイベントで対談をやり、それを本にするというスタイルを継続して、そういうことにも意味や価値があるということを実践することにより、そういう人たちの決めつけを解放できればと思っています。出版企画の本質は、ネタもとが「対談」なのかどうか、などという部分とは違うところにあるのですから。
 人文系の出版社さん、もっともっとイベントをやって、立場の違う著者に言葉のプロレスをやってもらい、さまざまな議論を盛り上げようではありませんか。そうすればもっと、人文書は売れるようになりますよ!

会社の話 13

 たとえば、新規に出版社を起こし、取次に口座開設のお願いにいく。まず、取り合ってもらえない。この雰囲気を言葉にすれば、「どうせ売れる企画なんてないんだろう」とか「既存の出版社がヤマほどあるんだから、新規参入なんて無理だよ」ということになろうか。取次の方には申し訳ないが、ほんとうにそういう雰囲気なのです……。
 だから、何度もかよう。かよっていると、すこしずつ話だけは聞いてくれるようになる。それで「まあいいか、口座を開いてあげようか」ということになるわけだが、ここから先が利権問題と絡んでくる。「正味」の問題である。
 以下、「私が知る範囲」での話なので、正確な数字は知っている方や専門の方にご助言いただきたい、という前提で話をすすめたい。「そんなあいまいな数字で、偉そうに書くな」と思う人がいるかもしれない。だが、あいまいな数字であっても、構造的な問題点は提示できると思うし、その問題点を改善しないかぎり、出版に未来はないような気もするので、あえて記す。
 新規の出版社が取次に口座を開いてもらう場合、よくて本体価格の65%、たいていは同62%または60%が、出版社から取次への卸し正味となるのではないか。老舗出版社のなかには正味75%とか72%というように、正味が70%以上のところがたくさんある。もちろん老舗出版社の「古くからやっている」という「経験」や「実績」は、評価しなければなるまい。老舗でいまも残っている出版社の多くは、ただ正味が高いとか条件がいいという理由だけでなく、内容のある本や売れる本を出しつづけてきたからこそ、現在まで生きのびているのだから。この点については、おおいに敬意を表すべきである。
 だがしかし……。老舗といっても、看板だけ出していて、まともな本を出していない出版社もかなり多い。そういう出版社は、高い正味を「利権」として保持しつつ、自分らは本をつくることをやめて、「発売元」として高い正味という「利権」を別の出版社に享受させつつ、みずからもその「アガリ」で利益を得ているという実態がある。また、たいした内容の本でなくても、売れる本でなくても、たまに本を出せば、取次は高正味でその本を取り扱う。
 私は、K社の代表になり、出版流通がすこしずつ理解できてきたときに、以上の点に出版流通の最大の疑問を感じた。なぜ、本を出していないのに、古くからやっているということで、高正味が維持される出版社があるのか。なぜ、売れるような本を出していないのに、高正味なのか。なぜ、内容の薄い本ばかり出しているのに、高正味なのか。他の出版社の諸先輩に話を聞くうち、その理由が「古くからやっていると高い正味を維持できる」という「利権」であることがわかってきた。
 私は、この「利権」について、弱小出版社のヒガミとかヤッカミにより、この文章を書いているわけではない。正直いうと、「うらやましいなあ」とは思う。とはいえ、時間は不可逆なのだから、いくらそう思っても自分らは「老舗」にはなれない。つまり、うらやんでも意味がない。この正味の問題は、出版流通の構造の問題であり、知れば知るほど矛盾していると思うから書いているのである。
 単純に考えてみてほしい。しっかりとした内容で、かつ売れる本を出している新興のFという出版社があったとする。新興であるから、この出版社の取次への卸し正味は62%程度だと仮定する。一方で、ほとんど本を出していないものの、他社の発売元としてつぶれない程度の利益を得ているS社の正味は72%だとしよう。F社とS社の正味の差異は10%。本体2000円の本が5000冊ほど売れた場合、同じ価格の本を売ったとしても、S社はF社よりも100万円ほど多く利益を得る。あえていおう。その100万円が必要なのは、古いが「やる気」のないS社ではなく、新興だが「やる気」のあるS社なのではないか。
 新興のF社が、高正味を得たからといって、よい内容の売れる本を継続的に出せる保証はない。しかし、出せるかもしれない、という程度の可能性はあると思う。つまり、世に良書が産み落とされる可能性を、F社は持っているのだといえよう。一方、よい内容の売れる本を出す意志のないS社が高正味を維持しても、世に良書が産み落とされる可能性は、ひじょうにすくない。
 今後、この日記に書いていくことになるとは思うが、出版社を新規でおこすことと、それを維持することは、技術的にも能力的にも、とりわけ金銭的にも、ひじょうにリスクの多いことであり、苦難の多いことでもある。ひとりでやろうが、数人でやろうが、そのリスキーな状況にはたいした差がなかろう。このリスクを引き受けてでも、出版社をおこそうと考える人には、それなりの意志や「やる気」がある。数千万円の準備資金がある、というような恵まれた環境で開業する人もいるのだろうが、それは少数なのではないか。
 ようするに、リスクを引き受け、それなりの「やる気」をもつ新興出版社に対して、取次は「正味」という「利権」で、さらなるリスクを新興出版社に与えようとしているように、私には見える。だからといって、取次が新興出版社に、口座開設時に高正味を提示しろなどとは、まったくいっていない。半年から1年に1度、刊行した本の売れ行きや内容に応じて正味を見直すなど、取次は柔軟な対応をしたほうがよいと思う。逆に、発売元としてしか機能していなかったり、どう考えても内容がなく、売れない本ばかり出している老舗出版社の正味も、しっかりと見直すべきだ。
 取次が、こうした柔軟な対応をとれば、世に良書が生み出される機会は、確実にいまより増えることになろう。そのことが最終的には、読者にとってメリットとして還元されるわけだ。出版社も取次も、読者あっての出版活動なのだから、原点に返ればそういう発想にならざるをえないと思うのだが……。ひたすら奇妙な状況がつづいている、というのが出版流通の実情であるように、私には思えてならない。
 しつこいようだが、次回も出版社と取次の関係をとりあげてみよう。