『バックラッシュ!』非難のこと、そして「弱者」のこと


武田さんや赤木(智弘さん。reds_akakiさんではありません。)さん、宮田さん、栗山さん、そしてmacskaさんらによる『バックラッシュ!』議論が盛んになってきました。我が社の姿勢にかかわる記述もあるようなので、ここらで私からもひとこと述べておくことにします。


●なぜ『バックラッシュ!』を出したのか

まず、私は出版社をやっていますが、出している本はあくまでも、著者の文章をつうじて私自身が世間に言いたいことを表出する、という程度のものだと考えています。ですから、本の企画を考えるときにたいせつなことは、著者が何かをいっていて、そのいっていることが私の言いたいこととどれだけリンクするかどうか、という点です。著者は著者で、みずからの考え方を本という媒体をとおして一定の読者に伝えたいという思いがあり、その本を出す窓口を双風舎にしていただいたということになります。そういうかたちで、弊社と著者の利害は一致しています。


バックラッシュ!』の場合は、「男女平等バカ」というトンデモムックが刊行されたのを機に、なぜあのようなトンデモ言説が一定の層に支持されているのか、ということを私自身が知りたかった、というのが第一の刊行理由。いろいろ知るにつれ、バックラッシュのあほらしさ(右も左も)を指摘したうえで、バックラッシュでも反バックラッシュでもない道をなんとなく示せたらいいな、と思ったのが第二の理由です。


こうしたふたつの理由で企画を立ちあげましたが、作業を進めるうちにそのふたつよりも重要な問題点に気づきました。それは、自民党安倍晋三氏を中心とするグループによる、政治的な力を使った反ジェンダーフリー活動です。そういった一連の活動や言説に対して、「パックラッシュ批判」が「バックラッシュへのバックラッシュ」にならないように注意しつつ、アンチテーゼを投げかけること。さらに、バックラッシュと反バックラッシュの二項対立になるのではなく、第三の道を考えるヒントになるようなものをつくりたい。そのような思いが、私にとっては『バックラッシュ!』刊行の最大の理由となっていきました。


安倍グループによる反ジェンダーフリー活動が天上の出来事かといえば、けっしてそうではありません。とりわけ小・中・高校の現場に関わる人たちが、いかに「ジェンダー・フリー」という概念にかき回されつづけたのかは、『バックラッシュ!』をお読みいただければわかると思います。また、「ジェンダーフリー」という概念をあまり吟味せずに使ってきた女性学の研究者に対しては、聞き入れてもらわざるを得ないような問題提起もしています。くわえて、最大のターゲットである安倍グループとその周辺の政治家や学者に対して、同書はそれなりにバックラッシュ再発の「抑止力」になるのではないかとも思います。「ジェンダーフリー」に関しては……。


つまり、同書で展開される議論の当事者は存在するし、当事者が読んで理解できる程度の記述内容にはなっているし、上記で記したような当事者の方がたには読んでいただけるであろう、と想定して本を出しました。くわえて、同書が「机上の空論」といわれたり、「アタマのいい方」によって書かれた論理的だが倫理的ではないものと理解される(by 武田さん)ことに対しては、何の抵抗も感じません(世に出たテクストへの理解は、人それぞれ。書いた人の思いも、書いたあとに変わるかもしれません)。ですが、「机上の空論」や論理的だが倫理的でない本を読んでくれている当事者や読者は、確実に存在します。


●本が内輪でそこそこ売れることが、罪深いことなのか?

バックラッシュ!』により、上記で示した企画の意図は、だいたい達成できたと思っています。で、この本が多くの読者に理解されればそれに越したことはありませんが、正直に申し上げて、読者に理解されるかどうかということに、私はあまりこだわりはありません。それは、冒頭で述べたように、私が言いたいことを著者にいってもらうということが書籍というかたちで達成されれば、私はそれなりに自己満足できるからです。私と筆者の手を離れた本がどう理解されるか、またどの程度理解されるかは、読者に任せるしか術がありません。


「どれくらい売れるのだろう」と考えるのは、1年に何冊の本を出して、合計何部くらい売って、来年の食いぶちをえられるのだろう、と思案するときだけです。そこから逆算して、食うためには何点で何部売ればいいのか、と思いながら企画を考えています。読者がどこまで理解してくれるのかという点については、この企画の段階で読者を想定するときに、あくまでもおおまかに気を配ります。しかし、基本的に私は、著者には書きたいことを書きたいだけ書いてもらう方針(だから本が厚くなるのです)で本づくりをしているので、読者の理解度の問題については、ときに企画段階に想定した度合いと、できたものの度合いがズレることもあります。


こんな感じですから、宮田さんにご心配いただいたような、『バックラッシュ!』を出したことによって双風舎のイメージがさがる(あがる)かどうかということには、私はあまり関心がありません。双風舎の出す本のトータルが私の時々の思考の表出であり、著者との協同作業の結果であり、その思考は絶えず流動的であり、何がいいのか悪いのかという私の価値観も著者の思考も、時とともに変化していくでしょう。前述しましたが、そうやって出したものを読者がどう読み取るのかは、読者にお任せするしかありません。ましてや、以下で述べるとおり、読者を「救おう」なんて傲慢な気持ちで本を出したことなど、一度もありません。


ところで、宮田さんにご指摘いただいた『バックラッシュ!』に関する読者共同体の問題点は、あたっていると思います。しかし、この本の想定読者は、上記でも触れましたが、一定の知的レベルにあるバックラッシャーや女性学研究者、政治家やその周辺の職員、官公庁の職員、小・中・高校の教員、宮台さんや上野さん、斎藤さん、小谷さんらの固定読者などです。これで5000部から7000部くらいは売れるであろう、と見込んでつくりました。もちろん、この部数で来年の半分くらいは食えるかな、と思いつつ。


宮田さんにご指摘いただいた読者層を取り込むためには、内容的にはもっとわかりやすいものである必要があるし、分量的にはもっと短いものである必要が生じるでしょう。とはいえ、そういう本は大手が出せば物量作戦で売れるのでしょうが、弊社がつくっても、付き合いのある書店の数や置かれる場所を考えると、けっこう売りにくかったりします。双風舎の本は、「ちょい難し本」くらいがちょうどいい具合に売れる、という現実もあるのです。


この点について武田さんは、バックラッシュ批判の本が別のバックラッシュの火種になる可能性を示唆し、赤木さんらも読者共同体に取り込むような本を出すべきだとしたうえで、「本が内輪でそこそこ売れたからいいっていう考え方は罪深いよ」と書かれています。それもひとつの考え方ですが、飯を食うためには「罪深い」といわれても仕方のないような戦略が必要なのも、これまたひとつの考え方だと思います。


●「救う」ことと「救われる」こと

また、武田さんは、同書を読んで「誰かが救われるか」どうかということを問題にしていますが、私が出す本と「救い」とをからめて議論するのは不毛だと思います。宗教団体などでは「救い」を目的に本を出す場合もあるのでしょうが、私のようなひとり出版社が誰かを救うために本を出すなどという傲慢なことを、できるはずはありません。


そもそも、人を救うということは、救う側が自己満足のために、あくまでも勝手におこなうのが基本であると私は考えています。こちらがいくら「救ってあげよう」と思って対象に接しても、相手が「救ってもらった」と思ってくれるかどうかは不確定です。もっともタチが悪いのは、救ったと思っていた対象から「私はあなたに救われた」という反応がなかったり無視されたりすると、救った(と勝手に考えている)側が「せっかく救ってあげたのに」と逆恨みすることです。そうした具体的事例を、カンボジアに「人を救おう」と意気込んで来た人たちのなかに、私はたくさん見いだしてしまいました。


一方、何らかの災難が自分にふりかかって、救われたいと思う人は、その災難の原因である組織や団体、人などに対して、好きなだけ救いを求めていいと思います。その理由の第一は、声をあげないと困っていることがまわりの人に理解されない可能性があるからです。第二は、声をあげれば、救われたいのに救われないという心の息苦しさから、すこしだけ解放されるかもしれないからです。声をあげたことにより「救われたい」という気分で共通する仲間ができれば、ヨコのつながりができて、すこしだけ安心できるかもしれません。ですから、私たちは救われたいと思って声をあげる人の声を、さえぎってはいけないと思います。


ただし、声のあげかたというものはあると思うのです。たとえ「救ってくれ」と開き直る場合であれ、その声が挑発的であったり乱暴であったりしたら、「救われたい」という気分の仲間内では受け入れられるかもしれませんが、その仲間内の外側では、受け入れられない可能性が高い。とりわけ、若者の生きづらさをまねいている原因が、内藤朝雄さんがいうような「生活の質」を上げにくい制度や政策を進める為政者にある場合や、本田由紀さんがいうような「教育内容の有意味性」を無視した教育システム(すなわち政府)にある場合は、個人やちいさな集団が挑発的な声や乱暴な声をあげても、ただただ無視されるだけだと思われます。


ようするに、「救われたい」と声をあげて、それを何とかして対象となる組織や団体、個人に届け、そうした対象を自分らが救われるべく「動かす」ためには、挑発や怒りをどうにかして抑え、できるだけ冷静沈着かつ戦略的に言説をつむいでいくことが有効なのではないか、と私は考えています。こう書くと、「そんなに冷静になれるわけないじゃん、目先のことで困ってるんだから」といわれそうですね。私だって、母が死んで孤児になってからは、つらいことがたくさんあったし、そのつらさを誰にぶつけていいのか、ずっとわかりませんでした。だからこそ、現状をつらいと考え、救われたいと思っている当事者で、なおかつ文章技術を持っている赤木さんのような方が、みずからのつらさや救われたいという思いを、冷静沈着かつ戦略的に文章としてつむいでほしい。そして、赤木さんの文章が多くの人に読まれ、何かしらのムーブメントを起こし、制度や政策を「動かす」までの力を持ってほしい。そう私は思うわけです。


たとえば、私には赤木さんの議論が、みずからが置かれた状況にもとづく切実な訴えに聞こえます。しかし、東南アジアという「弱者」がたくさん暮らす社会で長年生活してきた私には、どっちの弱者がより弱者という比較にはあまり意味がないと思えます。だれがどう「弱者」というものを定義するのか知りませんが、おそらく世の中には赤木さんが考える「弱者」よりもさらに弱い「弱者」が存在することでしょう。そうなると、そういう「弱者」が赤木さんに噛みつき、マチュカさんと赤木さんの論争のようなことが、際限なく繰り返されてしまいます。それは悪循環であり、実りがないように思います。


●余裕のない「弱者」とどう向き合うのか

武田さんは「世の中には多様な弱者がいるのだからそれにも気付け、理解を示せと言ったって、弱者ってのはそういう余裕がないひとなんだから、それは出来ないって」と言います。そのようにおっしゃる場合、自分には誰が「弱者」に見えるのか、ということが重要になると思うんですよね。
武田さんのそばには、赤木さんという「弱者」がいる。かつて私のそばには、以前はポト派に属していたが、国連主導で帰国してからは地雷原を農地として割り当てられ、そこを自力で農地として耕しながら生活するカンボジア人の「弱者」がいる。マチュカさんのそばには、マチュカさんが「弱者」だと思う「弱者」がいる。


このように、人それぞれの評価によるさまざまなタイプの「弱者」がいるわけですが、そのうちどの「弱者」が一番深刻な問題を抱えているのかということを議論するよりも、先に考えるべきことがあると思います。「弱者」自身に「余裕がない」のなら、まずは「弱者」のそばにいる人同士が、さまざまな「弱者」のタイプがいるということについて情報交換をしたうえで、その情報をそばにいる「弱者」に伝える程度のことはできると思うからです。


このことは、じつは「強者」と「弱者」の差異についても、ほとんど同じことがいえるような気がします。どこに線を引くのか。誰が線を引くのか。どのような線を引くのか。線を引くのは「自分」であり、その「自分」は身近にいる人や報道などで知った情報によって、誰が「強者」で誰が「弱者」だと判断しているわけです。「強者」だって、「強者」であるがゆえにつらいことがあるかもしれませんし、「強者」になりたくてなったのではないのかもしれません。「救ってくれ」と声をあげたい人がいるかもしれません。


私がカンボジアのポト時代を分析する際に、被害者のみならず加害者側の視点も重視するのは、「弱者」も「強者」も「被害者」も「加害者」も、お互いの情報をある程度は共有したうえで議論をしないと、それこそ「机上の空論」によって妄想がふくらみ、お門違いの反目や憎悪の感情がうまれたりするからです。情報を共有して、違う立場の人の立ち位置を相対化したうえで、自分の立ち位置を相対化すれば、反目や憎悪の感情は情報を共有する前よりもすくないものになるでしょう。


繰り返しますが、「弱者」に「余裕がない」のなら、その「弱者」のそばにいる「余裕のある」人が情報を仕入れ、ときには分析し、「余裕がない弱者」にすこしずつ提供していけばいいと思います。そうして提供された情報を、「余裕がない弱者」が「余裕がない」からといって受け入れられなければ、それはそれで仕方がありません。とはいえ、めげることなく、それをしつづけるしかないと思うんですよね。


ここで注意すべきは、「余裕のある人」が情報を提供した場合、提供された「余裕のない弱者」がそれを受け入れなくても、「余裕のある人」は「あくまでも自己満足でやっていることだから」と割り切り、けっしてイラついてはいけないということです。「せっかく情報を提供してるのに……」なんてイラついたら、それは「余裕のある人」による「余裕のない弱者」への単なる情報の押しつけとなってしまいます。


もっと端的に書けばいいのですが、文章能力が追いつかず、長いものになってしまいました。こうした問題は、なかなか簡単には自分の思いを伝えきれないんですよね。すみません。
前半が宮田さんに対するレスで、後半が武田さんと赤木さん、そして宮田さんに対するレスになっていると思います。
この文章の骨子は、宮田さんにメールとしてお送りして、公開するまでもないと考えておりました。しかし、武田さんの諧謔的(笑)なコメントを拝読させていただいた結果、同メールを大幅に加筆したうえで、公開したほうがよいと考えるにいたりました。


武田さん、赤木さん、宮田さん、今後ともよろしくお願いいたします。


●追記

と、ここまで書き終わったあとに赤木さんのブログを読んだら、以下のように『バックラッシュ!』がぼろクソにいわれていました。

 そして、こうした権威者全体に対する不信が、今回の『バックラッシュ!』非難。すなわち、なんだかんだと平等がなされるようなことを言いながら、この期に及んで今だ何ら達成せず、さらには過去の文脈を持ち出して金儲けを企む既存の「言ったもの勝ち左傾論壇」への不信とイコールであることは、言うまでもありません。
→ http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/08/10/

こうやって私が出した本が議論の俎上にのぼることは、喜ばしいことだと思っています。上記で記したように、そのことに対しては何とも思いません。私自身が金儲けのために同書を出したのも否定しません。儲けなきゃ食えないんですから、これは私にとって切実な問題です。
ただし、「金儲けを企」んではいませんよ。著者のみなさんは、企画の意図に賛同して執筆されたのであり、私と一緒に「金儲けを企」んでいるわけではけっしてありません。
「平等」についても、『バックラッシュ!』の文中には「平等」などありえないという意味の記述も散見されます。帯に記した「男女平等」が半分ネタであることは、すでにキャンペーンブログで書きました。私自身、世の中に「平等」なんてありえないと思っていますし、それを強調するとロクなことがないと考えています。ただただ、理不尽な格差は是正していくべく、何かができたらいいなあとは思っています。


いずれにしても、やっぱり書き方ってあると思いますよ。書き方の問題までをも、「弱者だから」とか「余裕がないから」とかに還元したり開き直ったりするのはどうかと思うし、赤木さんだったら無駄な反発をまねかないような書き方ができるんじゃないのかなあ。上記でも書いたので、繰り返しませんが。それこそ「読者共同体」のことを考え、自分の主張が多くの人に受け入れられることを目指すのなら、書き方は考えたほうがいいかもしれません。もちろん、「読者共同体」なんてどうでもいいから、自分の書きたいことを書きたいように書くという姿勢も否定しません。ほかの人はどうかわかりませんが、それはそれで私自身はおもしろいとは思っていますので。


ついでにもう一点。武田さんには『バックラッシュ!』をお読みになっていただけたのかなあ、という疑問があります。読んでいただけたのなら、武田さんが揶揄されているような「アタマのいい方」ばかりが執筆しているわけではないということは、一目瞭然だと思うのですが……。お読みでなかったら、すぐに送りますので、ご一報くださいませ。


以下は、本エントリーの関連ページです。

深夜のシマネコ(赤木さん)
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/06/
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/12/
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/28/
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/08/10/

オンライン日記(武田さん)
http://162.teacup.com/sinopy/bbs 「バックラッシュ非難」および「バックラッシュ非難2」

人生出直します(宮田さん)
http://zakkityo.seesaa.net/article/22067409.html
http://zakkityo.seesaa.net/archives/20060811.html

macska dot org(macskaさん)
http://macska.org/article/147

歩行と記憶(栗山さん=葉っぱさん)
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060809/
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060810/
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060811/