どこぞの猫とも知れぬが・・・・・

 朝の庭に置いてある水瓶は防寒対策でゴザを巻き付けているにもかかわらず氷が張っていた。
 寒い寒い一日である。風がないのは救いである。
 いつもの朝の散歩は老犬ももこの友だち犬と長めに歩いた。飼い主さんである友だちが届けたいものがあるらしく、友だちの家とは反対の方向に歩いた。郵便ポストに届け物を入れ、多摩川の方向に歩き河原に出た。
 遠くまだらに雪をかぶった山々が連なり、真っ白な富士山が連山の上に雪の厚みがわかるくらいにどっしりと見える。輝く雪がすぐ近くにあるように見える。友だちは広々とした河原と富士山の眺めがとても好きと言った。気持ちよさそうに歩いている。わたしも富士山の眺めも河原も好きだが、どこか屈折がある。柴犬レオとほぼ毎日来ていた河原には数えきれないほどの思い出があり、いつしか河原に来るだけの体力がなくなるというそういう思い出もあり、河原や富士山を見るとき遠くを振り返るような目線になる。ももこも足の調子が良くないのに河原を頑張って歩いた思い出がある。お見合い期間中にも何回か足を運んだし。
 こうして友だちやその愛犬と散歩することで、レオやももこが少し遠くなるような寂しさがある。これは友だちにはわからない気持ちだろう。誰かにわかってもらえればうれしいが、わかってもらえなくてもそういうものと思えるようになった。というか、人は人をわかるなんてとうていできないと思っている。これはわたしが誰かをわかってあげられるかという視点にたつとすごくよくわかる。かするくらいはわかるかもしれないが。
 五七五七七に思いをのせ詠った歌を読んで誰かがわかると言ってくれると奇跡のように感じる。歌を詠んだ人の思いと100%重ならなくてもその人なりにわかることが素晴らしいと思う。
 今日は散歩と買い物以外は家にいて、歌誌に送る8首の歌を選んだり、武蔵小杉の歌会に送る2首を選んだりした。

 雨が降る日の桃の木を詠みにけり老犬ももこがおりし2月に

 老犬を居間に残して窓越しに雨に濡れる桃の木眺めき

 わが家は今でもももこちゃんの家友のことばであらためて思ふ

 あの日の老犬ももこどのやうな一日過ごしたるか知れず

 愛犬の名はももこという甘やかで傷つきやすい果実ではないが

 わが庭をどこぞの猫と知れぬが縦断しおる領土のごとく

 黒猫のむさくるしいのがわが庭にのっそり来てこそこそ出ていく

 富士山の真白き峰を眺めつつ友とその犬、わたしも歩く

 新雪のやうに輝ける富士の峰 雪の匂いが届きそうなり

 友だちがももこちゃんと言ったときわたしの胸がきゅんと鳴った

上は白梅、下は蝋梅