いくえみ綾と藤原よしこを分けるもの試論

4日ほど関係の薄いテキストを挟んでしまったけれど、今日はまた漫画の話に戻ろう。この「似ているなァシリーズ」はまず“マフィアのボスであるパパ殺し”のBANANA FISH&パームシリーズから始まり、次に“淫売ママンへの生贄からの脱出”としてのジェラールとジャック&少年魔法士という、lepantoh好みのモチーフで続いてきた。しかし、4日前の日記にも書いたように「マイナーなジャンルばっかり語ってても駄目だ!もっと普通の少女漫画も言説化していかなくちゃ」という思いがあり、よって今日のエントリはわりと売れ線の少女漫画寄り。迎合万歳!や、ミュージカルで育った人間なので。
 

  • いつのまにか古い漫画読みになってる私

うちの大学生協には『デヅカ・イズ・デッド』と『ブレードランナーの未来世紀』が並んでおいてあるので、店員にはてなダイアラーがいるんだと睨んでいる。怖ッ。さて、今月の『ユリイカ』も伊藤剛さんの『テヅカ〜(TIDとかいうらしい)』関連の一冊だったわけだが、えー全くついていけてません。もともと自分が全く漫画を描かないというのがあり(コマわって漫画書いたことが一度もなく、かつ道具もない)、表現論にも興味がわかないというのが大きい。これからも自分がそういう論者になることはないと思うけど、せめて読者にはなれるよう精進したいところだ。
では何故買ったのか、というと、実はある少女漫画についてのはてなダイアリーで、大塚英志に言及されていると知ったから。私がこの日記を書き始めた頃は、大塚英志の著作を読み始めた頃で、着眼点とか問題意識はとても被っているけれども、これはアカンなァ、と感じていた。今回の、夏目房之介さん、宮本大人さん、伊藤剛さんの対談でも、大塚さんへの苦言が飛び出してはいる。だけど、かといえども、伊藤さんの理論はその論で大塚さん的ものを過去にしたとしても、直接は夏目さんとか宮本さんの論を引き継いでいるわけで、大塚さんの言っている事の不自然さを訂正しているわけではないんだけど。というわけで、大塚さん、少女漫画を萩尾望都紡木たく岡崎京子で語ろうとする論理には無理がありますよー。萩尾望都にはたしかに一度母性を肯定する変なシーズンがありましたが、『残酷な神が支配する』のラストで自らのそうした過去すらも全て含めて清算して母の愛は死であると定義しましたよー。荷宮和子さん、著作全(ry
結局自分の問題意識は、旧時代的な漫画における主題にしかないようだ。そんな時代遅れな私は多分50人くらいの人の卒論テーマを聞いたけど、その中で漫画をやるって人は3,4人だったりして、未だにマイナーもいいところ。大学では誰も教えてくれない学問(?)の中で、気がついたら遅れをとっていたような感じで、ちょっとショックではある。

  • 少女漫画は天動説に逆戻りしている……のではないか?

と、長い前置きだったけれども、今回一つだけツボにはまった文章があったのだ。普遍的な少女漫画精神史を書ける唯一の人材、藤本由香里*1の文章は、自分でも「なぜに私だけ学会の活動報告?」と疑問に思う寄稿内容になっているので、それだけで少女漫画読みとしてガッカリだったのだけど、ここで金田淳子の「ヤオイ・イズ・アライヴ」ですよ。今回収録された少女漫画に関するテクスト、ヤマダトモコの「乙女ちっく≒萌え」論や宮本大人の『NANA』論をズッコ抜いて段違いの面白さ。とりわけ、「2者関係から3者関係へ」、「天動説から地動説へ」という考え方、これは閉鎖的な人間関係を描きがち(と、思われる)なやおいだけではなく、十分少女漫画一般に対しても適用できるのではないかと思う。簡単に説明すると、カップリングを中心に、付き合う→初体験→同棲、といったプロセスを細かに描き出す「俺たちを中心に世界は回っているのだ」系が天動説。その逆で、カップルだけでなく、重要な第三者が登場し、カップルと社会との交流を描くものが地動説。天動説の代表作家には『絶愛』『BRONZE』の尾崎南、そして地動説の代表作家には『西洋骨董洋菓子店』のよしながふみが挙げられ*2、天動説=2者関係モノとは、読者は入りづらいが「これこそがやおい」といわれる究極の関係でもあり、逆に、地動説=3者関係モノは、読者はとっつきやすいが、やおいが薄れたものでもある、と金田はいう。この理論は面白い。
私は手塚治虫水野英子は勉強途中なので、あえて少女漫画の始まりは、という言い方はしないけれども、基本的に少女漫画というのは、御気楽な主人公の脳内では天動説が、そしてトラウマや存在理由に悩む主人公の周りでは地動説が繰り広げられてきた、と思う。しかし、長い間少女漫画では「好きな人と両思いになるまでの過程」ばかりが描かれてきたのであって、大抵の漫画は最終回付近でヒーローとくっついて終わったものだった。だから、自然と描かれるのは彼女たちをカップルにしない何か――家柄とか時勢とかライバルとか――という妨害・障害であって、その点で少女漫画は3者関係的なものであった。だが、新庄まゆ『快感フレーズ』がヒットした頃から、少女漫画、とりわけ小学館の作品において急激なエロ化が始まった。そこでは作品は完全に天動説的なものになってしまった。そして小学館の少女漫画はつまらなくなったのだ*3
一方集英社には「付き合ってからのストーリー」を上手に書く作品・作家がゴロゴロいる。『ラブ・コン』の中原アヤも、『恋愛カタログ』永田正美も、『まっすぐに行こう。』のきらも、そういう作家だ。そして白泉社は、伝統的な「主人公とヒーローがいつまでたってもくっつかない」方式で、かなり停滞期の感があるが、それなりに面白い作品を提供している――と思う*4。個人的には、金田が語る「ネタ化」の才能は少女漫画内にも移植可能で、去年にざかな新井理恵葉鳥ビスコなんかをニヤニヤしながら読んでいた身としては*5、「いつまでもくっつかない」「少女漫画的な要素をひたすらネタにする」をミックスすれば勝機はあるのではないかと睨んでいるんだが。丁度お荷物であった長期連載ズ(何とはいわない)が終わって、今こそ起死回生が問われている時だろう。てか、サカモトミクに描かせろー!
 

今ヒットしている漫画は――私はあまり強い興味がない所為か、言説化する言葉を持たずに悶々とした思いをしていたのだけれど――それぞれに面白い(モノローグの)視点を持っている。ちょっと完全に裏が取れてはないのだけれど、手塚治虫石ノ森章太郎は殆どをセリフ表現に頼ってきていて、その後に少女漫画のモノローグ表現がくるのだが、ここでモノローグとセリフにはあまり大きな差がない――話者を限定しない用法として出てきている。とりわけ池田理代子は、ふつうのセリフでも地の文にしてしまったりする。24年組は多分全員、一回の話の中に複数人のモノローグが入り込む形を取っている(大島弓子だけ自信がない)。で、これまた発生がわからないんだけれど、どこかで視点が主人公ひとりだけのものも生まれる。これは、自分が知る限りだと守備範囲(24年組系統)にはさっぱりいなくて、いわゆる売れ線少女漫画に多い。『花より男子』の作者神尾葉子はこの形だ。
ここで『フルーツバスケット』を例に取る。フルバは毎回視点が変わる。最初に大抵、誰のものか解らないモノローグが挿入され、その後にその回の視点=ナレーターが徐々に明らかになる形を取っている。たとえば16巻なら、生徒会会計・真知→由希のファンクラブ会長・皆川素子→十二支・溌春→十二支・溌春→十二支・依鈴→主人公・本田透と移り変わる*6。バルーン式の「心話」の話者は全く特定されていないので、ここで高屋奈月(1)セリフ/心話というバルーン発話と、ナレーション・回想というモノローグ発話の間に線を引いていることがわかる。加えて、注目すべきはそのモノローグ発話者で、16巻の最初の2エピソードを担う真知&素子は、二人ともヒーローその1である草摩由希*7を想う人、ということで、彼関係のエピソードが展開されるのであるが、キャラクターとしてはかなりどうでもいい位置にいるのだ。元々十二支をモチーフにしているだけあって、登場人物が多い漫画なのだが、真知はウィキペディアのキャラクター紹介だと23番目に、素子に到っては紹介すらされていない程度のキャラクターである。実際数えて見なければわからないが、おそらくこの漫画で取られたことのある視点は20近くになるのではないか*8。そもそも、「エピソード単位のシテ一人主義」を貫き通す漫画が珍しいのに、さらにそれをどこまででも広げていくというのはもっと珍しい。
これまた、ナレーションには徹底的にシテ一人主義を貫いているのが『NANA』であって、多分宮本大人のよくわからない文章は、そういうことを言いたかったんじゃないかなァと思うわけだが、この場合は初回のみエピソード単位で、その後は数巻単位で視点が入れ替わるように出来ていて、これも珍しい。主人公を二人にすることで、人のつながりを更に複雑に描ける。つまり地動説的であることができるわけだ。宮本の言葉を借りるなら、地動説的であるということは、「恋愛は『自分の夢』と対等の重みしかもたない(p.162)」ことであり、他者との付き合いや友情を切り捨ててまで実現することではないことともいえる。
 

  • いくえみ綾『10年も20年も』と藤原よしこ『キス、絶交、キス』

一時期、小学館が目に見えてエロ路線に走り出した頃(1999年頃だったと記憶している)、『ふしぎ遊戯』で有名な渡瀬悠宇小学館の良心と呼ばれていた。しかしその後、読者は、彼女に一定のクオリティの作品を生み出す力は最早ないと悟ることになる。そんなとき、私は一部の読者に「小学館の最後の良心」と呼ばれている別の作品があることを知った。それが藤原よしこ『キス、絶交、キス』だった。読みきりの作品がすこぶる好評で、その後二人がカップルになってからの作品を連載することが決定したという経緯を持っていた。
読みきりの方を最初に読んだとき、これはいくえみ綾『10年も20年も』を下敷きにしているのではないか、とすぐさま思った(こんな話ばっかでごめん。でも確信しているのはジェラジャクと魔法士だけなんで。)。オレンジ色の髪の不良の人気者、かたや水泳部で肩幅を気にする女の子。どちらにしろ、藤原の作品には古典的な名作の匂いがしたのだった。
しかし、集英社別冊マーガレットでやるのとは訳がちがう。小学館Cheese!で2人のその後を連載するとなると、結局そこには、いつも2人のセックスの問題がわざとらしくちらつき、雰囲気がいささか減じられてしまった。それでも、今のところセックスはギリギリで回避して、「イベントごとがある度に彼女として/彼氏としてふさわしくないとお互い思いあうすれ違いチグハグカップルストーリー」としてそれなりの秀作に仕上がっている。って、5巻までしか読んでいないんだけど――それが「試論」である理由。今回、思いつきの備忘録で、あんまり裏とってないのは勘弁。もともと守備範囲じゃないんだって……。
しかし、そういった、金田の言葉を借りればカップルの「恋愛史」を事細かに記した天動説作品でありながら、この作品は決定的に新しい方法を採用している。それは、ヒロイン・真緒とその彼氏・羽鳥の視点が1作品ごとに「サイド真緒」「サイド羽鳥」として繰り返されることだ。しかも、『フルーツバスケット』や『NANA』と決定的に違い、同じエピソードを双方の視点から繰り返して二度連載する。掲載紙を読んでいた人は、サイド真緒を読んだ次の月は、また同じところを羽鳥視点で繰り返すわけだから、退屈したり進むのが遅く感じたりしなかったのかなァと思うが、単行本でまとめて前後を読んでみると中々に面白い。この点で、藤原よしこは小学館天動説エロバカ漫画からひとつ次元をジャンプしている。
 
一方のいくえみ綾はといえば、『10年も20年も』は1990年であの名作と名高い(とかいう冠詞はもはや有効ではないんだけどね、私連載当時10歳にもなってないんだからさ、しかもどこがいいのかさっぱりわからん)『I LOVE HER』の2年前になる。『I LOVE HER』は教師と生徒の恋愛モノで、そのタブーがあるから最後まで二人はくっつかないんだけど、結局花の脳内的には天動説気味な漫画。しかし、その後『子供の庭』『バラ色の明日』で“自分では どーにもならない 愛情みたいなモン”(lepantoh談)的なものを切々と書き出し、「エンジェルベイベー(1997)」を収録した一巻の中で「シテ一人主義」×4を見事に繰り広げ、その時から彼女は、自分的少女漫画地動説作家の筆頭を、今でもブッチギリで走行中だ。高校2年でおくればせながらバラ明日を知ったlepantohは、毎日お守りのように持ち歩き、少女漫画が好きという人に貸し出しては踏み絵として使っていたという……って、そんな話はどうでもいいんだけど、1巻のラスト収録の「お日さまの日々」でイチ&ナナの双子を猫の視点で描き出した(!)と思ったら、2巻はナナに恋したカブ→大迷惑のナナ→嫉妬に苦しむイチ→カブの親友シャブ、と視点が一話ごとに切り替わる。これって誰が最初にやりだしたんだろう?そんでもってここで『潔く柔く』(私はこのタイトルがどーしても覚えられない)が来るんだからビックリだ。この方法を極度につきつめていくとこうなる。つまり、主人公同士がさっぱりどこでも何の関係のない人々になる。だけど、一人の男を通して繋がっている。その男の人生がちょっとずつ見えてくる。あまりに間接的な描写。
 

  • まとめ

要は何がいいたいかっていうと、エロ化した少女漫画っていうのはどうも天動説に走り気味なんだ。『快感フレーズ』とか『罪に濡れたふたり』とかね。むしろ地動説的なものにこそ少女漫画の王道はあると自分は思うんだけれど、それは多分モノローグの視点=ナレーターと密接な関わりがある。全然関係ない人がいきなりナレーターになっちゃったりする物語はどれだけ多様な視点を持っているかの現われだ。これは多分、少女漫画の「読み」に関連する話だと思うんだけど、ちょっと今のところはここまでしかいえないな。2者関係を描いたものでも、『キス、絶交、キス』的表現でその臨界点を超えようとしているものもあるし、そもそも2者の対立項に3者があるというのは限定されすぎな気もするしね(たとえば『西洋骨董洋菓子店』はオヤジ、小野、エイジ、千影の4者関係)。そして、3者関係のベタを描いた『ハッシュ』は私、はっきりいって駄目だったし。
 
って、気がついたら8000字くらい書いてる……orz。ヤマダトモコの「乙女ちっく≒萌え」論に対して、少女漫画側から簡単に反論しようかと思ったんだけど、長すぎると読むの大変だと思うので次回へ。あと、フラワー・オブ・ライフの感想も書きたいなァ。

*1:この人の萩尾望都に関する言及は、意見を異にする部分もなくはないのだけど

*2:ジェラールとジャック』はむしろ天動説ぽかったけどね。

*3:といっても私は一時期の少女コミックを見ていただけなのだが。巻末にいつも3週くらいで終わる捨て作家の作品が載っており、それはいつも一週目出合ってセックス→二週目誤解したりライバル出現で喧嘩→三週目仲直りしてセックス、だった。そのような状況を受け、少コミは性コミ小学館は性学館などと呼ばれる。Cheese !もかなり酷い状況で、吉田秋生はそこにYASHAを連載していたのだが、そのうち大御所を集めてフラワーズが創刊された。ホッ。

*4:といっても『フルーツバスケット』『スキップビート』『桜蘭高校ホスト部』読んでるだけだけど。

*5:これは空知英秋銀魂』の煽りを受けて読んだんだけども、そういや銀魂もジャンプをネタ化していると言えなくもない。

*6:例外的に、溌春のエピソードの最後に依鈴の「助けて」から始まる短いモノローグが入るが、そのまま次回の依鈴視点に移行する

*7:その2はもちろんキョンキョンこと草摩夾

*8:十二支+猫+主人公+友人2人+生徒会4人の時点で既に20人。

キョンキョンがドツボだった件

そういえば、一応参考程度にフルバ15巻をチラチラ見ていたんだけど、一番最後の回は夾ナレーションの回だった。そこで、劇であるシンデレラのセリフが夾の人生にカブって思わず止めにはいってしまった透をみて、夾が透の気持ちに気付きかけるんだけど(透は鼠だと思ってる人はあと25回読み返しましょう。完璧猫です。勝った!)、最後の最後で「(透が自分を好きだなんて)そんなはずはない そうかもしれないと思う自分を許さない」というモノローグが入って、ほう、と唸る。やっぱり「怪物」には自己愛も他者愛も不可能なんだなーと。メッシュは自分を「人間ではない」と思っているし、アッシュは自分を「人間でない生き物」もしくは「何も感じず人を殺す怪物」と思ってる。二人とも父親を殺さなくちゃ自分は人間になれないと思ってる。それは間違いじゃないんだけど、その決着をつけると今度は母親に取り込まれちゃう。レヴィ・ディブランは自分を「薄汚い淫売の産んだ私生児で人殺しよりも非道な極悪人(うろ覚え)」って規定していた。ジェルミも「怪物になるんだ」とかゆってた。ここに出てくる全員の母親は淫売とか言われてた。キョンキョンの母親のことはうろ覚えなんだけど(キツい人だった気がする)、この子は本当に「怪物」なんだもんなァ。そりゃそういう風に思うよね。って、カルノも本物の怪物か。あと、ISBNからたどれるよーにリンクしとくね。

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線