泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「発達障害者」は「プロの父親」になれるのか?

 ここでマンガを紹介するのは、珍しい。自分の仕事に関係するもので、多くの人に読んでほしいと思えるマンガに出会えることは、めったにないから。

プロチチ(1) (イブニングKC)

プロチチ(1) (イブニングKC)

 主人公は、専業主夫である。
 彼には、出版社に勤める妻との間に子どもがいる。子どもはまだ乳児。第一話は「息子が泣いている。47分間になる。なにかものすごく言いたいことがあるらしい。けど彼の言語はあまりに未分化で理解不能。だから僕は目を閉じる。すると音に色がつく。」と始まった。この物語の主題を象徴しているかのようだ。第一話の最後で彼は気づく。自分が「アスペルガー症候群」なのだと。
 その特性ゆえに職場を追われ、「プロの父親」をすることになった彼が、子育ての中で悩みつつも、ときに父親としての自覚と自信を深めていく。大まかにまとめてしまえば、そんな話なのだけれど、「育児」マンガでもなく「発達障害」マンガでもなく、「育児×発達障害」マンガであることが、内容を魅力的にしている。
 得体の知れない「0歳児」の子育てとは、あまりにも流動的で形の見えない「発達」に対して、「これが正しい」と世の中が定めたルールや知識で立ち向かいながら、子どもの行動や社会の仕組みの中に合理性を少しずつ発見していくプロセスであるのだろう。
 主人公は「発達障害」であるがゆえに(マンガの中では「障害」という言葉は全然使われずに、ただ「そのような特性をもつパパ」として描かれているだけなのだけれど)、子どもの行動に人一倍、共感できたりする(「僕も息子も繰り返しの遊びが好きだ」)。一方で、社会から与えられる情報の曖昧さに苦しみもする(「『様子を見ましょう』『様子!?』」)。
 多くの「発達障害」をもたない人々は、彼の子育てぶりを笑うだろうか。微笑ましくは思っても、きっと嘲笑はしない。むしろ曖昧なものや合理的でないものをすんなりと受け入れられてしまう自分を顧みるのではないか。乳児や「発達障害」をもつ人が抱く不安や喜びは、実はものすごく真っ当なものではないかと。そして、そのように考える姿勢こそ、主人公のような人々が生きていくために世間へと広まってほしいものである。
 主人公に寄り添う(というか見事に分業する)妻があたたかく、悲壮感などみじんもない。彼女は、夫が「発達障害」だからこそ信頼できている、とも言えるのだ。そして、特性を踏まえて、さらっと適切な関わりをしていく。こんなふうに自然体で、身近な人の自信を強めていけたら互いにどれほど幸せだろう。
 これまでに読んだことのある「障害」関係のマンガは、絵のタッチが個性的で少し読みづらさを感じることが多かったのだが、この作品についてはそれも全くなし。軽妙。老若男女、みんな親しみやすいはず。
 実践的には「発達障害」の教科書的に使うこともできるし、「子育て」に自信を無くしがちなパパママに読んでもらうこともできる。そして、社会の中での生きづらさを感じる独身男性は前半できっと涙を流すだろう。さらには、こんな結婚がしたいと思うものの、残念ながらこれはマンガであるので、そんなに理想的な相手はきっと見つからない。が、少なくとも未来に向けた夢は見られる。みんなで夢を見ようじゃないか。