泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「みんなといっしょ」を求める意味はあるか?

 障害の重い子どもが「地域」の学校に通おうとする。意思表示が難しい子の場合には、親が通わせようとする、と言ったほうが正確かもしれない。世間には冷たい視線を浴びせる人がいるだろう。教育委員会もあまり良い顔はしてくれない。特別支援学校を選んだ親たちも、自分がわが子のためにした選択と比較して、あれこれ言いたくなるかもしれない。
 とりわけ重度の自閉症の子どもたちと多く関わっていると、わからなくなることがある。この子たちにとって「地域」とは何なのだろうかと。講演で話さなければいけないことがあり、改めて考えさせられていた。
 当事者や支援者によって「入所施設」や「分離教育」が批判される。それに対して「地域」は「ともに生きる」とか「当たり前の暮らし」を象徴する言葉として用いられるようになっていた。単に生活の場として「住み慣れた地域」にいられればよいということでもない。自由のある暮らし、選択肢のある暮らし、文化的な暮らし、交わりのある暮らし。「地域」に期待される機能が多様であるのは、「入所」や「分離」が障害者から奪ってきたものの多さを表してもいるのだろう。それでも目指すところは、一言でまとめれば「みんなといっしょ」であったと思う。「いっしょ」は、同じ場所でという意味にとどまらず、多くの人たちが「当たり前」と考える生活を同じように遅れる、ことも意味する。
 その一方で、「共同体」としての「地域」は住民に対してさまざまなものを求めもする。人との関わりがわずらわしい者をひとりにしてくれないかもしれない。気遣わねばならない隣人が増えて、伸び伸びと生きられないかもしれない。地域独自のルールを押し付けてくるかもしれない。この10年で障害者の地域生活を支える「サービス」はずいぶん増えた。「サービス」が求めるのは費用負担ぐらいだ。人との交わりを積極的に求めない者にとって、待ち望んだ時代が来たのだろう。
 「当たり前」の生活とは、何のことだろうか。人々の平均値をとればよいだろうか。それは極論としても、およその「幅」は想定されて、一定の範囲を超えれば「当たり前でない」とされる。入所施設は「みんなといっしょ」の生活を実現できないから「アブノーマル」だった。では、「地域」で実現されうるという「当たり前」が不自由を招くことはないか。「空気を読め」のごとく、自由を奪うほうへと作用することはないだろうか。「みんなといっしょ」を好まない子どもがいるとき、「そんなことはあるはずがない」「どんなに重度の自閉症児でも他者との関わりを求めている」「必要な環境が整えられれば、いっしょにやっていける」と言ってもよいだろうか。
 「『みんなといっしょ』の生き方を望まない」という者が出れば、「多様な価値観を認め合う社会」と「みんながともに生きられる社会」は、両立しない。だからといって、人生は「人によって何でもあり」でよいと考えたとき、重度の自閉症児の生活とはどのような形になるのだろう。もし仮に重度の自閉症児と支援者のみの世界があるとして、そこで「当事者本位」に生まれる文化とはどんなものになるのだろう。その世界に学校はあるだろうか。労働はあるだろうか。朝起きて夜に寝るだろうか。道具を使って食事をするだろうか。街は作られるだろうか。
 支援者はきっと不安にさらされる。あらゆる規範がリセットされた社会で、どんな生活を理想として支えればよいのか。「社会の底が抜ける」と言った人がいるが、社会の底が抜ければ(より正確には「抜けていることに気づけば」かもしれないが)、支援者の足場も消えてなくなる。「多様な価値観を認める支援」であっても、目の前の当事者は何らかの価値観に基づいた生活を選ぶのだ。自分自身でその枠組みが見出せないならば、その枠を周囲の支援者がまずは示してみせる必要も出てくる。
 「当たり前の生活」の基準が何かしら設定されなければ、文化的な生活は始まらないし、支援もまた始められないのだと思う。その基準を受け入れたり、嫌ったりしながら、人の生活は固有のものへと形作られていく。「地域」が多数派の「当たり前」を基準として示すならば、「出発点」としてその基準を参照するのは当然である。誰から責められるいわれもない。
 しばしば支援者は先回りをしてしまう。過去にもこんな子どもがいたとか、本人の発達から想像できるとか、経験よりも前に結果を予測する。失敗したくないからだ。失敗が大きなダメージとなる子どもたちもたくさんいて、転ばぬ先の杖は確かに必要とされる。まだ起きていないことの予測を立てるな、とは無責任に言えない。
 ただ、いっしょに「取り返しのつく」失敗をする支援は、悪い支援ではないと思う。「やってみなければわからない」ことはある。やってみながら、多数派にとっての「当たり前」にもし耐えられないとわかれば、そこからは離脱してよい。こう書くと「社会を変える」視点が足らないと批判されるだろうか。しかし、「みんなといっしょ」を実現するための環境整備が足らない状況から当事者も支援者も逃げ出せと言っているのではない。「みんなといっしょ」の実現そのものが本人にとっての苦痛になる場合のことを言っている。
 「地域」に期待されてきたものが積極的な意味をもたないかもしれない人々にとって、なおも「地域」の価値を再発見しようとしてみたが、「地域」について書きながら「ノーマルな生活」の話へとスライドしてしまった感はある。本当はもっと「共同体」のポジティブな可能性についても考えるべきなのだろうが。それはもはや障害児者を中心に据えて考えられる話ではなく、おそらく今の自分の手には負えない。だからといって、ずっと無視を続けられるテーマでも無いのだろう。まったく難しい時代になった。