泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「障害者」のリアリティをもって抗いたい

 相模原の入所施設で凄惨な事件が起きた。障害者支援をしてきた者(かつ事業所の経営者)として、考えさせられることが多すぎて、2日のあいだ(職場の中でさえも)コメントできずにいた。
 今回、亡くなられた方たちは性別と年齢のみが報じられている。このことについて、朝日新聞のヨーロッパ特派員によるツイートが強く批判されているのを見て、自分たちにとっての課題を少し記しておきたい、と思った*1

神奈川県警「現場が障害者の入所する施設で、氏名の非公表を求める遺族からの強い要望があった」→匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります。
https://twitter.com/shiho_watanabe/status/758178708859527168

 これまで犯罪被害者の遺族に対する執拗な取材が、悲しみに暮れる人々に追い討ちをかけたり、誰のための何のための報道であるのかに強い疑念を抱かせたりしてきたことの結果であるのだろうと思う。
 自分はもともと被害者どころか加害者の実名報道にさえも否定的な立場である。起きた現実を正しく伝えるのに名前は関係ない。実名を公にすれば、ただ「伝える」ことにとどまらない社会的機能を持つことになる。その功罪については慎重な判断が求められるし、誰よりも被害者遺族の意向は尊重されなければならない。
 その上で、障害をもつ人たちの支援をしてきた者として、ひとつだけ、思う。これを機にして被害者、家族、支援者の「前向きな生きざま」は十分に世間から想像されるのだろうか、と。
 匿名掲示板やSNSで、犯人と同じような思想の持ち主を探すことはそれほど難しくはない。また「優れた生」とか「育てやすい生」を選別することに、消極的にでも賛同する人たちはたくさんいる。
 障害者が生きること、障害者を育てること、障害者を支援することは大変だ、と言うのは、当事者に寄り添おうとする人たちの理解である。こうした人々が社会の中に増えることで、障害者や家族を支えなければならないという規範も制度も生まれるし、福祉従事者の待遇改善が社会的に叫ばれることにもなる。
 今回の事件について第一報があったときも、介護労働のストレスや夜間の人員配置の厳しさなどが事件の背景として指摘された。毎日新聞の社説で野沢和弘さんが書かれていたとおり(野沢さんは障害者の父親でもある)、この15年ほどでずいぶん障害者支援の制度は拡充されたものの、もちろん社会的な不備は依然として山のように残っている。これで十分だなんて、誰も言わない。
 けれども、被害に関わった人々を想うとき、「生きることに必死だった障害者」「障害者を育てる困難から施設に預けた家族」「その障害者を厳しい労働条件のもとで支えてきた労働者」という理解を中心にすれば、ここでは結果的に犯人が伝えようとしたメッセージに加担してしまうことにもなりかねない。
 「殺すのは許せない」けれども「重度障害者が生きるのは確かに苦難だ」「障害者が楽しく生きられるなんて、きれいごとだ」と。犯人は「安楽死」も主張していたと報じられているが、障害者や家族の人生にはただ苦難だけしかない、と偏れば、犯人の主張に接近していくことにもなるだろう。それは多くの人々が望んでいることでもないはずだ。
 「障害」に伴う困難は、たとえ重複障害であったとしても人間のすべてを覆いつくすわけではなく、解消不可能なわけでもない。多くの人たちから支援を受けて、社会のあたたかさを感じながら(しばしば裏切られながら)みんな喜びも悲しみも経験していく。絶望を経由して得られた夢や希望だってある(もちろん本人と家族とでは違いがあるだろうけれど)。
 そうした自己の表現がわかりにくい人はたくさんいて、誤解は招きやすいかもしれないし、犯人にも全く理解はされていなかっただろう。人間の尊厳とはそのような理屈以前に目の前の命から感受されるものであると思うけれど、それが過剰な期待であるとしたら、障害者の生にある多様な側面について、もっと知られるための努力が試みられなければならないのかもしれない。障害者の生のリアリティを丸ごと伝える、ということである。
 施設入所中心の時代から、重度障害者であっても地域にあるグループホームでの生活(さらには一人暮らし)へと移っていこうとする時代にあって、施設入所者が被害にあった事件であるということは、家族や関係者からの発信をきっと難しくする。それゆえに今後、障害をもつ人たちの生きざまがどんなふうに伝えられて、静かに浸透する「優生」の潮流にどう作用していくのか、が気にかかる。
 報道は「悲劇」を伝えるのを得意としても、障害をもちながら穏やかに進んでいく当たり前の日常はなかなか伝えてくれない(そもそもそこにはニュース性がない)。いまを生きる障害者のリアリティを過不足なく伝えられるのは誰だろうか。自分たちのような支援者にも責任があるというか、できることはあるだろう。「障害福祉サービス」従業者として、ただ直接支援を続けるだけでも、障害をもつ人たちの困難を伝えるのでもなく、喜びも悲しみもみんなある生活を丸ごと世間に伝えていくこと。また仕事が増えた。

*1:ちなみに厚生労働省からは、事件を受けて社会福祉施設向けの事務連絡(注意喚起)が出されている。内容は、入所者の安全を確保すべく「1.日中及び夜間における施設の管理・防犯体制、職員間の連絡体制を含めた緊急時の対応体制を適切に構築するとともに、夜間等における施錠などの防犯措置を徹底すること。2.日頃から警察等関係機関との協力・連携体制の構築に努め、有事の際には迅速な通報体制を構築すること。3.地域に開かれた施設運営を行うことは、地域住民との連携協力の下、不審者の発見等防犯体制の強化にもつながることから、入所者等の家族やボランティア、地域住民などとの連携体制の強化に努めること。」