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Skepticism is beautiful このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-12-29

2008-12-24エントリコメントへの返信

tittonさんより「簡潔で要領のよい返信」を求められたので。詳しくは「求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか - Skepticism is beautiful」のコメント欄を参照のこと。

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2008-12-24

求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか

はてな匿名ダイアリーの「http://anond.hatelabo.jp/20081222202621」というエントリを読んだ。「池田信夫ってそんなに変なことばかり言ってるか?」を受けて書かれたエントリだ。

8.a.自分のよく知らないことについては発言せず妥当性が高いと思われることについてしか発言しない口数が少ないが誠実な学者と、b.自分のよく知らないことであっても果敢に思考し、学問間のネットワーキングを図り、啓蒙することに価値を見いだす学者 という二種類の学者がいるのだとすれば、池田さんは後者(b)の部類に属する。

もともとは池田信夫氏へ言及なのだが、学者云々とは関係なく、アルファブロガーと呼ばれる人の多くは「また○○か」といわれる傾向に有る。具体例をあげれば、畑違いの分野に言及した弾氏やfinalvent氏のようなパターンである。

匿名ダイアリーの言う8(b)の立場は必要なのだろうし、沢山いても構わないと思っている。しかし、視点の置き方についてはちょっと疑問である。そもそも問題は「間違ったことを言う」ことなのだろうか?「畑違いの分野に言及する」ことなのだろうか?違うと思うのだ。

自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか?という知的誠実さ。求められているのは、そんな当たり前の誠実さじゃないんだろうか。


追記(2008-12-24)

ブクマへ返信

id:titton 誠実さってそんなに大事なの?欠陥のある主張は他人によって検証され指摘されればいい。本人が認めたり撤回したりする必要などない。それとも誠実な人間の主張ならろくに検証せずに信じるのか?

誠実でない人は手厳しい批判を受ける場合が多いのではないでしょうか。誠実であれば単なる事実の指摘で終わる場合も多いでしょう。「また○○か」と言われる頻度は減るかと思います。

主張の信頼性は基本的に別問題です。といっても、誠実な人ならば「ろくに調べずにものを言っている」「無根拠の思いつきを言っている」「嘘をついている」という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなるので、関係がゼロだとは思いません。


追記(2008-12-25)

元記事の方の追記で言及いただいたので返信。

・「誠実さ」概念をめぐる指摘には同意するし、すばらしい指摘だとは思います。

・だけれども、「誠実さ」という変数だけで全部解決しようとしても、そこでもまた、ディスコミュニケーションは起こりうるのでは?

うーん。私はそれほど色々なことを考えてこのエントリを書いたわけではなく、誠実でなければ議論は成立しないし、誠実でない行為が繰り返されれば、議論をする能力のある人も「また○○か」で済ませるように動機付けられるのではないかと思っているだけです。

それから、誠実さは議論における必要条件であって、十分条件ではありません。また、誠実さの線引きについて考える必要はないと思います。誠実である(白)と誠実でない(黒)の間には、広大なグレーゾーンがあって構わないと考えています。もちろん、グレーゾーンがあるからといって、白と黒の区別がつかないわけではないというのが前提ですけれど。

それから、「誠実さ」という言葉が独り歩きしてしまうかもしれないので、念のため注記しておきます。ここで言っている誠実さは辞書的な意味より限定的です。

2008-12-18

誤用される「プラセボ効果」

プラセボ効果またはプラシーボ効果とは、有効成分を含まない薬(偽薬・プラセボ)を摂ったことによって生じたと考えられる効果のことです*1。比較的狭い定義をするとすれば比較対照実験において統制群プラセボ群に認められた効果といったところでしょうか。


典型的誤用例1:効果がないのに効果があると思い込む

自動車の燃費改善グッズとか、パワー向上グッズの話題でよく出ます。「○○でパワーが上がるなんてありえん。プラセボ効果だろ!」みたいな感じで使われます *2。思い込みとでも呼ぶのが適切でしょう。

プラセボ効果は効果がないものを効果があると思い込むことではありません。効果はあります。効果がないはずのものを使ったのに効果があるという話です。


典型的誤用例2:自己暗示効果の言い換え

プラセボ効果が「これを飲めば症状が良くなる」と、効果を信じる自己暗示によって起こる症状改善であるということはよく言われる話ですが、証拠は得られていません。そのため、現在のところ「404 Not Found | シーサー株式会社」という主張をすることも可能です。

もちろん、自己暗示の効果かもしれませんが、「プラセボ効果とは自己暗示のことである」といえるだけの信頼できる根拠があるわけではないということが重要です。つまり、現時点で「信ずる者は救われる」とか「その薬には効果がないなんて正しいことを教えるのは、プラセボ効果を阻害するのでよくない」といった主張が妥当だとはいえません。


あまり見ない誤用例:ステレオタイプの言い換え

「あなたの性格はこうです」という風に言われた場合、肯定も否定も難しくないが、無視するのは難しい。そう言われたことによって、それを言われる前のあなたとあとのあなたでは何かが変わってしまっている。「傷がついた」という言い方をしてもよい。

血液型で性格が決まるのではなく、「血液型で性格が決まる」という言説を聞かされることで、性格が決まるというわけだ。これならばわかる。

404 Blog Not Found:血液型占いが「当たってしまう」一番の理由(の候補)

ここで使われた誤用です。言及先エントリの話は血液型ステレオタイプですね。自己暗示的な意味合いを持たせてプラセボ効果を使ったものだと考えられますが、微妙に特殊な用法です。


そもそもプラセボ効果とは何なのか

最も定義らしい定義は、最初に書いたように「比較対照実験*3において統制群プラセボ*4に認められた効果」でしょう。しかし、こう考えたとき、プラセボ効果とは何なのか?という疑問には殆ど答えられないことに気付きます。実のところ、プラセボ効果を「あるひとつの効果」として考えるのが適切なのか?という疑問も提起されています。「病状の改善」と「痛みの低減」のように性質の違うものを、同じ効果の結果として考えるのは適切ではないかもしれません。

もっと言えば、様々なメカニズムで起こった症状改善効果をごった煮したものがプラセボ効果であるとも言えてしまいます。


効果のメカニズム候補

では、プラセボ効果と呼ばれる効果に何が含まれる可能性があるのでしょうか。ここでは「比較対照実験において統制群プラセボ群に認められた効果」という定義でプラセボ効果を捉えたとき、そこに含まれるかもしれない候補をあげます*5

もっとも良く信じられている、「効果があると信じていたから効果がない薬を飲んでも効いた」というパターンです。

  • 条件付け

自己暗示の一種ともいえるかもしれませんが、自己暗示よりももっと本能よりの話で、薬を飲むと症状が改善するという経験を何度も繰り返すことにより、薬を飲むことが症状改善のきっかけになってしまったという可能性です。

ストレスによって症状が悪化するということはよくいわれます。ストレスによって免疫機能は落ちるため、ストレスが解消され免疫機能が正常に戻れば症状は改善するかもしれません。治療を受けることや、やるべきことをやったという安心感からストレスが低減され、症状が改善するということも考えられるでしょう*6

  • 思い込み

客観的にはなにも変わっていないにも関わらず、「治療を受けたから良くなっているはずだ」という思い込みで、客観的な判断ができない要素(例えば痛みなど自己申告によるしかないもの)が改善したと報告される可能性です。

オリジナルのホーソン効果は、工場作業の作業効率が、実験で設定された環境によってではなく、実験で注目されていること自体が原因で作業効率が上がるという話です*7。今回の話では、比較対照実験の被験者であること自体が症状の改善に影響を与える可能性を想定しています。

  • 自然治癒

多くの病気では、なにもしなくても良くなるということが起こります。風邪は典型的で、薬で症状を抑えることはできても治癒はできないという例で知られています*8。何もしなくとも症状が改善するわけですから、プラセボが与えられていたかどうかは関係ありません。

  • 平均への回帰

比較対照実験では、起きにくい問題ではありますが、それでも排除できるわけではありません。多くの病気は、悪い状態と良い状態をふらふらしながら、改善又は悪化します。悪い状態の方が医者にかかるように動機付けられるため、結果的に医師は症状が改善しているところに出会いやすい状態になります*9。これもまた、プラセボが与えられていたかどうかは関係ありません。


器質性の疾患にはプラセボ効果はあらわれないという話は多いものの、主観的な痛み低減効果が存在するということについては、ほぼ確実に認められています。痛み低減効果については、プラセボが脳内麻薬とも言われるエンドルフィン(または類似のもの)の分泌を促すとする研究結果があり、説得力のある話として受け入れられています。このことは、痛みの低減が自己暗示又は条件付けによって起こった可能性を示唆しています。

しかし、「no title」などの論文をみると、*10それ以外の要因が無視できないほど大きいのではないかと考えることもできます。


つまり、「プラセボ効果」はまだ良く分かっていない、これからの研究課題なのです。


no title」という記事もとても興味深いので是非そちらもどうぞ。


追記(2008/12/21)

プラセボ効果メカニズムがはっきりしたものではないという結論から、誤用であるという指摘まで無意味だと考える方がいらっしゃるようなので追記。

誤用例1については、完全にプラセボ効果とは別の話なのでいいとして、誤用例2については、メカニズムがはっきり確定していないものなのに「メカニズム自己暗示である」として話を進めればそれは誤用でしょうということです。

といいつつ、正直なところ誤用の話にはそんなに興味がなく、「プラセボ効果って心身相関なの?」という個人的疑問から調べ始め、今のところこんな理解が妥当かな?と思ったところをまとめるのが目的だったんです。

*1:実際の使い方としては、「薬」に限らず治療一般で使うようです

*2:ここら辺はインチキ商品(ニセ科学商品)が非常に多く、燃費改善グッズについては、大手にも排除勧告が出たりしたこともあります。

*3:「実薬」と「偽薬=プラセボ」を与えるという以外は条件をなるべく同一にして効果の差を見る

*4プラセボを与えられた群

*5:思いついたものだけなので、もっとあるかもしれません

*6:でも、正直なところストレス免疫の話について、私はさっぱりわかりません。何がどこまで妥当な話なのでしょうか?

*7:オリジナルのホーソン工場実験の設定が適切ではなく、結論を下すのに十分なデータなどないという批判もあります。

*8:効果の無い代替医療が効果的に見える問題の大きな要因1です

*9:効果の無い代替医療が効果的に見える問題の大きな要因2です

*10:メタ分析によって、痛みの低減以外に関しては、無治療群とプラセボ群に有意な差がないという結論を出した論文

2008-12-16

ニセ科学批判者曰く「うわ、そんなことありえないよ」

どう「ありえない」のか

僕らが「ありえない」というとき、それは論理的にありえない*1とか、物理的にありえない*2なんて事をいってるんじゃない。ただ、それを「妥当な結論である」と判断するなんてありえないと言っているのだ。

だから、「科学は絶対じゃない」とか、「自然の理解は概念スキーマによっていてうんぬん」なんていったような、理解の根本に迫る哲学的でメタな問題提起はあんまり意味がない。必要なのは、その主張が十分に信頼できる又は妥当であるといえる根拠、ベタな根拠を示すことだ。


絶対主義と実在論は違う

それでも「ありえない」なんて決め付けには反発を感じる人もいるだろう。「私は、そうであると主張したいのではない。ありえないという否定の仕方を否定しているのだ。」みたいな感じで。「ありえない」なんて話を聞いて、「あなたは自分が間違っている可能性を否定するのか」とか、「そんなことを言い切るのは科学絶対主義者だ」なんて反射的に言ってしまう人は、たぶん、実在論と絶対主義というベクトルの異なる考え方の区別がついていない人だ。

極端な相対主義者じゃなければ、人間の認識とは別に現実世界(皆に共有される客観的世界)が存在することを否定することはないだろう。そういった世界が存在すると考えるのが実在論だ。対して*3、絶対主義とは「絶対的な真実や基準が存在する」という考え方。


気に入らないのは絶対主義

「ありえない」に感じる反発は、科学的基準を絶対的なものだとして、何かを判断するのが気に入らないというところから来ているのだろう。つまり、科学的基準絶対主義という幻を見て、そこに反発を感じているということだ。このダイアリーでも何度か科学は絶対主義ではないということに触れてきた。

改めて書くこともあまり無いが、そんなに科学哲学に明るくない人であっても、科学とそうでないものを分ける基準のひとつとして「反証可能性」を取り上げたりする*4ことからだけでも、科学が絶対主義でありえないことは分かるのではないだろうか。なぜなら、科学的な仮説は間違を証明できる可能性を持っていなければならないのだから。

科学は実在論の立場から、自然の振る舞いを客観的に説明できる理論をつくり、その理論の精度を高めようとしているだけだ。絶対主義とは相容れない。


「ありえない」という判断は間違っているかもしれないけど

客観的世界が存在するのだから、その観察の結果である科学の成果を利用して、「ありえなさ」を判断しようという考えは合理的だろう。もちろん、そういった判断が常に正しいわけではない。人間は万能ではないのだから、間違うこともありうる。ある意味、間違うのも必然だ。ただ、間違いを見つけ出し、従来の判断を覆すものもまた、客観的世界観察の結果として見つかった事実である。不完全性定理だの、相対主義だの、哲学を持ち出す場面じゃない。


最終的には「ありえない」と判断するのも、それを覆すのも、観察に基づいた客観的な根拠をベースにするしかない。そして、こういった根拠に基づいた判断は「科学的」なのだ。


関連エントリ

*1:論理矛盾。例えばAである且つAでないなんかは矛盾。

*2:意外に難しい話。 1gの爆弾で1京ジュールの熱を発生させるとかかな?

*3ベクトルが違うので、対比するのもおかしな話だけど

*4:適切な線引き基準ではないと指摘されているし、その通りだろう。線引き問題の先端はベイズ主義のようだ → 「疑似科学と科学の哲学」。これもまた、絶対主義とは相容れない。

2008-12-08

科学を信仰してもいいよ。それが本当の科学ならね。

ニセ科学批判批判で「素人には科学の成果が正しいかどうかなんてわからない。科学科学って言うやつも、結局のところ科学の出した結果を信仰してるだけ」なんて話をよく聞く。なんというか、もう科学なんか信仰しちゃっていいよ。本物の科学なら。なにか問題ある?


僕らが疑うなんて面倒なことをしなきゃいけないのは、本物の科学に見せかけたニセモノの主張が多いという問題があるから。いわゆるニセ科学が存在するから、変なものを本物の科学だと勘違いして信じないようにするため、調べることが必要だってわけ。

それから、本物の科学をやってる科学者でも、自分の思い込みで、科学とは全く関係ないこととか専門外のことまで、知ったように語ることがある。これも、僕らは見定めて信用しないようにしないといけない*1

ニセ科学批判をしている人は、ある主張に出会ったとき、第一ステップとしては「科学って主張されているけど、本当にそれって科学なの?」というところを疑問に思って調べるわけ。次の段階は、その主張がどういうところで論理破綻しているか、デタラメを言っているかとか、そういうことの分析。最終的には信じてる人(信じそうな人)にどう伝えるかみたいな話になるけど。

科学を信仰することが問題だというのならば、どんどんまともな科学哲学やってください。僕らには、そういう話はたぶん関係ない*2

科学の成果というのは、万能には程遠い人間がもがいた末にたどり着いた「いまのところこれ以上確かな事は言えないな」といったもの。それ以上に確かなことを知ってる人なんていないんだから、別に信仰しちゃったって問題ないよ。


追記(2008-12-11)

信仰」って表現に違和感を感じるというもっともな指摘が沢山ありました。もちろんこういったところで「信仰」という言葉は適切ではなく、「信用」「信頼」と表現した方が適切だと思います。でもあえて「信仰」という言葉を使ったのは、ブクマのkurokuragawaさんの言葉を借りれば「信仰と呼びたい者は呼べ」という気持ちです。

*1科学者だって変なことをいう人はいる。関連としてこっちも参照のこと→「ある問題に対面したとき、頭の良さだけで解決できると思ってはいけない。 - Skepticism is beautiful

*2:まともな科学哲学は科学に厳しいけど、科学を装っているものにはもっと遥かに厳しいよ。

2008-12-05

責任を果たさなければならないのは全国民だ

404 Blog Not Found:「科学者よ、責任を果たせ」 - 書評 - 大槻教授の最終抗議」というエントリを読んだ。

大槻教授の最終抗議』は読んでいないが、大槻義彦氏の思想自体はオカルトマニア大槻ケンヂ氏との共著『超常事件簿―オカルトファイル』でも出ていた。それは、懐疑論者としても共感するところの多いものだった*1

しかし、問題意識・熱意・思想だけではダメなのだ。私たちは「妥当な知識」と「妥当な理解」をベースとして、問題に対処しなければならない。

大槻教授オカルトバスターのような扱いを受けているにもかかわらず、「アポロ月面着陸捏造説」に組するという、酷い愚行を犯している*2。さらには、ミステリーサークルUFOについても、信奉者と大差ない酷いレベルの自説を提唱している。ちょっと前には「ムペンバ効果」への言及があまりに非科学的だと批判されたばかりだ。

「妥当な知識」と「妥当な理解」を忘れた人が「問題意識」をもったとしても、適切な対応などできるはずがない。適切な対応ができたとしても、それは、たまたま悪い方向じゃなかったというまぐれ当たりに過ぎない。

「無知*3と善意の組み合わせ」は悲劇を生む。それは様々な実例が示している*4

私は、こういった悲劇を見るたびに「そもそもあなたには事実に反することを信じる権利などなかったのだ。」と言いたい気持ちを抑えている*5

これは別にオカルト超常現象に限った話ではない。「ニセ科学」だって、「医療崩壊」だって、「健康食品」だって、「悪徳商法」だって一緒なのだ。必要なのは、私たち一人一人が「知識は正しい方が良い」という倫理観を持ち、それを貫くことだ。

憲法が国民に求めている「不断の努力」とはこのことだ*6


責任を果たさなければならないのは(税金を投入されている)科学者ではない。社会の一員としての科学者だ。そして、同じく社会の一員としての私たちだ。

*1:まともな懐疑論者からは一方的に叩かれている存在なので、ここら辺は強調してもいいだろう。

*2:「アポロ計画陰謀論 - Wikipedia

*3:妥当な知識を持たないという意味。妥当でない知識は豊富な場合もよくある。たぶん、私たちは本来の意味での「無知」だから騙されるのではない。情報を評価しないから、情報を評価するときにえこひいきしてしまうから騙されるのである。

*4:一例としてここを見るといい→「なぜ批判するのか - 懐疑論者の祈り -」の「善意と無知という最凶の組み合わせ、理不尽な悲劇」の項目

*5:この言い方も倫理に反するという気持ちが同時に沸き起こるためだ

*6:日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。