フツーに暮らしていれば法にひっかかるのさ

 高校生だったころ、1ヶ月くらいだったか、体育の時間でラグビーをやらされたことがあった。やたらとルールが複雑な競技だなあという印象を受けた。
 テレビなどで観戦するぶんには、ルールがよく分からなくても結構おもしろいのだけど、プレイする身になってみると、半端にしか理解していないということもあったにせよ、ただただ不条理の世界であった。なんかやると、すぐに審判役の教師がピッと笛を吹いて、プレイを止めやがる。「え? オレなにかしたかよ」という顔をすると、教師は一応ルールを説明するのだが、これがいっこうに要領をえない。で、プレイ再開直後にまた「ピッ」と鳴らしやがる。こんどはさっきと別の禁止事項に引っかかったらしい。
 2回目か3回目の授業でさっそく嫌気がさしてふてくされていたら、教師は「おい、おまえ汗かいてないな」とかぬかす。汗かいたらなんかエライのかよ、この野郎、ラグビーでは汗かかないのも反則なのか、畜生、と思ってよけいにふてくされた。
 そんな経験をあとになってラグビー部員に話してみたことがあった。彼が言うには、おれらも完全には理解してなかったよ、とのことだった。分厚いルール・ブックなんてまともに読みやないし、したがって彼らにとってもルールについて不透明な領域を残したままに試合にのぞむものなのだけれど、それでもとりたてて支障はないのだそうだ。
 いまになって考えるに、競技というのは、程度の差こそあれ、ルールの運営者たる審判がルール自体の不透明さを補いながらなんとかやりくりされているものなのかもしれない。明文化された規定が少なすぎれば、審判の恣意的な裁定にゆだねられる範囲が大きくなってしまう。かといって、規定を厳密に行おうとすれば、規定すべき項目が膨大にふくれあがることになるから、かえってルールは不透明になる。いずれにしたって、ルールに支配されるプレイヤーからすれば、不条理の世界である。
 「不条理」と言うのは、ルールなるものはつねに事後的にやって来る、ということである。われわれはルールに従って行動することはできない。われわれがなんらかの行動を起こしたあとになって、ルールなるものが突如しゃしゃり出てきて、「キミが今やったソレは違反行為である」と告げて去っていくのである。いつもルールは行動のあとに姿を現わす。
 以上の観点からすれば、「遵法意識」などというものは、このうえなくバカげたものに見える。法律にしたがって行動することが可能だなどと考えるのは、まるでわれわれが「日本語の文法」なるものにのっとってしゃべっているかのように錯覚するするのに似て、ものごとの順序というものを完全にとりちがえている。ましてや、「日本語の文法」に「したがわねばならぬ」と考えるがごとく、法律にしたがうことが「正しい」ことだと思い込むにいたっては、愚劣きわまりない。
 ところで、カールおじさんという人の書いた『ユダヤ人問題によせて』(asin:4003412419)という本をちかごろ初めて読んだ。これが大変に刺激的な書物で、頭のなかがぐるぐるに揺さぶられてしまって、これについて何かを書こうとしても、いっこうに言葉がまとまらないありさまなのである。そういうわけで、本文とはべつに訳者(城塚登)による解説から、興味深かったところを引用する。以下は、本書にはおさめられていない原著者の2つの論説について言及しているくだりである。

「木材窃盗取締法についての討論」および「モーゼル通信員の弁護」というマルクスの論説が示しているように、マルクスは社会的現実のなかに生じてきている物質的利害の衝突、経済問題に直面し、そうした問題を法哲学的角度から取扱うことを通じて、みずからの立場の限界に気づかざるをえなかった。当時のライン州では貧しい農民が周辺の森林の枯枝を拾い集めて薪に使い生計の足しにすることが慣習として認められてきた。それに対し森林所有者の利害を代表する代表する州議会議員たちは、落ちた枯枝といえども木材であり所有物であるから、枯枝集めも窃盗であり刑事犯であるとし、森林所有者の雇う森林保安官、森林監視人によって評価された損害額が被害者たる森林所有者に賠償されねばならないと主張し、さらにもし盗られなければ利益を産んだかもしれぬという理由で特別損害賠償も与えられねばならぬと論じた。(中略)マルクスはこのような法律とそれをめぐる論議こそ、物質的利害や利己心が法の精神を踏みにじるものだととらえ、それへの批判を展開した。しかし彼は同時に、近代的な最も自由主義的な法そのものも、じつは私有財産の所有者だけのものであって、財産をもたぬ貧しい人たちの権利さえも剥奪するものであることに気づかざるをえなかったのである。マルクスは貧しい人たちの慣習的な権利は、特権者の慣習的権利とは異なり、実定法に反するものではあっても、本来の法律上の権利とは合致するものだといういうことを論証し、貧しい人たちに慣習上の権利を返還するよう要求しているが、こうした法哲学的角度からの問題解明が、物質的利害の衝突、経済問題を十分に処理しえないことを痛感したのであった。


 この「解説」じたい、的確に解釈しようとするには、非力な私の手にあまるのだけれど、訳者が述べているのはあらましこういうことだと思われる。
 すなわち、農民たちにとって従来いわば「あたりまえ」に行われてきた行為が、とつぜん「違法行為」として取り締まられるようになる。この事例に直面したカールおじさんは、はじめのうちこそ、「法の精神」「本来の法律上の権利」を措定することによって州議会議員たちの議論を批判しようとする。しかし、そうした批判の立て方の限界におじさんみずから気づいてしまう、と。
 思うに(ここから先は私の考えです)、おそらく事態は、「従来の法」が「新しい法」にとってかわった、ということではないのだ。また、「かつては認められていた権利」が「法の変更」にともなって制限されるようになった、ということでもないのだ。
 「従来の法」など、どこを探したって存在しないのだから。「慣習上の権利」とは、まさに「慣習上」ただ網にかけられることが《たまたま》《これまでは》なかったというだけのことであって、「権利」としてそれを明記した「法」など、もともと存在しなかったのである。
 法は、なんの前触れもなく農民たちのまえに現われ、かれらを網にかけた。かれら犠牲者たちにとって、かつて「あたりまえ」に行なっていた枯れ枝拾いという行為は、突如「違法」の宣告を下される。法律は無法者のごとく登場し、「違法か合法か」という意識以前になされている「あたりまえ」の行為を取り締まる。法そのものが本質的に無法なのだとしたら、「本来」的な「法の精神」などというものを想定するのはナンセンスである。法は物理的な暴力を行使するみずからの肉体のほかに「精神」など持たないし、その1回1回の具体的で個別的な力の発動の外部のどこかに「本来」的な「正しさ」の基準を探そうとしても無駄だ。
 かくして、法はあらゆる行為を網にかける柔軟性・可塑性を持ちながら(道路交通法を見よ!)、法の執行官の気まぐれとも見える手を使って、「違法行為」を取り締まりつづける。法の犠牲者はみずからの行為がなぜ「違反」にあたるのか、その理由を知ることができない。行為に先立ってそれを知ることができない(予期不可能)のはもちろんのこと、「違反」を摘発されたあとですらそれを十分に知りえないだろう(事後的な理解すら不可能)。というのも、行為のあとになって法が出現するということは、つまり捕獲された者にとって、かれの行為のまえに法は存在しなかったも同然なのであり、かれの「違法」とされた行為の前後をまたぐようにして不変の基準を見いだすことは、かれにとって不可能だからである。
 公衆便所にスプレーでなにか字を書いたら、《なぜか》逮捕されたあげくに長期拘留をくらってしまった。おまんこの絵を描いたって捕まりやしないのに。集合住宅のポストにチラシを配ったら、《なぜか》逮捕された。
 こういった法の発動のひとつひとつは、それぞれが固有の「事件」なのであって、なにかしら不変の基準にもとづいて反復される運動の "one of them" なのではない。