ギャンブルと平等

 ちょっとした おもいつきを、かいてみます。
 ギャンブルというのは、ほんらい国家と あいいれないものなのでは ないだろうか。だから、国家はギャンブルを規制し、禁止する(とゆーか、それのほんらいの姿をゆがめたかたちで、《独占》する)んじゃなかろうか。
 15年くらいまえになりますが、わたしは運送屋でアルバイトをしていました。しごとの内容は、ひっこしが主でしたが、そこは大手スーパーの系列会社でもあったので、あちこちの店に商品を配送するトラックへの積み荷の作業なんかも、けっこうありました。
 ひっこしの作業そのものは、そんなに時間のかかるものではありません。こどものいない荷物のすくない家庭にあたったときなど、ひるごろには しごとが おわることさえ ありました*1。で、ひっこしが はやくおわると、会社にもどって、つぎの日に配送する荷物をトラックにつみこむ作業をするわけですが、それまでに すこし ひまが できたりするのですね。
 その あいた時間で、なかまどうしで ちょっとしたゲームなんかをやったりしました。そのゲームについては、あとで のべますが、たぶん一種のギャンブルと よべるんじゃないか、とおもいます。
 ところで、その会社のおじさんたちも、おにいさんたちも、ギャンブルが だいすきなのね。競馬、パチンコは、ほぼ全員がやりますし、競輪やモーターボート・レースにハマってるひとも いました。
 そういった官営あるいは国家公認のものだけでなく、インディペンデントの(国家権力のいいぶんでは、「非合法の」ということになります)ギャンブルもありました。高校野球がはじまると、その会社の社員だけでなく、出入りの業者のひとたちや わたしらバイトもふくめて数十人、みんなで もりあがるわけです。ときに無名の公立高校がベスト・フォーあたりまで かちすすんだりすると、優勝したばあいの配当額がものすごいことになってますから(ひとくち1000円のかけ金にたいしてウン十万でした)、そりゃもう職場じゅうが こうふんに つつまれます。高校球児も しんけんですが、おっちゃんたちも しんけんです。しんけんな まなざしは、うつくしいものですよね。
 わたくしは、というと、きほんてきに かけごとは やりません。わたしにとって国家は敵にほかなりませんから、役人どもが胴元をつとめる競馬も、いやしいポリ公どもが利権にむらがっているパチンコも、たのしめないのです。
 ただし、わたしがいつも参加していたギャンブルが、ひとつだけありました。もちろん、その職場のインディペンデントのギャンブルです。「ギャンブル」といっても、たわいもないものでして、まあジャンケンです。その場にいる10人か、おおいときは20人くらいでジャンケンをし、まけたひとが ほかの全員に1本ずつ缶コーヒーをおごる、というだけのゲームです。にんずうが おおいですから、なかなか決着がつかず、あいた時間のかっこうのひまつぶしに なります。勝負がつくまで、さけんだり わらったりしながら、ジャンケンに興じるわけです。
 この かけごとは、勝てば勝ったで「ラッキー」なのですが、まけたがわも、いちおう くやしいフリはするものの、ホンネでは ふしぎと うれしいものです。ジャンケンに勝ったひとたちは、まけたひとに「わるいね、ごちそうになるよ、○○さん」などと声をかけて おごらせるわけですけど、これは、まけたほうからすると、まるで みんなから くちぐちに祝福をうけているようなものです。
 なにごとであれ、「えらばれる」ということには、なにか快感があります。もちろん、その結果、イヤなことをやらされたりするばあいは、快感は相殺されますが、「えらばれる」ことそのものがイヤなわけではないと、おもいます。
 「えらばれる」というのは、じぶんが ひとりの にんげんとして、なかまから価値を あたえられる、ということです。ところが、そうした他者からの承認が、じぶんの「能力」や「業績」のみかえりとしてしか あたえられないのだとすると、じぶんにとっても、また集団にとっても、やっかいな問題をひきおこします。
 まず、「じぶんにとって やっかいだ」というのは、《そのために努力しなければならない》ということです。努力することは、もんくなしに わるいことです。つらいからです。ひとから みとめられるために、じぶんに「能力」があるようにみせたり、めにみえるかたちでの「業績」をこしらえたりするのは、つらいことです。カラダにもココロにもわるいです。神経を すりへらします。「能力」をしめせなかったり、「業績」がぜんぜんあがらなかったりすると、死にたくなります。
 つぎに、「集団にとって やっかいな問題をひきおこす」というのは、「能力」や「業績」が承認の条件になったとき、その集団のメンバーの平等が そこなわれる、ということです。つまり、「能力」のあるひとが「えらいひと」、そうでないひとは「えらくないひと」ないしは「やっかいもの」というふうに、権威的なかんけいが生じてしまうのです。さらに、「能力」や「業績」は、その集団のなかの だれかが《評価》しなければならないわけですので、「評価するたちばの にんげん」と「評価されるたちばの にんげん」という権力関係ができあがってしまうのです。
 「にんげんが、おなじにんげんを評価する」などということが、あってよいはずがありません。たしかに、たまたま たかく評価されたひとは うれしくおもったりもするでしょう。しかし、ひくく評価されたひとは、そのプライドを ひどくきずつけられます。にんげんによる、にんげんにたいする評価は、集団のなかに、にくしみをうみだします。
 この にくしみを栄養にして、国家というやつは、ふとりはじめます。国家は、「にんげんどうしの あらそいを調停する」という口実をたてて、にんげんのうえに君臨しはじめるわけです(これについての わたしのかんがえは、コチラに かきました)。
 わたしたちは、国家があることが「あたりまえ」の世界に すんでいます。しかし、わたしたち自身のふるまいを 注意ぶかく観察してみるなら、わたしたち にんげんの慣習・文化・ことばのあちらこちらに、《権力関係の発生を警戒し、ふせごうとするしくみ》がそなわっていることに きづくことができます。
 さて、さきに のべた、ジャンケンでまけたひとが全員に缶コーヒーをおごる、というギャンブルは、《権力関係の発生を警戒し、ふせごうとするしくみ》の一種と みることができるのではないか。
 ジャンケンの敗者は、いわば贈与をおこなう《権利》をあたえられるわけです。贈与をおこなうことによって、他者から ひとりのにんげんとして みとめられる、ということは、わたしたちの社会のさまざまな場面において、容易に観察しうることがらです。贈与という行為にあって だいじなのは、それが贈与されたひとに利益をもたらすという面よりも、むしろ、贈与するひとが なかまからの承認と感謝をうけとっているという面です。
 だって、「缶コーヒーが のみたい」だけならば、じぶんで買ったって たいした値段じゃないのだから。それをわざわざゲームにしたてあげる目的は、まさか「他人に缶コーヒーをおごらせること」にあるのでは ないでしょう。そうではなくて、「幸運にもじぶんがジャンケンに まけたとき、みんなに缶コーヒーをおごる」ためにこそ、あのギャンブルをやっていたのだと、わたしはおもいます。わたしたちは、なかまに贈与したいものなんです。
 しかし、「贈与するひと/されるひと」が固定されてしまうと、そこに親分/子分といった権力関係がうまれてしまいます。だからこそ、ジャンケンという 偶然に結果が左右されるやりかたで、贈与するひとを《えらぶ》のではないでしょうか。だれが贈与する《権利》をかちとるのかは「かみのみぞ しる」です。また、こうやって偶然によって贈与するひとが《えらばれる》ならば、待っていれば、いずれ じぶんが《えらばれる》番がまわってくることでしょう。
 かんがえてみれば、ギャンブルにつかわれるサイコロやマージャン・パイ、トランプ・カードといった道具は、どれも神聖な起源をもつものばかりです。って、くわしいことは しらないんだけどね。たぶん、もともとトランプのカードなんかは、うらないにつかうものでしょう。これをつかって、かみさまの意思を よみとろうとしたわけだ。
 それはともかくとして、ギャンブルに、権力関係、ひいては国家の発生をふせごうとするしくみが そなわっているのだとすると、それは国家の論理にいちじるしく むじゅんするものと いえましょう。
 国家は、「射幸心をあおる」という りゆうでギャンブルを禁止します。すなわち、「偶然によって富を手にしようなどという かんがえは、ケシカラン」というわけです。「国民どもよ、きんべんにコツコツ はたらいて税金をおさめたまえ」と。しかし、ギャンブルがほんらい個人が「富を手にする」ためのものではなく、にんげんどうしの平等なかんけいを つくるために おこなわれる社会的な いとなみなのだとしたら、どうでしょうか。そういったギャンブルの意味を、国家は ねじまげなければならないでしょうし、じじつ ねじまげております。
 国家は、ギャンブラーが「じぶんの利益のみをかんがえる よくばりな にんげん」であるかのように みなしたがります。ギャンブラーの「射幸心」を せめたてるわけです。ところが、じっさいのところ、「じぶんの利益のみをかんがえる よくばりな にんげん」とは、国家がその番犬をつとめる資本家のことではないでしょうか。国家は、ギャンブラーのこころのなかの「射幸心」なるものを あばきたてることをとおして、国民たちに「にんげんとは、じぶんの利益をついきゅうする そんざいにほかならない」と おしえます。そのことによって、社会的なそんざいとしての にんげんを、おとしめ、ぶじょくしているのです。

*1:はんたいに、もっともたいへんだったのは、ある衣装もちのブルジョア家庭のひっこしでした。そこのおくさんの洋服が、「おまえはマラカニアン宮殿のイメルダか」と いいたくなるくらい、ものすごい量でした。たしか、洋服だけで2トントラック2台ぶんくらい。これをぜんぶ、ハンガーのついた洋服用のハコにつめてトラックにのっけなきゃならなかった。ほかにも こまごまとしたものが おおいし、門から玄関までの みちのりがとおい(!)しで、作業はあさ9時ごろはじめて、よる10時すぎまでかかりました。ただ、そこはさすがブルジョアです。作業員ひとりひとりにご祝儀を3万円もくれました。