Hatena::ブログ(Diary)

たまスパ

20110117

moccur が delete-other-windows するのが嫌なので

ウインドウ分割しまくりなので、あの仕様はツラい。

別に elscreen-create してからでもいいけど、わりとストレスになってたので。

   (defvar my-moccur-cancel-delete-windows nil)

   (dolist (func '(moccur-search
                   moccur-search-files
                   moccur-grep-sync-kill-buffers
                   moccur-mode-goto-occurrence
                   search-buffer-goto))
     (eval `(defadvice ,func (around my-rc:moccur activate)
              (let ((my-moccur-cancel-delete-windows t))
                ad-do-it))))

   (defadvice delete-other-windows (around my-rc:moccur activate)
     (unless my-moccur-cancel-delete-windows
       ad-do-it))

ただ、これ、コマンド実行をキャンセルしたり、途中でエラー出た場合、しばらく delete-other-windows が使えなくなっちゃう諸刃の剣

いい方法ないものかな。

20101215

まぁいくらデフォルトの見栄えが好きといっても

さすがに見にくいので、とりあえず、公式のテーマを使うことにする。

id:antipop さんの Hatena::Let のための emacs 拡張を使って、hatena-let/edit を書く

Hatena::Let ちょー便利。でも、emacs で使いたいねって思ってたら、id:antipop さんが Hatena::LetのエディタをEmacsにする - delirious thoughts にて保存する手続きを公開されてたんで、define-derived-mode して作ったモードから呼び出せるようにするんと、deferred 使ってソースを取ってくるのと組み合わせたら、すぐにできた。

あと、 hatena-let/new とか出来るといいな。

     (defconst hatena-let-mode-map
       (let ((km (make-sparse-keymap)))
         (define-key km (kbd "C-x C-s") 'hatena-let/save-code)
         km))

     (define-derived-mode hatena-let-mode js2-mode "hatena-let" ""
       )

     (defun hatena-let/edit ()
       (interactive)
       (let ((buf (get-buffer-create "*hatena-let*")))
         (switch-to-buffer buf)
         (deferred:$
           (deferred:url-post 
             "http://let.hatelabo.jp/api/code"
             `(("api_key" . ,hatena-let/apikey)))
           (deferred:nextc it
             `(lambda (gbuf)
                (set-buffer ,buf)
                (goto-char (point-min))
                (insert
                 (save-excursion
                   (set-buffer gbuf)
                   (decode-coding-string
                    (buffer-substring-no-properties 
                     (point-min)(point-max))
                    'utf-8)))
                (hatena-let-mode)
                (goto-char (point-min)))))))

ありゃ、CSSが

さくらサーバCSS置いてたの忘れてた。

契約更新すべきかどーか迷ってる間に CSS が取れんくなったのね。

負け惜しみではないけど、実はCSSがない素の構造化だけの見栄えって結構好きだったりする。

20101205

ほにゃらら-hook ってないのかなーとか思ったときに

(let ((L ()))
  (mapatoms
   (lambda (atom)
     (let ((name (symbol-name atom)))
       (if (and (boundp atom)
                (string-match "-\\(hooks?\\|functions\\)\\'" name)
                (not (string-match "-mode-hook" name))
                (not (string-match "\\`ange-ftp-" name))
                (not (string-match "\\`bookmark-" name))
                (not (string-match "\\`comint-" name))
                (not (string-match "\\`custom-" name))
                (not (string-match "\\`cl-" name))
                (not (string-match "\\`byte-compile-" name))
                (not (string-match "\\`Info-" name))
                (not (string-match "\\`calendar-" name))
                (not (string-match "\\`cperl-" name))
                (not (string-match "\\`eieio-" name))
                (not (string-match "\\`tramp-" name))
                (not (string-match "\\`vc-" name))
                (not (string-match "\\`speedbar-" name))
                (not (string-match "\\`semanticdb-" name))
                (not (string-match "\\`semantic-" name))
                (not (string-match "\\`elscreen-" name))
                (not (string-match "\\`rmail-" name))
                (not (string-match "\\`dired-" name))
                (not (string-match "\\`url-" name))
                (not (string-match "\\`column-number-mode-" name))
                )
           (setq L (cons atom L))))))
  (dolist (a (sort L (lambda (a b) (string< (symbol-name a)(symbol-name b)))))
    (insert (format "%s\n" a)))
  (length L))

こんなのを書いて候補を絞り込みつつ探している私です。

id:lieutar
「政治的正しさ」は別にセクシャルな面ばっかじゃないし、なんかそういう発想からのコンテンツの発信がないとよくねーなとか思うのは、PCに基くものが批判サイドばかりになってる現状、PCが「表現を抑圧するもの」とか言うイメージばかりがついてしまっている事についてなんだがな。しかし、そもそもPCがだらしなくこりかたまった視点に別の視点を与え得る発想の源泉って側面もあって、それを実感しやすくするのは批判よりは発信のほうなんだよね。ホビー絵師たちが「デッサン狂ってる」とか言うのもあれ抑圧と創造の二つの側面あるじゃない?なんか日頃のバカ話からPCを強く意識する習慣ってのはいいと思うんだわ。
id:lieutar
諸悪の根元としての官僚と言う、なんだかアポロは月に行かなかったとか言ってるらしいあの方みたいな事を思う最近ですが、まぁより最悪なのは彼らを監視できない我々国民であり、官僚達の前に篭絡済みの国会でもあったり。しかし、より悲しいのは「諸悪の根元」としてしか見れない構造ではないかと。彼らの手柄について我々はあまりに当然の事として享受し過ぎだし、そもそも彼らの仕事が仕組みを完璧に運営することで空気のように意識されない存在になる事でもある。たとえば蛇口をひねると水が出るかどうかわからない、その水が飲めるものかどうかわからないと言うなかで、ときどきおいしい水がよくでる時期があるとかだと、彼らの存在を意識しやすくなるだろうけど、そんな状況ってのはとても良いものとは思えないし。一方で方針を決める国民のインターフェイスとしての立法府ばかりが目立つと言う事情には悲しいものがある。そして何より官僚達の手柄を忘れると言うことは、彼らの抱える、彼らが作りだす問題を忘れると言うことに繋り、その結果としての政治習慣ではないかと。ただ思うんは、目立たない地味な仕事としての官僚の仕事って、でもシムシティとかスゲー面白いし、なぜか官僚でも軍事官僚と警察官僚ばかりがやたらと娯楽作品の場面に出てくるじゃない。もうちょっと技師や都市計画としての側面に着目したテルマエロマエみたいなものとか、実のところ都市やインフラを主題とした娯楽作品ってあってもいいのかなーとか、それこそニチアサで「土木プリンセス・プリティーユンボ」とかみたいのがあってもいいんじゃないかとかぼんやり思ったりもする。
id:lieutar
最近 hentai とか検索していたせいかハイクにもエロレディコミっぽい広告が出はじめたぞ。
id:lieutar
ぼんやりと覚えていたキーワードで検索したら読んだ当時の記事そのものがでてきて、いや本当便利な時代ですな。つか削除せずにいてくれたブログ主さんにも感謝。田中派から分派した経政会の支配の強さ。つかそこでの重鎮であった小沢一郎氏が自民党を後にしなければならなかったって事だったり、官僚を抑える技を受け継ぐ数少い政治家としての小沢票などもあわせ、民主党政権等をふりかえっても興味深い話。おそらく民主党が小沢氏を追い出したのは、非小沢系の代議士たちがその剛腕に頼ろうと思ってたのに力及ばずだと言うことがわかったときに、裏切られたような気持ちになったり、あるいはその心細さから自身の信条に先鋭化して精神的な安定を保とうとしたんじゃないだろうかとか、そんな風に憶測しているのだが。
id:lieutar
「今の自民はおかしい」はまぁそうだし、現政権ほどひどい政権もなかなかないだろうと思うけれど、その根を辿るならば結局のところ「自民党をぶっこわす」と言った小泉純一郎は本当にぶっこわすだけぶっこわしただけだったのですねと言うことにとりあえず立ち返らなきゃならんのだなと。当時に小泉に従わぬ者を追い出した結果、長年の事実上の一党独裁の元でも、一党のもとに多様性を担保する形でなんとかとれていたバランスさえ欠いた結果の衆愚促進・独裁指向政権である。おそらくこの国における「政権後退もあるより健全ぽい民主主義」、民主党政権と言うのも小泉劇場の延長であり、民主党政権の崩壊は劇場の崩壊でもあったと考えるべきだろう。元々保たれていた仕組みは壊され、その上で作られた幻想が弾けた後の焼け野原を考えると「戦犯」としての小泉元首相の姿が浮びあがってくるが、その彼がどんな思いで反原発を掲げたのかと言うのはとても気になるところ。それよりも自分が問題にしたいのは、なぜ彼の政権はそのような無茶をしなければならなかったのかと言うこと。確かな記憶ではないが、かつての自民は今よりもバランスが保たれていたかもしれないが、首相の座が一部の属性を持つ人々の間で独占され、小泉元首相はそれを持たぬが故にもともと首相にはなれないような人だったのだとか。そんな彼が首相になったと言うことそのものがかなり革命的な事だったのだが、そうであれば彼がその座に座る事を快く思わない人々も多くいたのではないか。そのような構造はあまり傍目に健全なものには思えないし、ある面「戦犯」について同情的にならざるをえないところもあるのではないかとかと言う思いと、その構造はもしかして我々自身の、庶民レベルでの習慣にも関わる内容ではなかったのかと言うことがちょっと気になっている。そんなことで、そのなんとなく記憶の隅に残っている事について調べておかないとなーとか思っていたことのメモ。
id:lieutar
描画において言うならばひとつのタッチはそれ自体がなにものかを表現する記号であると同時に、周囲の記号に新たな意味を束縛するものでもある。おそらくこれは自然言語に近いもので、文脈そのものを宣言的に作るわけではなく、記述が全体として文脈を作って行く。あるいは、すべての記述が宣言なのではないだろうか。そういえば、最近は宣言的記述に徹底できるような言語やライブラリが有り難がられるようになってはきているが、これはむしろ自然言語のすべての記述が文脈を動的に作って行くと言う性質にかえって近いのかもしれない。
id:lieutar
子猫が寝込むドットコムとか取得したい気がする
猫が寝込む
ドットコム
id:lieutar
http://livedoor.blogimg.jp/amplit/imgs/3/4/341ef9d9.jpg
何かを受信
アーミテージ・ないやいや♪
id:lieutar
攻殻ってスゲーいいんだけどなんかあらためて「攻殻いいよね」って言うのもなんか憚られる感じって何だろう。原作の世界観にひっぱられているってのが大きいのかもしれん。寄生獣のようにやや難ありアニメ化でもなくなんかスゲー難なしで、んで難なしにするための労力の圧倒感もあってってなるとスゲーいいんだけど、あえて良いって言わんでいい感じ。多分、「オレ、スゲーの知ってんだぜ」みたいな態度をとりたい欲求を諦めさせられるんだな。むしろアラ探しに血眼にさせられる感じ。
汎用下の句
そう囁くのよ。私のゴーストが。
id:lieutar
しかし、キリスト教圏の他者との付き合いは、古代よりの苛烈な戦争の歴史もあるかもしれないが、産業革命を経て圧倒的パワーを持った末、各地に植民地を作り、その統治に悩んだ結果と言うことのような気もしなくもない。そうなれば覇道抜きに王道を貫こうとして結局は覇道に落ちた旧日帝と覇道の中から王道に接近する西欧の歴史がパラレルに進行した事は何とも皮肉。(まぁ日本にもともとそれがあったわけではなく、井の中の蛙だったことと、後発のなか存在意義を示すのに特異性を強弁しようとしたが、上手くはいかなかったと考えるべき。西欧はなんつか、マイフェアレディつか痴人の愛つか…)歴史修正主義者達はその皮肉への怨嗟を断ち切れずにいるようにも思う。旧日帝の存在意義を強調すればするほどにその失敗は重く受け止めなければならないのに、その失敗を否認し続ける、その背後にあるもの。
ぼんやり
。oO ( 初音ミクをカラオケ採点機にかけてみたい。コンピュータ将棋のソフト対戦を見るように )
id:lieutar
信仰の形と言えば林さんの大人の歌声を「魅力がなくなった」と感じる人はもしかして少女時代の彼女に巫女のような、霊的な世界へのチャンネルのようなものを感じていたのかもしれないなと。人間の歌声として聴くならば意味を噛み締められる大人の歌声の方が魅力があるように思うのだけど、何かよくわからない世界の声を通す依代としては歌詞を解釈すると言うのはノイズでしかない。まぁ問題はあの曲に異界を感じるか否かと言う気もするんだけど、「冷や飯をよそいひとり食む夜、喉の奥つまる寂しさよ」とかものすげー人間臭い歌だしね。どっちかってーと歌の上手い子がいるってので、近所の作詞や作曲の心得のあるじいさん達が曲を書いて、初音ミクみたいに歌わせてみたって感じがする。
id:lieutar
蟲師なんかの良さもそういうところ。他者に片思いをしつつ、他者のどのようなプロセスによるものか理解しがたい出力に、意味をアフォードして生きている様を再確認しつつ、でもそのまどろっこしくて僅かに繋がった感覚が愛しい。蟲師のそういうところは多分古来よりの日本的信仰の形アニミズムにちかくて、ふとそういった土壌に「敗戦」を通じ、そして基本的には言葉も文化も深くはわからない他者と直面したときにどう振る舞うかって事で「日本とアメリカ」を考えてみると、ほとんど天災のように「敗戦」を「終戦」と言いかえる心情の別の側面も見えてくる気もする。あの戦争はある意味大日本帝国の自家中毒による自滅による敗戦で、その恥をごまかしたいと言う面だけではなく、あまりにも我々が言語を持たぬ他者との付き合いになれ、言語を持つ他者との付き合いかたを知らぬが故ではないか。
id:lieutar
12歳じゃなくて13歳か。しかし中島さんの「麦の歌」もだが、農業の歌ってのは美しくなるもんだな。多分1次産業の、自然と深く付き合って、片思いみたいな思い込みでそれを語ったりってところに美しさを感じたりもするんじゃないのかな。しかし同じ片思いでもそれが「日本とアメリカ」みたいなテーマだと途端になんか辛いものしか想像しないのはなぜだ。
汎用下の句
そして輝く ウルトラソウル
id:lieutar
大人になって魅力なくなったみたいなカキコがつべにあったんで、ニコ動の12歳当時の奴を見比べてみたけど、やっぱりなぁ、12歳が冷や飯をひとり食んで寂しがらないで下さいって感じがして、あたしはどっちかってーと大人版が好きだ。
id:lieutar
林さんはわりと涙腺に届く歌声だな。
今聴いている音楽
http://i4.ytimg.com/vi/xXAZHRTRJIY/default.jpg
id:lieutar
「○○は文化だ」と言えばオッサンとしては某タレントのアレを思いだしたりもするのだけど、たとえば文化とされているものに深刻な人権蹂躙に関わったいるものも少くないわけで、単に風土や歴史等に培われた、あるいは新奇な刺激を引き起すことが期待される他の人々から導入した行動様式は、「文化だから許されるべきだ」とはならず、それを許すのであればその背後にある精神性が一定の集団のアイデンティティに深く関わりつつ、それがよき未来の公共の実現のために提案したり訴えたりするものである事を示す事が求められるわけです。「○○は文化ではない」と言うときそういう性質の精神性がそこにあるか無いかと言うことが問題とされるわけで、より狭義のものになるのが面白いなーとか、「日本の取り壊し文化は文化ではない」みたいなtogatterを見つつ感じたわけなのだけど、より自分に差し迫ったものでは自分自身「オタク」と言うものの指し示すものがあまりに発散しすぎて「オタク論」ってものはもうぼちぼちキッツいよなーとか思いつつ、ある場面でオタクを自称する人々に「お前らなんかオタクじゃねーやばーか」とか言いたくなってしまうのはどういうわけかと、まぁ後者の場面では「オタク」の名の元に連帯を呼び掛けるもののそこで示す精神性と言うのがまるっきり自分の弱さを精神性の名で粉飾したいだけの代物と感じたからで、このへんは結構文脈依存的だったりと。まぁでも仮にそういうのをダブスタと突っ込む奴もいないぼっちライフをIDページで悠々と送る言ってみりゃ寂しい身でもあるわけですが、仮にいたとして「文脈読めや」としか言えんかったり、面倒だから文脈非依存の命名ってないかなとかぼんやり思うんですが、文脈非依存の命名で埋め尽くされた世界と言うのは、ローカル変数の無い言語でのプログラミングのようで、動的束縛しかない言語でもまだるっこしいことが少くないわけで、多分かなり修正されなきゃならんアイデアなのだろうなと。
カレーの嫌いなところをあげまくれ!
ひとは日々加齢とともに常に自身の年齢の自認の更新を迫られるものですが、そこには社会的記号が付加されその実現が難しいものであったり、また受け入れ難いものであると言うことは少なくないわです。受け入れたい自己イメージと社会的記号のギャップを抱える人は年齢については極めて多く、多いが故にあえて意識される事もあまりありなく、そういった部分で不一致をおこしたものについては「オッサン」とか「オバハン」とかと嫌悪感をもって迎えられることになります。まぁ「オッサン」とか「オバハン」同士の連帯は比較的容易なのは救いではありますが、できるならば自認と背負う記号は一致させたいもの。とはいえ身体を作りかえるのにも限度がありますから、自認の方の更新を否応なくさせられるわけですが、どう振舞えばいいか判った頃にはもうその年齢を過ぎていて、おそらく死ぬまでその年なりには棚牡丹で大量の金銭ないし承認など誤魔化しの効くものが得られない限りは「歳なり」にはなれないのではないかと気が遠くなるものです。歳を重ね得た経験は宝物ですが、おそらくそれは加齢を伴わない永遠の17歳であっても可能なことで、どこをどうとっても加齢に好きなところと言うものはないわけですが、まぁ焦げた雑味が絶妙なスパイスとなることもありえるカレーのようなものだと無理矢理納得して付き合って行くしかない代物のようですね。でもやっぱりコナン君が注射された謎のあの薬、どこかで手に入りませんかね。
想像で語る集票マシーン
発疹の伴うウィルス性疾患で感染力が高い。流行株の変異によって、ワクチンで獲得した抗体での抑制効果が低くなることが懸念されている。また、ワクチンによる獲得免疫の有効期間は約10年とされるが、ブースター効果による追加免疫が得られず、抗体価の低下(減衰)により再感染することもある。
風邪をひいた時に欲しくなるものはありますか
免疫力かな
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150412/20150412000900.jpg
id:lieutar
言語や理性に対する絶対的とも言える信頼は必ずしもない。それはむしろ言語や理性で徹底的に考えるときのみに現われる再帰的なものでもある。ひとが何らかの方法論を信頼するのは、その効果を実感することによってである。非言語的、非理性的な方法、多くは模倣や権威と定めたものへの追従等によって獲得されたものを強く信頼するひとびとにとって理性とはあくまで補助的な道具に過ぎず、しかもそれは自身の道具の不足点を補うものですらなく、単にそのひとの生活に併せ価値を与えているものに過ぎないことがしばしばある。と、言うかむしろそのほうが多数派ではないだろうか?言語や理性に対する信頼を強くするには、それを様々な場面で信頼に足るぐらいに使い込んでと言うことだけれど、多分これは誰もがシューティングゲームフリークになれるわけではないようなものではないだろうか。「私が間違っていると言うのならば、何において間違っているのか教えてほしい」と言うことを理性を使いこなせない人に願うことが酷であることが往々にしてある。また、近代的自我と言うものも、むしろ言語と言う道具が作り上げたひとつの仮定のようなものでもある。何故「我思う故に」と言うところまで追い詰められるのか、それは言語が「我」と「彼」の間でやりとりされるものであり、疑いは常に「彼」の嘘に対し向けられるものだからではないだろうか。言語を徹底利用するが故に現われた「我」もしくは「個」を基本的構成要素としたものが近代社会だと思う。そのような視点は近代を相対化しての視点だが問題は近代この強さなのだが。
id:lieutar
ヒッピー達の周縁文化への敬意と言うのはww1以降の近代主義への疑問を背景としたものに過ぎず、どちらかと言えば憧憬に近いものだわな。だからむしろモダンの再評価機運の高いポスト・ポストモダンな現状において分析は可能でも以前のような期待は伴えねーわな。とは言え問題はヒトは倒錯しやすい生き物だと言うことで、倒錯状況をイレギュラーとして処理し続けてきたツケが貯まっているような気もしてな。
id:lieutar
ヒッピーってのもある種のヒステリーだったのだろうか。ヒッピーたちが生み出した現実は多い。多分ヒッピーたちがいなければ田原総一郎も本邦初のAV男優にはならなかっただろうし、内山亜紀もオムツマンガを描かなかっただろう。今日の秋葉原の光景も元を辿ればベトナム戦争にあるのではないかと思えば妙な感慨が。あとベトナム戦争の厭戦機運を背景に戦争の構造を複雑化させ、余計に戦争をやめられない軍産複合体を作ったってのと、そこを忖度したい日本の一部の勢力がクールジャパンとかって秋葉原的光景を利用している光景とか、かなりクラクラくるものが。
id:lieutar
ヒッピーと言えば、最近マウスを再読しているのだが、あいかわらず読み難いマンガ…ブルーバックスの「マンガで学ぶ量子力学」みたいな奴でもアメリカアングラコミック的なマンガがあって、もしかして文字の方が読みやすいのではないかとか思ったぐらいで…まぁ目が日本のマンガほど文法に慣れてないのだろうな。
id:lieutar
ネトウヨや無責任主義をISILと同じように近代主義による抑圧の果ての出来事と見てもよいのかもしれない。情報産業革命の陥穽の問題としてもある程度共通して見れるかもしれないが、高度で安価な情報網を背後に抑圧されていたものが可視化されるだけではなく、被抑圧意識の連携がとりやすくなり強化されたものではないかと。たとえばここで「無責任主義」と言っているが、一応「無責任」に「好ましい/好ましくない」と言う価値が付くのは文脈依存的であり、近代主義の文脈において好ましくないと言うだけの事ではある。しかし、近代主義と言うのは何度も世界を滅ぼしかけているほどに強大で絶対的な力を持つ存在だから、その文脈を自明のものとせざるをえない。そうなると無責任の中を生きる人々は常に「好ましくない」ものである事が突き付けられる事になる。そういう圧力はときに近代的自我の獲得への圧力となるが、そうならない場合には理性的なものを嫌悪するようになるのではないか。なんとなく「悪意はないから別に作り話でもいいではないか」と「江戸しぐさ」等をよいものとしてしまう人たちと言うのは異なる言語の世界に生きる人々のように思えてならない。教育のような場面は理性を育てるためにこそあってほしいもので、そういう領域に理性を混乱させるようなものを混入しようと言う試みは正直やめてくれと思うけれど、そういう人々の言語の世界を辺境の部族の複雑な婚姻関係の背後にあるものを解き明かしたように解読しつつ、(ヒッピー的な)ある種の敬意をもって接することはできないものだろうか。
id:lieutar
[ぼんやり]パソ通時代とか、MAGフォーマットの話とか、コミケ晴海時代とか、多分力道山とか街頭テレビとかの話みたいな感じなんだろうな…
id:lieutar
あかん、なんか最近チキさんとか神保さんとかをアイドル視しかけとる。共演とか見ると「きゃーっ」とか歓声が腹の中で湧き上がっとるわ。きっとここに陥穽がありそう。
id:lieutar
今季アニメは少女漫画の季節かなーって事で、「響けユーフォニアム」と「俺物語」を俺は見るべき気が。どちらも少女漫画らしくない少女漫画…ではあると思う。前者は少女漫画ってのは俺認定だしな。ユーフォニアムの方、ほっぺたハイライトとか関節エアブラシだらけとかやたらキラキラした絵があまりにギャルゲくさくてくっさーとか、キラキラしたまま頭身下げるとこだわりの強いエロまんが家の作品みたいでくっさーとか思ってたんだが、「少女の内面」ってのをそれを性的に消費したいってものではなく、物語的な必然として、それが切実な人々むけにきっちりと描いて行こうってのが読みとれると、途端にギャルゲ的キラキラは少女漫画的なあこがれを鏤めた世界としての描写、マニアックなエロまんが家的プロポーションはそういうキラキラした世界に飛びたてない身体に巻き付けられた重しを見ているような感じで素敵な感じがした。「けいおん!」系列の作品として見るべきなんだろうけど、とりあえず「けいおん!」でキャラクターデザインなどに見たものはひたすらに「あ、新時代」って感じだったけど、プロポーションとかいまひとつ、とりあえず実験的なものにしか見えなかったのがなんか上手く結実した感じがする。あとまぁ少女マンガからキラキラを略奪した少女を欲望する者達が育てた表現を再び少女マンガサイドが奪還したと言う物語を勝手に想定してオイラは盛り上がってる。「俺物語」はまぁ子供が主役の恋愛ものなんてのはまだるっこしくてモヤモヤするよねと言う感じだけど、あまり省みられなくなったタイプの男性性が少女漫画の方から料理されて行くところにはすこし未来を感じるよなーってところかな。
id:lieutar
いつも思うんは、雇用免許みたいなもの作って雇用や管理の仕組みについての基本的な検定試験と、雇用した場合の契約書を含め管理の仕組みについての提出と検定、定期的なチェックで免許の取消しみたいな感じで雇用についてのハードルをものすごーく上げられないかなーと思う。免許についても10人以下、50人以下、100人以下、500人以下とか等級を分けて設定してさー。んで、その免許が無い間は同格のパートナーと組むか、経営者以上の給料を支払う役員でないとダメって事にするの。なんつかルールの範囲内で実際に労働者を運用するのが、お客さんに価値を提供する以上に難しく、また重大な責任の伴う事なんですよーみたいな常識を作らないとだめだよねーとか、そーゆーの制度面から作れませんかねーとか思ったり。まぁ、求人は多い方が良いみたいな発想はあるかもしれないけど、求人よりも個人事業主への参入障壁を下げてくれないかなーとか、「雇用保険」ではなく「失業状態」の定義を「被雇用の意志はあるが雇用されていない状態」ではなく「生産の意志はあるが社会と金銭の授受を伴う十分な関係を結べない状態」と定義しなおして「失業保険」としてくれねーかなーとかさ。まぁそういう制度が上手く動くとして(所詮シロウト考えだからひどいこと考えてるかもしらん)現状の社会にどう浸透させるのみたいな問題も出てきそーで、たとえば既にたくさん雇ってるけどいきなりたくさん首を切らなければならない会社とか出てきたら、そこの労働者はどうしたらいいのとかさ。
id:lieutar
やっぱり京アニさんは圧倒的ざんす。
id:lieutar
いかさんと、産科医は似ているとか思いつつ、「産科医の珍味」と言うとわさび醤油で食べると言うレバ刺のようなアレを想像するわけだが、ふつう医療廃棄物として破棄するものらしい。
何かを受信
http://ecx.images-amazon.com/images/I/414IarbvAAL._SY300_.jpg
id:lieutar
クラシック音楽の作業用BGMとして使えそうで使えない感じがもどかしい。音楽に存在感がありすぎると言うか、しかしそう言ってしまうと日頃作業用BGMと使わせて頂いているものに失礼な気もする。報道番組はBGMとして結構使えるのだが、要は慣れの問題かしら。
美しい
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150407/20150407010053.png?1428336054
id:lieutar
女性として生きたことがないから女性の多数派を占める性欲の形がどういうものかはよくわからないが、性の指向性が男性に向かっているものでもそのユーザには男性の占める割合が多いように感じる。ヘテロ男性向けポルノ、とくに「これはポルノです」と名言しない領域であまりにヘテロ男性的な性欲を刺激するものが横行する事に対する苦言に対し、「女性向けのポルノも同様のオープン社会に」と言う声はあって、自分もそれは楽しそうにも思うのだけれど、それはもしかすると「女性の性の形も男性のそれと大差がない」と言う前提に立っているようにも思う。実際これがどうかよくわからない。ただ、肉体的な差異が性意識を単純で強いものと、複雑で繊細なものとにある程度傾向を分けるところはあるのではないか。男根期の説明に勃起の実感しやすさから性自認が明確になる時期に男女差があるようなものを見たことはあるが、性のかたちの量的分布については慎重になったほうがよさそうだとは思う。もし女性の性欲に複雑で繊細なものが多いとなると、女性向けの性的メッセージがが男性向けのそれと同様にオープンになってもそれが実感しにくいものになるかもしれず、やはり現状のこの問題における抑圧の図式はかわらないかもしれないので。とは言え「男性向け」か「女性向け」かと言うことではなく、男性がもうすこし性的客体としてオープンに扱われる必要があるとは思う。性的な欲望を引き受けると言うことに対する扱いが、現状あまりに男女差がありすぎるように思うので。
id:lieutar
https://merovee.files.wordpress.com/2012/09/arc-2.jpg
id:lieutar
チキさんの「ブラック会社と言う呼称はITから」と言うのをふと思いだして、なぜITからかと言うのはその系の人々がネットで最もアクティヴだったと言うことがあると思うのだけど、それはともかくとしてIT系でそれが騒がれた頃ってまだまだITバブル弾けてなかったんじゃないかとか、ある程度加熱した市場には、その問題空間に対し理解の低い者が参入し、自身の実力不足を従業員からの搾取によって補おうとするってところ、もしかするとかつての製糸業等と同じ現象が起きたのかなとか思ったりも。
id:lieutar
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そいや、市場がひとを幸せにするように思えたのは、たまたま20世紀のある時期にひとを幸せにするような商品たちがどれほどひとを幸せにするかと言うことを競う市場が作れたからで、それが崩れだした頃に「蕩尽」が話題になって今や、蕩尽自体への欲求もそんなに高くはなくなってきていると。「若者の○○離れ」はカネがないからだと言う意見ももっともな感じもするけれど、実際に「さとり」にシフトしている面もあるんじゃないのって気もしていて、蓄財指向の守銭奴はともかくとして、彼らを嫌う市場主義者たちにせよちょっと冷やかな視線を向けたくもなる。無論、現状市場が分配を担っているところもあって、社会が現状の建て付けである以上はモノやカネが回らないとどうしようもないのだけど、どこまでも増える消費と言うのはそもそもエコじゃないつか、もう世界人口は地球が養える量を肥えているし、まぁそんなことがなくても「蕩尽」とか出てきた時点でやっぱり十分に省みて新しい形を模索しなきゃならんのじゃないかと。とは言え一部の目立つ天才な人々を見つつ「人類の力」とかを信用していいのはWW1までだよねー☆きんもーい☆みたいな感じだし、次の世界はいよいよこんぴゅーたさまがZAPZAPZAPしちゃうんじゃないかと思えば本当にそれでいいの?って気もしんくもない。でもまぁそのへんは人類が編んできた言葉による執着に過ぎないものって気もするんだけど。「そういう市場」と言うワードが出たとき、仮にそのような市場があったとしてそこである程度の勝者となった彼らを妬んでいるのではないかと言う自問が出てくるんだけれど、そもそもその問い自体が市場主義が語らせているものに過ぎないよなーとか。でもとりあえずなんらかの市場と生産システムがひとびとの欲望を形作って行くプロセスなり仕組みには興味があって、もし妬んでいるとすれば勝者はある程度そういうものについて知っているのではないかと言う推測を元にするわけだけど、多分あまり自覚の上でやっているわけでもないだろうとは思う。
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エロゲ、ギャルゲ系ライターと言うと、丁度session22でマタハラ問題の話題を聴いていたと言うこともあって、以前ホッテントリ入りしていた 腐れキノコアイコンのミソジニと奴隷根性丸出しのtweetの纏めを思いだすなど。根本的に奴がわかってねぇなと思ったのは、そもそも彼の「生理や出産がないだけ男性の方が優位である」と言うショボい見解はもちろん、それ以上に気になったのは公正を求めた結果のルールがより自分に不利に働く事があろうと、現状の不公正と思えるルールに自分に有利な要素が多々あろうと、不公正なルールの中で勝つよりは、公正なルールと納得できるもの中で大敗することを望む人々が少くない事が想像できないのだろうなと思えば、それは腐れキノコが自身の優位オスになりたくて仕方がないマチズモに無自覚だと言うこっちゃないのかなとか。まぁ以前のオタクにもフェミニストにもなれていないくせに、自分の期待を裏切ったと思い込んでフェミニズムをオタクとして叩く輩と同種だよねーとか思いつつ、なんつか&#34;そういう市場&#34;の存在の可能性を疑ったりするなど。一応、&#34;そういう市場&#34;であることによって自身の嫌悪感に対しての認知不協和を埋めようって欲望には警戒している。
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ガンスリンガーストラトスを試聴しようとしてOPで虚淵氏の名を見ていろいろと萎えるなど。実際彼の作品をそれほど沢山見たことはないが、「まどかマギカ」とか「彗星のガルガンティア」とかでは可成イライラさせられた記憶が蘇えったりしつつ、ふと自分の気にいらないものたちについて「エロゲ、ギャルゲ系」で纏めてしまおうと言う企図が自身の中に湧き上がったのに気付きつつ、とりあえず自分がやろうとしていることは差別である事が濃厚であり、それ故に慎重にならなきゃならんのだろうなと。ともかくエロゲ、ギャルゲ系から出てきたライターとかキャラクターデザインの傾向とかには嫌悪感が強いのだが、そもそも自分はビジュアルノベル的なものが苦手で、そういう面倒臭いものの中で楽しそうにしている人達に対する嫉妬は抱えてるかもしれず、そういったところからの嫌悪感は多少警戒しておいた方が良さそうだ。まぁでも「弟切草」とか「ひぐらしのなく頃に」とかにそういう種類の嫉妬があるかと言えばないのだけれどね。まぁエロゲ系が嫌いじゃないとは言えポリゴンモデルを動かすとか、昔だったら着せ替えシステムのkissとかは嫌いじゃなかった。エロをゲームで楽しむって事そのものは嫌いでもないし、その産物の影響を受けていても別の要素が上手く出来ていたら嫌悪の対象にはならんな。
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[ぼんやり]語らいの背後にある抑圧されたものについてひとは自覚的であることができるのだろうか。根本的には不可能であっても、記述を用いた語らいでは、意識が切り替わった後の自身での文章への校正が可能なように、ある程度自身の産物を他者として扱う事が可能になるのかもしれない。自分のような悪文量産機はその技術をあまり持たないのだが、絵ではある程度それが出来るとは思うしその為の方法を幾つか知っているからおそらく文章においてもある程度は可能なように思う。おそらく大学者のように語っているつもりでその実ヒステリー者であると言うことや、分析家のように語っているつもりでその実大学者であると言うことはしばしばあるのではないかとか思うのだけれど。それはそうとあの4つの要素の位置が回転ではなくねじれたりしているものについて見たことがあるけれど、そのような精神のありかたの人々がいたとしてどのように作られて行くのだろう。
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「夜桜セヴン」とか受信して検索したら風俗店が出てきたときのこのえも言われぬ気分
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なんかアニメ系のビデオが自動再生で今流れてて、艦これのダイジェストみたいのがある。全く見てなかったアニメなのでシナリオとか巷で言われていることはよくわからんが、「作画やキャラクターデザインはよい」と言う評判については首肯しかねる。実際CGを多用しているのかもしれんけど、MMDをトゥーンシェードした映像みたく全体の描写が固くて、いわゆる作画らしい作画じゃないって感じ。作画が良いとか悪いとか、形や動きを見るアニメーターの欲望や眼差しを楽しむものじゃなかったのですかいな。別にCG多用でも良いけど計算された3Dらしいダイナミズムが必要なシーンと感じられるものでないところにポリゴン臭が出るのは単に省力化の結果に過ぎないじゃないの?
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多分まだ布袋様よりハート様に近い。でも今の興味は伝統的なイメージじゃないから適当に偽布袋のまま進める。
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欲望から程遠いのでこれまでよく見ていなかったのだなと改めて思うんだが、布袋って弛みすぎるとダメなんだね。ハリのある肥満体型ってのを意識しなきゃならんのだなとか、あれはあれでひとつの体系だった美意識の中に作られたものなのだなとか。
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お笑いが斜陽とは言われるし、雛壇タイプの番組は正直つまらんと思うけれど、きっちりネタの組まれたコントや漫才を見てると、やっぱりプロの芸は見応えがあるなと思え、見応えがある。とは言え以前のように猫も杓子もフォローするってものにはならず、古典演芸のように好きな人だけが見るものになって行きそうだし、そういうかたちが本来収まるべき場所なのかもね。お笑いの時代ってのは一般的な交流の媒介を芸人達が担っていたんじゃないかしら。共通の話題とともに交流プロトコルの提示とか。でも基本的な興味を核にしたSNS的交流の時代において彼らのそういう役割は終わったのではないかと思う。多分数十年程度の「テレビの時代」の極相期にこの国ではお笑い芸人達がある役割を果たしたと言う歴史的事実についての認識は、この国の社会の質を見るのに重要なものになるんじゃないか。それはそうと、交流プロトコルの提示の役割を終えた芸人達って、以前に比べキャラ芸の評価も変わってきたりするんじゃないかなとか。自分自身は以前に比べキャラ押しの強い吉本漫才が鼻に付くようになってきている。
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エドはるみってネタを思いだそうとして思いだせない…つか上品そうな中年女性がいきなりものすごい顔をするって所だけしか見てなかったのだな。
何かを受信
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ラジオを聴いていて思ったんは、多分時代劇とか大好きな人々とか、そういうのが異様に多い世代とかって「江戸っ子」ってのは権威になっていて、最初の提唱者とかは自身の理想をそういう権威に結びつけようとしていたのではないかと。なんつか、股旅もの演歌とかがスゲー好きな人々とか近いんかもしれない。あとそういう権威の設定でも基本的な態度の違いってのはあって、ぼんやりとした雰囲気、あるいは欲望の対象を権威とする人々、社会的階層や特定人物を権威とする人々、理性を最高の権威とし、そこから権威を独自に設定する人々がいて、江戸しぐさerはまぁぼんやり権威を設定する人たちなのかなと。こういった人々に「それは間違いだ」と言っても「正論は違いないが夢が足りない」ってなっちゃうんかもね。あとなーチキさんは検証されない社会のありかたを省みるべきだって言ってて、それはまぁその通りなんだけど、たとえば官僚を劣化する生き物としてしまってそれを他権力で牽制して補う形で三権分立が設計されたみたく、ある程度「そう動くものだ」と言う諦観のようなものってのも必要で、やっぱり蛇口の責任を重視すべきなんじゃないのかなって気が。下手をすると一億総懺悔みたいなことになる。つか、「みんなでがんばる」ってもう最後の手段じゃない?いつも最後の手段に訴えるんじゃなくて、もうすこし仕組み的な意識ってのは必要なんじゃないのかなーとか。
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session22 の江戸しぐさへのツッコミを聴いているが、音声でツッコミを聴いていると嘉門達夫に歌ってほしくなってきた。川口浩の歌みたいな感じでおながいします。
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部活で先輩たちに苛められたので自分も先輩のように後輩を苛める子と、先輩たちのようになってはいけないと戒める子の違いとかどこで出てくるんだろう。認知不協和を認知を歪める事で解決しようとしたか、不協和として受け入れたかと言う違いは何によって出てくる?
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適応主義、現状肯定主義、無責任主義とひとのひとつのあり方を角度を変えて見ることができるが、ここに適応主義として見える角度があると言うことが重要かもしれない。彼らが責任の拡張や現状の肯定に走るのは適応を乗り切った、あるいは乗り切ろうとする事に対しての賞賛を求めているのではないだろうか。また、やっと適応した文化が「その文化まずいかもですよ」と言われる事も適応こそ全てなのだから嫌悪の対象となる。また、自身にとってイレギュラーな人々は「自分が適応の為にやった辛抱もせずに、楽して適応しようと言う不貞の輩」となる。無責任主義が公共心を偽装した結果としての仮性ネトウヨと言うものを見てくれば、彼らがマイノリティを「反日」認定するのは、彼らにとってマイノリティである事は反逆って事になるからだろうな。
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今通った選挙カーのウグイス嬢の声が「サァサァ可哀想とはこの子の事だヨ。親の因果が子に報い 〜」的な響き。
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もしかすると核にあって重要なものは、罪悪感の引き受けかたなのかもしれない。「私はどうせ悪人である」と言う前提を受けその上で自身を裁くものを受け入れるか否認するかと言う問題。あるいは神の視点での罪と、人間の視点での罪が異なる事の混同。我々は全知全能ではないのだから常に罪深く、しかし、それを出来る限りの振舞いで最小化しようと言う不断の努力を続けているかどうかと言う、人間の無能さ故に仕方の無い線と言うものがあって、その努力の有無は常に問われるわけで、絶対に拭えない前者の罪は、後者での救いの為に常に悔いなければならない。悔いなくて良いほどに善なる神に人はなることができず、悔いないものは善であると言う誤認が一切の罪から自由になろうとする。「差別を認めたら死ぬ病」も自身の庶民性を受け入れられないところも似たところにあるようにも思う。
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さて、社会問題に対しての近代的な大人の対応と言うものは、十分に理性的で誠実な人々に対しての語りかけと言うもので、それは「大人ならばそうであることがふつうだ」と言う建前の上での振舞いでもある。建前がそうである以上、それをする人々、それ以上のことをしない人々に対し非難できるものではないし、むしろそれを誠実な形で行う人々は十分に尊重すべきなのだが、おそらくそういう建前の外側が十分に広い、あるいは近代的な意味での大人とは想定以上に少いと言うことが今日の問題であるように思える。大人となる事が難しいのならば格差を肯定しても良いからもともと絞られた範囲からエリートを作ると言うのが右派の発想のひとつではないか、底上げを試みる左派に対し格差を利用したものが歴史的に実績もあるではないかと言うものではないかと思えるし、フランス革命直後の数々の残酷さや旧東側諸国の失敗を彼らは失敗の証拠として挙げるが、それを言うならば封建的社会もやはり数々の悲劇を生んできたのである。結局必要なのは大人になれない人々が大衆化するのではなく、庶民として分相応に振舞ったり、庶民が庶民として生きる事をそれ自体恥じなくてよいような習慣を社会階層に頼らない形でどう実現するかってところではないだろうか。
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ここまででネトウヨと無責任主義者を違うものとして捉えるということをしてきたが、もうひとつその多くはやはり同じものをルーツとしているのではないかということ。右派的な雰囲気の倒錯した主張を行う人々であるネトウヨの、その倒錯の原因は、ここまで認知の拡張の失敗として見てきたが、おそらくそのような失敗をするほどにリテラシや基本的な情報処理能力などそもそもの知的能力が低い人々も含まれているだろうが、多くはそうではないのではなく、むしろ無責任主義の粉飾の結果としてのネトウヨ化をする人々で、粉飾である以上認識を歪めざるをえない人々ではないだろうか。無責任主義者として直接振る舞うか、ネトウヨ化するかと言う違いはおそらく実存ないし経済面について現状容認していて揺ぎがないと感じるか、危うくなると感じるかと言う違いで、危ういと感じる人々が自分達にとって都合の良い状況へ揺り戻そうとする試みがネトウヨ化ではないかと思う。従業員をこきつかいたかったり、経済的、実存的不安を抱えたネトウヨ経営者や、ネトウヨ化する宗教従事者と言うのはこの種の人々ではないかとも思える。知的能力が著しく劣る人が経営なんてできないわけだしね。んで、正当に告発された危機を前に不安を覚えた無責任主義者がネトウヨ化すると言うことはありえるわけで、そう考えればたしかに「サヨクのせいでネトウヨが増える」ことはまるでありえない事ではないのだが、いずれにせよ無責任主義者の振舞いが変化するだけのことで、それ自体はあまり脅威ではないように思う。
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ネトウヨと無責任主義者で振舞いが同じものに「ふつうの日本人」と言う自称があるが、両者においてこの意味することは異なる。ネトウヨが言う「ふつうの日本人」とは彼らの言う「愛国心」を持っているのが普通であり、私はその普通たる要件を供えた存在だと言う主張である。そして無責任主義と言うのは「なんら奇特な事をきばってやろうとせず、ありのままに振る舞うのが普通だ」と言う主張ではないだろうか。また、この二者にとっての「サヨク」なるものも異なるのではないだろうか。ネトウヨにとっての「サヨク」とは彼らの陰謀論における陰謀の主体、もしくはそれに扇動されるものである。しかし、無責任主義者にとっての「サヨク」とは「無理して考えた挙句、素頓狂な行動をする人々」である。そしてその成れの果ての姿としての共通のイメージが「あさま山荘」や旧東側諸国ではないだろうか。これらの「サヨク」が片仮名なのは、彼らにとって罵倒したい対象は「お前たちは立派なものではない」と言う意味になるが、彼らに対する批判者にとっては「いやアンタら右翼も左翼もまとめて理性的に考えたり調査した結果発言する人々をサヨク言うてますやん、あんたらの言うそれは我々の知る左翼とは違いますよね」と言うことでやはりカタカナになってしまう。
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現政権の得票数は、民主党が政権をとったときの自民党の得票数よりも少ないと言うことが発想の源泉。しかも現状で全野党の得票数の合計と与党の得票数の合計では野党の方が勝っている。それが圧倒的議席を持つと言うのは現状の選挙制度のマジックで、二大政党制で辛うじて機能する仕組みが一強他弱体制の元、民意の反映と言う面では最悪の状態になってしまっていたり、最悪の状態で政権に居座ったものがやっぱりヘンな事をしていたりってので、「認知の範囲を拡げないとヤバい」って空気はより濃厚にならざるをえない。そういう空気に反応してよりヒステリックに無責任を叫ぶって人が増えるのと、サヨク敵対視ってのの親和性の高さを利用して商売しようとかどこぞの支持に結びつけようとするってのと。現状政権が民意を反映された結果とは言いにくいってこと、現状政権自身が認識している事で、自分達が薄氷の上の存在だと言う認識もあるから何が何でも支持が欲しいってのはやっぱりあるし。
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現状容認や無責任は必ずしも悪いものではない。現状や背景に対する知識が不足していれば責任なんて持ちようがなく、またあらゆる分野について熟知している人達などいないのである。しかし、おそらく自分の周囲について完全に無知な人と言うのは生きては行けないわけで、責任をまるで持てない人と言うものはいない。「責任を持て」と言う願いはそうでなければ誰かが奪われる事になるが故に為されるものだが、この願いもまた全てを聴き入れる必要がないものでもある。何故なら責任を持つと言うことはそれまで知らなかったこと、見ていなかったものを認知すると言うことが要求され、そのための余力が無いのならば聴き入れる事は不可能だ。また、願いがある種の認識の誤ちから出される事もあって、この場合はそもそも付き合う必要など無い願いでもある。ところで、そういった認知の拡大そのものや、認知の拡大の検討そのものを嫌悪し、一切の責任の拡大を呼び掛ける声を拒否するとなれば、現状容認や無責任が主義となってしまう。ところでこういう現状容認主義者や無責任主義者たちは、最近のウヨク政権ならびその実存的支持者たるネトウヨ達に非常に有利に働きそれらは極めて親和性が高いものに見える。また、彼らはなぜかネトウヨ達にそれほど強い嫌悪感を表明せず、近代民主主義的前提を踏まえた上で政治を語るすべてを「サヨク」と括って嫌悪しているように見える。しかし実のところ無責任主義とネトウヨは異なるものとして認識すべき代物なのではないかと言う気がしている。何故なら無責任主義が責任の拡大への嫌悪を動機としているのに対し、むしろネトウヨ達は責任を引き受けようとした結果として行動しようとするものだからだ。問題は責任を引き受けようとはしているが認知の拡大に失敗し倒錯した状態になったものがネトウヨなのではないだろうか。そう思えば、現状容認主義者や、主義とまでは行かなくともほとんど現状容認に止まる人々に比べ、ネトウヨ達は意志において勝るため、主意主義としての右翼を標榜するのもまぁ解らんくはないのかなと言う気にもなる。このように無責任主義とネトウヨを比べると「サヨクが馬鹿にするからネトウヨが増える」と言う発想の出処が解るような気もする。ネトウヨの行動は倒錯が激しく、ネトウヨがどれだけ騒ごうが無責任主義者達にとって自身の認知の範囲を拡げる必要性について検討しなくてもよいように感じるが、一見賢げな言葉をもって叫ばれる「責任を持て」と言う言葉に対してはそうも行かず、はっきりと嫌悪感を示して防衛したくなるのではないだろうか。「サヨクが馬鹿にするから…」と言うのは彼らのそんな心情を描写したものではないのだろうかとも思う。ところでこういう無責任主義者たちがどの程度いるのか、サイレント・マジョリティを無責任主義者と同一と見做すのも問題があるようにも思う。またそういうヒステリー症状が何によって発症するのか、もしかしたらSNS等で気軽に声を上げられるインフラが整備されることが声を上げる事に対しての強迫的心情を作りだしたり、とりあえずで上げた声に可視化された承認などが結びついて執着するとか、そういった事もあるようにも感じる。
想像で語るマイルドヤンキー
想像で語るマイルドヤンキー
軟便座りをする
何かを受信
遠くの空、回る花のエンジンの釜美寿司さん。oO(多分配達用のカブが特殊な感じなんだろう)
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原作を読むにマリアのモティーフの一つに、魔女とされ火炙りにされながら後に聖女となるジャンヌ・ダルクが設定されていたらしく(もしかしたら後付けかもしれないけれど)、そのような転生はあくまで「地上の教会」の出来事であり、魔女を媒介とした、あらゆるものが擬人化された世界の描写によって行うのはとても難しいことだと思う。また、その変化を受胎告知によって示すと言うのも最初から決まっていたことではないかと思うし、そのような変化を性を契機にすると言う倒錯したアイデアに作者はこだわったのではないか。変化の描写はしたい、しかしモティーフのようには描けないとなったとき、おそらく作者は単にマリア個人の内面の物語と強弁しつつ強引に幕を閉じようとしたのではないかと思える。原作の幸福なところは社会描写に冷静な視線こそあれ基本的に薄めだっために、変化しない背景としてあり続けたために物語の中心を移動させるような強弁はある程度可能だったのだけど、盛り込まれた要素の必然性が単に「あ、描きたかったんだな」以外に見えてこず夢落ちの作品を鑑賞したような残念感があった。アニメ版は登場人物を増やし、利害の構図を見せ社会の描写を増やしたが、わざわざ追加した主要な登場人物は単に発狂しただけで何の影響もなく、モブ魔女達が最終話で突然少年ジャンプみたく「仲間ってイイネ」をやってのけたものが「社会の変化」だとすると、原作に付け加えてまで見せた利害の構図ってのは一体何だったんだろうって事で、片付かない要素が増えてしまったのだな。
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[またアニメの話してる] 寄生獣が演出面などに若干の疑問点を抱えながらも完成度の高い原作に対し誠実であったがために結構な佳作アニメとなっていたのに対して純潔のマリアは原作のいまいちな完成度を補わんといろいろやったけど原作以上に破綻した悲しいアニメとなったように思う。純潔のマリアの舞台装置は、「天上の教会」「地上の教会と社会」「古きものたち」と言う位相の異なる存在を「魔女」と言う境界領域の存在を媒介としてひとつの舞台に三つ巴で立たせるもので、その魔女の視界の色気が魅力に感じるのだけど、おそらく魔女ぬきにそれらがどのように関係しあっているのかと言ったことの整理を相当丹念にやらないと纏まんないものなんじゃないかと思え、おそらくその準備がいまひとつなまま魔女の力でひっかき回したものだから、原作も、そしてよりつっこんでやろうとしたアニメはだからこそさらに物語のコトワリを乱されて終わったような感じになったんじゃないか。「お前なら調理できたのか?」と問われれば無理。ただなんか同情のできる「無茶しやがって」って感じの作品で嫌いにはなれないのだけどやっぱり情状以外に弁護のしようがない失敗作だと思う。ところで最近、「クロスアンジュ」と言う天下のサンライズ作品を知ったのだが、なんかもう「無茶しやがって」と同情のできなさが同居すると、サルまんあたりのパロディにしか見えないものになるって例でいろいろとスゴくて一部で人気らしい。最終話だけ試聴したのだが、なんか感覚は「内山亜紀のおもらしゴッコ」に近い。
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[ラジオのCMを思いだしつつ]「情熱」と言う言葉をそれがあれば良いもののような語り口が嫌いで、感情の昂りなど良い方にも悪い方にも動く代物だし悪い方に動くときはより被害を大きくする代物なのになんで…と思ってきたのだが、感情の昂るときに分泌される脳内麻薬を考えれば人々がそれを好むのはむしろ自然なことかもしれないとも思ったり、それを聖化して見るところにある種の機制のパターンがあるのかもとか。
今起きたことをありのままに話すと
その音楽家や似た傾向の音楽が流れる事を期待してyoutubeで自動再生を有効にしてあるミュージックビデオを見てたら、出演している俳優の紹介らしいビデオが流され、音楽方面に戻る気配がない。
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サイレント・マジョリティの政治における主な指向性が社会を捨てる事か自身を捨てる事となった社会の政治は基本的に失敗している。現政権の得票数と前政権時の票の組成の話を聞いてからは、この国においては死後に巣喰った腐敗菌としての政権よりも、むしろ元気だったかのように見える最後の政権において何が起きたかと言うことが重要ではないかと思うようになってきている。腐敗菌は蘇生の可能性をますます奪って行こうとするだろうが、それはもうそういう生き物として見るしかない。腐敗のなかには当時の不幸な事件を認知を歪める形で利用するものもある。その背後にある欲望が見えるのならば絡めとられることはないが、そういう輩に利用できると言う事実がむしろ重要だ。
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「ヒステリックノンポリ」=「ノイジィ・サイレント・マジョリティ」
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プラグマティズムに支えられ、なおかつ利用価値の高い人々の多い言葉は力を持つが、しばしばそのコンテクストの特殊性が忘れられる。そのことが公共を毀損する事がしばしばあって、所詮ある領域の倫理に過ぎぬものを恰も公共道徳のように語られることは、その力の強さと混同の危険性の高さから多少のエクスキューズを伴ってでも良い感じはしない。そしてこういった事に怒らなければならない人々は往々にして少数派であり力を持たない。
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県知事選はかなり微妙。ポスター見ると威勢はいいけど滅茶苦茶な事を書いている奴は除外、現職は雰囲気的、感情的なことしか書いてなくて印象悪い。しかしより具体的な事を書いている他有力候補の訴えに若干不安要素もあり。共産の「打倒安倍政権」ってのはちょっとウチの県知事選挙だとピントはずれが過ぎる気もして、なんか一人はともかくあとは全員微妙。
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メアリーケイト・ヤーンはドール用の目、毛糸、付け睫毛があると簡単に作る事ができる!
オリキャラ
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[ぼんやり]ハイクのチラ裏感って、アクセス解析とか付いてないし付けられないってところも大きいかも。
女の子と密室にいたら○○しちゃうかもしれない。
不可解な殺人事件の犯人探し
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昔から人の耳の形と言うものが好きだ。それがどのようにと言うことについて今迄言語化できていなかったが、おそらくそれは最も見慣れた謎としてそこにあるからではないかと。別に隠すようなものではないが、かと言ってあまり「今日耳色よくないよね」とか言わないように、感情や体調を表わしたりといった基本的な交流においておよそ意味を持つものではない感覚と、その何でもないものであるわりに奇妙に複雑な形状のものが、コミュニケーションの核たる顔の両脇についていると言うことが気になって仕方がない。鼻も同じくコミュニケーションにおいて視覚的にあまり機能してないっぽいけど、何か鼻は動物的、あさましさ、下半身的、糞便的なものに繋がっている感覚がどこかにあって、おそらく壁に耳のレリーフと鼻のレリーフ、飾るならどちらかと尋ねられれば間違いなく耳と答えるだろう。象徴的には耳の方が鼻より、あるいは瞳と同じぐらいに神秘的なものがあるような気がしている。
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なんとなく、コスプレイヤーとチェスプレイヤーは似ているなとか思いつつ、一流のチェスプレイヤーが人工知能に破れるとかみたいに、一流のコスプレイヤーが人工知能に破れるとか謎の何かを受信。しかし、一応医学的なCADデータは既にある状況、ビッグデータを背景に人工的に美形が計算されてもおかしくはなく、そうやって作られた架空のコスプレイヤーがあたかも存在するかのようにネット上でパフォーマンスをすると言うような研究、どこかやりませんかね。
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[ぼんやり]youtube で自動プレイを有効にしてるとどんどんわけのわからないビデオとか上映されてそれはそれで面白い。わけのわからないってことはないのだけど、そんななかでシャフトX西尾維新の物語シリーズの一部が流れて、そこでウルトラマンのパロディとかが微妙にちりばめられたやつがあって、英語のコメントが並ぶのとかを見て、今後中国とかインドとかブラジルとかがなんらかのコンテンツにおいての覇権を得ると、現状よくわからず見向きもしていない向うのコンテンツについての知識が価値を持ってくる時代とかってくるんだろうなとか思ったりもしつつ。
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このへんを考えるのに、SNS後の社会ではおそらく以前の「スクールカースト」等よりは余程複雑な状況になっているのではないかって事で、とくに高校生ぐらいになると以前に比べ深い多重性の世界を子供達は生き、大人になっても続くスクールカーストの抑圧みたいな構図はそれなりに緩和されているのではないかと言うことと、多重化された社会のなかでそれぞれにカーストが生まれてくると言うことで。たとえばかつてのコミケと現在のコミケを比べ、参加者が小綺麗になり、コスプレイヤー達にも目をみはるような美形のひとびとが増えた。そればかりかコミケでナンパやその出会いの結果としての行為をのろけるが如く撮影し販売されている状況と言うのは、コミケが性的強者の為のものにもなった事を示すが、そういう性的強者の彼ら彼女らが日常においても強者かと言えばそうとは限らず、やはり「日常において注目されない存在であるが故、コスプレイヤーとして視線を浴びたい」と言うかつての「弱者の為のコミケ」と同じような構図と共存していたりで、たとえば「コミケはもはや弱者の救いの場ではない」と言うような言い様も不適切なものにもなるってことと、やっぱりコスプレをしてもいまいちのめりこめないし評価もされない、絵を描いてもいまいち、音楽をしようとしてもいまいち、いまいち同士の連帯の輪にも入れない、それは自分の生きる多重な世界の全てにおいてそうだし、そんな自分を心底愛せもしないと言う人はやっぱり一定数いると考えるべきだ。
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んでもともとの話題の文脈に帰るとここで問題になっているのは中年化したナードたちが傷を舐めあい結束する様式が周囲を混乱させ、この場面ではフェミニズムが巻き込まれている問題となるのだが、ナードたちの傷を舐めあう以外の救いと言うのがちがうあり方への変化となると、はたしてそれは中年にとって酷なものになりえるのではないかと。正直その手の変化の可能性は死ぬまで維持しろよって風には思うんだけど、そういうのは単なるマッチョ主義かもしれんて、変化へ希望を持てない人はどうなるのかなみたいな事。とは言っても一人のなかでナードとワナビーやナードとギークが共存している場合、救いのあまりないナード部分に自覚的になることでそんなに苦しまずにありようが変化できるのかなとは思うが、おそらくそうやって変化すれば本当にナードでしかない人達と言うのは結束できる命綱をどんどん失うことになるのではないだろうか。そう思えばある程度以上のバカを「仕方ないなぁ」とそっとしておくぐらいしかないって事と、どのような場面でも一定数バカがいつづけるって事を意識しながら、とりあえず「ああ、そういうバカか」とその種類を識別し、無視できるのならば適当に「仕方ないなぁ」と無視をするようなプラクティスってのはあってもいいのかもなとも。
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この話で挙げられた「オタク」っての、フェミニズムと言う言葉で本来フェミニズムが批判していたはずのものを呼んで、それに期待を裏切られているのと同じように、オタクに対してもその言葉が持つ「周囲の評価など気にせず自らの興味のために邁進する人」にもなれずあくまで「モテ」と言う他者評価を気にし続けている、彼らが嫌うとしている非オタクとしての「DQN」と基本的態度としてあまり変わらないところもあるんじゃないか。おそらくモテが性的な対象からの評価であるとともに群の中での優位を示す指標として、優位男性になれないと言うことを悲しむのは少なくともそれ自体オタク的な事ではない。要するに彼らはオタクとしても偽物なんだけれど、なんで偽オタクがオタクを騙るのかと言えばそうやって優位男性になれない悲しみに対しての防衛機制としてって事なんじゃないのかなと。なんとなくここは「ギーク」と「ナード」の違いみたいな話ではないかって気がするけど、多分アメリカ型スクールカーストの分類ってのは呼び名こそアメリカ的だけれどかなり普遍的なもんで結構使えるんじゃないかとかもしかして人口が多い分こなれているところはあるんじゃないかと。ところでナードの救いってのは3種類あって、1.自身の嫉妬を超克しギーク化する 2.社会的地位を獲得する何らかの力を得んとワナビー化する 3. あくまでナードとして結束しあい傷を舐めあう って事しかないんだけれど、おそらく 2 と 3 の間に先述の機制のような形での欺瞞が多く含まれ、それが周囲を混乱させるものになりえると。あとまぁ、そういう移動がありえるのなら「この人はナード、この人はワナビー、この人はギーク」みたいなものってのはなくて、ひとりの人の中で複数の意識が共存しているって事はあるのだろうなと。
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殺人を題材にしたエンターテイメントがあっても問題化されないのに、なぜ性を題材にしたものは問題化されるのかと言うのは結局、殺人のタブーが性のタブーよりも厳然としてある文化に支えられているからにほかならず、性への欲望を存分に楽しみたいのであれば、その規範の形がより公正な形で厳然としてなければならない。単に性のタブーがあれば良いと言うのであれば、この国では明治以降に定着したにすぎないらしいキリスト教的な純潔主義のようなものでもいいかもしれないが、それは今日的な公共とは相容れないものであり、結局のところ今日的な規範はフェミニズムを参照するしかないのではないかと。
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児童ポルノのような場面で、ジュニアアイドルの事を思えばいわゆるポルノの側が禁止される事でエンターテイメント側の勇み足を招いていると言うような例もある事を思いだしたり。とはいっても勿論ポルノの側を解禁すべきではないだろう。結局これはジュニアアイドルの方も規制するしかなく、単純に規制と言う面から考えると結局マンガとか精巧なCGとかは規制から外すと言うほかないのかなと。んで問題となるのは、とくに少女が性的な対象とされる種類のポルノは男権主義的なものとして捉えられやすく(そういうものとして消費するユーザもいるだろうし、自覚がなければその方向に倒錯することもある)やはり流通面での問題があって、多分単にゾーニングするということよりはよりそういった男権主義的なものはあくまでサディスティックな倒錯でありタブーに触れるものであると言うことを強く意識した文化を作る必要があるのではないだろうか。ジュニアアイドルのようなものもコスチュームのきわどさや握手会のような過剰な接触を商品化するようなものは禁止されるべきだし、未成年アイドルの枕営業のスキャンダル等でのマーケッティングは厳しく禁止されるべきだろうし、そういった&#34;接待&#34;の事実があるなら厳しくとりしまられるべきだろう。また、無駄に女性の胸がゆれるゲームとか作るんなら同じ作品のなかで無駄に男性の股間がゆれたり勃起したりするとか、そういったバランスが求められてもいいんじゃないのかなとか。つーか、オカズを守りたいのならオカズじゃないところでより意識的になると言う発想ってのはアリなんじゃないかなーとか。
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芸術を考えるのに芸術ならぬもの…と言うか芸術の条件にはならないものとして実用を挙げ、実用のなかでとくに生産性に結びつかないもの、直接的な欲望の充足を目的としたものをポルノと呼ぶような語の用いかたを好んではきている。芸術は生産と言うよりは解体や点検の契機となる装置で、とくに欲望に対しては充足するよりは欲望そのもののかたちを直視せよと迫るものだ。ところでこの語の用いかたでは少し困る事があって、それは「いわゆるポルノ」についての言及がしにくいことで、たとえば「性ポルノ」と対象となる欲望を限定するにしても、アイドルや萌えものなど規範の範囲内で欲望を充足させるものと、いわゆるポルノのように規範から身を解き放ちたい欲望や、規範の外側にいる事を実感する羞恥心を味わいたい欲望の充足を加え快感を増幅するものとの区別がつかなかったりする。とくにこのへんについて言及するときは「ポルノとエンターテイメント」と言う語によってその区別をつければいいのかなとか思うけれど、おそらくこの「規範」の範囲は社会的にはもちろんおそらくは人によっては可変と言うことも注目すべきことかもしれない。先の例、芸術を考えるときにはとくに芸術の条件が規範となるためそこから逸脱するものは羞恥心を孕んでくる。また、「愛国ポルノ」「自己啓発ポルノ」などはその欲望の構造について自覚的な人にとっては羞恥心を孕むもので「愛国エンターテイメント」「自己啓発エンターテイメント」と言うよりは「ポルノ」と言うのが適切なものになるのではないだろうか。ところで性におけるいわゆるポルノが問題化するときってのは、その制作課程に深刻な人権蹂躙があると言う例を除けば、規範と羞恥心の線引きのありかたが問題で、実のところポルノそのものの罪と言うよりは流通やエンターテイメント側の勇み足を問題化すべきなのかなと言う気がしている。
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モテるためのフェミニズムと言う奇想天外な発想に脳天直撃されてどう考えたらいいのかよくわからなかったんだが、モテるためにバンド始めて一生懸命ギターとか練習するんだけど別にそれでモテるようになったりしない事に気付いた人がモテたい属性の人々や音楽を攻撃するようになったりはしないだろうと思うし、じゃあフェミニズムの場合はなんでそういう発想になるのかと言えばセクシズム的前提を当然のものとし、その当然のものを超えた事をする俺エラいみたいな発想で、それ全くフェミニズムじゃねーじゃん、レディファーストかなんかじゃないのと、そもそも誤認によって明後日の方向を攻撃している人々がいると言うトホホ状況が浮びあがってくるのだな。んで、こーゆー話を「バカの話」として処理をしてもいいし、実際問題そういうバカがどの程度問題になる量いるかとかはよくわからないんだけれど、たとえば植村記者を吉田証言の記事を書いた記者だと誤認したり、河野太郎氏と河野洋平氏の区別をつけないまま余計なdisを振り撒くような人々とか後を絶えず、それが言論空間の劣化を招いているところもあると思うので、とりあえずファシリテータ指向でものごとを考えるってことと、よくわからない事に対してはとりあえず黙っておくって規範を解りやすく示せるようになりたいなと思ったりする次第。
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頭のなかで「ベクトルフィールド・顕子」となんか抽象的な雰囲気の呼びかたをすると、あの情緒溢れる音楽が奇妙に聴こえてくる遊び。
カバー以外演奏禁止
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好きなキング
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