Hatena::ブログ(Diary)

たまスパ

20110117

moccur が delete-other-windows するのが嫌なので

ウインドウ分割しまくりなので、あの仕様はツラい。

別に elscreen-create してからでもいいけど、わりとストレスになってたので。

   (defvar my-moccur-cancel-delete-windows nil)

   (dolist (func '(moccur-search
                   moccur-search-files
                   moccur-grep-sync-kill-buffers
                   moccur-mode-goto-occurrence
                   search-buffer-goto))
     (eval `(defadvice ,func (around my-rc:moccur activate)
              (let ((my-moccur-cancel-delete-windows t))
                ad-do-it))))

   (defadvice delete-other-windows (around my-rc:moccur activate)
     (unless my-moccur-cancel-delete-windows
       ad-do-it))

ただ、これ、コマンド実行をキャンセルしたり、途中でエラー出た場合、しばらく delete-other-windows が使えなくなっちゃう諸刃の剣

いい方法ないものかな。

20101215

まぁいくらデフォルトの見栄えが好きといっても

さすがに見にくいので、とりあえず、公式のテーマを使うことにする。

id:antipop さんの Hatena::Let のための emacs 拡張を使って、hatena-let/edit を書く

Hatena::Let ちょー便利。でも、emacs で使いたいねって思ってたら、id:antipop さんが Hatena::LetのエディタをEmacsにする - delirious thoughts にて保存する手続きを公開されてたんで、define-derived-mode して作ったモードから呼び出せるようにするんと、deferred 使ってソースを取ってくるのと組み合わせたら、すぐにできた。

あと、 hatena-let/new とか出来るといいな。

     (defconst hatena-let-mode-map
       (let ((km (make-sparse-keymap)))
         (define-key km (kbd "C-x C-s") 'hatena-let/save-code)
         km))

     (define-derived-mode hatena-let-mode js2-mode "hatena-let" ""
       )

     (defun hatena-let/edit ()
       (interactive)
       (let ((buf (get-buffer-create "*hatena-let*")))
         (switch-to-buffer buf)
         (deferred:$
           (deferred:url-post 
             "http://let.hatelabo.jp/api/code"
             `(("api_key" . ,hatena-let/apikey)))
           (deferred:nextc it
             `(lambda (gbuf)
                (set-buffer ,buf)
                (goto-char (point-min))
                (insert
                 (save-excursion
                   (set-buffer gbuf)
                   (decode-coding-string
                    (buffer-substring-no-properties 
                     (point-min)(point-max))
                    'utf-8)))
                (hatena-let-mode)
                (goto-char (point-min)))))))

ありゃ、CSSが

さくらサーバCSS置いてたの忘れてた。

契約更新すべきかどーか迷ってる間に CSS が取れんくなったのね。

負け惜しみではないけど、実はCSSがない素の構造化だけの見栄えって結構好きだったりする。

20101205

ほにゃらら-hook ってないのかなーとか思ったときに

(let ((L ()))
  (mapatoms
   (lambda (atom)
     (let ((name (symbol-name atom)))
       (if (and (boundp atom)
                (string-match "-\\(hooks?\\|functions\\)\\'" name)
                (not (string-match "-mode-hook" name))
                (not (string-match "\\`ange-ftp-" name))
                (not (string-match "\\`bookmark-" name))
                (not (string-match "\\`comint-" name))
                (not (string-match "\\`custom-" name))
                (not (string-match "\\`cl-" name))
                (not (string-match "\\`byte-compile-" name))
                (not (string-match "\\`Info-" name))
                (not (string-match "\\`calendar-" name))
                (not (string-match "\\`cperl-" name))
                (not (string-match "\\`eieio-" name))
                (not (string-match "\\`tramp-" name))
                (not (string-match "\\`vc-" name))
                (not (string-match "\\`speedbar-" name))
                (not (string-match "\\`semanticdb-" name))
                (not (string-match "\\`semantic-" name))
                (not (string-match "\\`elscreen-" name))
                (not (string-match "\\`rmail-" name))
                (not (string-match "\\`dired-" name))
                (not (string-match "\\`url-" name))
                (not (string-match "\\`column-number-mode-" name))
                )
           (setq L (cons atom L))))))
  (dolist (a (sort L (lambda (a b) (string< (symbol-name a)(symbol-name b)))))
    (insert (format "%s\n" a)))
  (length L))

こんなのを書いて候補を絞り込みつつ探している私です。

id:lieutar
[ラジオのCMを思いだしつつ]「情熱」と言う言葉をそれがあれば良いもののような語り口が嫌いで、感情の昂りなど良い方にも悪い方にも動く代物だし悪い方に動くときはより被害を大きくする代物なのになんで…と思ってきたのだが、感情の昂るときに分泌される脳内麻薬を考えれば人々がそれを好むのはむしろ自然なことかもしれないとも思ったり、それを聖化して見るところにある種の機制のパターンがあるのかもとか。
今起きたことをありのままに話すと
その音楽家や似た傾向の音楽が流れる事を期待してyoutubeで自動再生を有効にしてあるミュージックビデオを見てたら、出演している俳優の紹介らしいビデオが流され、音楽方面に戻る気配がない。
id:lieutar
サイレント・マジョリティの政治における主な指向性が社会を捨てる事か自身を捨てる事となった社会の政治は基本的に失敗している。現政権の得票数と前政権時の票の組成の話を聞いてからは、この国においては死後に巣喰った腐敗菌としての政権よりも、むしろ元気だったかのように見える最後の政権において何が起きたかと言うことが重要ではないかと思うようになってきている。腐敗菌は蘇生の可能性をますます奪って行こうとするだろうが、それはもうそういう生き物として見るしかない。腐敗のなかには当時の不幸な事件を認知を歪める形で利用するものもある。その背後にある欲望が見えるのならば絡めとられることはないが、そういう輩に利用できると言う事実がむしろ重要だ。
id:lieutar
「ヒステリックノンポリ」=「ノイジィ・サイレント・マジョリティ」
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150330/20150330005015.jpg?1427644296
id:lieutar
プラグマティズムに支えられ、なおかつ利用価値の高い人々の多い言葉は力を持つが、しばしばそのコンテクストの特殊性が忘れられる。そのことが公共を毀損する事がしばしばあって、所詮ある領域の倫理に過ぎぬものを恰も公共道徳のように語られることは、その力の強さと混同の危険性の高さから多少のエクスキューズを伴ってでも良い感じはしない。そしてこういった事に怒らなければならない人々は往々にして少数派であり力を持たない。
id:lieutar
県知事選はかなり微妙。ポスター見ると威勢はいいけど滅茶苦茶な事を書いている奴は除外、現職は雰囲気的、感情的なことしか書いてなくて印象悪い。しかしより具体的な事を書いている他有力候補の訴えに若干不安要素もあり。共産の「打倒安倍政権」ってのはちょっとウチの県知事選挙だとピントはずれが過ぎる気もして、なんか一人はともかくあとは全員微妙。
id:lieutar
メアリーケイト・ヤーンはドール用の目、毛糸、付け睫毛があると簡単に作る事ができる!
オリキャラ
id:lieutar
[ぼんやり]ハイクのチラ裏感って、アクセス解析とか付いてないし付けられないってところも大きいかも。
女の子と密室にいたら○○しちゃうかもしれない。
不可解な殺人事件の犯人探し
id:lieutar
昔から人の耳の形と言うものが好きだ。それがどのようにと言うことについて今迄言語化できていなかったが、おそらくそれは最も見慣れた謎としてそこにあるからではないかと。別に隠すようなものではないが、かと言ってあまり「今日耳色よくないよね」とか言わないように、感情や体調を表わしたりといった基本的な交流においておよそ意味を持つものではない感覚と、その何でもないものであるわりに奇妙に複雑な形状のものが、コミュニケーションの核たる顔の両脇についていると言うことが気になって仕方がない。鼻も同じくコミュニケーションにおいて視覚的にあまり機能してないっぽいけど、何か鼻は動物的、あさましさ、下半身的、糞便的なものに繋がっている感覚がどこかにあって、おそらく壁に耳のレリーフと鼻のレリーフ、飾るならどちらかと尋ねられれば間違いなく耳と答えるだろう。象徴的には耳の方が鼻より、あるいは瞳と同じぐらいに神秘的なものがあるような気がしている。
id:lieutar
なんとなく、コスプレイヤーとチェスプレイヤーは似ているなとか思いつつ、一流のチェスプレイヤーが人工知能に破れるとかみたいに、一流のコスプレイヤーが人工知能に破れるとか謎の何かを受信。しかし、一応医学的なCADデータは既にある状況、ビッグデータを背景に人工的に美形が計算されてもおかしくはなく、そうやって作られた架空のコスプレイヤーがあたかも存在するかのようにネット上でパフォーマンスをすると言うような研究、どこかやりませんかね。
id:lieutar
[ぼんやり]youtube で自動プレイを有効にしてるとどんどんわけのわからないビデオとか上映されてそれはそれで面白い。わけのわからないってことはないのだけど、そんななかでシャフトX西尾維新の物語シリーズの一部が流れて、そこでウルトラマンのパロディとかが微妙にちりばめられたやつがあって、英語のコメントが並ぶのとかを見て、今後中国とかインドとかブラジルとかがなんらかのコンテンツにおいての覇権を得ると、現状よくわからず見向きもしていない向うのコンテンツについての知識が価値を持ってくる時代とかってくるんだろうなとか思ったりもしつつ。
id:lieutar
このへんを考えるのに、SNS後の社会ではおそらく以前の「スクールカースト」等よりは余程複雑な状況になっているのではないかって事で、とくに高校生ぐらいになると以前に比べ深い多重性の世界を子供達は生き、大人になっても続くスクールカーストの抑圧みたいな構図はそれなりに緩和されているのではないかと言うことと、多重化された社会のなかでそれぞれにカーストが生まれてくると言うことで。たとえばかつてのコミケと現在のコミケを比べ、参加者が小綺麗になり、コスプレイヤー達にも目をみはるような美形のひとびとが増えた。そればかりかコミケでナンパやその出会いの結果としての行為をのろけるが如く撮影し販売されている状況と言うのは、コミケが性的強者の為のものにもなった事を示すが、そういう性的強者の彼ら彼女らが日常においても強者かと言えばそうとは限らず、やはり「日常において注目されない存在であるが故、コスプレイヤーとして視線を浴びたい」と言うかつての「弱者の為のコミケ」と同じような構図と共存していたりで、たとえば「コミケはもはや弱者の救いの場ではない」と言うような言い様も不適切なものにもなるってことと、やっぱりコスプレをしてもいまいちのめりこめないし評価もされない、絵を描いてもいまいち、音楽をしようとしてもいまいち、いまいち同士の連帯の輪にも入れない、それは自分の生きる多重な世界の全てにおいてそうだし、そんな自分を心底愛せもしないと言う人はやっぱり一定数いると考えるべきだ。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150328/20150328045652.jpg?1427486235
id:lieutar
んでもともとの話題の文脈に帰るとここで問題になっているのは中年化したナードたちが傷を舐めあい結束する様式が周囲を混乱させ、この場面ではフェミニズムが巻き込まれている問題となるのだが、ナードたちの傷を舐めあう以外の救いと言うのがちがうあり方への変化となると、はたしてそれは中年にとって酷なものになりえるのではないかと。正直その手の変化の可能性は死ぬまで維持しろよって風には思うんだけど、そういうのは単なるマッチョ主義かもしれんて、変化へ希望を持てない人はどうなるのかなみたいな事。とは言っても一人のなかでナードとワナビーやナードとギークが共存している場合、救いのあまりないナード部分に自覚的になることでそんなに苦しまずにありようが変化できるのかなとは思うが、おそらくそうやって変化すれば本当にナードでしかない人達と言うのは結束できる命綱をどんどん失うことになるのではないだろうか。そう思えばある程度以上のバカを「仕方ないなぁ」とそっとしておくぐらいしかないって事と、どのような場面でも一定数バカがいつづけるって事を意識しながら、とりあえず「ああ、そういうバカか」とその種類を識別し、無視できるのならば適当に「仕方ないなぁ」と無視をするようなプラクティスってのはあってもいいのかもなとも。
id:lieutar
この話で挙げられた「オタク」っての、フェミニズムと言う言葉で本来フェミニズムが批判していたはずのものを呼んで、それに期待を裏切られているのと同じように、オタクに対してもその言葉が持つ「周囲の評価など気にせず自らの興味のために邁進する人」にもなれずあくまで「モテ」と言う他者評価を気にし続けている、彼らが嫌うとしている非オタクとしての「DQN」と基本的態度としてあまり変わらないところもあるんじゃないか。おそらくモテが性的な対象からの評価であるとともに群の中での優位を示す指標として、優位男性になれないと言うことを悲しむのは少なくともそれ自体オタク的な事ではない。要するに彼らはオタクとしても偽物なんだけれど、なんで偽オタクがオタクを騙るのかと言えばそうやって優位男性になれない悲しみに対しての防衛機制としてって事なんじゃないのかなと。なんとなくここは「ギーク」と「ナード」の違いみたいな話ではないかって気がするけど、多分アメリカ型スクールカーストの分類ってのは呼び名こそアメリカ的だけれどかなり普遍的なもんで結構使えるんじゃないかとかもしかして人口が多い分こなれているところはあるんじゃないかと。ところでナードの救いってのは3種類あって、1.自身の嫉妬を超克しギーク化する 2.社会的地位を獲得する何らかの力を得んとワナビー化する 3. あくまでナードとして結束しあい傷を舐めあう って事しかないんだけれど、おそらく 2 と 3 の間に先述の機制のような形での欺瞞が多く含まれ、それが周囲を混乱させるものになりえると。あとまぁ、そういう移動がありえるのなら「この人はナード、この人はワナビー、この人はギーク」みたいなものってのはなくて、ひとりの人の中で複数の意識が共存しているって事はあるのだろうなと。
id:lieutar
殺人を題材にしたエンターテイメントがあっても問題化されないのに、なぜ性を題材にしたものは問題化されるのかと言うのは結局、殺人のタブーが性のタブーよりも厳然としてある文化に支えられているからにほかならず、性への欲望を存分に楽しみたいのであれば、その規範の形がより公正な形で厳然としてなければならない。単に性のタブーがあれば良いと言うのであれば、この国では明治以降に定着したにすぎないらしいキリスト教的な純潔主義のようなものでもいいかもしれないが、それは今日的な公共とは相容れないものであり、結局のところ今日的な規範はフェミニズムを参照するしかないのではないかと。
id:lieutar
児童ポルノのような場面で、ジュニアアイドルの事を思えばいわゆるポルノの側が禁止される事でエンターテイメント側の勇み足を招いていると言うような例もある事を思いだしたり。とはいっても勿論ポルノの側を解禁すべきではないだろう。結局これはジュニアアイドルの方も規制するしかなく、単純に規制と言う面から考えると結局マンガとか精巧なCGとかは規制から外すと言うほかないのかなと。んで問題となるのは、とくに少女が性的な対象とされる種類のポルノは男権主義的なものとして捉えられやすく(そういうものとして消費するユーザもいるだろうし、自覚がなければその方向に倒錯することもある)やはり流通面での問題があって、多分単にゾーニングするということよりはよりそういった男権主義的なものはあくまでサディスティックな倒錯でありタブーに触れるものであると言うことを強く意識した文化を作る必要があるのではないだろうか。ジュニアアイドルのようなものもコスチュームのきわどさや握手会のような過剰な接触を商品化するようなものは禁止されるべきだし、未成年アイドルの枕営業のスキャンダル等でのマーケッティングは厳しく禁止されるべきだろうし、そういった&#34;接待&#34;の事実があるなら厳しくとりしまられるべきだろう。また、無駄に女性の胸がゆれるゲームとか作るんなら同じ作品のなかで無駄に男性の股間がゆれたり勃起したりするとか、そういったバランスが求められてもいいんじゃないのかなとか。つーか、オカズを守りたいのならオカズじゃないところでより意識的になると言う発想ってのはアリなんじゃないかなーとか。
id:lieutar
芸術を考えるのに芸術ならぬもの…と言うか芸術の条件にはならないものとして実用を挙げ、実用のなかでとくに生産性に結びつかないもの、直接的な欲望の充足を目的としたものをポルノと呼ぶような語の用いかたを好んではきている。芸術は生産と言うよりは解体や点検の契機となる装置で、とくに欲望に対しては充足するよりは欲望そのもののかたちを直視せよと迫るものだ。ところでこの語の用いかたでは少し困る事があって、それは「いわゆるポルノ」についての言及がしにくいことで、たとえば「性ポルノ」と対象となる欲望を限定するにしても、アイドルや萌えものなど規範の範囲内で欲望を充足させるものと、いわゆるポルノのように規範から身を解き放ちたい欲望や、規範の外側にいる事を実感する羞恥心を味わいたい欲望の充足を加え快感を増幅するものとの区別がつかなかったりする。とくにこのへんについて言及するときは「ポルノとエンターテイメント」と言う語によってその区別をつければいいのかなとか思うけれど、おそらくこの「規範」の範囲は社会的にはもちろんおそらくは人によっては可変と言うことも注目すべきことかもしれない。先の例、芸術を考えるときにはとくに芸術の条件が規範となるためそこから逸脱するものは羞恥心を孕んでくる。また、「愛国ポルノ」「自己啓発ポルノ」などはその欲望の構造について自覚的な人にとっては羞恥心を孕むもので「愛国エンターテイメント」「自己啓発エンターテイメント」と言うよりは「ポルノ」と言うのが適切なものになるのではないだろうか。ところで性におけるいわゆるポルノが問題化するときってのは、その制作課程に深刻な人権蹂躙があると言う例を除けば、規範と羞恥心の線引きのありかたが問題で、実のところポルノそのものの罪と言うよりは流通やエンターテイメント側の勇み足を問題化すべきなのかなと言う気がしている。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150326/20150326042515.jpg?1427311534
id:lieutar
モテるためのフェミニズムと言う奇想天外な発想に脳天直撃されてどう考えたらいいのかよくわからなかったんだが、モテるためにバンド始めて一生懸命ギターとか練習するんだけど別にそれでモテるようになったりしない事に気付いた人がモテたい属性の人々や音楽を攻撃するようになったりはしないだろうと思うし、じゃあフェミニズムの場合はなんでそういう発想になるのかと言えばセクシズム的前提を当然のものとし、その当然のものを超えた事をする俺エラいみたいな発想で、それ全くフェミニズムじゃねーじゃん、レディファーストかなんかじゃないのと、そもそも誤認によって明後日の方向を攻撃している人々がいると言うトホホ状況が浮びあがってくるのだな。んで、こーゆー話を「バカの話」として処理をしてもいいし、実際問題そういうバカがどの程度問題になる量いるかとかはよくわからないんだけれど、たとえば植村記者を吉田証言の記事を書いた記者だと誤認したり、河野太郎氏と河野洋平氏の区別をつけないまま余計なdisを振り撒くような人々とか後を絶えず、それが言論空間の劣化を招いているところもあると思うので、とりあえずファシリテータ指向でものごとを考えるってことと、よくわからない事に対してはとりあえず黙っておくって規範を解りやすく示せるようになりたいなと思ったりする次第。
id:lieutar
http://i4.ytimg.com/vi/tBrfms0TkbE/default.jpg
id:lieutar
頭のなかで「ベクトルフィールド・顕子」となんか抽象的な雰囲気の呼びかたをすると、あの情緒溢れる音楽が奇妙に聴こえてくる遊び。
カバー以外演奏禁止
http://i4.ytimg.com/vi/EHtBgxN62pg/default.jpg
好きなキング
http://i4.ytimg.com/vi/kO-ZPNrsyLM/default.jpg
id:lieutar
http://www.thiel-a-vision.com/images/games/dnd/dndroper.jpg
何かを受信
明りをつけましょ Don’t worry be (happy).
大差がつく
                \ │ /                 / ̄\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄               ─( ゚ ∀ ゚ )< たいさまたいさま!                 \_/   \_________                / │ \                    ∩ ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< たいさまたいさまたいさま!たいさま〜〜〜!   >( ゚∀゚ )/ |    / \__________________/ |    〈 |   |              / /\_」 / /\」               ̄     / /
id:lieutar
「ネトウヨが増えるのはサヨクの物言いが悪いせいだ」と言いつつ日頃「サヨクガー」とサヨク叩きに勤しむ人々と言うのもこの種の甘えの中にいるわな。何故か自分達に一切の責任が無いことにしているのな。
id:lieutar
「リベラルはこの手のサヨクを非難すべきだ」「保守はネトウヨを非難すべきだ」「差別されたくないのならば、貴方方の中の犯罪者と貴方方が違う者である事を貴方方は示す必要がある」「汝、つぶてを持て魔女と関わりなきを示せ」まとめて「ばーか、甘えんな」と言っておく。これはにとくに「aはAを語っているが、真のAではない。私は得にAではないが、Aの者はaを非難すべきだ」と言うのは最悪で、「私は貴方方を峻別する能力を持ってはいるが、その判断力を行使するのは面倒なのでその責任はAが負うべきだ」と言っているに過ぎず、また「Aがaを非難しない限りは私は同じものとして扱うだろう」と言うのは、既にAを差別している事を表明しているに過ぎない。甘えとは責任の放棄のことである。
id:lieutar
性的弱者であるヘテロ男性で自分自身セクシズムを嫌悪し、たとえば自身の性的抑圧と性欲の葛藤から開放を百合ものファンタジーとかに求めるわりにフェミニストとは距離を置きたいと言う人々と言うのは一定数いて、彼らがフェミニズムに寄り添えないのは、それが自身が抱える性的文脈において忘れられた存在であるが故の悲しみを、欲望を受ける苦しみに重ねられないと言うこともあるのだと思う。ただいつも思うのはこの手の人は欲望されない女性がいること、欲望される事が難しいのに「あなたは女性なのだから欲望されるべきだ」と言うメッセージに晒される苦しみに苛まれ続ける人々が見えていないのではないか、それは彼らにとって彼女たちが自身の欲望の外側にあってそれ故に見えないのではないかと言うことで、その目の曇りは何が引き起しているのかと言うことが可成気になっている。もしかして、性的弱者の救いとしてのオカズ達がセクシズムの中でしか流通できていない状況とかがあって、そのへんの整理が出来ないとかあるのかなーとか思ったりもするけど、自分自身これも整理できてないところだなー。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150322/20150322202805.jpg?1427023689
id:lieutar
煮物は満足できる味になるとそこそこ嬉しいのだが、この嬉しさは調理した当人にしかわからず振る舞われる方からするといまひとつパっとしない料理と言う感じがする。なので腕を振うときには煮物を選ぶとより得をした気がするが、それはとくに何を食べたいと言うものがないときのことで、調理人特権が最大化するときはメニューの選択権が調理人にあり、なおかつ具体的に食いたいものがあるときに好みの味つけがある程度可能なことだろう。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150322/20150322054959.jpg
id:lieutar
洋服の機能性と言うものはものすごく高くて、洋服が流入した地域の「民族衣装」はだいたいなんらかの式典など特殊なときに着るだけのものになって行ってるように思っていて、さらに着目すべきなのは熱い地域で熱くてほとんど着衣らしいものを必要としなかったかのように見える人々がTシャツで日常生活しているのがあたりまえになって行く風景。その機能性の高さと言うのは西欧の苛烈な戦争と略奪の歴史が築き上げたものなんだよなと言うことを思いだしつつ、ホルバインの肖像画とかに出てくる着飾った王侯貴族の姿とか思いだしてた。着飾った王侯貴族の姿と言うのは社会構造と性における服飾の意識の変化の象徴のようにも感じていたのだが、ふと縫製技術が軍事技術でもあったような時代に権力者がその技術を誇示するような服を着る意味ってのは、多分F1レースみたいな意味合いもあったんじゃないかとか考えていたことを思いだした。
id:lieutar
ジョンテはもしかしてドラァグクイーンとかも参照してるかもなーとか思いつつ。ドラァグクイーン怪物視みたいのあるしそういうのに&#34;自然に&#34;(=素朴に)同調していた時期が自分にもあるけど、ドラァグクイーンが怪物なら女装の激しい女性もやはり怪物。(こわい爪つけてたりするし)むしろそこに感じる恐怖ってのは何か「飾りたてること」がある種の不気味さを生むようなこと、何か根源的なものに結びついてる気がする。
id:lieutar
http://i4.ytimg.com/vi/2eMQnT6tl2E/default.jpg
今脳内に流れてる曲は?(リアルでかかってなくてOK)
http://i4.ytimg.com/vi/IrGGW1qmsks/default.jpg
id:lieutar
セクシズムへのカウンター活動に「フェミ」と付いてしまっているのは歴史的には解るし、それが出てくる文脈も理解はできるのだが、おそらく男性側の差別被害者のなかに「フェミ」と付いてしまっているが故によりかかれない人はありえるのかなと。そこにミソジニを見出すのは簡単だが彼のミソジニが優位側男性としてのものではなく、むしろ女性セクシストからのハラスメントを契機にしたものである場合どうなんだろ。セクシズムとは戦いたいが女性とは共闘したくないと言うの、でもたぶんこのタイプの人達ってヴァレリー・ソラナスとかの過激派と似ているものがあるのかもね。
id:lieutar
「差別されているのはむしろ男性の側だ!」とか言いながらフェミニスト(とその人が見做したものを)を叩く人を見て、性差別に&#34;ど本当に差別されているのはどちらか&#34;と言う考えを持ち込む奇妙さを感じつつ。性差別における男性側の不利益を並べながら、故に差別に反対するフェミニストは間違っているってのはものすごく破綻した意見である。もしかすると性差別の不利益の代償を、やはり性差別による利益に求めているのではないかと思えば、貴方を差別しているものは貴方自身じゃないのかと思ったり、あるいは自身が差別的に優遇されるべきだと言う発想を持つ人なのかなと。で、あるならば深刻な自己愛の不安を抱えている人なのかもしれず、とりあえず君を救えるものはそこにはいないのではないかと言うしかないようにも思え。しかし、この種の人々について適切な接しかたってのがわからないもんだから、とりあえず交流を最低限に、必要がないのなら交流を断つと言うのがとりあえずの保身には有効ではあるが、その接しかたの智慧が社会で共有可能なものなのか、それが共有されるやいなや違う形に変質するものなのか。
id:lieutar
ふと「交流」と言う言葉を思いだした。おそらく「交流」のなかに「対話」も含まれるのだろうが、明かにコンテクストの違う言葉でもあり、交流とは好意や悪意、あるいは相手を自分はどういったものとして見做すかと言うことのキャッチボールとして見做す(交流分析なんかじゃストロークと言ってたな)のに対し、対話とはあくまで真理への到達手段であり、その課程でどのような感情的な効果が自身にあろうがプレイヤーにはそれを最大限に押し殺しつつ、むしろ起きた感情的な変化を客観的に観察し続ける事が求められるように思う。(対話をする人が感情的に見えても、「この怒りは表明すべき、隠すべき」と判断が前に入っている事はある)交流における他者とは、交流の失敗によって見出せるものではないかと思え、おそらく他者が強く意識される状況と言うのは交流においてはマズいこと、他者の忘却を目指すものが交流ではないのかなと。対話によって関係性の改善の結果他者忘却は達成されると考えるのならば、「対話」は交流に含まれる。しかし、「対話」とはそももそも他者がそこにある事を尊重するものであり、「対話」の側から「交流」を考えると基本的態度が異質でとてもそのスーパーセットにする事を受け付けないもののようにも思える。おそらくこの「交流」を基本とし、交流のサブセットとして対話を見ることが対話のありかたを限定してしまう要因のひとつではないかと思える。
id:lieutar
ハードコアは流行らない。アニメの殆どもアイドルも実質ポルノなのに流行っているのはソフトコアだからだ。あるいは恥辱の構造自体が流行ってしまえばそれはソフトコア化してしまう。ソフトコアなはずのアニメの衣装に露出狂的なものが多いような状況な。そういうものを心底恥ながら見るのはええもんやでとか思うけどね。あともうひとつ、「大好き」は恥しさの他に徹底的なコンテクストとコストの低さがあるのではないか。低コンテクストかつ低コストなものは「口先だけ」で扱いやすく、それだけでは信用に結びつかないってのがあるんじゃないかなとか、まぁ低コンテクスト社会だと約束を破る事に対する制裁が大きめになることで対応するわけなんだけれど、ともかく高コンテクスト社会だしなぁ。つかなーコストを上げる事で信用を担保するようなのって何とかならんのか。
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親密さの確認の為に行う事で倒錯していないものは「愛している」とか「大好き」と言うこと。あと、とくに攻撃的ではない同じノリを共有すること。同じ音楽を聴いたり、同じ符丁を用いたり、大喜利や連歌のような遊び、集合写真を撮影するとか会食をするとかそういった事じゃないかなと。ノリの共有の方に「悪ノリ」が加わって、しかもそれの「悪」がいまひとつ自覚されないと問題が発生するので、いっそ自覚的になることで発生する激しい罪悪感と羞恥心を刺激に用いるような習慣って開発できたらいいなと言うのが先の投稿。しかし、よく考えると「大好き」と言うのもそうとうに恥しいのにいまひとつ流行らないよね。「恥しいから快感が大きい」はあっても「恥しいから快感が大きくて流行る」ってのはなかなかない。
id:lieutar
外部のタブーに触れることにより結束を高めると言うのは、外部を脅威として見るが故と言うこともあるだろうし、外部を貶めることで親密圏を相対的に引き上げると言うところもあるかと思えば、この構図はヘイトスピーカー達にそのままあてはまる。親密圏を大切にする事そのものは悪くないが、その為の方法を選ばない事に問題があって、たんに内側の様式をくりかえすに止めず、そこに攻撃的なものを含めることで倒錯的、もしかしたら性的な興奮が加わるのではないかとも思える。おそらく倒錯的なものが一切認められない社会と言うのはものすごく息苦しいが、問題はプレイヤー達が自身の行為の倒錯性について無自覚になるときに発生する。羞恥がマゾヒズムを刺激する事を鑑みれば、倒錯性の自覚は快感の増幅装置になるのではないかと思え、倒錯の管理についての習慣は模索すべきかもしれない。
id:lieutar
敗戦までの、旧日帝の&#34;思想&#34;の全てがマズイものだとは思わないが、結局のところ出鱈目な戦争と出鱈目な国民生活を作り敗戦と言う結果を招いた反省が加わらなきゃ使えるもんじゃないのは明かなんでねーのと思う。いやさ、そういう弱くて愚かで悲惨な国を作りたいならいいけど。そういう国ほど特権階級の懐は膨らむしね。旧日帝の&#34;思想&#34;の継承を主張するんなら、問題点を改善しながら使えるものにすると言う「保守」作業をまずやってる姿を見せんといかんのだが、今日日の自称保守の語り口からそれは見えず、単に記号として組込まれていればいいみたいな感じ、一昔前のキャラクターデザインで「ともかくアホ毛が必要!」とか言ってる感じなのよね。三原代議士の例の発言にしたってそういう「アホ毛をつけろ」みたいなもので全く保守じゃねぇよって思ったりもする。あとはまぁ、外部認定したもののタブーを積極的に演じることで結束を高める幼稚さとかも動機にあるんだろーなとか、そのへんの相乗効果だったり、あと宗教保守方面とかだとすると迷信利権として理性そのものを嫌悪するってところもあるんだろーなと。
フグリハイク
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さて、テロリズムついでにISILと北星学園へのテロについてもういちど振り返れば、ISILについては我々の方に積極的に変化すべきところと言うものが見出せるため、「あなただけが変化しなさい」と言うべきではない。少くともあの件に関し、中東を熟知していない全ての人々は反省し、知ろうとするか、それが無理なら関係性をやたらと弄ろうとする者が我々のなかにいるのならそれを止めるべきではないか。少なくとも彼らが空爆により彼らの惨殺パフォーマンス以上の虐殺の被害にあっている事を知っているのではないか。あるいは事の発端が、ブッシュ政権の妄想と暴走であることを知っているのではないか。無論、彼らを聖人や英雄のように見る必要はない。なぜ解体された政権の残党が新たに組織を作るのか、もしかしたらそこに中枢部の利権への欲望があって、そのために多くの人々が殺され犯罪に手を染めさせられているのならば、そんな事に絶対に協力してはならない。少くとも我々の側に落ち度が彼らの目にあることこそが彼らの結束の理由になってはならないのだ。対して北星学園の方は脅迫の事実関係について、少くとも北星学園はよく調査しただろうし、単に植村記者を雇用すると言うことに落ち度が無い事を確認しているはずだし、植村記者は自身の確かさを裁判で明かにしようとしている。問題があるとすれば犯行グループの妄想の中の恐怖であり、そういう場合は「対話」や「議論」よりも「治療」が必要な領域になるのではないだろうか。
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さて、ここまで対話を動作と状態について分けて考えてきたが、あくまで状態にのみ絞って考えたほうが良いように思え、動作については諸々の表現として考えたほうがよいように思う。動作について拘ったのは、多分、ある行為に対し「それは対話ではない」と断ずるものに対しての違和感をなんとかしたいってので包含関係を明かにすることでその違和感はなんとかなるのではないかと思ったのだが、これは包含関係を用いた描写ではなく、むしろ「あらゆる表現は対話の戦術として用いる事が出来る」と言うことであったり、対話というものがそれにより向上させようと言う関係性によって結びつけらたそれぞれの主体全員が一斉にやる必要がなく(一斉にやるのが効率は良いが必ずできるとは限らない)、片方が相手の対話作業を引き受けると言うこともあるのではないかと言うことだ。ところで、「あらゆる表現は対話の戦術として用いる事が出来る」のであれば、一切の暴力や「あなたとは対話ができない」と言う表明すら、対話の為に為されたものと見做す事が可能ではないかと言われるかもしれないが、実は自分はこの立場で「あなたとは対話ができない」と言うのは、「あなたとは対話をしたくない」と言うのを無責任に言ったのでなくそこに責任を見出せるのであれば、「あなたが対話可能なように変化しなければ、私はあなたと共同作業としての対話の場を作る実力がない」と言う表明と見做す事ができるのではないかと。あるいは、ネルソン・マンデラはなぜ武力を行使したのか、それはかつての南アフリカにおける黒人に対する仕打ちが極めて暴力的なものであり、しかも暴力と言う強いメッセージがなければその状況の深刻さが伝わらないと感じたからではないだろうか。おそらく、テロリズムに対し「テロリストは対話をする気がない狂人なのだ」と言う主張は、対話を拒否する自身の姿を恐怖の鏡に投影して語っているものだ。
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対話の条件に「他者」の存在を挙げてきたが、どちらかと言えば「公共」に着目したほうがよいようにも思う。個々の主体は公共を動かすエンジンである。対話する主体は自身の賢明さ以上に自身と他者を含めたものをひとつの主体と課程し、それがより賢明になるためにそれぞれが反省をするのである。「対話をしよう」と言うのは「我々が共有する我々の関係性に着目し、それをよりよいものにしよう」と言う呼び掛けであるようにも思う。「あなたとは対話が出来ない」と言うものは「我々の関係性は良くはならないだろう」と言うものであり、そこには「我々の現状と我々それぞれの実力を鑑みれば不可能だろう」と言うものや「私は貴方との関係性の変化を望まない」と言うものがあると思う。(同居する場合もあるが、独立したものもある)「公共」の条件に「他者」があるようにも思うけれど、その条件は部分集合としての is-a ではなく、参照、もしくは生成と言う性質的なものではないかと。生成があるとしてそれはどの方向か。他者の存在こそが公共を作るのか、それとも公共と言う意識が他者を作るのか。
はてなハイクにカッチョいいサブタイトルをつけませんか
はてなハイク 〜 reCAPTCHA も出るミニブログ 〜
ハイソハイカー
ボツネタ
仏教ぽくするに「沙羅陀」って投稿しようとしたら仏教よりもはるかにコナミっぽくなった。
好きなサラダ
好きなサラダではなくて恐縮だが、どこかの店がシャレで「サラダ・ファミリア」とかってメニューを作ってたり店の名にしてないかと検索したら、グッチさんがNHKで作っていたらしい。
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recaptcha消えねぇw
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悪徳商法の勧誘行為にどう対処しましたか
親が健康食品の送り付け詐欺と、太陽光発電所の出資金詐欺の話を持ち掛けられたときは国民生活センターと警察それぞれに通報したな。取締までは期待できないとは思ったけどとりあえずデータベースに何か残るだろうってのと、放っておくのも市民の義務を果していない感じがして気持ち悪いから、お清めに儀式として通報させてもらった感じ。あと昔努めていた会社の付き合いのある会社の商品のモニターをやらされ、その商品が届くとそれが疑似科学系の商売だとわかったときは、モニターに付き合ってくれた親族には「出来るだけ&#34;効果&#34;に肯定的なことは書かないように」と念を押して回ったな。どうせ「使用者の意見」としてのアリバイ作りなんだぜあれ。
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「近代主義がかえって悲劇を生んだ」として非近代的なものへの興味が高まったのはむしろWW1あたりじゃないのかなーと、んで、他に興味を移したところで、それらはそれなりに上手く動くことがわかったけど、近代を超えるものなんかじゃなかったってところで、むしろ万能感の罠みたいなところに陥らんようにするってのと、一見「近代的」イメージと異なるところを積極的に参照する態度を得たってこと、そうするにせよ結局のところ頼りにできる道具はやっぱり理性だってところにあるのが現代的なところなのかなーと思っている。
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http://www.47news.jp/hondana/seijirekkako/article/27.html言わんとする事は解らんくもないのだが、「理性の象徴」としてなんらかのものを権威化してシステムの硬直を招くものは「理性がはらむ暴力」ではないんじゃない?強姦魔に動機を尋ねたら「マンガの影響」って答えてしまっているのを見ている感じ。ところで理性こそが最も人間的なものではあるが、同時に我々は人間になりたいホモサピでしかないのにあたかも人間になれたかのように振る舞ってしまう事が問題なんじゃないのかなーと。人間ってさ、多分歴史の上澄みの良いとこどりして作ったヒトビトの幻想じゃないかな。
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ここのところ作業用BGMとしてシャフト作品のOP/EDを集めたプレイリストを流している。正直なところシャフト作品はとりわけ優れたアニメーション作品ではなく、アニメーションを用いた優れたデザインプロダクトと言うもの以上でも以下でもねーなとか、背後にある思想や趣味的にはダセェなと思う事が少くはない。が、であるが故に耳障りは良いのである。おそらく音楽や歌詞により敏感な人だと背後にあるものを見透して落ち着かなくなるって事はあるのかもしれないなとは思う。まぁ自分の耳には心地良い。んでその背後にあるもの。正直シャフト作品に限ったことではないがセクシャルなソフトポルノとしての要素が非常に強いのが現状の国産アニメであるが、シャフト作品はわりとその傾向がはっきりあるほうだと思っている。ひだまりスケッチのような作品ですら毎度入浴シーンで締め括ると言う姿勢な。んでOP/EDを聴きながら「歌」ってのにもやっぱりセクシャルなソフトポルノ的なものってあるんかもなーとか思ったりもしている。リズムに合わせて言葉を耳に流し込むこと、あるいはリズムに合わせて脳裏に言葉を並べて行く作業ってのは、多分歌うときと聴くときで似たような刺激になって、歌を聴くって事は対象との同化を強く感じられる行為なんじゃないのかなと。そーゆーところに合わせて「娼婦の声」と某名監督に言わしめた種類の声で、多くは恋愛をネタにした「君にむーねキュンキュン」とか「ひかる風を追い越したら、君にきっと会えるね」とか発情のサインみたいなものが流れてくるわけじゃないですか。いやまぁ、そういうところでこそ落ち着く下衆な感性の持ち主が自分だのだなとかしみじみ感じながらも、そういう歌で心を落ち着けている。
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日露関係と民主主義について、国内の民主主義が名目的な最後の砦までが犯されかけている状況、国際的に「反民主的グループ」文脈に日本が起かれることは非常に不都合であるとは思う。文脈はどうあれ実質があればいいではないかと言うような楽観的状況ではなく、そういう文脈に起かれると制度面、文化面で外分に参照できるものを失い、開き直って「これが日本的民主主義だ」ととんでもないものを据える事に対しての抵抗の低下は、実態が不味い状況ではおそらく実態までにも壊滅的影響を及ぼしてしまうのではないか。そういうなかで今は近付くも危険、離れるのも危険でとりあえずは「寝た子」になっていてほしいのが日露関係ではある。(とは言え北方領土や千島はロシア側が握る日中関係にも影響し得る強力なカードで、そういう爆弾を握らせながらどこまでもはぐらかせるものではないのだろうけど)無論、これはロシアがどうあるべきかなんて話は別だが、基本的にそんなものはロシアとロシアに積極的に干渉して行こうって社会が考えればいいことではある。まぁこのまま行けばそっち側の、しかもより過激なところに「積極的」に国民の命を差し出しそうな状況でもあるんでまるで気にしなくてよいわけではないが、まず気にする事は属国パフォーマンスをやめさせることかなとは思え。
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公共とは何かと言うのに、共有リポジトリのようなものをイメージするのも悪くはないような気もする。ハッカソンとしての「対話」。
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複数の主体で行う対話と言うのは、そこに公共性が介在しているような気がする。対話が求められる場合の多くに反目を理由にしてと言うものがあるように思うが、その背後にあるものは「そのように反目しあうのは公共的、共通的了解の不全によるものだ」と言う認識があり、個々の対話を通じ両者に跨る公共の内省を試みるのではないだろうか。そういう例を&#34;単体の主体で行う観察の伴う内省&#34;としての「対話」と併せ考えてみたほうがよいかも。
円周率はどこまで言えますか
3.14159264... だと思ってたけど自信がないから調べなおしたら3.14159265... だった模様
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女性のステレオタイプ化に対してのゲーム等への問題提起についてだけど、「男の娘」ってのは不完全でありながらある程度この問題への解決策になるんじゃないかと。あれは少女性を生物的性から開放しようという試みでもありえる。あと現状あるもうひとつの解決策はリプリーみたく、とくにセクシーでもない屈強な兵士のような女性描写ってのもあるけど、これらが揃っても多分根本的な解決にはならんなと。おそらく最も解決しがたい問題は女性にだけ偏って純粋に性的なメッセージを放つファッションと言うものが歴史的に培われてきていると言う問題があって、不知火舞みたいなキャラクターの男性版を作りがたいってところがあるんじゃないのかなとか。そこで思うのは、純粋に性的なメッセージを放つ男性キャラクターの衣装とかデザインされていいんじゃないのって事で、あまり屈強なキャラクターでそれをやってしまうと労働とか暴力とかのメッセージ性が伴ってしまうので、あまり筋肉をアピールしない線の細い男性キャラに放課後電磁波クラブ的衣装をなんとかかっこよくしたような感じのものを着せて、そういうものが流行ったらすこし問題はマシになるのかなとか思ったりもした。
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いっそ「対話とは複数の主体で行うものではなく、ある主体が単体で行う、観察の伴う内省である」と定義し、「さぁ、対話をしようじゃないか」と言う語りの類いは対話ではない、あるいは対話の途中結果として観察対象に対して行なわれる働きかけであると考えたらすっきりする。そうすると、&#34;愛知県立美術館の例では、作家は警察や警察をけしかけた人々と対話をし、また美術鑑賞者達とも対話をしたが、警察や警察をけしかけた人々は作家と対話をしていないし、多くの美術鑑賞者達も作家と対話をした。&#34;と言う言い方がすんなりと語る事ができる気がするのだが、問題となるのは「と対話」ってところかな。ここの定義では「で対話」の方がむしろしっくりと来るような気もする。んで、対話の途中結果の出力としての働き掛け、ここまで「対話動作」として分類してきたもの、これは何だろう。愛知の例だと「検閲があった」とわかりやすい形で作品を隠したと言う表現に結びつけたもの。あるいは、そういった出力を伴ってこその「対話」ってのもあるように思える。
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なんか東日本大震災をふりかえる番組で出てきた「はるさめ」なる護衛艦名に「やわらかそう」とか思ってしまったのだが、あれは平仮名だから余計に想像が拡がっちゃうのか。ところで「雨」の代りに「風」だと件のタレントみたくなっちゃうんじゃないかとか、灰色のフネマニアの人々だと「ちゃん」付けで呼んだりしてないかとか妄想。
そういう意味じゃないってわかってて赤面するわけでもない言葉
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https://youtu.be/PwgiyqErfEQ?t=14m44s前段の民主党代表選挙評も面白かったんだけれど、「これからのメディアについて」の話が面白い。現代の情報産業革命が活版印刷術に次ぐ巨大革命である事はもう20年以上前から言われてきたことではあるけど、その影響について20年前インターネットがインテリ達のものだった頃と言うのはとても楽観論として語られていたところがある。しかし、よりその利用者が増えれば増えるほどにより残念な振舞いが目立つようになってきたと言うのは多くのネットユーザの実感としてある。それは平均的なインテリジェンスレベルの低下として語られてきているところがあるけれど、神保氏の切り口は公共性と過当競争に着目したもので、むしろ一部の公共性を無視するタイプの高インテリジェンス層がかえって低インテリジェンス層を煽るような構造、かつてのテレビ的構造のさらに悪化したものが出来ていることを指摘するものに思えた。しかしバカを煽る高インテリジェンス層を想像しつつ、あるいはある程度該当しそうな人々を思い浮べながら、その道徳性を問えばニヒルな返答をするんじゃないかなとか「ルサンチマーン!!」とか必殺技名を叫びながら。返し技は「ドクガローン!!」ではないかと思うんだけど。 それはそうと、外山恒一氏が「シニシズムを超えてニヒリズムを!」みたいな事を言ってた事を思いだして、この場合のニヒリズムってただのヤケクソじゃねぇのって気がしてならんかったり冷笑に見えるものは勝機を伺う分析の静けさじゃねぇのとか思ったりしてたのも思いだした。
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出来上がったモデルの妥当性の問題ってのもあったり。モデルは文脈つか視座つかそんなへんに依存して出来上がるもんで、必ずしもその文脈や視座が一般性を持つものとは限らんわけだけれど、しかし全員がもやもやしているよりは、少しでも確固たるモデルの上に語る者がいたほうがいいとは思う。
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このへんのモデリングについての基本的な動機は、対話の為の対峙動作を「対話」に含め考えられるのではないかと言う立場への共感しつつ、どうもそれが浮いているのではないか、浮いているとするならばどのようにかと言うことを明かにしたいと言うことと、明かに「対話をしよう」とするときに「内省を伴い観察せよ」と言うことと「あなたの見たもの、考えたものを教えて下さい」と言うことの二重の意味に感じてしまい、どうにも「対話」と言う語を用いた語らいが混濁(≒コンニャク)してしまう感覚がスゲーきもちわるいしなんとかしたいってところからである。んで、なんとなく「内省をを伴う観察」ってのがなんらかの形ですべての基礎にあるんじゃないかって目星をつけつつ、始めてみてはいるのだが、その目星への道筋が見えづらかったりって感じ。
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それはそうと寄生獣のアニメ版はなんやかやとずっと見てる。当初鼻についたしつこい演出ってのもあまり気にならなくなったのは慣れなんだか制作側で調整したんだかは検証してないけれど、原作から逸脱せず適当に圧縮してるんだろう事と、そのへんの違和感の無さについては頭が下がる思い。それはそうと寄生獣の理性的である事を非人間的、感情的な部分を人間的とするような考えかたってのはどうにも好きになれない、まぁ別に岩明氏はあくまで突き放して描いてるかもしれないからこれは作者への批判ではなく劇中の人物への批判ではあるのだが、それはそうとその劇中の人物が語っていたことで「一度関わってしまうと無碍に出来ないものが人間だ」と言うのはすこし面白いかもなと。と、言うのは近接性の高い個体と同化してしまうようなところはいろんな生き物にあるところだと思うし、犬や猫にもあるんだけど、犬や猫よりは「関わりかた」のチャンネルがはるかに複雑で、またより知能の低い生き物よりはいつまでも相手の事を覚えているってところにヒト特有のものはあるのかもしれないと。理性の側から生き物としてのヒトを見ると「なんと動物的な!」と言う感覚になるのだが、生き物としてのヒトからの動物観は「なんと無生物的な!」となり、無生物の姿も描写する理性とヒトならぬものを結びつけて考えてしまうのではないだろうか。
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記号表現に着目した思考と言うのがいまひとつよくわからんつか、無意識では記号表現は連鎖するし、意識の上でも不適切な記号の混同が論理思考を阻害することはしばしばある(変数の命名の失敗)が、あくまで記号は内容の為にのみ用いる…と言うか記号はそれ自体は離散的なモノに過ぎないわけでそれらの相互の束縛関係はあくまで内容の方にある。だから表現に着目する場合と言うのは、表現方法の研究か誤認プロセスや個人あるいは文化的な無意識の構造の推測の為に用いるのならばわかるが、それ以外の場合に用いているように見えるものはどう考えるべきなんだか。
みなさん何県民と何県民のハーフですか
旧満州国新京と大阪
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デュオニソス信仰カルトの祭ってエロそう。悪魔崇拝的なもんじゃなくて、なんかアハハハハハウフフフフ…キャッキャ…的な。
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差別表現問題と、言葉狩り問題は対立するが、差別に対しての意識の低さを正当化する目的で批判を「言葉狩り」と言う批判で相殺しようと言う試みは断固阻止すべきだろう。ところで、ももクロxラッツアンドスターの黒塗り問題について、そもそもラッツアンドスターが自らが参照していたものの意味についてあまり真面目に考えていなかったと言う背景を見れば、「そういう態度はもういい加減改めようよ」って気にもなるのだけれど、カーネルサンダースにスイカを持たせる事を問題にするのはあまりにもアメリカ文脈中心主義と言う感じがして「放っとけ」と言いたくなってしまう。まぁ祭にしていた当事者達は問題にすると言うよりは「乳首」って漢字プリントしたTシャツを着て胸をはっている、非漢字圏の人々を面白がるような態度でしかなく、差別問題としての糾弾ではないのかもしれないが、仮に差別表現としての糾弾であれば、「何故貴方方の文脈をこちらが読む事ばかりが求めるのに、私達の文脈を読もうとしないのか」と反論したくなるだろう。しかし、そう反論するならば、「ラッツアンドスター問題との差異は何処に」って事があって。おそらくそれは記号の導入の経路の問題で、ラッツアンドスターが表現を輸入した際は明かに差別表現として作られたものを、知ってか知らずか導入をし、しかも後日それが差別表現だと言うことが明かになったものであるのに対し、カーネルサンダースのスイカはあくまで国産の記号がたまたまある地域での差別表現となったと言うことに過ぎないという違いがある。まぁラッツアンドスターの黒塗りは、あくまで無知故であり、その無知は国境を経てのことだし、大かれ少なかれあるんだからいいんじゃないかって立場もあろうけれど、でも少くとも我々は彼らを「表現者」すなわち記号を扱うプロとして受け入れたところがあり、そういう彼らが記号の扱いが杜撰だったと言うことを知ったと言うのは彼らを認めた我々の誤ちを知ったと言うことでもあるし、「みんなバカでそれでいいじゃない」的立場はとりたくないんで、やっぱりあの表現はマズいと思う。
今「さくらのマネージドサーバ」の隣に表示されている広告
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そのような「語りかけ」の無い対話を「観察型対話」と名付けようか。これもまた動作と状態について考えよう。観察型対話状態は対話状態の必要条件であり、対峙状態は観察型対話状態の必要条件、すなわち観察型がこれまでの継承階層の間に割って入る事になる。さて、動作についてだが観察型対話動作は、ここまで述べてきた対話動作や対峙動作とも全く重なるところがないように思う。ここでそれぞれの動作について再びふりかえってみることにする対峙動作 - 相手に自身が他者である事を積極的に示す動作対話動作 - 他者である相手に自身の固有の情報を示す動作観察型対話動作 - 他者である対象から示された情報を元に自身の認識や認知システムを再構成する動作となる。対峙動作、対話動作がそれぞれ働きかけであるのに対し、観察型対話動作は内省的な作業となる。ところで対峙動作のなかに、対話動作のサブセットとなりえる対峙対話動作を含みえるが、これは他者性を示すことに固有の情報の表現が含まれる為だが、それが単なる対峙動作と異なるのは、期待する結果について対話状態を指向しているかどうかと言うことになる。ここで、対峙対話動作について詳しく見ていくと、なぜ対話動作のなかで対峙対話動作が選択されるかと言うのは、芸術作品のように、わざわざ対話しようと言う人々の為に情報を圧縮したものを提示すると言うことでなければ、「さもなくば対話状態に持ち込むことはできない」と言う観察と認識の再構成の結果として選択されるのではないかと思え、ならば、対話動作と言うのは、観察型対話動作を参照しているように思う。この参照関係は、対話動作から観察型対話動作への一方通行であり、観察型対話動作は対話動作を生産することがあっても参照はしていないのではないだろうか。ところで対峙動作と対話動作は、観察型対話動作とは異質でその異質さを表わすために単に動作のサブクラスとするよりは、まとめて動作のサブクラスとしての「表現」を設定しそのサブクラスとしたほうがよく、観察型対話動作は表現のサブクラスではないとすると整理が捗りそうでもある。
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ところで、「作品との対話」や「現象との対話」のように、先に対話動作、対峙動作のような形での語りかけの動作の存在しない対話と言うものもあって、ここでは対象から引き出した情報を元に自身の認識や認知システムの構造の変化を検討するようなものになるが、これらは別の動作として意識すべきものか、しかしそれは「ひととの対話」の場合においても欠くべからず要素のようにも思えるし、そのへんについての整理も必要。
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(A)中島のよしみっちゃん的対話、対峙をもっての対話と言うものが浮き彫りにする他者性と言うのが鮮烈に見えてくることに感動していたときってのは、対話と対峙を is-a か、それぞれの別名として捉えているべきものに思えていたわけだけれど、多分それは間違いで対峙と言うのは対話の有効な手段の一つであり、対話の条件とすべきではないんじゃないのかなーって事。(B)しかし他者がそこにあることは対話の条件ではないかと思え、「他者がそこにあること」をもって対峙とするとそこには対話の条件としてのものが見えてくるのが厄介ではある。ここで注意すべきは、(A)における対峙と、(B)における対峙の内容にずれがあることで、(A)は振舞いの表現としての対峙、(B)は状態の表現としての対峙であると言うことが重要。混乱はこのふたつに同じ名を与えていることに由来するわけで、プログラミング的に言えば命名がよくない。この手の混乱が生みだすものが魅力的なこともあるけど、そういう夢想をばさばさと斬り捨てて余計な発散を避けることこそが理性の仕事である。理性無双なのである。故にプログラマは変数の名前に苦労するのである。あークラス名ってのも変数だからね。処理系がそう呼んでなくてもさ。んで、一旦、ここでの文脈で(A)対峙と(B)対峙と呼んでより適切な名前を…つか片側の名前さえ変更すれば十分であるが、ここでは分かり易さの為に両方を、対峙動作、対峙状態と名付ける事にする。さて、対峙を振舞と状態に分けたわけだけれど、対話にもそのような分類はできるのだろうか。「対話をする」と言う言い回しは可能なので、それは振舞としての描写が可能であるようにも思う。で、これも対峙に倣い、対話動作、対話状態と名付ける事にする。さて、状態としての対話を考えると、他者と対峙している事は対話の重要な要素であり、しかも対峙しつつ対話はしていない状態と言うのはあるが、対話はしているが対峙はしていないと言う状態はありえないので、対話状態は対峙状態の部分集合となる。また、動作としての対話を考えると、対話の為に対峙動作を選択する事はあるが、対話動作の全てが対峙動作としての側面を持つかと言えば、基本的に相手の対話への姿勢を信頼し、落ち着いた語り掛けをする事もあり、ならば対峙動作は対話動作の部分集合と言えるように思う。しかし、対峙はするが対話はしないと言う状態もあるので、これらは一部が重なるのみで互いが互いの条件とはなりえないものだと言えるのではないだろうか。ここで対峙動作のうち、対話動作に重なるものを、対峙対話動作と呼び、対峙対話動作を対峙動作、対話動作の部分集合とすることで、動作における「対峙/対話」の描写できるようになる。対峙と対話をめぐる混乱はこのように動作と状態において集合の形が異りつつ、それぞれを単に「対話」や「対峙」と呼ぶ事に起因するものであるようにも思う。また、ここまでの文の中で、態度としての「対話への姿勢」と言うものも書いたので姿勢としてのそれについて分析すると、動作と同じく、互いが互いの条件にならないものになっているのではないだろうか。
今脳内に流れてる曲は?(リアルでかかってなくてOK)
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対話と対峙と他者、そして変化と理性について概念を整理したほうがいいなーとか思っている。これまで対話とは自身が変化する事を潔しとして、なんらかの他者と対峙しつつ語らう事だと考えていた。そういったなかで対話には、とくに片方が対話に応じそうにないときには単に積極的に対峙の姿勢を示すと言うありかたもあろうとか、それ自体は回答能力の無い芸術作品と言うものと対話を考えるのにはそういった積極的対峙と言うものがキーだとは思っていた。しかし、たとえば変化を推奨するのは良いが、変化はしたが良いが劣化するって事もありーの、ただ逡巡をくりかえすだけと言うこともありーので、実際には変化と言うのもそれなりの統制の元に行なわれる必要があるよなと。おそらく「変化してはならぬ点」と言うのがあって、それは間違いなく理性ではないかと。あともうひとつ、対峙をするにしても、たとえば愛知県立美術館への警察介入事件等について、警察や警察に通報した人々は明かに作家と美術館に対峙をしようとしたが、それは対話をしようとはしていないのではないかと言うことと、作家が作品のなかに検閲の情報をあえて入れ込む措置をとったのは、対話的ではあるが警察や通報者達へ対峙しようとしたものかどうかと言う事を考えればちょっとわからなくなっている。多分必要なのは真なるものへの指向性と、不動点としての理性と言う道具の保守だが、いずれにせよのへんをとくに形式的に考えるには整理が不十分だなと思う。多分、そういう整理にはOOA的なものが自分に使える道具ではあるが、そんなことを考えつつ自分がいまひとつ純粋関数型プログラミングについては自身ものにしているとは言えず、あーそのへんの自由な人からするともしかしてまどろっこしい思考をしているのかもなーとか、余計な腑甲斐なさを感じたりしている。
同じ穴の
ナディア
まみむめもって打って出てきた文字で性格がわかる
魔身無目藻鬼太郎に出そう。
id:lieutar
高齢化と移民問題については、少子化対策よりは移民政策と自分も思う。それは子育てしやすい環境を社会が用意する必要はないと考えているのではないが、今生きている世代の幸福の為に人間を作れと言うのはどこか倫理的に問題があるのではないかと考えることと、世界的な人口爆発問題を考え、より力を注ぐべきは移民政策なのではないかと思うって事で。そのためにどうするかってのは、結局国内の労働環境の監視の徹底と差別問題についての啓発しかないのかなとは思えるが、多くの移民を受け入れるのに相応しい環境を作るにはかなり絶望的状況ではあるのかなという気もしている。アイミツとって適当な方へとかって言うのも呑気なもんで、シミュレートしてみたら「ねぇやっぱり滅んじゃうの?」みたいな結果しか出せなかったらどうしようつか、そうなんじゃないかって気がしてる。
id:lieutar
ここのところハイクで長文のやりとりばかりしていて、なんだかある程度以上の長文であればハイクでは不適切だとか言う声を思いだしたりしていて。しかし、もともとハイクと言う場所が突然絵や長文が紛れるような面白さを想定してデザインされた場なんだと言うことを考えれば不適切って声は「なんでこんなところでそんなことをするのかよくわからない」って事なんじゃないのかなーとか思う。「ブログでやれ」みたいな奴ね。自分の場合ハイクを好むのはブログって場が、本当に内輪向けの感情の交換のための他愛の無いことを書くのでなければ、読み物としての完成度が求められる、「作品」感のあるものになってきてるような感じで、とりあえずもやもやと考えている事を書き留めておくのに少し憚られる感じがしてしまうし、twitter はあまりに普及しすぎて、しかも拡散の仕組みが発達しすぎて、拡声器を使ってるような息苦しさがあったりで、facebook はそもそも息苦しいし、とりあえずハイクぐらいのが丁度良いからなのだろうなと。しかしそれは、ハイクが適当に過疎っているからこそって所もあって、そういう居着きかたってのはセイタカアワダチソウとかなんかそういう指標生物みたいな感じで、なんかゴメンナサイって気もしなくもない。
belacqui
件の曾野氏の文章がアパルトヘイトの肯定であるとすることが飛躍があるとするならばどういった部分が飛躍なのだろうか。飛躍とは、提示された要素からの演繹で導出されない結論を得る事ではないだろうか。あの文章は前段として何か取り決めを作り移民達にそれを守らせるべきだと書き、さらにアパルトヘイト後の状況を参照し、以前には起きなかった問題が発生した、故にアパルトヘイト時代のように分離すべきだと書いている。確かにはっきりとした文言としてアパルトヘイトと言う語が登場していないため、そこにアパルトヘイトと言う語が付け加えられる事が飛躍と言えなくはない。しかし、その場合は彼女や産経新聞が南アフリカの歴史についてアパルトヘイトを知らないほどに無知である可能性を考慮に入れなければならないだろう。しかしそれは「知識人」や「全国紙」と言うものに対する認識、評価としてはかなり異様なもの、はっきり言って愚弄しようと言う悪意すら感じられるものではないだろうか。あるいは、「ひとは常に理性的に不完全なものだし、自ら(アパルトヘイトのように)穢れた観念を纏おうとするものではないだろう」と言う前提条件を付加し、「どうせそのような内容はミスに違いない。ミスなんて誰にでもあるのだからいちいち問題にするな」と言う気持も解らなくはないが、しかしそのミスにより傷つけられたと言う人が現われたときどうすれば良いのだろう。例えるなら「ちょっと、脚踏んでますよ」って状態ね。この場合脚を踏んでいる本人は謝罪し脚をどけるべきだろうし、脇にいる第三者が「つまんねぇ事でグダグダ言うなよ。悪意があってやったわけじゃないんだろうし」とか言うべきではないよね?ここでのミスとか不完全って語は、そもそも訂正され補完されるべきものだと言う了解と共にある語ではないだろうか?しかしおそらく君は「脚踏んでますよ」と言うのが必ずしも公共の為にのみ告発されるわけではない、そこに誰かを告発し、自分の力によって誰かが制裁を加えられる様を眺めたいと言う黒々とした感情に突き動かされたものがあると言うことを問題にしたいのではないだろうか。これに対しては、仮にそうだったとしてそれが問題にならないぐらいに潜在したものだった場合、わざわざ問題視する理由は何かと言うこと、また、それが問題になるぐらいの規模だった場合、「脚踏んでますよ」と言う告発そのものは問題視されるべきだろうかと言うことが言えると思う。結局のところここで必要なのは問題の規模の量的評価ではないだろうか。今回のケースは、曾野氏や産経が社会に与える影響の大きさと、抗議する人々の影響の大きさはどちらが大きいと言うものでもなく丁度拮抗していると評価できるのではないだろうかと言うことと、理性的に声を挙げているように見える人々が十分に見えたことから量的問題は無いように思える。さて、仮に量的評価があった場合はどうか。たとえば一時期世間を騒がせた&#34;バカッター問題&#34;と、迷惑行為を自らネットで拡散した店員や客を、他の人々が「不届き者がいる!」と拡散した問題。実際、あの問題によって経営ができなくなった店なども現われ、店員を店側が訴えると言う事態にも発生したが、その店の被った損失についてはたしてその店員たちだけに責任を負わせるのは正しいかどうか。「不届き者がいる!」と拡散した人々もまたその店の損失を拡大した人々ではないだろうかと言うような場合ではないかと。しかし、この場合においても厳密に「不届き者がいる!」と言う形式を示した者を告発する事は不可能だろう。おそらくこのときに可能なのは「もうすでに十分衆知されたではないか、これ以上は社会の欠陥による損失を理不尽に一箇所に集中させる運動にしかならないのではないか」と言った形の告発か、あるいは「そのような不貞の輩から人権を奪え」と言うような明かに逸脱したようなものを、形式的に間違ってはいないものから分けて告発し、周囲に「超えてはならない線」がある事を報すことしかなかったのではないだろうか。今回のケースでも海外メディア関係者に&#34;通報&#34;する人達がいた。仮に「国辱」を問題視するのであれば、その&#34;通報者&#34;たちも共犯者ではないのかと言う問いを立て者もいるだろう。しかし、今回のケースは国内メディアが自浄能力を多きく欠いてしまっているのではないかと言う疑惑と共にある。おそらく&#34;通報者&#34;達の意識には、単に曾野氏や産経だけの問題ではなく国内の報道の自由の問題についての意識もあったのではないだろうか。国内の恥部が海外に知れ渡る問題と、社会が自浄能力を失っている問題を天秤にかければ…ここにも量的評価の問題がある。さて、この量的評価の問題だけど結構むずかしくて、ほとんど妥当性ある形に数値化する技術を僕自身持ち合せてはいないし、仮に経済的損失を評価する場合でもパラメータが多すぎて恣意性がどこまでも入り込ませざるをえないものになるのではないだろうか。しかし、どこかで線引きをしなければならない問題と言うのは必ずあって、たとえばある年齢により「成人」とするような無理筋にしたって、それ以外に制度の設計の仕方が未だみつかっていないし今後見付かるかどうかもわからないようなものだけれど線引きはしなければならないものだったり。でもやっぱりこういった社会的に容認せざるを得ない無理の周囲には悪意も悲劇も紛れ込みやすく、それに注意する事は悪くはない…しかし、その姿勢はあくまで注意深くならなければならないし、またそういう注意深さを皆で示しあわせる事こそが、そういった無理筋が抱えてしまっている問題の拡大を防ぐ事になるのではないだろうか。そういったなか、潜在するものを暴きだすのに「あえてする逆張り」のようなものは議論のスポイルのように悪用のされやすい道具でもあり、それを仮に用いるのならば「これは逆張りなんですよ」と言うエクスキューズを命綱としてつけるとか、逆張りではないものとわかりやすく並列させると言う形の慎重さは必要ではないだろうかと思う。ところで変化と暴力と対話についてと言うことについてこのリプライでは割愛させてもらった。この問題、たとえば「テロリズムとは何か」とか、ちょうどネルソン・マンデラの話題になったが、彼はテロリストから英雄になった男でもあるわけで併せて考える事が有意義になりえる問題ではあると思う。また語り口にしても、形式的、論理的な語り口と、態度そのもので示す語り口があって、実はそれぞれに通じ方が違うって事もここでは隠れたテーマになっているのだけど、ちょっとそのへん纏めて語る力量が今の僕にはなく、ここでいったん投稿させてもらいたい。
想像で語るピケティ
http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2008/07/31/article-1039150-003AFEE000000258-348_468x544.jpg
belacqui
なんらかのムーヴメントがあるとき、そこに乗りあわす人々が必ずしも自覚的とは限らないというのは自分も思うが、これはどの現象に限った事ではなく必ず付随してくるものだと思う。だから曾野氏や産経へ抗議した人々の中に、単に「正義の陣営」を見出しそこに同化しようと言う情熱を燃やしていた人はいただろうが、しかしその抗議そのものに形式的な問題はあったのだろうか。また、そういう情熱の中に暴力性を見出すのはわからなくはないが、一方で静かなる暴力と言うものもあるのではないだろうか?本質的に異なるありかたがあっても、その異質性を許さず表面的には親密さを装いながら同化や服従を強いるような暴力だってあるのではないか?曾野氏のコラムはそういった種類の暴力と、それに対する無自覚さを凝縮したようなものではなかったのだろうか。今回のムーヴメントに暴力性を見出すのに何故抗議側の方のみを見たのかと言うのが疑問点ではある。そして異なる種類の、異なる方向の暴力が互いに拮抗する状況と言うのは不毛に思えるかもしれないが、それはその社会が自身を不完全な者である事を自覚し葛藤している姿には見えないだろうか?それとも一方の暴力のみが支配的になっている状況の方がより健全だと言うのだろうか?潜在しているものの不穏、とくに顕在するものの確かさ故により潜在性を高めるものに対しての不安が強くなると言う気持もわからなくはないが、だからと言って顕在し形式的には間違っていないものを間違っていると主張するのは端的に言って間違いだと思う。では、その不安を前にどうすれば良いかと言えば、この場合単に慎重さを示せばよかったのではないだろうか。不穏なものがあればできるだけ具体的にその例を挙げ、切り分けて指摘をすると言うことであったり、より適切な抗議のありかたを実践し、その後ろ姿を周囲に示す事ではないだろうか。
belacqui
いやいや、そーでなくて。オイラが問題にしてるのはあくまで「君」であって「我々」じゃないから。無論、問題を語らうのに背景としての「我々」はあるかもしれないけれど、あくまでその上で君はどうなの?って事だから。君はどのように行動を選択し、この場面において何をしたの?って事だから。君は最初2連の書き込みのうちふたつめで&gt;&gt;今回もまた、「アパルトヘイト」という南アフリカで行われていた政策が、日本の現状とどう関係があるのかなど考えておらず、考えようともしていない人がほとんどのようにみえる。&lt;&lt;と書いて、実際&#34;演台&#34;で悲鳴を上げる人のありかたを非難しているではないか。しかも、それは産経や曾野氏のような形での素朴さだけを認め、そこに抗議をしようとする人々、抗議を呼び掛ける人々の素朴さだけに限って認めないと言う極めて差別的なものだ。これは差別側が差別に対しての抗議に耳を貸す必要が無いと主張するときに頻繁に用いられる議論をかきまぜの手法そのものではないか。ただ、何より移民問題でより直接的に被差別の当事者となりえる君が、差別側に同情的に無理筋を振り回す事は考えにくい。ならば君は混乱しているか、声を上げる場面においてミスをしているか、それともオイラの目に映るミスや混乱がオイラにとって未知の何かによるもので君は極めて正常に声を上げているのかだろうと思ったわけね。もうすこし他愛のない例えかたをするなら、朝君に会ったらシャツにべっとりソースがついててスゲー格好しながらあっけらかんとしてそれに気がついてないみたいだから、ぎょっとして何とかしないとってオイラは思ったわけだよ。で、素朴に「ソースついてるよ」って指摘すべきなのかもしれないけど、もしかすると何かオイラの知らない特別な理由でソースか、あるいはオイラにはソースにしか見えない何か必要な物をあえてつけているのかもしれないし、まぁそうでないとしても「ソースついてるよ」って機能は果すだろうから、「そのソースみたいの何?」と問うたわけだよ。そしたら君は「ソースとはゾル状に加工した食品のことであり、服装等につけて歩くものではないのだよ。はっはっはっは」と自分自身のシャツにべっとり付いてる事なんて気にかけもしないような状況になってるのよ。なんかさ、ものごとを批評しようとして俯瞰的な視点やミクロな視点に立とうとするのだけど、そうやって見ている対象は自分自身が立っている場であり自分自身も批評の対象である事から逃れられないことを忘れるって言う、ものすごくありがちなミスをやってるんじゃない?だからこそ、声の上げかたに感じた不足を、自分が補えないかと行動するために声を上げるような形ではなく「彼らには不足している」と言う物言いになるし、自分のシャツについたソースにも気付かないんじゃないの?他にも何故曾野氏や産経の側の素朴さだけを選択的に「それはそれ」としてしまったのかとかってのも、自身とは異なる立場について最大限考えるべきと言うような反省のプラクティスを不器用に過剰適用してしまってるんじゃないかとか、当事者性の強さ故なのか移民 vs 主流文化の差別者 って2極対立構図だけに注視して、差別者によって自身の文化に落胆し不安を感じる主流文化の中の人々とか他の立場の存在を軽んじてやしないかとか、いろんなミスの可能性も垣間みてしまうのだが。
belacqui
たとえば、レイプの被害者が加害者に対する訴えをし、そこに恐怖や怒りを認めたとき、君はそれを&#34;幼児的な退行&#34;と断じ、抗議の声を&#34;様式化した「演台」で「恐怖や怒りによる反発」という「演出」&#34;と捉え、「そんなことでは強姦魔は耳を貸さないだろう」と被害者が声を上げることや声の上げかたを諫めようとするのだろうか?あるいはそこに深刻なハラスメントがあると報しめる事を「無自覚な扇動」と言うのだろうか?
belacqui
なんで回答が止まったのだろう?と不思議に思っていたが、この書き込みはこの位置にあるべきものだった。スマン。位置の訂正ついでに付け加えさせてもらうと、この問い掛けはこのリプライ木の根にあるこの書き込みに奇妙に排他的なものを感じたからだ。基本、君の訴えは(a)[曾野氏の主張](b)[に対するネット上での反発](c)[の不足分]を補う意図で書かれたものだとは思う。ただ、その様式はあくまで(b)+(c) ではなく、not(b) -&gt; (c) と言ったものに見え、それが奇妙に映った。そして、not(b)を作るのに、(a)の素朴な心情は認めながらも、(b)の背景となる恐怖や怒りを無視するのは何故かと。これではまるでよくある「どっちもどっち」と議論のテーブルをかき混ぜ「アーアー聞こえないー」って言う反知性的言説、すなわち発見の場たる議論をスポイルし発見を拒むありかたに似たものに思えたからだ。ただ、おそらく君の基本的な態度を考えればそういったものに与する事が本意ではないだろう、ならばそこに視野狭窄あるのか、それともオイラの見えていない何かがオイラにそのように見せているのかと言うことでね。でね、なんとなく思うんは君の中に「効率」や「省略」と言うものに対する恐怖や嫌悪があるんじゃないのかなと。&gt;&gt;「入門書」という「用意された演台」は本当に、「読者の君が前知識無しで読もうとするには、とても難しい本だ。感謝しなさい。《私(たち)》が要点をまとめておいた。君が読んで解釈する必要も、考える必要もなくなったよ。」という空気が漂っていないだろうか。&lt;&lt;ってのは明かに余計なものが付け加わった感覚だと思う。空気と言うよりは何か怪しい臭いを感じているんだろうけれど、その臭いは対象が発しているのではなく君の恐怖や嫌悪がかき混ぜて誤認させているのではないだろうか。問題は入門に過ぎないものだけを見て本物を見たように自分や他人を騙す愚行や、「これだけ見ておけば大丈夫」と宣伝して売り出すような詐術にあって、「入門書」と言う「用意された演台」にあるわけではない。入門書の普通の用いかたは出来るだけ簡単に入口を覗いて、そのなかで出来ることで応用したいならどんどん応用すればいいし、もっと深く対象を知りたいなら知れば良いと言うものだ。また、そこに入門書という緩衝材を挟む事自体に問題があるかどうかは、結局個々人の自身の能力の見積りの問題で、そもそも明い分野のものなら緩衝材を挟む事が余計なコストを生むこともあったり、質の低い入門書が勘違いする人を作ってしまう弊害に気付いたりする事は少なくないかもしれないが、「なんだかよくわからないが気になる」ぐらいの状態だと、はたしてそこに自身のコストを割くべきか、あるいは割くとしてもどのように割くかと言う判断を緩衝材を用いてまず行うことは知的に評価できるものではないだろうか。
id:lieutar
&#34;自由すぎる民の主だと思う人々の党&#34;
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世界を認識し行動するものたちにとって愚かさは宿命的である。認識とはその内部に知覚したものの模型を作る事だが、その情報量は常に我々自身より少なく、我々自身を含む世界には遠く及ばない。その愚をより我々の多くの感情を刺激しない語に言い換えるのならば、少ないということになるのだろう。そういった前提の元、賢明とは何かを考えれば、それは間違わないことではなく、そういった少なさを補う無数の技術の数々で、なんらかの必要に応じ認識を歪めることと、その必要と歪んだものでしかないことへの自覚ではないだろうか。
id:lieutar
もし貴方が人間は努力すべきだと考えているのであれば、貴方は同時に人間には能力の多寡が宿命的にある事を認めているのである。そして、もし貴方が一定の能力に線を引き、それに満たない者は許されないと能力の多寡において規範を設定するとき、貴方はある人々から尊厳を奪おうとしている。世界には老いた者、病む者、時間の残されていない者は沢山いる。我々は規範を設定するとき、その規範の尊守に必要なものは最小限に止めなければならない。おそらくそれは、態度に対してのみ定められるのではないだろうか。
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弾丸を蝉丸に空目をして投稿しようとキーワードを開いたときの既に遅し感
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[ぼんやり]しいたけの人は町田にいたことがあったのだろうか…
今脳内に流れてる曲は?(リアルでかかってなくてOK)
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