Hatena::ブログ(Diary)

たまスパ

20110117

moccur が delete-other-windows するのが嫌なので

ウインドウ分割しまくりなので、あの仕様はツラい。

別に elscreen-create してからでもいいけど、わりとストレスになってたので。

   (defvar my-moccur-cancel-delete-windows nil)

   (dolist (func '(moccur-search
                   moccur-search-files
                   moccur-grep-sync-kill-buffers
                   moccur-mode-goto-occurrence
                   search-buffer-goto))
     (eval `(defadvice ,func (around my-rc:moccur activate)
              (let ((my-moccur-cancel-delete-windows t))
                ad-do-it))))

   (defadvice delete-other-windows (around my-rc:moccur activate)
     (unless my-moccur-cancel-delete-windows
       ad-do-it))

ただ、これ、コマンド実行をキャンセルしたり、途中でエラー出た場合、しばらく delete-other-windows が使えなくなっちゃう諸刃の剣

いい方法ないものかな。

20101215

まぁいくらデフォルトの見栄えが好きといっても

さすがに見にくいので、とりあえず、公式のテーマを使うことにする。

id:antipop さんの Hatena::Let のための emacs 拡張を使って、hatena-let/edit を書く

Hatena::Let ちょー便利。でも、emacs で使いたいねって思ってたら、id:antipop さんが Hatena::LetのエディタをEmacsにする - delirious thoughts にて保存する手続きを公開されてたんで、define-derived-mode して作ったモードから呼び出せるようにするんと、deferred 使ってソースを取ってくるのと組み合わせたら、すぐにできた。

あと、 hatena-let/new とか出来るといいな。

     (defconst hatena-let-mode-map
       (let ((km (make-sparse-keymap)))
         (define-key km (kbd "C-x C-s") 'hatena-let/save-code)
         km))

     (define-derived-mode hatena-let-mode js2-mode "hatena-let" ""
       )

     (defun hatena-let/edit ()
       (interactive)
       (let ((buf (get-buffer-create "*hatena-let*")))
         (switch-to-buffer buf)
         (deferred:$
           (deferred:url-post 
             "http://let.hatelabo.jp/api/code"
             `(("api_key" . ,hatena-let/apikey)))
           (deferred:nextc it
             `(lambda (gbuf)
                (set-buffer ,buf)
                (goto-char (point-min))
                (insert
                 (save-excursion
                   (set-buffer gbuf)
                   (decode-coding-string
                    (buffer-substring-no-properties 
                     (point-min)(point-max))
                    'utf-8)))
                (hatena-let-mode)
                (goto-char (point-min)))))))

ありゃ、CSSが

さくらサーバCSS置いてたの忘れてた。

契約更新すべきかどーか迷ってる間に CSS が取れんくなったのね。

負け惜しみではないけど、実はCSSがない素の構造化だけの見栄えって結構好きだったりする。

20101205

ほにゃらら-hook ってないのかなーとか思ったときに

(let ((L ()))
  (mapatoms
   (lambda (atom)
     (let ((name (symbol-name atom)))
       (if (and (boundp atom)
                (string-match "-\\(hooks?\\|functions\\)\\'" name)
                (not (string-match "-mode-hook" name))
                (not (string-match "\\`ange-ftp-" name))
                (not (string-match "\\`bookmark-" name))
                (not (string-match "\\`comint-" name))
                (not (string-match "\\`custom-" name))
                (not (string-match "\\`cl-" name))
                (not (string-match "\\`byte-compile-" name))
                (not (string-match "\\`Info-" name))
                (not (string-match "\\`calendar-" name))
                (not (string-match "\\`cperl-" name))
                (not (string-match "\\`eieio-" name))
                (not (string-match "\\`tramp-" name))
                (not (string-match "\\`vc-" name))
                (not (string-match "\\`speedbar-" name))
                (not (string-match "\\`semanticdb-" name))
                (not (string-match "\\`semantic-" name))
                (not (string-match "\\`elscreen-" name))
                (not (string-match "\\`rmail-" name))
                (not (string-match "\\`dired-" name))
                (not (string-match "\\`url-" name))
                (not (string-match "\\`column-number-mode-" name))
                )
           (setq L (cons atom L))))))
  (dolist (a (sort L (lambda (a b) (string< (symbol-name a)(symbol-name b)))))
    (insert (format "%s\n" a)))
  (length L))

こんなのを書いて候補を絞り込みつつ探している私です。

id:lieutar
彼らが「愛している」と言うかわりに「我々ではない彼らを憎む」としか言えないのは、「愛している」と言う言葉が空虚に響いてしまうからだ。その逆の感性は、「我々ではない彼らを憎む」と言う表現の空虚さに気付いてしまったと言う二重倒錯の末にあらわれると言うこともあって、おそらく自分の場合は二重倒錯を経ているのだと思うが、そもそもの倒錯が何故起きるのかと言うことや歪曲する「奥ゆかしさ」と言う感覚にもまずいものがないか警戒してみる。
id:lieutar
石堂順子さんの会見について、「息子の心配をせず、息子の危機をプロパガンダのに利用している」と言う意見をちらほらと見るのだが、むしろそういった人々に&#34;危機を心配のあまり狼狽する母の姿を見たくて会見を見たのに期待通りではなかった&#34;といった質の嫌らしさを感じてしまう。後藤さんの行動をあの嫌らしい「自己責任論」をもって非難し続け息子の命を諦めろと彼女に迫る人々に彼女が苛まれ続けた事は想定され得ることで、ならば彼女が息子の名誉の為にその行為の意義をまず訴えようとする事は自然な事だと考えることはできるわけで、そういう評価を断ってしまう背後にある心理ってのはやっぱり気になったりもするのよね。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150124/20150124021428.jpg
ラ・バンバっぽい言葉
ヘビニズム
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150122/20150122125654.png
id:lieutar
「イスラム国の脅迫に乗じ、政権批判することはテロに加担することである」と、言うことはわからなくもない。しかし、対米追従の姿勢を露骨にすればするほど日本がそういった脅威に巻き込まれる可能性が高くなると言う指摘はこの事件以前から繰り返しなされてきたことであり、この度に政府の姿勢を批判する人々の多くはその文脈に乗っていると思う。別にテロに加担したくはないが、この国のありかたを決める旗振り役の選択として現政権を認めた人々に、本当にそれを理解し、仮に自分自身や愛する人が殺される事となっても通すべき大義があると考えて選んだのかと言うことを問おうとしていると思う。そういった態度の脇の甘さは認められるものの、意識の拡がりの問題が有耶無耶にされてしまうことには違和感も覚える。それはそうと、もうひとつ気になるのはそもそものその文脈自体が乗るべきものだったのかどうかと言うことが気になっている。あるいは乗るにしても乗り方自体の態度の厳選ってのは必要だったのじゃないかとか。たとえば、「植村元記者を雇う事は学生達をテロの脅威に晒す事になる事になることを意識すべきだ」と言う主張と言うものは、「意識し、その上であくまでテロには屈しない姿勢を表明すべきだ」と言うことになるが、それは屈しないだけの体力の見積あってこそと言う気もしなくはない。
id:lieutar
[ぼんやり]件の邦人の殺害をほのめかしたイスラム国の話題で「日本には八百万の神々がいると言うのにいい度胸だな」みたいな事を言うチャットを横目に、まぁやっぱりネトウヨ発言にはうんざりしつつ、とりあえず「八百万の神」であると言うのがその人の中でイスラムに対しての優位性として意味されているのであれば、とりあえず「神」概念について学習する必要があるなと思ったりしつつ、そもそも八百万の神々と言うものは万物の中に宿るのであって、別に日本にだけいるわけではない、八百万の神々がいると言うのならばそれこそイスラムにだっているわけだろうと思ったり、とりあえず自陣の神を背後に相手を軽んじる何かの狂信の劣化コピー状況はまぁ指摘するだけ無駄なのだろうなと。それはそうと、彼らの本懐はなんらかの陣営にて連帯をしていると言うファンタジーの中に沈み込みたいと言うものにほかならないわけだけれど、そこに聖なるものへの欲望ってのはやっぱり混り込んでいるわけなのだよねとは思うのだけど、しかしあれか、そこに聖なるものへの指向性があって、そういうところは突破口になるかもしれないと思いつつ、そもそもネトウヨ的欲望と言うものが何もしないで自分が聖なるものであると言うことにしたいと言うものであれば他力本願的文化の嫌な現われかたってのもそこにあるんじゃないかとか、もにょもにょとしている。
わたしは わたしは わたしは
いあ!いあ!わたしは!わたしは!
id:lieutar
あー、「承認欲求」話題ついでに、まぁその質に対する議論ってのはそれほど不毛だとも思わないのね。妖怪爪楊枝小僧の話にしたってさ、あれは質より量の承認を指向したって事で、それをまぁネットの普及に結びつけるって事もできよーけど、そういう種類のものってのはむしろネット以前の方が強かったんじゃないかなとかも思うわけね。SNSなんかはさ、尊敬できる数人の目に止まればいいやってパフォーマンスも、等身大の尊敬できる人を探すことも難しくないわけで、まぁそういう私的空間の力が個々人のなかで増すことがテレビとか芸能人とかの旧来の大衆向け権力の弱体化に繋ってると思うし、J-POPなんかの衰退ってのもそのへん、ネット以前のモデルでの商売が出来無くなってきてるって事なんだと思う。まぁもちろん質より量のコミュニケーションってのがネットの普及で一般化してきた、もしかしたら自分にもそういった質のコミュニケーションができるかもしれないと思わせるものになってきたってところはあるけれど、そこに旧来メディアの欲望の感染のようなものを感じとることと、あと脳筋的数字主義と言うさらに古代からの人類の病みたいなものってあるのかなとは思う。んで、多分これからもずっと問題なのは脳筋的数字主義みたいなもので、なんつかビジネスコミュニケーションにおける定量偏愛とかそのへんへのカウンターってのはなんか考えておきたいよねとか、そのへんはスローライフとも関わってくるのだろうなとも考えたりもしている。
id:lieutar
あまりに普遍的なものであるので万物の原因を解説するのに便利なものと言うのがあって、だけどそればっかり見てたところで肝心なものは全く見えてこないものも沢山あるものがあると思う。「承認欲求」なんてものははてな界隈ではわりと好まれたその種のものだとは思うけれど、そういう視座での分析が往々にして歪んだものになるのではないかと思え、自分にはあまり便利なものには感じられない。だいたい「承認欲求」ってもいろいろと種類があるからね。不特定多数のそこそこの関心を集めたいってのから、特定の大切な人にとって大切な自分になりたいってものから、あるいはその人の感じる神と言うか普遍的他者に対するものからさ。「その行動は承認欲求を原因として起されたものだ!」とか言って、確かにそれらしいところがあったとして、それはあなたの考える質の「承認欲求」ではないかもしれないよって事はしばしば思う。結局その視座に固定する、執着するってのはまぁその人達なりの実存的なり実利的な理由はあるんだろうけれど、それを感染させる運動に対しアクセルを踏み込むかブレーキをかけるかって事ぐらいは選びたいよねとしばしば思う。その選択はあくまで個人の欲望に根差したものではなく、あくまでよりよき明日を作るのに資す形でありたいと。んで、最近アクセルを踏みこむべきと考える概念装置として、そして「承認欲求」ばりの万能包丁として、「公共圏の不在問題」ってのは結構いいよねと考えている。んで、バランスのとれた社会においてどのように公共圏ってのは腰を下しているのかとって事を考えつつ、すこしでもよいバランスに資せる者であると言う自認を実存の資産としたいところ。そんなことを考えつつ、いやね、「日本社会は宗教に対し寛容」と言う素朴な誤解の背後にあるものってのもやっぱりこれだよねとか感じているわけで、いやさ多分こういう誤解を持っている人々って「寛容」と親密さがイコールだったりするわけで、他者を意識から排除する不寛容がまるで見えないからこそこんな事感じるんだよねとか思いつつ、とりあえずそういう発想を持って話しかけられたら、どういう切り返しができるのだろうって事をシミュレートするのだった。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150115/20150115222524.png?1421328330
「肩パット」と語感が似ている言葉
シュミレーション
クレーム
ノールーム
id:lieutar
ドワンゴ関連と自民党、麻生太郎氏の甥で取締役の麻生巌氏だけではなく、麻生太郎氏の息子の麻生将豊氏もまた関連企業、しかも市場調査などをするエクストーンって企業の取締役なのな。
id:lieutar
なんとなくテレビをつけたらバルセロナのジュニア大会の録画をやってて、マリア・ソトニコワと言う人がいたのでもしかしたらと思えばやっぱりあのソトニコワさんの妹さんだったのね。スケートなんだから演技を見なよと言われそうでもあるけれど、彼女の体型が魅力的に見えてそればかりが印象に残ったが、画像検索してみたが見付からず。ファッション・モデルとしてもかなり活躍できそうな感じだった。
id:lieutar
ネトウヨの巣窟になっているかと思えるドワンゴ関連サービスではあるが、しかし実際そういうサービスにその手の人が偏ってるのか、あるいはそういうサービスでわざわざ発言する人が偏っているのか、そもそも人口構成的に偏ってなどおらず呑気にネトウヨやってる人々が大多数になってしまっているのかいまひとつ区別がつかない。人口構成的な区別がつかないがとりあえずそういった人々の動向が伺える場なのは個々の動画よりもそーいった人々がコメントを残して行けるニコニコニュースで、いやしかし実際このへんから露骨なサービスのネトウヨ化始まってないかしかしって場なんだけれど、そんなところに「江戸しぐさ」道徳教科書の話題が出ていたもので、あのどこにフォローのし様があるのか皆目見当のつかないそれにネトウヨの皆様方はどのような反応をするのか見にいったのだが惨憺たるもので、「道徳の授業の内容なんて大人になったら忘れるしそんなに目くじらたてるものではないだろう」とか「検閲ですか!」みたいなものとか「いいこと書いてあるんだったら創作でもいいじゃん」みたいなものとかが並んでいた。おそらくこの背後にあるのは彼らがそういった態度を支持しているかどうかと言うよりは、コメントを書き込む前に陣営の情報をネットの空気から読み取って、自陣と思える側から石を投げると言うことに腐心しているからで、結局のところ自分の脚で立って提示された論点についてものごとを考える習慣の無い人に判断材料を与えても無駄なのだと思ったりもした。彼らはそれを陣営の判断に用いるのみなのだろう。
金槌しかもっていないと、すべてのものが釘に見える
しっているかしにがみはりんごしかたべない
id:lieutar
ある種の人々の言う「リアリズム」と言もの、あるいは彼らの言う「リアル」と言うものは親密圏のことであって、そして彼らがそこになんらかの記号表現を与えようとすると言うことは親密圏を相対化するものとしての公共圏の存在が見えていると言うことの証なのではないかと思う。ただ見えてはいるが彼らの見えかたはあくまで「背景」であり、しかもそこに焦点が結ぶことなくただひたすらにもやもやとしたものとして見えている状態で、背景に焦点を結び相対的に主題を浮き上がらせるような視点への移行を拒む態度が「リアリズム」とされているのだと思う。
寒い
暖房を入れた部屋の中でマウンテンパーカーを着ている…
id:lieutar
正月で朝から酒をくらって眠くなったので居眠りをしたら変な夢を見た。テレビで臨時のニュースとして真冬のビル街を不鮮明な全裸の男が逃げ回っているところを取り抑える映像が流れ、テレビはそれがオバマ大統領だと伝えた。どうにも映像が不鮮明で、報道を鵜呑みにして良いかどうかわからず、しかし不鮮明で全裸と言う設定の映像を流すのは政治的に対立している勢力が貶める為にでっちあげたものかもしれないとも思って、態度は保留だが何かとても不穏な事が起きている事は間違いないと不安を抱えていた。夢の中では自分は高校生で、何らかの理由で借りた学校の鍵を紛失していたことに気付き、「見付けないと錠の取り替え費用を負担しなければならない」と不安になっていた。
カバー以外演奏禁止
http://i4.ytimg.com/vi/8E8a-hQcc2Y/default.jpg
ドロボー
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/SekienDorotabo.jpg
id:lieutar
[ぼんやり] 純情とか素朴と言う語を肯定的に扱う人々にとって、何故そうなのかと言うことがよくわからないと思っていたのだが、ふとその用いられかたを考えるとそれらと対になる概念は、「スレている」「ヒネている」と言うことで、それは狡猾さや下衆さを現わすことなのだと思えば、そういった人々にとっての成熟モデルが異常と言うか倒錯した形ではない成熟を見たことがないと言うことなのではないかと。
はてなゾンビ部
何度でも 何度でも 何度でも立ち上がり 死ぬよ
id:lieutar
基本的人権について「そんなもんフィクションに過ぎない」とドヤ顔を決め込む人がいるけど、「フィクションに過ぎない」のは「基本的人権」ではなく、もはや「権利」だとかそういうレベルからだよねと。強者が弱者から物資や身体を簒奪するような基本的人権の認められない原始的な社会であれ、その簒奪が「権利」によって何の抵抗もなく行なわれているのならば、それはそのようなフィクションを認めたからに過ぎない。結局のところ同じフィクションならば語り合える者全てが妥当し得る点として論理的に求められるものが基本的人権と言うものなんであって、それを「フィクションに過ぎない」って言うのは何も情報を増やしてはいないし、全く相対化すらしないわけだわね。ところで、その権利と言うの、たとえば初夜権みたいな強者が弱者から簒奪する権利みたいの、「権利」として制度化しようとするってのは、強者が常に自身が強くはなくいつ寝首をかかれるか恐れるが故に作っちゃうところってあるんじゃないのとか思ったりもするのよね。そうであればやっぱり強者が自身の強さを信じられないが故に作るものって側面もあるんじゃないかとか。
id:lieutar
[思い付き] 自由と言えば利己的で良いと言うことではなく、公共を重んじる精神を中心に据え、その上で自らの責任を受け止め判断して行動することとする。おそらく「自由からの逃走」などの文脈で語られる自由とはこういうものだ。利己的であると言うのは社会に対する自由ではない。社会からの自由であり、社会そのものは省みないものだ。ところでその自由について、そこには恐怖もあって「逃走」とはその恐怖故に語られるものではないかと思うのだけれど、実のところ自由な判断が結果として自由を捨てる事もあるのではないかと。昆虫的、単純な反射的に動き全体的な影響や行く末を案じるための精神的リソースが節約でき、分業的であることが当然な集団であるほど、個々人の貢献度合いは短期的には高くなり得ると言うことから。この問題は集団が崖を目掛けてまっしぐらになっているときに歯止めが効かないと言うことは言うまでもないのだけれど、この短期的な貢献感と、そもそも理性と言うものが常に歯止めとして動くと言う無力感との対比と言うのは結構分の悪いものなのではないかと。
id:lieutar
改憲問題において9条とは象徴であるが、象徴がそのようなものであるが故に本質論になかなか入らない。そして本質論に入ってほしくない側はあくまで象徴の上での時代の転換点の立役者として歴史に名を残そうとしているのであったり、そういうものをスポンサーに据えたいと考えているものであったり、なんとなくそこにムーブメントがあるからそこに同化したいと考えているものである。本質から論点を逸らすことが目的なのだから、9条は丸腰主義だと言うような頓珍漢が横行しているわけだが、その頓珍漢具合を指摘することは彼らには通用しない。結局は現状態度を保留している人々がどう転ぶかと言うことなのだが、結局のところ9条や安保体制と言うものが歴史的にどのような役割をはたしてきたかと言うことを省みることができるかどうかと言うことに関わってくる。それは「丸腰」と言う感情に対しての釣り針へのカウンターで「まずは落ち着け」と言うことなのだが、上手くできるかどうか。それはさておき、9条をめぐるものが戦後民主主義の象徴となるのは、やはり戦後民主主義は戦中を体験したひとびとの感情によって支えられていたと言うことを示すものであるようにも思えてなれない。
id:lieutar
「とどめを刺す」と言えば昨年末、故・菅原文太氏の「この法案が通ればとどめを刺される」と言うのを思いだしつつ、連鎖的に現状追認型冷笑主義者たちの「何度死ぬんだ民主主義」と言うのも思いだす。この社会にあって民主主義と言うのは実際には「何度死ぬんだ」ではなく度々をの種を蒔かれつつ、芽吹かなかったり芽吹いてもすぐに摘み取られたりしているものだ。撒いた種がすくすくと育つ事を望む者にとっては何度も殺されるのを見ると言うことはしばしばあるし、種を蒔く人々がいなくならないかぎり、あるいはそういう人々の墓標が視界から消えないことを「そこにあるじゃないか」と言う人々は、もう国の名に民主主義とついているだけの朝鮮民主主義人民共和国のような社会でもしぶとく適応し、「我が社会は先進的な民主主義社会である」と胸をはるのだろう。とりあえず、あの法案の通過は「とどめを刺す」ものではなく、死後硬直や腐敗といった死体の変化に近いものだったと思う。むしろそういう変化、あったものが失われる事によってそれがある事の重要さを再認識させられるイベントだったのだと思う。多分、戦後民主主義にとどめをさしたのは、戦中大人だった世代が現役から退いたことによってだ。それが、世代の感情を失えば失われるぐらいに脆弱だったのは、仕組みを周到に作ると言うことをしなかっただけではなく、やはり戦中の現実の周知が不十分だったのではないか。そしてその背後にあるものに、「無垢」を重んじる文化があるのではないか、無垢なる若い層に熾烈極まる戦地のことを教える事、あるいはそういうことで自身が「無垢」ではなくなった事を認識することに恐怖があるとかそういった事があるのではないかと言うこと、そして多分これはサブカルの様式にも繋がって行くこと。
id:lieutar
安倍政権は本気でマンガをプロパガンダに用いるようで、どういうマンガを用いるかと言うのはまだわからないけれど、いわゆるオタク的なフォーマットのものを用い、それも執拗に行うならばサブカル日本ブランドは止めを刺されるのではないかと。政権の狙いどおりに事が進むのであれば、国際社会からの、とりわけそういった面への評価は「こんなもので説得されてしまう社会」と「そんな社会の生み出したもの」と言うものに一気に傾いてしまうんじゃないかなと。まぁブランドは幻想に過ぎず、問題のある実態を隠してしまうのならそれが剥げてしまうってのは必ずしも悪いことではないかもしれないけれど、一方で様式は魂の奥深くまで根をはってしまうもの。それほど根の深くない人は早々に「あれは終わったものだ」と距離をとるほうがいいかもしれないし、自分のように根の深い人はそういう様式を用いつつ、そういう様式が表現してこなかった深いものに目を向けなければならないのではないかと。
何かを受信
メリーさん必死
id:lieutar
ふと思ったのだが徹底的に責任感の無い人、責任をはぐらかす人と言うのは、責任を引き受けざるを得ない状況を避けてきたと言うよりは、その人の所属する世間の空気に極めてまじめに従順に過してきた人でもあるのではないかとも思う。そういった人にとって「自由」とは「反逆」であり、そして責任とは反逆の意志、ないしは反逆に対しての罰に過ぎないのではないかと。しかし、一般的に成長の課程において関わる「世間」、関わる「社会」は複数あって、それらの規範が衝突することと言うのはあたりまえにある。思春期と言うのはそういった規範の衝突の超克の運動だと思っているが、あまり衝突しないか、一貫性のある法則をさほど必要とせず、ケースバイケースを過剰適用する人ってのは思いのほか多いのではないだろうか。「空気教」ってのはこのようなケースバイケースの規範に従順たれと言う態度なのかもしれない。
ゲームしりとり
ガンスリンガーストラトス
id:lieutar
排外主義はキャズム越えしてしまっているのかもとか思わなくもない。はてなは比較的空気としてマシなんだけど、多分大方はヤフコメみたいなもの。ある国のやり方に対する抗議、ある国のあるクラスタに対する抗議と、民族総体としての差別との区別も付かない…と言うか付けることに必要性を感じる事が出来ない…あるいは責任感が薄まれば娯楽のように人は人を殺せるからこそ、差別的な様式に抵抗感を失くした人が増えるほど、参入障壁は下がって行く。空恐しく感じたのは、排外主義的語らいが、他国の排外主義者の心理分析を伴いながら自身の心理をまるで省みる様子なく、そして主語を拡大しながら真しやかに行なわれているのを見たときで、それは彼らの動機があくまで差別への参入にあって、心理や状況分析ではないと言うことなのだけど、一方で心理分析的な語り口もまた劣化した形で利用されて行き、真っ当なものでも効果を失って行くのだろうと。ペンは剣より強いのかもしれない。しかしペンは剣より安く、子供でも扱えるほどに軽く、痛みの実感にも乏しい。
id:lieutar
内田せんせの週刊プレイボーイ インタビューの&gt;&gt;今回の解散・総選挙はどのような国益にもかかわりがありません。政権の延命が最優先している。かつての自民党政権は列島住民の雇用を確保し、飯を食わせることを主務とする「国民政党」たらんとしていましたけれど、現在の自民党は限定された支配層の既得権益を維持するための政治装置に変質してしまいました。&lt;&lt;と言うのを読みつつ、これはまぁその通りだとは思うのだけど、あくまで実利の問題であって実存の問題で言うと現状、自民を支持している人達にとっては「国民政党」なのかもしれないとも思う。インスタント実存の提供、しかし実利の面では剥ぎとって行くってのはまぁ丸っきりやりがい搾取の自己啓発セミナー系ブラック企業や、悪質なカルト宗教と同じ構造があるよなとか、まぁそれは狙ってやったと言うより自然にそうなって行った面があるからこそ警戒されにくいってのはあるのだろうなと。
id:lieutar
まぁ大手の予測どおりの結果であったし、安倍政権側も調査会社等を入れ時期を見計らっていただろう事から、「やっぱりか」「起きないものを奇跡と言うのだよね」って感想しかない。あと気になるのは比例区の比率についての分析ぐらいかな。ぶれない野党である共産の増加はそれだけの危機感を反映してのものだとは思うが、おそらくは民主制について意識をもった層がよりはっきりしたメッセージを出せる党に流れたと言うことで、国民総体としての意識はさほど変わらないのではないだろうか。まぁ年齢別の投票率の推移とかも気になるけど、とりあえず面白いものはあまり期待しないでおく。
id:lieutar
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20141214/20141214154312.png?1418539393
id:lieutar
選挙の前後となると関係の無い場でも政治的な話題が増えるようになる。以前ならそういう傾向は好ましいことだと思っていたが、今のそれは「政治」ではなく「政治っぽいもの」、共通のモチーフを用いた挨拶のようなもので、それがしばしば「我々は仲間だ。奴ら敵ではない、仲間だ」と言うものになってくるのを見て暗鬱たる気分になる。こういう人々が選ぶ政権がどういうものになるか、想像はつく。政府と国民双方の劣化に共犯関係を認めることはできるが、共犯と言うよりもむしろ感じるのは重力とか拡大するエントロピーのような「天然」でしかなく、それに対抗できない文明の無力さであったり、そこに責任を負うべきひとりの人間となりたい、あり続けたいと願う者としては情無い気分がひたすらにかきたてられる。「空気」としては戦中のような状況にもはや突入しているのかもしれない。悪い状況のなかで、状況を改善するためにはより神経を使わなければならないことは確かだが、そこに「身を守る為に」と言う神経の使い方も加わってくるだろう。確かにサーベルをちらつかせた憲兵がそのへんをうろついている状況でこそないものの、魔女狩りのようなものは警戒していてよいように感じる。
苦手なものは何ですか
見付けにくいものですか(略フフッフー
ハイタ七周年
七夕
id:lieutar
この知の象徴の喪失と言うの、もしかして人文社会学の軽視と言うところに繋がっているのではないかと思えてしまう。かつての四書五経と言うのはそういった分野のものであり、そこで得た態度が根としてあって実利に繋りえるものとしての理系分野を枝葉とすると言うありかたを持てたのではないかと思う。おそらく学びの根としての能力は現代にも通用する四書五経にもあって、湯川秀樹博士は四書五経の暗唱ができたと言うし、それは彼の研究のヒントにもなったと言うことなんかは、その能力を示すものではないかとか。文理と言う区別は実のところ明治期の「和魂洋才」と言う発想から生まれたものではないかと思え、「洋才」は西欧列強への恐怖から急拵え的にとりいれた西洋近代の果実であり、より軍事的、産業的に貢献しえるものが理系とされたのではないかとか、あとは兵法的に組織運営の方法論などが参照される事はあっても、その根にあるものと和魂との折り合いは十分につかないまま敗戦へと雪崩れ込んでいったのではないか、その結果としての知性の象徴の喪失があるのではないかと思う。
id:lieutar
[ぼんやり2]四書五経を重んじ、秀才の描写としてそれらを諳じるような事が当たり前の時代と言うのは、もしかすると今よりは知的低階層の人々まで知的なものを重んじなければならないと言う意識が強かったのかもしれないとかなんとなく思っている。どうにも儒教的なものごとの考えかたと言うのに自分はあまり良い印象はないし、とても近代社会が許容すべきでない危険な内容も含んでいるのではと思うのである程度忘れられていると言うことを全く遺憾には思わないのだが、遺憾に思うのはわかりやすい知や聖なるものが不在な社会故の不幸と言うのがあるのではないかと言う気がしている。わかりやすい象徴を失うのは、独自に近代化できなかった、あるいは近代化レースに破れた者として勝者から果実を導入する課程で起きたことだとは思え、「キリスト教はなぜいち早く近代を獲得できたのか」と言う問いはあっても「我々の日本社会は何故未熟なのか」と言う問いを我々の性質から問うと言うことはあまり成果の期待できない問いではないか、要はレースに破れた者の不幸に過ぎないのではないかと。
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[ぼんやり] バーク的保守主義とは正義の根拠を伝統とその相続に置くと言うことだが、問題はこの伝統や相続と言うのは「民族」と言う括りや最も愚かな人が想像的な親密さを感じるような距離としての家族や類似の文化を持つ人々と言う範囲に限定しなければ、世界史の中で文字どおり人々の血を命を吸って蓄積されてきたであろう近代的民主主義、リベラリズムの価値観は力強い意志と誇りをもって相続すべき伝統と捉える事ができるのではないかと思えば、必ずしも革新勢力と相反するものでもないし、実のところ直接的には何も言ってないに等しいものではないかと言う気がしてきている。より重要なことは、そういう言い方でないと「テンション上がってきた 〜」ってならない人が多いと言うことだったり、ネオリベっぽい人々が自称するのに都合が良いものなのではないかと言うことじゃないかとか。いやまぁさらに元々は英仏の確執とかもあるとは思うんですけど。
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少くともスタッフがユニフォームを着用することは「頒布」とは言えん。基本スタッフは届け出られているわけで、そういう人達が「私達は運動員です」と示す事を「掲示」と言うのであれば、候補者自身が選挙期間中は街も歩けないんじゃないかとかってならないかとか、可成無茶苦茶な解釈に思えるのだが。つーかスタッフがそれとわからん格好で聴衆に扮したりするほうが余程悪質だとは思えるわけで、ユニフォームはむしろ良心的に思えるのだが。
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公職選挙法第146条(文書図画の頒布又は掲示につき禁止を免れる行為の制限)&gt;&gt;何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問 わず、第百四十二条《文書図画の頒布》又は第百四十三条《文書図画の掲示》の禁止を免 れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体 の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を 頒布し又は掲示することができない。2 前項の規定の適用については、選挙運動の期間中、公職の候補者の氏名、政党その他の 政治団体の名称又は公職の候補者の推薦届出者その他選挙運動に従事する者若しくは公職 の候補者と同一戸籍内に在る者の氏名を表示した年賀状、寒中見舞状、暑中見舞状その他 これに類似する挨拶状を当該公職の候補者の選挙区(選挙区がないときはその区域)内に 頒布し又は掲示する行為は、第百四十二条又は第百四十三条の禁止を免れる行為とみなす 。 &lt;&lt;から、何故かスタッフがユニフォームを着て選挙運動をすることに「違反の疑い」とか言う人がいるのだが、どこをどう解釈すればそのような適用が出来るんだかサパーリわからん。とりあえずググったら「ぅゎぁ」って感じのところばかり出てくるし、選挙用ブルゾン作成販売の商売は堂々となされているので眉に唾は塗っているわけだが、本当のところはどうなんでしょね?
何ージが好きですか
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「犠牲者」と言う言葉があまりに耳に馴染んでしまって何も思わないのだけど、英語で&#34;sacrifice&#34;と言う語を用いているのを聞くとなんかとても宗教的な感覚になるのだけど、一方でそれは「日本的」な感覚かと思えばすこし違う気がして、この語が日本語として定着したのはいつごろから、やはり明治以降なのかなとか、まぁ調べる術を持たないのだけどちょっと気にしている。人災よりも天災が目立つこの土地で降り積もる死は生贄と言うよりはむしろ「肥やし」に近いものではないか。おそらくアニミズム的感覚と言うものは人間社会よりもそれを包含する自然の循環を取り込んだ大局観の中生まれる敬虔な「気分」であって、神道等に望むのはそういう信仰のありかただったりするのだけれど、そういうものは生き残っているのだろうか?
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投票の棄権の是非について、自分は「わからないのなら棄権をした方がマシ」だと考えている。確かに一票は「権利」であると共に「責任」でもあるのだけれど、その責任を回避し続けている人に投票を迫っても「投票さえすれば責任を果たした事になるのだ」と思い込もうとすると思う。そうやって選挙と言う非日常をやっつけてしまった結果が組織票と言うもので、いたずらに投票率を上げる運動ってのは結局はそういう組織であったりポピュリスティックなものへの求心性を強めてしまうのではないかと考える為。どちらかと言えば重要なのは、棄権をしても責任は回避できないと言う認識をどう伝えるかと言うことだったりするのじゃないかと思うのだけど、そもそも責任概念自体がとても伝わりにくいもんで、そのワードを用いた語らいが通じているのかどうかが非常に疑わしいもんだったりってのが…
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オイラは歌を聞いていてその歌詞がきっちりと聞きとれることって殆どないのだけれど、これ、普通そうと言うのであれば歌と言うのは基本は断片化したワードが音楽に合わせて耳に飛び込んでくるもので、その飛び込んで来る感じを楽しむものなのかなというように思う。んで、J-POP定番のワード群と言うのは、音楽に乗せて飛び込んできてほしい人気、定番のワード群と考えるべきなんだろうなと思え、おそらくはそれを何のメッセージもないワードサラダとするだけでも「いい歌」評価ってのは出来るのだろうな…と言うかそういうことを可成自覚的にやりはじめたのがボカロ界隈だったりするんかなとか、まぁ大半は様式の追従、追認でしかないのだろうが。いやなにもボカロ界隈だけでなくて、もっと先にゃ「アジアの純真」とかPOLYSICSとかいっぱい例があるんでないのとか、まぁあんまり例を知らないからもっと古いところを出せなかったりもするのだけど、多分ボカロ界隈の方がワードのコントラストの意外性をより求めているところがあって、このへんについては多分アーキテクチャ的に解釈して行くってのがまぁ一応やっておいたほうが良いのだろうなとは思うが、そんなもんは「一応」に過ぎないのだが、とりあえずはニコ生で脱いでBANされちゃう子みたいな力学が働いているような気もせんでもない。いやまぁそんなことはともかくとして、「ぼくら」「ぼくたち」やら未来を連想させる「明日」とかと「行く」ってのが耳に飛び込んでくる曲ってスゲー多いよねってのと、このへんのJ-POP系と演歌なんかで聞こえやすい断片なんかと比較しても面白いんじゃないかとか思ったことをメモする次第。
何ージが好きですか
ランゲージ
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なお、何故「いけない事」をする事を好むのかと言えば、正確には「その理由について理解をしていないが何故かいけないとされている事」をする事を好むのであり、「何故かいけないとされている事」は理解の範囲を超える広い世界の力学を連想させ、それを優先させる態度は「余所余所しさ」を表現し、それを無視する態度は親しみを表現するものと感じるからではないかと思う。実のところ彼らは差別をしたいのではなく、単に親密さを確認しあいたいだけなのである。問題はそれがものすごく迷惑だということだ。
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差別ネタを用いる人々と言うのは、それがよくない事だと言うことを一応知っているからこそ用いるのであり、「それがいけないことだ」と言う指摘は、とりあえずその場に水を注すことになってもその人が差別ネタを用いる事そのものについて考える切っ掛けにはなかなかならないのだと思う。勿論、水を注すことでそういった場を野放しにすることを避け、実際それを見て傷つく人々(それは差別の当事者だけではなく、差別ネタをカジュアルに用いる事に心を痛める人々も含める)の為にはなるのだけれど、おそらく「水を注す」と言う行為はあまり徹底的にやると注された人々のそれがカジュアルなものから意固地なものに変化する恐れがあって、あまりやるべきではないのではないかと思う。彼らがそのようなネタを用いるのは、それが「いけない事」であることを知りながらなぜいけないのかと言うことを詳しく知らないからであると思う。仮に彼らに「何故それがいけない事か知っているのか?」と問えば、おそらくは「差別はいけない事だから」と答えるだろう。しかし実際にはその「いけなさ」の性質を彼らはどの程度理解していると言うのだろう?実のところこれは簡単な事ではない。被差別側の心情を推し量る事にせよ、差別が放置される事により社会から失われるものにせよ、あるいは差別を「たんに押し黙ればよいもの」ではない事にせよ、ひとつひとつが可成落ち着いて慎重に理解しなければならないことであったり、そういったものを理解する段階で自身の実存を保つ仕組みを組替える事がしばしば要求されるものだ。これはその人が獲得した言葉の表現と内容のペアを少しずつ修正して行く作業でもある。そういう作業への入口をどうやって作る事が出来るかと言うことを我々は考えるべきなのだろう。
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ロリショタってのは基本的には性指向で考えるべきものだと思うよ。異性が好きとか同性が好きってのと同じぐらいに、どれぐらいの年齢層に対し一番強くひきつけられるかとか、どれぐらいの年齢層だったら「ちょっと無理」って感じるかとか。それはその人の性愛の形づくられて行く無数の骰の目の組合せの結果に過ぎないのだから、どれが異常とか正常とかではないけど、欲望の充足の方法はその指向によって変える事が求められるって事。子供を性愛の対象とするのであれば、大人を性愛の対象とするような様式を子供に向けてはいけないと言うだけのこと。
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って言うかこういうロリショタ話を必ず支配の構図に結びつけて考える人は誰かの意見を得意気に語ると言うのでなく、自身の感覚に合わせて語っているとするならば、その人自身が支配関係のコンプレックスを持っているのだろうなと思う。
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自分の高校は男子校で、基本的にはヘテロセクシャルな自分にとって高校と言うものは恋愛や性愛の舞台ではなかったのだが、大人にとっての自己イメージの確立した頃で、高校を舞台とした学園ものに感情移入するのはそれほど難しくない。もっと言えば大人顔負けに成熟した人物がいても然程不自然ではない舞台であり、多くの人々の間で共有されやすいもの、あるいは共有される舞台として流通するものが「高校」なのではないかと思う。「女子高生」と言う記号が消費される背景は、そういった舞台としての高校の共有があるのであって、多分女子高生そのものの心身の成熟度合いと大人とのギャップとか、制服とかそういうところはなんか違うと思うのよね。大人として高校生を欲望しているのは外側の意識。高校生を消費する大人の内面では自分自身が高校生になっている。
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マーフィーの法則
ゲームプログラマを苛めると、ゲーム世界で世界中のゲーマーに苛められる。
何の報告かわかりませんが
ペペロンチーノ力が上昇しました。これまではスパゲティに潤滑油として大蒜の香りをつけた油をまぶす感じで作っていましたが、積極的に茹で汁を加え、徹底的に混ぜ込んでソースを作る感じの方がなめらかで美味しい感じがします。火加減はずっととろ火、一切パチパチ言わない感じが良いようですな。
隣の芝生は
LINEやってますか
山は死にますか
ないものねだり
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今年は数人の親族が他界した年ではあるが、とりあえずもうするなという気分は彼ら彼女らへの愛着故と言うよりはその前後の騒ぎに疲れているからである。それはそうと身近な人を亡くしたことで改めて人が死ぬことを実感したと母が言うのだが、どうにも人が死ぬと言うことは一面的な捉えかたであるような気がして、そのことに特段の感慨がない。自分と生きる時間が重なる人々のなかに自分より先に終端が設定されているひとがいて、重なっていない時間を生きると言うことだ最近は感じる。占有しない時空を持つと言うことは構造を持つと言うことで、そこになんらかの構造がある事に価値を見出せる限り、生も死も同様に輝き続ける。寂しさはあるかもしれないが悲しさなんかはないし、基本的に自分は寂しさも愛しているのだ。そんななか流れる涙は常に生きて悲しむひとびとの感情を想像し同調する形でのみ流れるばかりだった。そこには私達の生を価値あるものだと信じたいと言う強い願いを感じるからだ。
頭に「反」を付けて逆転させてみる
反スト
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今度の選挙は自民党への信任を問うのじゃなくて、安倍政権への信任を問うものだと思うの。んで、自民、55年体制当時程度にバランスをとり戻すためには、安倍自民には終わってもらわんとダメなわけで、そのへんはお灸を据えるような投票をしたほうがいいと思うよ。まぁそれはそうとして、どんな政権でもお任せ政治はもはや出来無いのだから、頼りない政権の元、バシバシ文句を言うって癖をつけないといけないと思う。それはそうと文春あたりですら安倍おろし的な風を感じるわけだが、自民の中でも内乱が起きていると考えていいのかしら。安倍氏の焦りもそのへんを反映しているのかなとか、いやそれで出てくるのがゲルたんでもやだけど。
振り返れば
にら
何ッチが好きですか
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小学生なりすまし問題、嘘をつくのが良くない、あるいは虚構を混じえた芝居の作りが上手くない事などはとりあえず置いておくとして、なぜ小学生になりすまそうとしたかと言うことが少し気になっている。一応、感情の釣り針を使おうとしたと考えられなくもないが、「小学生の意見」と言うものを我々は単に子供の可愛らしさや健気さだけで傾聴すべきものだと感じるかどうかと言えば、政治のような分野でそのようになる人は少数派なのではないのかと思う。で、あるならば「小学生の疑問」と言うものが傾聴すべきと感じてしまう人がいる、あるいはそう感じるから詐称しようとするのはまるで頓珍漢なことかと言えばやはりそうではないと思うし、それが何かと言うこと。んで、そこで設定される小学生とは「かわいい存在」とか「健気な存在」なのではなく、「学校で学ぶような事は知っているが、現場のハイコンテクストを知らない者」であり「基本的な演繹の能力は持ち合わせている者」なのではないだろうかと言うこと、「社会を語る小学生」が効くと言う発想は、「現場のハイコンテクスト」への批判や、社会問題について考えないクセをつけている人々への批判のなかから生まれてくるのではないだろうかと思う。あの詐称は、「詐称するような大人」を混ぜ込むことがそのままに現場の面倒さを示す、増幅するものになるからこそ問題であり、多分そのへんは主張の内容上も不整合を含んだマズさだったのじゃないかと。ところでオトナのハイコンテクストへの批判だけなら、「ちゆ12歳」みたいなあからさまな非実在キャラでやることも出来たと思うし、その方が簡単だったんじゃないのとか思うんだけどね。考えないクセへの批判にはならないけれど。
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前門の虎、後門の狼、そして黄色い博多ラーメン
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「なぜ少女なのか」と言うところに、やはり差別の問題は出てくるのかと思わなくはないが、それはさておきヒトがヒト型の表面に様々な意匠を飾りつける事そのものを欲望している事は間違いなくて、んで歴史的にはその役割について女性、とくに少女が担わされてきた面があるって事なんじゃないか、フリフリのドレスとかリボンとかな。いやしかし、たとえば市松人形を着せ替えて遊ぶようなこと、たとえば甲冑人形を着せ替えて遊ぶような形ではなんで普及していかなかったのかとか。
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MS少女と言うものについてさっぱりわからないと言う気持ちだったのだが、最近ガンダムのゲームをやるようになって、MSのポリゴンモデルをさまざまな角度から眺める機会が増えてくると、ヒト型の表面に様々なデコレーションがついているのが楽しくなってきて、それと美少女イラスト的な感覚がわりと繋がるような気がしてきたりして、なんとなく気持ちが解るようになってくるとともに、しげしげとモデルを眺めることがきっかけの発想なのであれば、やっぱりあれはガンプラとかを作る人々の文化なのだなと思ったり、なんでヒトはお人形遊びと言うものが好きなのかと言うことを考えたりもする。
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スキャナを食べると頭がよくなる
シューマン
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スキャナー
のび太さんのエッチ
ノクターン
       ノ → ク → タ 部分のメタモルフォーゼ感半端なくね?
今「さくらのマネージドサーバ」の隣に表示されている広告
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通報フォーム、メールアドレス等を入力する欄があるのがちょいと引っかかる。責任ある通報をと言うことだとは思うが、Privacy Protection Service なるものが信用できるものかどうかってところなんだよな。
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しかしまぁ、情報商材の宣伝サイトが2chまとめ風の作りになっていたり、なんとなくそれっぽいログになっていたりと、その手の業者のコンテクスト理解度ハンパねぇなとか思いつつ、なんかそういうところで競争が激しく切磋琢磨されている状況なのかと思えば、不毛感ハンパない状況なのだなと。
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動画検索→ニコ動ただ乗りサイトがひっかかる→「彗星のガルンガンティア」のダンスシーンを脱がせている職人技のGIFアニメが載っている→「なんじゃこれー」と思ってクリック→「18歳以上です」のクリックを促されクリックする→「有料会員登録完了しました」と出て振込先銀行口座やらなんやらの情報が。完全な詐欺サイトである。とりあえず、それだけでどんな情報も向こうに渡っていない事は確かだし、仮にそーでも全くそんなものに法的根拠はないので別に怖くはないのだが、そーゆーのを野放しにするのもなと通報するかどうか迷うものの、警察に「エロサイトがあれば見る奴」として登録されるのも嫌な感じなので放っておこうかと。それはそうと、一応whois をしてみると、Privacy Protection Service INC ってのが出てきて、どうも whois 検索から正体を隠すためのサービスのようなのだが、そこに悪用を通報するフォームがあって、それを利用するかどうか検討中。
君をのせて
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君をのせて
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建前論て本来なら超自我的に扱うべきものなのだが「そんなのあくまで建前ジャン」的な事を言う感覚の人にとっての建前論って誰かに責任をおっかぶせるものとして考えてるところがあるような気がする。んで、適当に立ち回る為に時に現代的な建前論やら、因習的な序列に基く建前論やらを単に自分が望むポジションに立つ為だけに駆使して、それらの優先順位とかってのは状況に応じて変化しているのではないかって気が…
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児童ポルノRTで逮捕っての、なんか「たかがRTで」みたいな反応が多いが、虐待の事実があるものであれば、RTってのは結構悪質じゃないか。子供のレイプ現場を見付けてそれを通報したり止めたりするんじゃなくて「みんな!ここで子供がレイプされているよ!撮影して保存するなら今だ!」みたいな行為なんじゃないかとか。
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リベラリズムは相対主義と誤解されやすいように思うのだが、多元性の許容と言うものが、あらゆる立場に優先するものであり、確固とした立脚点を持つ。リベラリズムを相対主義と混同する人は、リベラルな主張を相対主義的に混ぜ返せば矛盾を明かにできると考えるが、相対主義は常に単に未知への退行なのであって、自省において方法的に用いる以外の利用は濫用であると自分は考えている。
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この解説は現代におけるリベラリズムを定義するのに非常に適切なものだと感じるのだけれど、実際にはリバタリアニズムとリベラリズムの区別がなかった時期があったり、リバタリアンはリベラリズムと言う言葉は略奪されたのだみたいなことを言ってたりとか歴史的経緯の上からは結構面倒なことがあるようなのだが、とりあえずそのへんについては このへんに詳しそうなのだが、後で読む。
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[勝手に引用]&gt;&gt;世界システムの最も重要なイデオロギーはリベラリズムです。リベラリズムとは、それ自身、多様なイデオロギーの存在を多元的に保障し、それらのせめぎ合いのなかから生起する諸問題には漸進主義的・改良主義的に対処すべきであるとするイデオロギーです。リベラリズムには、イデオロギーの多元性を許容しないイデオロギーには徹底的に立ち向かうという戦闘性が必要です。この戦闘性を失ったときには、他の何らかのイデオロギーによって排除される危険があります。&lt;&lt; 世界システムに関する考察:world-system-theoryより
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対立する二者の間に入り、第三者として意見を述べるとそれを即ち相手側の「肩を持つ」と感じる人がいて、おそらくその人の中では極めてシンプルな世界、自身と相手をひとつの線で繋いだだけの線分のような世界で、第三者をその線分上にマップしようとすると、自身が片側の極にいるのだから必ず「相手側の者」と言う評価を下してしまうのだと思っていたが、それ以上にその人は語らいを何のためにするのかよく理解していないか、別の目的のみに利用していて、語らいを通じ相互理解の前提となる世界の描像を明かにして行こうと言う意識そのものが欠けていると考えた方がより自然なのではないかと思うようになった。しかし、こういう場合どうしたらいいのか、とりあえず愚痴を聞くと言う形でその人に寄り添うことは出来るかもしれないが、問題は解決しないわけで、とりあえずこういう人には日頃あまり興奮していないときに自己相対化しやすいような話題での雑談を重ねておいてクセを付けてもらうと言うことしかないのかもしれない。
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サウイフモノに俺はなる
現実にあったら嫌な職業
サウイフモノ
想像で語るHAIKU!GIRLS
食品製造会社の工場勤務とか、医者とか、ナースとか、化学、生物系研究者とかのユニット
ドラクエにあったら嫌な職業
スパマー
ドラクエにあったら嫌な職業
出し子受け子
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原因と結果がある場合、それを繋ぐものには物語と理論がある。前者と後者の違いは原因と結果の繋ぎかたで、より特殊な繋ぎかたをするものが物語、より網羅的で一般的な繋ぎかたをするものが理論である。ある物語がフェアであると言う場合、ひろく受け入れられ得る理論からの逸脱がないと言うことだが、これはあくまで物語の説得力を獲得し、魅力的に引き付ける技術のひとつであり、物語がフェアであるからそれが現実を描写しているわけはなく、現実を描写する為には物語ではなく理論を用いる。しかし、現実そのものは多世界解釈等を含めないのであれば観測の連続が収束を続ける物語であり、この「現実そのもの」「現実を描写する方法」「現実の描写を真似たもの」の混乱が陰謀論の取り扱いを誤らせるのではないだろうか。
ハイクはどちら寄りですか
極東
それは解散ではない
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麻薬の場合、確かに低品質麻薬は低コストで粗製濫造されるのだが、一応規制があって簡単に流通しないってことと、医療用麻薬にもともとの需要があると言うこと、そして中毒者は手に入るならば質の良い医療用麻薬を好むと言うところがあるんじゃないかなと。一方、愛国ポルノの方はどうかってぇと流通規制があるわけでなく、底質さ故に損なわれるものへの自覚症状が薄いと言う…
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結局のところ、愛国を語るとか、他国の理不尽な要求に怒りを示すとか、そういった事そのものは問題がさほど大きくないのだが、問題は愛国を「当然」のものと考えるとか、他国の政府ではなくその住民を差別する事、そして特定の陰謀論の拡大の問題が大きいわけで、彼らの「愛国者」としての自認については一旦支持する姿勢を見せると言うのはどうかと。どんなに間違った態度であっても「そんなのは愛国ではない」と言うのではなく、「社会を思うことそのものはよいことだし、国際情勢を考えるのもよいことだ」と一旦支持し、その上で余計な物語込みではない情報の提供をするとか。とは言えウ派陰謀論の上に乗ったゴシップの数々が厄介で、そういったものの検証プロセスを省いた、それこそ裏ルートで出回る麻薬のようなものの物量を前に、比較的慎重に選ばれた情報は常に少なく、その差を前に彼らは「自分達の方が詳しい!」と考えてしまうわけで、やっぱり簡単なものじゃないと言うか、もしかすると原理的に不可能な方策かもしれん。
雪国の生活
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珍しいな
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