Hatena::ブログ(Diary)

たまスパ

20110117

moccur が delete-other-windows するのが嫌なので

ウインドウ分割しまくりなので、あの仕様はツラい。

別に elscreen-create してからでもいいけど、わりとストレスになってたので。

   (defvar my-moccur-cancel-delete-windows nil)

   (dolist (func '(moccur-search
                   moccur-search-files
                   moccur-grep-sync-kill-buffers
                   moccur-mode-goto-occurrence
                   search-buffer-goto))
     (eval `(defadvice ,func (around my-rc:moccur activate)
              (let ((my-moccur-cancel-delete-windows t))
                ad-do-it))))

   (defadvice delete-other-windows (around my-rc:moccur activate)
     (unless my-moccur-cancel-delete-windows
       ad-do-it))

ただ、これ、コマンド実行をキャンセルしたり、途中でエラー出た場合、しばらく delete-other-windows が使えなくなっちゃう諸刃の剣

いい方法ないものかな。

20101215

まぁいくらデフォルトの見栄えが好きといっても

さすがに見にくいので、とりあえず、公式のテーマを使うことにする。

id:antipop さんの Hatena::Let のための emacs 拡張を使って、hatena-let/edit を書く

Hatena::Let ちょー便利。でも、emacs で使いたいねって思ってたら、id:antipop さんが Hatena::LetのエディタをEmacsにする - delirious thoughts にて保存する手続きを公開されてたんで、define-derived-mode して作ったモードから呼び出せるようにするんと、deferred 使ってソースを取ってくるのと組み合わせたら、すぐにできた。

あと、 hatena-let/new とか出来るといいな。

     (defconst hatena-let-mode-map
       (let ((km (make-sparse-keymap)))
         (define-key km (kbd "C-x C-s") 'hatena-let/save-code)
         km))

     (define-derived-mode hatena-let-mode js2-mode "hatena-let" ""
       )

     (defun hatena-let/edit ()
       (interactive)
       (let ((buf (get-buffer-create "*hatena-let*")))
         (switch-to-buffer buf)
         (deferred:$
           (deferred:url-post 
             "http://let.hatelabo.jp/api/code"
             `(("api_key" . ,hatena-let/apikey)))
           (deferred:nextc it
             `(lambda (gbuf)
                (set-buffer ,buf)
                (goto-char (point-min))
                (insert
                 (save-excursion
                   (set-buffer gbuf)
                   (decode-coding-string
                    (buffer-substring-no-properties 
                     (point-min)(point-max))
                    'utf-8)))
                (hatena-let-mode)
                (goto-char (point-min)))))))

ありゃ、CSSが

さくらサーバCSS置いてたの忘れてた。

契約更新すべきかどーか迷ってる間に CSS が取れんくなったのね。

負け惜しみではないけど、実はCSSがない素の構造化だけの見栄えって結構好きだったりする。

20101205

ほにゃらら-hook ってないのかなーとか思ったときに

(let ((L ()))
  (mapatoms
   (lambda (atom)
     (let ((name (symbol-name atom)))
       (if (and (boundp atom)
                (string-match "-\\(hooks?\\|functions\\)\\'" name)
                (not (string-match "-mode-hook" name))
                (not (string-match "\\`ange-ftp-" name))
                (not (string-match "\\`bookmark-" name))
                (not (string-match "\\`comint-" name))
                (not (string-match "\\`custom-" name))
                (not (string-match "\\`cl-" name))
                (not (string-match "\\`byte-compile-" name))
                (not (string-match "\\`Info-" name))
                (not (string-match "\\`calendar-" name))
                (not (string-match "\\`cperl-" name))
                (not (string-match "\\`eieio-" name))
                (not (string-match "\\`tramp-" name))
                (not (string-match "\\`vc-" name))
                (not (string-match "\\`speedbar-" name))
                (not (string-match "\\`semanticdb-" name))
                (not (string-match "\\`semantic-" name))
                (not (string-match "\\`elscreen-" name))
                (not (string-match "\\`rmail-" name))
                (not (string-match "\\`dired-" name))
                (not (string-match "\\`url-" name))
                (not (string-match "\\`column-number-mode-" name))
                )
           (setq L (cons atom L))))))
  (dolist (a (sort L (lambda (a b) (string< (symbol-name a)(symbol-name b)))))
    (insert (format "%s\n" a)))
  (length L))

こんなのを書いて候補を絞り込みつつ探している私です。

想像で語るピケティ
http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2008/07/31/article-1039150-003AFEE000000258-348_468x544.jpg
belacqui
なんらかのムーヴメントがあるとき、そこに乗りあわす人々が必ずしも自覚的とは限らないというのは自分も思うが、これはどの現象に限った事ではなく必ず付随してくるものだと思う。だから曾野氏や産経へ抗議した人々の中に、単に「正義の陣営」を見出しそこに同化しようと言う情熱を燃やしていた人はいただろうが、しかしその抗議そのものに形式的な問題はあったのだろうか。また、そういう情熱の中に暴力性を見出すのはわからなくはないが、一方で静かなる暴力と言うものもあるのではないだろうか?本質的に異なるありかたがあっても、その異質性を許さず表面的には親密さを装いながら同化や服従を強いるような暴力だってあるのではないか?曾野氏のコラムはそういった種類の暴力と、それに対する無自覚さを凝縮したようなものではなかったのだろうか。今回のムーヴメントに暴力性を見出すのに何故抗議側の方のみを見たのかと言うのが疑問点ではある。そして異なる種類の、異なる方向の暴力が互いに拮抗する状況と言うのは不毛に思えるかもしれないが、それはその社会が自身を不完全な者である事を自覚し葛藤している姿には見えないだろうか?それとも一方の暴力のみが支配的になっている状況の方がより健全だと言うのだろうか?潜在しているものの不穏、とくに顕在するものの確かさ故により潜在性を高めるものに対しての不安が強くなると言う気持もわからなくはないが、だからと言って顕在し形式的には間違っていないものを間違っていると主張するのは端的に言って間違いだと思う。では、その不安を前にどうすれば良いかと言えば、この場合単に慎重さを示せばよかったのではないだろうか。不穏なものがあればできるだけ具体的にその例を挙げ、切り分けて指摘をすると言うことであったり、より適切な抗議のありかたを実践し、その後ろ姿を周囲に示す事ではないだろうか。
belacqui
いやいや、そーでなくて。オイラが問題にしてるのはあくまで「君」であって「我々」じゃないから。無論、問題を語らうのに背景としての「我々」はあるかもしれないけれど、あくまでその上で君はどうなの?って事だから。君はどのように行動を選択し、この場面において何をしたの?って事だから。君は最初2連の書き込みのうちふたつめで&gt;&gt;今回もまた、「アパルトヘイト」という南アフリカで行われていた政策が、日本の現状とどう関係があるのかなど考えておらず、考えようともしていない人がほとんどのようにみえる。&lt;&lt;と書いて、実際&#34;演台&#34;で悲鳴を上げる人のありかたを非難しているではないか。しかも、それは産経や曾野氏のような形での素朴さだけを認め、そこに抗議をしようとする人々、抗議を呼び掛ける人々の素朴さだけに限って認めないと言う極めて差別的なものだ。これは差別側が差別に対しての抗議に耳を貸す必要が無いと主張するときに頻繁に用いられる議論をかきまぜの手法そのものではないか。ただ、何より移民問題でより直接的に被差別の当事者となりえる君が、差別側に同情的に無理筋を振り回す事は考えにくい。ならば君は混乱しているか、声を上げる場面においてミスをしているか、それともオイラの目に映るミスや混乱がオイラにとって未知の何かによるもので君は極めて正常に声を上げているのかだろうと思ったわけね。もうすこし他愛のない例えかたをするなら、朝君に会ったらシャツにべっとりソースがついててスゲー格好しながらあっけらかんとしてそれに気がついてないみたいだから、ぎょっとして何とかしないとってオイラは思ったわけだよ。で、素朴に「ソースついてるよ」って指摘すべきなのかもしれないけど、もしかすると何かオイラの知らない特別な理由でソースか、あるいはオイラにはソースにしか見えない何か必要な物をあえてつけているのかもしれないし、まぁそうでないとしても「ソースついてるよ」って機能は果すだろうから、「そのソースみたいの何?」と問うたわけだよ。そしたら君は「ソースとはゾル状に加工した食品のことであり、服装等につけて歩くものではないのだよ。はっはっはっは」と自分自身のシャツにべっとり付いてる事なんて気にかけもしないような状況になってるのよ。なんかさ、ものごとを批評しようとして俯瞰的な視点やミクロな視点に立とうとするのだけど、そうやって見ている対象は自分自身が立っている場であり自分自身も批評の対象である事から逃れられないことを忘れるって言う、ものすごくありがちなミスをやってるんじゃない?だからこそ、声の上げかたに感じた不足を、自分が補えないかと行動するために声を上げるような形ではなく「彼らには不足している」と言う物言いになるし、自分のシャツについたソースにも気付かないんじゃないの?他にも何故曾野氏や産経の側の素朴さだけを選択的に「それはそれ」としてしまったのかとかってのも、自身とは異なる立場について最大限考えるべきと言うような反省のプラクティスを不器用に過剰適用してしまってるんじゃないかとか、当事者性の強さ故なのか移民 vs 主流文化の差別者 って2極対立構図だけに注視して、差別者によって自身の文化に落胆し不安を感じる主流文化の中の人々とか他の立場の存在を軽んじてやしないかとか、いろんなミスの可能性も垣間みてしまうのだが。
belacqui
たとえば、レイプの被害者が加害者に対する訴えをし、そこに恐怖や怒りを認めたとき、君はそれを&#34;幼児的な退行&#34;と断じ、抗議の声を&#34;様式化した「演台」で「恐怖や怒りによる反発」という「演出」&#34;と捉え、「そんなことでは強姦魔は耳を貸さないだろう」と被害者が声を上げることや声の上げかたを諫めようとするのだろうか?あるいはそこに深刻なハラスメントがあると報しめる事を「無自覚な扇動」と言うのだろうか?
belacqui
なんで回答が止まったのだろう?と不思議に思っていたが、この書き込みはこの位置にあるべきものだった。スマン。位置の訂正ついでに付け加えさせてもらうと、この問い掛けはこのリプライ木の根にあるこの書き込みに奇妙に排他的なものを感じたからだ。基本、君の訴えは(a)[曾野氏の主張](b)[に対するネット上での反発](c)[の不足分]を補う意図で書かれたものだとは思う。ただ、その様式はあくまで(b)+(c) ではなく、not(b) -&gt; (c) と言ったものに見え、それが奇妙に映った。そして、not(b)を作るのに、(a)の素朴な心情は認めながらも、(b)の背景となる恐怖や怒りを無視するのは何故かと。これではまるでよくある「どっちもどっち」と議論のテーブルをかき混ぜ「アーアー聞こえないー」って言う反知性的言説、すなわち発見の場たる議論をスポイルし発見を拒むありかたに似たものに思えたからだ。ただ、おそらく君の基本的な態度を考えればそういったものに与する事が本意ではないだろう、ならばそこに視野狭窄あるのか、それともオイラの見えていない何かがオイラにそのように見せているのかと言うことでね。でね、なんとなく思うんは君の中に「効率」や「省略」と言うものに対する恐怖や嫌悪があるんじゃないのかなと。&gt;&gt;「入門書」という「用意された演台」は本当に、「読者の君が前知識無しで読もうとするには、とても難しい本だ。感謝しなさい。《私(たち)》が要点をまとめておいた。君が読んで解釈する必要も、考える必要もなくなったよ。」という空気が漂っていないだろうか。&lt;&lt;ってのは明かに余計なものが付け加わった感覚だと思う。空気と言うよりは何か怪しい臭いを感じているんだろうけれど、その臭いは対象が発しているのではなく君の恐怖や嫌悪がかき混ぜて誤認させているのではないだろうか。問題は入門に過ぎないものだけを見て本物を見たように自分や他人を騙す愚行や、「これだけ見ておけば大丈夫」と宣伝して売り出すような詐術にあって、「入門書」と言う「用意された演台」にあるわけではない。入門書の普通の用いかたは出来るだけ簡単に入口を覗いて、そのなかで出来ることで応用したいならどんどん応用すればいいし、もっと深く対象を知りたいなら知れば良いと言うものだ。また、そこに入門書という緩衝材を挟む事自体に問題があるかどうかは、結局個々人の自身の能力の見積りの問題で、そもそも明い分野のものなら緩衝材を挟む事が余計なコストを生むこともあったり、質の低い入門書が勘違いする人を作ってしまう弊害に気付いたりする事は少なくないかもしれないが、「なんだかよくわからないが気になる」ぐらいの状態だと、はたしてそこに自身のコストを割くべきか、あるいは割くとしてもどのように割くかと言う判断を緩衝材を用いてまず行うことは知的に評価できるものではないだろうか。
id:lieutar
&#34;自由すぎる民の主だと思う人々の党&#34;
id:lieutar
世界を認識し行動するものたちにとって愚かさは宿命的である。認識とはその内部に知覚したものの模型を作る事だが、その情報量は常に我々自身より少なく、我々自身を含む世界には遠く及ばない。その愚をより我々の多くの感情を刺激しない語に言い換えるのならば、少ないということになるのだろう。そういった前提の元、賢明とは何かを考えれば、それは間違わないことではなく、そういった少なさを補う無数の技術の数々で、なんらかの必要に応じ認識を歪めることと、その必要と歪んだものでしかないことへの自覚ではないだろうか。
id:lieutar
もし貴方が人間は努力すべきだと考えているのであれば、貴方は同時に人間には能力の多寡が宿命的にある事を認めているのである。そして、もし貴方が一定の能力に線を引き、それに満たない者は許されないと能力の多寡において規範を設定するとき、貴方はある人々から尊厳を奪おうとしている。世界には老いた者、病む者、時間の残されていない者は沢山いる。我々は規範を設定するとき、その規範の尊守に必要なものは最小限に止めなければならない。おそらくそれは、態度に対してのみ定められるのではないだろうか。
id:lieutar
弾丸を蝉丸に空目をして投稿しようとキーワードを開いたときの既に遅し感
id:lieutar
[ぼんやり]しいたけの人は町田にいたことがあったのだろうか…
今脳内に流れてる曲は?(リアルでかかってなくてOK)
http://i4.ytimg.com/vi/tbUijyhsEk0/default.jpg
id:lieutar
最近マンホールマニアが増えていると言う話題で「マンホール女子が増えている」と題した記事みて「それ女子関係あるの?」とか思いつつ、とりあえず女子の子が何も子供を指すことではない事は知りつつ字面からチェウシェスクの子供達を連想する。
id:lieutar
欲望の対象となるものは、崇高なものとは異なると言うことがまず根本的にわかってないのかもしれないなと思うのだが、その間違いが作られて行くときと言うのは、ひとびとが崇高なるものを強く求める姿を見て、強く求めるものは崇高なものだと真ならぬ逆を真と誤認する事によるのだろうなと、ああここにも集合と論理の基本的な事項の理解ってのがあるのだなと。表記に似たものの誤認を無意識がする事は止められないが、理性はそれを刈り取らなければならない。
id:lieutar
曾野綾子問題について荻上チキ氏のセッション22でのインタビュー等を聞いたりして、この問題の背後に根本的な差別に対するリテラシ不足があるのだと改めて思った。また、差別問題について素朴ゆえに問題を起こす人々と言うのは問題の有無をそこに好意や親密さがあるか、それが無いかと言うことのみで判断をするところがあって、親密さを指向するものであれば問題などあろうはずがないと深い信仰と執着があるように思う。ストーカーなんかはその反例になると思うし、仮に強大な力を持つ何者かが貴方を愛玩動物として溺愛し、耳や鼻を削いで「これが美しいあなたのあるべき姿だ。そういうあなたを私はますます愛するだろう」と語ったとするとどうするんだとか問えば気付かないかなぁとは思うけど、それでも気付かないパターンってのが想像つきすぎるのと、それらにどう対応すべきかと言うことの想像つかなさと。
belacqui
この語らいがちょっと困った展開だなぁと思うのは、包含関係にあるもの、たとえば、AはBの部分集合であるとするとき、BはAである為に必要だが、BであるためにAであれば十分で、そしてBであるためにAである必要はないと言う条件の話が、なぜか悉くAさもなくばBかと言う排他的関係か、それともAはBと等しいかを問う話に誤読しているのではないかと。必要ではないと言うことは、常に不要と言うことではない。あくまで読書をするとか、ゼロから何かを作り上げると言うことは知性的な行為の部分集合であってイコールじゃない。
belacqui
空気であれ学問であれ入門書であれ、それは認識を現実に近似させる為の発明品、現実認識の道具だと思うよ。んで、それは獲得したり使いこなしたりすること、あるいはメンテナンスは時間や労力といったコストがそれぞれ固有の分量かかるもので、またそれぞれに効果がある。そしてその効果については同程度に使いこなせるのであれば、プロセスとしての発明の段階を知らなくともやはり同程度の効果があると思う。プログラミング的に言えば公開されているライブラリを開発した開発者も、彼の書いたAPI文書を理解して使いこなす開発者も、彼のソースを読んでAPIを理解した開発者も同程度の効果を発揮することができる。確かに開発者自身やソースをきっちりと読み込んだ人の方が応用は効きやすいようにも思うけれど、でもそういった能力を持っていない人が、そういった人たちの思いもつかない応用を拡げて行くこともあるよね。もっとわかりやすい例で言うならライブラリじゃなくてアプリケーションだった場合。ある自分の趣味の絵の為にペイントツールを作った人がいて、それが公開されたとき、プログラミングなんかはまるでわからないんだけれど、きっちりとした美術教育を受けた人がそれを用いる場合、ツールの作者が想定していたものよりもはるかに幅広い表現の出力が得られると言うこともある。大切なことはどのようなプロセスを経るかと言うことよりも、ある時点での行為の選択がきっちりと文明の上に石を積み上げて行くかどうかと言うことであり、またバランスを崩して文明を倒壊させる方向に積み上げられていないということだと思う。&#34;「車輪」を用いるのに発明に用いられた知性は要らない&#34;と言うのは間違いがないけれど、とても言葉足らずだ。そして、知性と言う言葉の用いかたも何かひどく限定的だ。先程のプログラミングの例だったら、あるライブラリやアプリケーションを用いるのに、そのソースを完全に理解する事は必ずしも必要はないが、ソースを理解したり、ゼロから同じものを再発明できれば十分だ。要するに必要条件と、十分条件ね。要するに車輪を利用すると言う集合に、発明プロセスを熟知した上で利用するものと、よく知らないで利用するものが包含されている。そして、発明プロセスをよく知らないでそれを活用するものが反知性的か?では、プログラムのできない画家がペイントツールを用いてすばらしい絵を描くのに用いたものは知性ではないのか?そんなことないよね?でもまた別の画家がそのツールを用いて、描写はすばらしいのだけれど、ある属性を持つ人々を愚弄する絵を描いてばらまいたらどうだろう?ここには知性と反知性が共存していると言える。本当に必要な事は、そこに込められた知性の分量ではなく、むしろ反知性性がどれだけ取り除かれているかと言うことじゃないだろうか?「自分で考える」ってのは本当、言葉のアヤだと思うよ。より正確には、「自分の考えを作ったものの出処に自覚的になる」ないしは、単に「責任を持つ」って事だと思う。
belacqui
どうにも「自分で考える」vs「空気」と言うことがひっかかっているポイントのように見える。ところでピケッティの例について、入門書ではないピケッティのオリジナルを読んで得た智慧を発揮し経済について考える事は、自分で経済について考えることになるのだろうか?それはやはりピケッティの入門書を読んでピケッティを語るような短絡がそこにあるのではないだろうか?あるいは、もしピケッティのオリジナルを読んで経済を語る事が、ピケッティの入門書を読んでピケッティを語る事よりも尊いと考えるのならば、そこにある差とは難易度やらそれを乗り越える為の労力の差であり、たくさん労力をかけた方が尊いと言う事になりそうだけれど、はたしてそうなのだろうか?自分にはこれはどうにも奇妙な考えのようにも思う。自身を叱咤激励する為の自己規範としてそういう傾向を持つ事は問題ないと思う。そもそも学問と言うものが、現実を文字に抽象する技術と、それら抽象の関係性を論理的に記述した理論の先人達の蓄積の上に成り立っているものではないだろうか?車輪を再発明する事はあまり馬鹿にしたものではないと思うけれど、先人の業績を上手く用いてより少い労力で同様の成果を揚げたものよりも、再発明したもののほうが偉大と言うことはないはずだ。問題は省力化にあるのではなく、省力化が正しく機能しないときに発生する。問題視される&#34;空気に従う&#34;と言うのは、この省力化の機構を劣化させる行動と考え、より規範的なものはその保守的な振舞いと言うことになるのではないだろうか?即ち、自分が直接的に知り得るもの、自分の中で直接受かんだアイデアと、伝聞や外部から獲得したアイデアを峻別し、それらの信憑性の高さを吟味しながら自身のとる行動における責任の分量を注意深く見積ることが求められ、それに対し&#34;空気に従う&#34;と言うのは、判断の材料となるものへの評価があいまいなまま、その波及効果等についても考慮せずとりあえず行動し、その結果について責任を問われても責任意識そのものが無いと言う状態の事ではないだろうか?で、自身の省力化の為に空気を読む事や、他者の省力化の為に空気の醸成に参加する事そのものは、単に空気に従い無責任に空気を劣化させる事とは違って非難すべきものでもなく、とくに複数の異なる気流が見出される場合、個々の気流の中の小さな振舞いへの評価が全体の気候に対しての評価に先んじてしまう事は本末転倒ではないかと思う。現状のケースであれば、たしかに曾野氏への批判者に空気に従っただけの者も多数いるだろうが、全体の流れとしては曾野氏の主張の盲点を補うものとなっているのではないかと言うことや、もうひとつの気流としての曾野氏が演台の上で語った事、曾野氏に演台を用意するような気流が別途あって、そこへカウンターの気流がある事そのものは非難すべきではなく、さらに望むべき構造の分析については「それはそれとして」行うべきものではないだろうか?
belacqui
ネットで上がる声の宛先は、とくに批判の場合その宛先は既に演台に上がっている場合、必ずしもその演台に上がった話者ではなく聴衆に向けられているものが少なくなく、それは問題にすでに深くコミットしている人々に対しては提示された誤謬に対し、それがノイズである事を報せたり、その判断を早めるためのヒントを共有したり、そして深く問題について関わらなかった人がミスリードされないように上げられる警告サインのようなところがあると思う。それは根本的な変化をもたらすものではないのかもしれないけれど、日々の掃除や代謝のように最低限現状を維持する為の活動と捉えられるのではないだろうか?んで、この段階のものは「演台に上がる人には、上がるだけの理性能力はとりあえずあるだろう、そこに孕む問題点を指摘することで、自身の誤謬に気付きえるだろう」と言う基本的な能力に対する想定しているし、もしそれが無いならば演台から下りる慎しさを期待したものでもあると思う。問題はそういった想定がしばしば外れる事だけれど、とりあえず建前上相手を尊重したものと言えるのではないだろうか?さて、実際問題としてそういう建前的段階の先に進みたいとは自分も思う。とは言えその先、演台に登るに相応しい理性力も、演台から下りるべきと判断できる慎しさも持ち合わせていない場合、この方法では聴衆の解散やブーイングを呼び掛けると言う方法にならざるを得ず、その場合演台に登っ人や用意した人々が自身の問題点に気付けないのではと言う問題はたしかにあるだろう。ただ、そもそもなんでそんな演台が用意されてしまうのかと言うのは、確かに「一緒に住む事は難しい」と言う不安もあるかもしれないけれど、その他に承認とリアルマネーや社会的地位が取引される巨大な反知性市場が作られていると言う背景があって、向うは向こうでマーケットの外部と語らおうと言う気がさらさら無いと言うこともあるのではないかと。
歴史の闇に葬られた「○○しぐさ」を発掘する
百年しても私は死ねない根なしぐさ
belacqui
えーと、「法律や憲法の話にしてしまうと」と言うと彼女は&gt;&gt;移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。&lt;&lt;と書いているのであり、最初からそういう文脈で語っているわけだけれど?そして困った事に、移民を受け入れた場合に、それまで通りの習慣やものの考えかたでは上手く行かない、あるいはトラブルなどが起きた場合、受け入れ側に一切の問題もなく、トラブルを起こすのは常に移民の方だと言わんばかりに「その契約を守らせる」と言っているわけで。
belacqui
問題にされているのは、内政か外交かと言うことではなく差別に対する基本的態度だと思う。「名誉白人」と言う外交の歴史は、態度においてふたつの解釈ができると思う。ひとつは、南アフリカの内政には眼を瞑り、基本的価値観を共有はしないが単に営利だけを目的に付き合っていたと言う態度、もうひとつは南アフリカの内政における姿勢に共感するからこそ、経済制裁をした国々とは違い積極的に取引をしていたと言う態度。んで、曾野氏は安倍内閣の、件の歴史修正主義等と大きく関わる教育再生会議の委員だったり、非常に現状の統治権力と近い位置にいる人なわけで、そういった人の態度が極めて後者に近いものである可能性が高い文章が出てきた。そして、日頃から非常に偏向の強いメディアであるとは言え、一応は全国紙に掲載されてしまったと言うこと、これはそういった考えに近い人がある程度以上の割合の社会だからこそ起きてしまった事ではないか、「名誉白人」の歴史も単なる無知や無関心だけではなく、人間の尊厳に対しての無知、あるいは憎悪を根源的に我々の社会が抱えているからこそではないかと言う事の気付きに対しての不安が、今回の炎上の燃料となっていると思う。そういった社会って移民でなくとも安心して過ごせるわけがないので。なお、隔離を政策にすると、現行の憲法に反するわけで憲法が改変されない限りは、そもそも政策にする事ができない。憲法を改変してまでとなると、それは国の存在意義にも関わってくることだから、やはり国際的視点、世界から見て我々はどんな社会を支える者でありたいのかと言う意識も関わってくるのでは?
belacqui
アパルトヘイト時代の南アフリカがその政策故に多くの国々から経済制裁を受けるなか、最大の貿易国として「名誉白人」として扱われる程、日本の現状はその犠牲の上に立ったものと言う認識の元、それでも「あくまで対岸の火事、商売だけはする」って態度どころがその制度にまで共感する発想があった事に対しての驚きやら怒りの声ってのはわりと見るけど???
驚いた
http://thomsonreuters.com/business-unit/reuters/reuters-brand/images/png/rtr_ahz_rgb_pos.png
id:lieutar
「婚姻は,両性の同意のみに基づいて成立」と憲法第24条1項に定められている事が何故国民の同性婚を認めないと言う解釈になるのか。いやね文字どおり解釈すればってのはわからんでもないのだけれど、これはあくまで憲法であり国民が守るものではなく、国家に対しそのような意志に基く立法をしなさいって事でしょ?だから、もし同性婚がこの国で制度上認められないって事を示すならば憲法じゃなくて個々の法律を示して述べるべきじゃないのって事と、そもそもこの憲法の条文って結婚は当事者たちの同意以外、たとえば親の意向や地域の習わしによって結婚する当事者達の意向を無視して強制させてはならないって意志の元に作られたもんで、「両性」ってのは成立当初に同性婚が盲点に入ってたって事ぐらいなもんでしょと。まぁ正直なところ日本の憲法ってあまりにもぼんやりとしすぎて具体性が薄いってのと、こういう穴も無いわけではないから改憲すべきところってのは絶対にあると思う。でもまぁ、今日はそういう実質的な改憲ではなく、憲法そのものを台無しにしようと言う輩ばかりが改憲を叫ぶと言うどーしよーもない状況があるわけで、今は機会的に改憲には絶対Noを言うべきではある。
id:lieutar
中2病アニメとか邪気眼とか衆知される昨今、とりあえず自身の直感からかけはなれた発想のものに中2病とレッテルを貼って排除するものではなく、むしろ妄想的な俺TSUEE状態を選択的に指すものになってきたんじゃないかと、自分の言葉としてこの語を用いるのを解禁しようかどうか迷ってはいるのだが、とりあえずそういう心情での「中2病リアリズム」的態度と言うのはあるのではないかと。だれかが現状を変えようと声を上げる場合、「その理想の向こうにあるものを俺がシミュレートしてやるぜ!どうだ!これがお前たちの理想か!現実は甘くないのだ!今の方がいいだろう」的態度をとる奴な。でも傍目には声を上げる人々の現場にいるが故の生々しい現実が感じられないが故に、そんなもん100も承知で声を上げている事が見えていないだろう事が片腹痛くて仕様がないもの。んで、この手のものはノイズでしかないのでスルーしていく方針だったが、最近未だ「マスゴミがー」と言い続けてるネトウヨとかを見てると、そういった誤謬は典型例に分けて観察しておかないと影響されかけた人々を止める力を持てないと思いはじめ、典型例に適当にラベルを振っていっても良いのではないかとか思いはじめていて、まぁそんなこんなで「中2病」と言う語のお試し期間に入っている。とは言え、この語に未だ残る問題は、現実の中2に失礼だって事だな…
次世代くん
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lieutar/20150212/20150212230336.png?1423749819
はてなハイクで次にやって欲しい企画
1日だけあの方が帰ってきて、さんざハイクで遊ぶんだけど、最後は結局「ツイートしたいなぁやっぱり」で締め括ってハイクを後にする茶番
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んでこのへんで思うことってのは幾つかあって 1. 表現者の社会的責任をガンダムの製作者は果たそうとしたところがあり、それは成功していると思うが、表現を通じた効果はなく、単に粛々と建前を遂行する背中を目立つところでやったに過ぎないと考えるべきではないだろうか。表現者の社会的責任とは即ち目立つ者の責任に過ぎないのではないだろうか?2.ロボットプロレス要素は物語においては外連味であるが、多くのファンや、そこから金を集めたいスポンサー、後に続く版権を持つ企業にとっては物語こそが外連味で、夢中になるロボットプロレスに重厚な背景を匂わせるスパイスでしかないと考えるべきだろう。おそらく何か伝えたい事を人気の得やすい媒体に乗せて伝えられると考えるのは間違いで、なんらかの媒体を用いるのであれば、その媒体に対しての分析と批評性こそが重要なのではないか3. ガンダムにロボットものに対する批評性が皆無とは言わない。フリクリのセリフにあるように「ガンダムハンマー」が「所詮ロボットアニメ」の象徴として盛り込まれたとか、兵器産業への言及等はそれを匂わせるものではないかと思える。しかし、そもそもなぜロボット兵器のようなものに対しての欲望が生まれるのかって事への分析や批評はあっただろうか?とか、まぁまだもやもやとしたものは幾つかあるんだけど、なかなか言葉にーできなーい(小田和正
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ガンダムの戦争描写って、戦闘状態にある陣営はどこも一枚岩ではなく、それぞれの中に崇高な理想を持つ奴も、ささやかな自分達の生活を守りたい奴も、どうしようもなく下衆な奴も、単に職務に忠実なだけの奴もいるような描写にはなっているのだが、たとえばISILの問題になれば「奴らは狂人だ!奴らは悪人だ!奴らに敵対しない奴は奴らの仲間だ!」みたいな単純な態度になる人がガンオタの中にも少なくはないようで、結局のところそういった人々にとってはガンダムが「きっちり作られた物語である」と評価されている部分ではなく、ロボットプロレスと言う外連味の部分、もしくは名台詞、迷台詞の類の、同世代の同質の人々の間で強烈に通じる符丁の数々のみを愛していると言うことになると思う。無論、「きっちり作られた物語」に反応し、現実の問題においても深い透察力と慎重さを発揮している人は少くない。とはいえ、ガンダムに触れて育った人々と、そうでない人々の間にそういった慎重さにおいての割合の比率についてはよくわからないので何とも言えないが、決っしてそういう慎重さを持った人々が多数派とは言えないし、あんまり変わらないのじゃないか、慎重さを獲得した人々は、ガンダムとは別の要因によってか、別の要因が組合さってはじめて獲得したのではないかと考えた方が自然なように思ったりもする。それはそうとあのロボットプロレスってのはどういう心情が働き人気が出るのか、いや別に自分がそういうものにまるで同情しないわけではなく、同情はするがその心理についていまひとつ釈然としないものってのがあって、そのへんちょいと興味があったりするんだな。
好きな網目状のもの
アップルパイ
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放っておこうかとも思ったが、なんとなく気持ち悪いので。でも絡まれたら面倒なので特定はしない形で。国際関係が話題になるような文脈上のブコメで日頃「はてサがー」みたいな事ばっかり言ってる人で「戦後、数十人以上の日本人を拉致して海に捨てたりして殺害した民族は?」と言う問いをたてている人がいて、そこに多くの星もついていたのだが、この問いに対する答えは「そんなものいくつかあるだろう」と答えるほかなく、またその最大のものはと問い「日本民族」なるものを設定するならその回答は普通に考えて「日本民族」であると言えるだろう。普通に考えて誰かに暴力を振ったり殺害しようとする事は利害や怨恨が絡むもので、日本人と最も多く関係する民族こそが加害者となり、その民族は間違いなく「日本民族」となる。おそらくブコメ主やそこに星を寄せる人々は北朝鮮拉致問題の事を想定しているのかもしれないが、その場合問い掛けが間違っており民族を問うのではなく政府を問うべきなのだが、彼は北朝鮮政府の罪を韓国や中国、日本をはじめ世界中で生活をする朝鮮族に負わせようとしているのだろうか?また、ごくあたりまえの事だが、ある国の政府の振舞いを非難する事と、その政府の統治下にある国民を侮蔑する事は異なるわけで、そうでなければ自国の政府が間違った舵取りをしようとしているときに非難したり声を上げたりすることは、自身を侮蔑する事になってしまうと思うのだが。しかしまぁ、そういう混同をする人々と日本政府の問題を問えば「反日」だのとレッテルを貼りたがる人々は往々にして重なっている気がするので、やはり根本的に混同しているのかもしれない。
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マスコミを仮想敵とすることについて、世論形成への責任の棚上げ先として丁度良いと言うのもあるのかもとか思ったりもするのと、愛国商法の類いが顧客離れを防ぐ為に冷や水をかけられるような成分のある情報にはとりあえず耳を閉ざさせたいとか、そのへんかなとかも思ったりもする。そういったタイプの人々にとっては現状の、いろいろと情けない体質を持ち、さらに放送法などで様々な利権を人質にとられ、政権に不都合な情報を最小限に、あるいは全く報道せず、海外ニュースを通じてはじめて知るようなニュースがしばしばあるような状況のマスコミであっても「他者」や公共を感じるものなのかもしれないとも思う。現状のマスコミ、とくにNHKは基本的にお茶の間指向が強く、あらゆる層にとって尖りがなくつまらないものになっているところがあり、そういったものがある程度の利権や社会的ステイタスを握っている事に対しての嫉妬とか、そのへんへの付け込みもあるのかなと。
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ここのところネトウヨ系の発言にこの期に及んでもマスコミは!NHKは!サヨク!安倍首相の敵ダーみたいな発想の発言を、ブコメですら散見する状況ではたしてどこから突っ込んだらいいものかと言うか、そういう種類の発想の出所ってどのへんなのか、2chまとめ系とかはまぁありそうなんだけれど、チャンネル桜とか幸福の科学とかその周辺とかもなんとなく気になってたりってのと、その噂の元はともかくとして、そういう物語の設定の動機が、まぁわかりやすいところに仮想の敵を作っておくってのはわからんでもないけどそれにしてもなんか謎すぎて気になっている。
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差別主義と言うのは残念ながらヒトの自然な姿である。しかしそれは糞便のように生活から排出される有害なものであり、切り分け処理し無害化する不断の努力が必要だが、その努力の為の動機は誰もが常に獲得できるものではない。ならば、その獲得の為にこそ教育をと言うのもまぁ自然な発想ではあるが、しかしどんな教育にせよ効果は十全ではなくどうしても残りかすが出てしまう。んで、結局その残りかすを上手く処理できるものが文化に備わっているかどうかと言うことが重要なんだけど、そういったものが何なのか、どう努力すればいいのかってのは考え続けなければならないのだろうな。
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同性愛が不自然なものであると言うのは典型的な誤謬なのだが、問題は異性愛を「ノーマル」と天真爛漫と言ってしまうような人達にその意識が誤りである事をどう伝えるかと言うことで、まぁ本当に性愛についての問題意識を持っている人であるならば単純な解説だけで済むのだが、マイノリティを見世物のように扱ったり不謹慎さを楽しみたいだけの人々に基本的な知識の不足があってそのような振舞いをするのであればそれを補完できないかと考え伝えようにもなかなか伝わらなかったり、「俺達の楽しい空間に余計な水を注すやつらがいる」と&#34;彼らなりの正義感&#34;から攻撃的になるのを防ぐ為にはどうしたらいいものか。結局、他者に向き合うと言う動機は自ら、ないしは自らが感情移入できるものが理不尽すぎると感じる原因で疎外されるといった経験を通じてしか得られず、また理不尽を感じるだけの基本的な理性能力やそれを働かせれて良いと言う気付きも必要で、基本的能力の不足は仕方ないにせよ、異質な規範を持つ社会を渡り歩く必要なく生きてきた人や、渡りあるくときに妙に器用にケースバイケースと条件反射を使いわけることが出来てきた人々には動機そのものを獲得する機会に恵まれなかった人々でもあるのだと思う。それは、公共圏の弱い社会においてはある意味ラッキーだったり強者と言えなくもない事だと言うのがまた皮肉なもので、おそらく彼らが傾聴するのは疎外を切っ掛けに公共意識が強くなった人々ではなく、同邦出身の移民や貿易関係者などわかりやすく様々な文化の人々と関わる必要があって、強い公共意識が必要な社会的ポジションを得た人々からのみではないかとも思えるが、その場合においても、「たいへんな世界だなぁ」ととりあえずは自分達の生活圏を切り離して考えるんじゃないのかな。
id:lieutar
そのようだ
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wget はできるので firefox のキャッシュの問題かも
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はてなのアイコンのサーバ止まってる気がする。
何に何をのせるのが好きですか
おひやごはんに半熟の目玉焼きと醤油、海苔をのせて食べるのが好きです。
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ISIL呼称問題についてはそこに隠れている問題をそこそこ上手く突いてる議論がちょくちょく出てきているが、ブコメに全く理解をしていない輩が渦を巻いていて萎える。娯楽として政治を学ぶ態度はあってもいいと思うが、娯楽として政治に参加するべきではない。それは投票行動や選挙運動といったことばかりではなく、日頃の民意形成への参加についてもそうなのだが、あるラインを超えて参加者が増えると劣化に歯止めが効かなくなる現象が政治についても起きているように思う。ところで自分は最近ISILと言う呼び名を使うことに同調している方ではある。我々はイスラム世界の事はよくわからないし彼らを理解するには中東と欧米の歴史について、あるいはアメリカの失敗について多くを学ばねばならず、よりなんだかわからない「X」に近いものを使う方が、そういった「十分に理解しなければならない謎」感が出るからでもある。最近はどちらかと言えばテロリズムなのかテロリストなのかと言うことがいい加減になったまま、そして「恐怖政治」と言う意味合いが忘れられたまま乱発される「テロ」の方がもうすこし細かく整理されるべきだと思ったりもするわけだったり。我々が明かに認めるべきではないのは、要求を通すために人質をとるとか、政治的パフォーマンスの為に市井の人々を虐殺すると言う行為そのもの、テロリズムに対してであり、彼らのポジションとそこへの共鳴を示した者としての「テロリスト」を、何故彼らがそこに引かれて行くのかと言うしつこいまでの分析なくして差別や切断処理をするべきではないのである。そこにあるのは単純にそれ自体目的化した差別、差別主義であり、そして我々はこういったものに魅かれやすい性質を持っていて、猶且つそれは危険な攻撃衝動であるが故に最も警戒しなければならない我々自身の性質でもあるからだ。
想像で語るザザムシ
「穴ザザムシ♪ムシ♪ムシ♪」とかテキトーな歌詞の歌が持ち味のアフロ頭のファンクミュージシャン。
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「イスラム国」との名が国家として承認している世界があるかのような誤解を招くと、呼び名をすこしわかりにくいアルファベットの省略形で呼ぶのはまぁ良いと思うんだけど、そしたらわかりにくい「テロ」についても「恐怖支配」って言えばいいと思うんだけどね。「恐怖支配は赦さない」と言う文言で全会一致で決議を出す議会であってほしいわマジで。
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シャケ等適当な魚のハラスをムニエルにしてメントールの効いたソースを和えると、とても美味しそうだがその名はハラスメントと言うとても不味そうな料理を開発できる気がする。
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最近頻繁にアムロナミエのコンサートにコーラスとして出演して、ネットで「ひどいコーラスだった」と叩かれているのを見る夢を見るんですが、どういう訳でこの夢を見るのか皆目見当がつかない。
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ISILに関係の無いムスリム達が謂れなき中傷を受けている問題で、無論そういったことは最低なことで赦すべきことではないのだが、一方でそういった人々が出ると言うことそのものは量的評価を欠いてこの社会の程度を示すものにはならず、これは世界中のどこにでも起きている事ではある。だから良いと言う問題ではなく、だから我々はそういう差別と戦う不断の努力が要求されるわけで、とりあえずはその不断の努力に参加する為に機会あらば遺憾の意を唱え、くだらない差別をする奴らを軽蔑する声を上げるわけだが、やはり最小化する仕組みは何かないものかと言うことと、何か参考になる量的評価へのアンテナは張り巡らせておくべきなのだろう。それはそうと、そういった事をする人々はアメリカやヨーロッパで起きたような同様の差別について知らず、「ひとのふり」としての醜さを目の当たりにしなかったがため、自制心が働かないのか、それともそういったものに共感をしているのか、でも欧米のその手の輩って日本人なんかでも平気で軽蔑の対象とするか、直接的に石を投げないでも「名誉白人」的扱いをするような奴ら多そうじゃねとか思うんだけどね。
想像で語るザザムシ
たしかジョージ秋山
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よくわからない事について「よくわからないなりに言及する」ことと「よくわからないまま言及する」ことには違いがあって、前者はよくわからないことのなかから、自分が知り得る事、あるいは伝聞だが怪しい事を峻別し、推論を用い怪しいものの枝を落したり、未知だが可能性のあるものを探る事だが、後者はそういった峻別がないまま何らかの欲望に従って編み上げた物語をさも知っているもののように語ることだ。この区別がない人に「わからないなら語るべきではない」と釘を刺したところで、おそらくその人やその人が釘を刺した事項についてわかっている人と認めた人が「よくわからないなりに言及する」姿を見て、理不尽を感じてしまうのではないだろうか?また「よくわからないなりに言及する」ことは実のところ学びの基本的な姿勢だと思え、混同している人には「とりあえず黙る」と言う規範だけを与えることで単なる権威主義に陥いる可能性もある。また、その人が「とりあえず黙る」を選択し、「よりよく知る人の意見を繰り返す」ことを選択した場合、「よりよく知る人」が単に情報量で押し切るものだった場合始末に負えないものになったりもする。だから多分「よくわからないなりに言及する」作法を大事にして行くと言うのが、草の根としては重要な活動になるんじゃないかなとか思ったりしている。
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2chまとめ系に毒されたての人々、とりあえず「ネットde真実」な段階の人々とどのように対峙すべきかと、きっちりと陣営意識が出来てしまって石やらスパムやら投げ始めたり、そういう中に居場所を見付けてしまった人々よりはむしろ簡単なのかなと。前者が後者にどの程度移行するものかはよくわからんが、移行するものならその前に釘を刺しておくような振舞いは心掛けたいものだなとは思う。とりあえずソースが怪しく差別意識等がそこに混入しているようなキタナイ情報を自分の為にシャットアウトするってのは簡単なわけだけど、そのシャットアウト作業への参加を「そんな怪しい情報信じるなよ」と直接的に求める事は彼らを信用しすぎで、むしろ態度の硬直化を後押ししてしまうように思う。だからまずその「怪しい感じ」を共有してもらう事から始めるべきで、おそらくは飛躍しているような部分について、より素朴な感じで質問を投げかけるような振舞いってのが必要なのかなとは思うのだが。そんな感じで傾向と対策をある程度積み上げて行きたいとは思う。
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「○○をすることはテロに加担する事である」たまたま利害の一部に一致するものがある立場の表明に対しこのように述べられる事が少なくない。しかし、テロリズムと言うのはあくまで強要、恐怖などの圧力によって利害関係上対立する者を封じ込めようとすることであり、ある立場にある者を「テロリスト」と断定し、それを封じ込めようとする者達が「テロリズムと戦う」と言うのはそもそも矛盾している。この点、アメリカが抱えていた問題、そこに乗りかかろうとする日本がこれから抱えようとする問題であり、そういった矛盾を抱えたものにそのまま乗りかかろうとするかしないかで、テロへの加担かそうではないかと言うことを判断するのも問題だろう。この手の言説には距離を置くしかない。そこに実りはない。ところでISILの問題については、中東とヨーロッパの歴史についての、様々な立ち位置から見る復習が必要となる。パレスチナなどムスリムの中にも彼らを全く容認しない人々がいることはいるが、はたして彼らを「ムスリム代表」として捉える事が正しいのかどうか、そして日本社会で暮す我々としてはエネルギー供給源としても非常に重要な中東との国々とこれまで築き上げてきた良好な関係性が今大きく変化している事を認識し、その上で現政権の振舞いを評価する事が重要であるだろう。
エゾシカ
…エゾシカ…らん、らんらら、らん、らん、らん…おいで…らんら、らんらららん…とおさま…かぁさまもいる…らららららんらんらん…
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単に陣営を分け、それがどのように現われ何をするものかと言うことを問わず、ただある陣営であると言うだけで悪と名付け、そして自陣の夾雑物を取り除こうとする熱狂を狂信と呼ぼう。そして我々は今その狂信を我々自身から取り除けないでいる。
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http://metropolis.co.jp/arts/files/2013/03/992-AE-Japanbeat-Peter-Barakan.jpg
想像で語るセメント町
墓石はすべてセメント製。セメントの石柱の林立するセメント街の墓地の光景はまるで、セメント・森。
想像で語るセメント町
鍾乳洞ぐらいはありそうよね
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「現状の政治状況は全体主義的である」と言う批判に対し「そのような言説を自由に発表できる状況は全体主義とは言えないではないか」と言う返しは必ずあるが、自由に言える場が確保されていると言うことと、自由に言える場が制限されていると言うことは別に衝突するわけでもなく、注意すべきは自由に言える場があることではなく、自由に言えない場が、とくに影響力の強いところにあって、その制限の内容が公共の福祉に何ら貢献するものではないと言う状況に対してと言うことである。無論、先のような事を言う輩の多くには単に議論のテーブルをかき混ぜられれば良いと言う人々も多くいてそういった人々に対してはどのような反論も意味はなく、ナンセンスな言葉をそれと知りながらですらも質よりも量を投じてくる、言わばスパマーなのであって耳を貸すものではないが、スパムを浴びせられる側としては中和剤を携帯しておきたいもの。
そうだね。
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何グルが好きですか
ベー
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人質問題を巡る巷の声を横目に、状況が扇情的であればあるほどに、精密な態度の要求が難しくなることを感じている。実際のところイスラム世界の常識、生活、あるいはアラブ人の起かれている状況、それに対するイスラエルがどのようにあったか、あるいは「人道支援」がどのように処理されてきたかと言うことについて精通する人は限られているはずで、実際のところISILがどのような理念の元に設立され、どのような人々に支持され拡大しているのかを知る人はわずかではないだろうか。たしかに彼らの「脅迫」と言うやりかたそのものに首肯できる人などいはしないだろう。基本的態度としてそれは許すべきではない。しかし要求されている内容、その背景についての妥当性について検討することができる人、無理矢理とは言え交渉のテーブルに付かされた今、どのような戦略が有効なのかと言うことについて判断するには、それらの欠けた情報を獲得すべきと言うことで、細かな態度のとりかたから「味方側ならこうあるべきだ、このような事をする奴らは敵側だ」とレッテルを貼りあうことではないはずなのだが。さらに言えば、このような未曾有の事態において、人質の救出と言う建前の共有はある程度なされているものの、問題はその共有が正しく行なわれているかと言う互いの確認は必要で、そのなかでのそれぞれの本懐について探っておくと言うことは最も重要な事で、単純に国内でも、(1)現政権とその利害関係者、(2)現政権の広報戦略に乗っかって仲間と絆を謳歌したい人々、あるいは(3)現政権への批判者とではその本懐は異なるところにあると想定できるだろう。この国内の構図において(1)と(2)が結託しやすいのはそもそもが結びついているのだから当然だが、さらに(1)が(2)に望むことは、&#34;ありのままで&#34;と言う何ら努力を要求せず、そのまま元気になればよいと言うことであり、(3)が(2)に望むことは&#34;もっと冷静に、もっと見て、もっと考えろ&#34;と言う努力を要求するものだと言うことは、扇情的な危機を前にすればより分が悪くなる事は明白だろう。今の状況は日本の市民社会の知性において危機的な状況をさらに加速するものとなるのではないかということで、恐しいのはその劣化の臨界状況における混乱の中をどのように自分は生きて行けるのかと言うことであり、さらに恐しいのは臨界にまで達する事なく社会そのものがゆるやかに衰退した状況で永続化してしまうことであり、そのなか自分が死ぬまで背負って生かなければならない、この日本と言う社会、状況で生きたと言うことがスティグマとなり続ける事である。
足るを知る者は富む
タルト汁物を飲む
想像で語るヤキ・リーベツァイト
よくわからんが、口の中にソーセージの味が拡がってきて今すぐたべたい
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彼らが「愛している」と言うかわりに「我々ではない彼らを憎む」としか言えないのは、「愛している」と言う言葉が空虚に響いてしまうからだ。その逆の感性は、「我々ではない彼らを憎む」と言う表現の空虚さに気付いてしまったと言う二重倒錯の末にあらわれると言うこともあって、おそらく自分の場合は二重倒錯を経ているのだと思うが、そもそもの倒錯が何故起きるのかと言うことや歪曲する「奥ゆかしさ」と言う感覚にもまずいものがないか警戒してみる。
id:lieutar
石堂順子さんの会見について、「息子の心配をせず、息子の危機をプロパガンダのに利用している」と言う意見をちらほらと見るのだが、むしろそういった人々に&#34;危機を心配のあまり狼狽する母の姿を見たくて会見を見たのに期待通りではなかった&#34;といった質の嫌らしさを感じてしまう。後藤さんの行動をあの嫌らしい「自己責任論」をもって非難し続け息子の命を諦めろと彼女に迫る人々に彼女が苛まれ続けた事は想定され得ることで、ならば彼女が息子の名誉の為にその行為の意義をまず訴えようとする事は自然な事だと考えることはできるわけで、そういう評価を断ってしまう背後にある心理ってのはやっぱり気になったりもするのよね。
id:lieutar
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ラ・バンバっぽい言葉
ヘビニズム
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「イスラム国の脅迫に乗じ、政権批判することはテロに加担することである」と、言うことはわからなくもない。しかし、対米追従の姿勢を露骨にすればするほど日本がそういった脅威に巻き込まれる可能性が高くなると言う指摘はこの事件以前から繰り返しなされてきたことであり、この度に政府の姿勢を批判する人々の多くはその文脈に乗っていると思う。別にテロに加担したくはないが、この国のありかたを決める旗振り役の選択として現政権を認めた人々に、本当にそれを理解し、仮に自分自身や愛する人が殺される事となっても通すべき大義があると考えて選んだのかと言うことを問おうとしていると思う。そういった態度の脇の甘さは認められるものの、意識の拡がりの問題が有耶無耶にされてしまうことには違和感も覚える。それはそうと、もうひとつ気になるのはそもそものその文脈自体が乗るべきものだったのかどうかと言うことが気になっている。あるいは乗るにしても乗り方自体の態度の厳選ってのは必要だったのじゃないかとか。たとえば、「植村元記者を雇う事は学生達をテロの脅威に晒す事になる事になることを意識すべきだ」と言う主張と言うものは、「意識し、その上であくまでテロには屈しない姿勢を表明すべきだ」と言うことになるが、それは屈しないだけの体力の見積あってこそと言う気もしなくはない。
id:lieutar
[ぼんやり]件の邦人の殺害をほのめかしたイスラム国の話題で「日本には八百万の神々がいると言うのにいい度胸だな」みたいな事を言うチャットを横目に、まぁやっぱりネトウヨ発言にはうんざりしつつ、とりあえず「八百万の神」であると言うのがその人の中でイスラムに対しての優位性として意味されているのであれば、とりあえず「神」概念について学習する必要があるなと思ったりしつつ、そもそも八百万の神々と言うものは万物の中に宿るのであって、別に日本にだけいるわけではない、八百万の神々がいると言うのならばそれこそイスラムにだっているわけだろうと思ったり、とりあえず自陣の神を背後に相手を軽んじる何かの狂信の劣化コピー状況はまぁ指摘するだけ無駄なのだろうなと。それはそうと、彼らの本懐はなんらかの陣営にて連帯をしていると言うファンタジーの中に沈み込みたいと言うものにほかならないわけだけれど、そこに聖なるものへの欲望ってのはやっぱり混り込んでいるわけなのだよねとは思うのだけど、しかしあれか、そこに聖なるものへの指向性があって、そういうところは突破口になるかもしれないと思いつつ、そもそもネトウヨ的欲望と言うものが何もしないで自分が聖なるものであると言うことにしたいと言うものであれば他力本願的文化の嫌な現われかたってのもそこにあるんじゃないかとか、もにょもにょとしている。
わたしは わたしは わたしは
いあ!いあ!わたしは!わたしは!
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あー、「承認欲求」話題ついでに、まぁその質に対する議論ってのはそれほど不毛だとも思わないのね。妖怪爪楊枝小僧の話にしたってさ、あれは質より量の承認を指向したって事で、それをまぁネットの普及に結びつけるって事もできよーけど、そういう種類のものってのはむしろネット以前の方が強かったんじゃないかなとかも思うわけね。SNSなんかはさ、尊敬できる数人の目に止まればいいやってパフォーマンスも、等身大の尊敬できる人を探すことも難しくないわけで、まぁそういう私的空間の力が個々人のなかで増すことがテレビとか芸能人とかの旧来の大衆向け権力の弱体化に繋ってると思うし、J-POPなんかの衰退ってのもそのへん、ネット以前のモデルでの商売が出来無くなってきてるって事なんだと思う。まぁもちろん質より量のコミュニケーションってのがネットの普及で一般化してきた、もしかしたら自分にもそういった質のコミュニケーションができるかもしれないと思わせるものになってきたってところはあるけれど、そこに旧来メディアの欲望の感染のようなものを感じとることと、あと脳筋的数字主義と言うさらに古代からの人類の病みたいなものってあるのかなとは思う。んで、多分これからもずっと問題なのは脳筋的数字主義みたいなもので、なんつかビジネスコミュニケーションにおける定量偏愛とかそのへんへのカウンターってのはなんか考えておきたいよねとか、そのへんはスローライフとも関わってくるのだろうなとも考えたりもしている。
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あまりに普遍的なものであるので万物の原因を解説するのに便利なものと言うのがあって、だけどそればっかり見てたところで肝心なものは全く見えてこないものも沢山あるものがあると思う。「承認欲求」なんてものははてな界隈ではわりと好まれたその種のものだとは思うけれど、そういう視座での分析が往々にして歪んだものになるのではないかと思え、自分にはあまり便利なものには感じられない。だいたい「承認欲求」ってもいろいろと種類があるからね。不特定多数のそこそこの関心を集めたいってのから、特定の大切な人にとって大切な自分になりたいってものから、あるいはその人の感じる神と言うか普遍的他者に対するものからさ。「その行動は承認欲求を原因として起されたものだ!」とか言って、確かにそれらしいところがあったとして、それはあなたの考える質の「承認欲求」ではないかもしれないよって事はしばしば思う。結局その視座に固定する、執着するってのはまぁその人達なりの実存的なり実利的な理由はあるんだろうけれど、それを感染させる運動に対しアクセルを踏み込むかブレーキをかけるかって事ぐらいは選びたいよねとしばしば思う。その選択はあくまで個人の欲望に根差したものではなく、あくまでよりよき明日を作るのに資す形でありたいと。んで、最近アクセルを踏みこむべきと考える概念装置として、そして「承認欲求」ばりの万能包丁として、「公共圏の不在問題」ってのは結構いいよねと考えている。んで、バランスのとれた社会においてどのように公共圏ってのは腰を下しているのかとって事を考えつつ、すこしでもよいバランスに資せる者であると言う自認を実存の資産としたいところ。そんなことを考えつつ、いやね、「日本社会は宗教に対し寛容」と言う素朴な誤解の背後にあるものってのもやっぱりこれだよねとか感じているわけで、いやさ多分こういう誤解を持っている人々って「寛容」と親密さがイコールだったりするわけで、他者を意識から排除する不寛容がまるで見えないからこそこんな事感じるんだよねとか思いつつ、とりあえずそういう発想を持って話しかけられたら、どういう切り返しができるのだろうって事をシミュレートするのだった。
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「肩パット」と語感が似ている言葉
シュミレーション
クレーム
ノールーム
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ドワンゴ関連と自民党、麻生太郎氏の甥で取締役の麻生巌氏だけではなく、麻生太郎氏の息子の麻生将豊氏もまた関連企業、しかも市場調査などをするエクストーンって企業の取締役なのな。
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なんとなくテレビをつけたらバルセロナのジュニア大会の録画をやってて、マリア・ソトニコワと言う人がいたのでもしかしたらと思えばやっぱりあのソトニコワさんの妹さんだったのね。スケートなんだから演技を見なよと言われそうでもあるけれど、彼女の体型が魅力的に見えてそればかりが印象に残ったが、画像検索してみたが見付からず。ファッション・モデルとしてもかなり活躍できそうな感じだった。
id:lieutar
ネトウヨの巣窟になっているかと思えるドワンゴ関連サービスではあるが、しかし実際そういうサービスにその手の人が偏ってるのか、あるいはそういうサービスでわざわざ発言する人が偏っているのか、そもそも人口構成的に偏ってなどおらず呑気にネトウヨやってる人々が大多数になってしまっているのかいまひとつ区別がつかない。人口構成的な区別がつかないがとりあえずそういった人々の動向が伺える場なのは個々の動画よりもそーいった人々がコメントを残して行けるニコニコニュースで、いやしかし実際このへんから露骨なサービスのネトウヨ化始まってないかしかしって場なんだけれど、そんなところに「江戸しぐさ」道徳教科書の話題が出ていたもので、あのどこにフォローのし様があるのか皆目見当のつかないそれにネトウヨの皆様方はどのような反応をするのか見にいったのだが惨憺たるもので、「道徳の授業の内容なんて大人になったら忘れるしそんなに目くじらたてるものではないだろう」とか「検閲ですか!」みたいなものとか「いいこと書いてあるんだったら創作でもいいじゃん」みたいなものとかが並んでいた。おそらくこの背後にあるのは彼らがそういった態度を支持しているかどうかと言うよりは、コメントを書き込む前に陣営の情報をネットの空気から読み取って、自陣と思える側から石を投げると言うことに腐心しているからで、結局のところ自分の脚で立って提示された論点についてものごとを考える習慣の無い人に判断材料を与えても無駄なのだと思ったりもした。彼らはそれを陣営の判断に用いるのみなのだろう。
金槌しかもっていないと、すべてのものが釘に見える
しっているかしにがみはりんごしかたべない
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ある種の人々の言う「リアリズム」と言もの、あるいは彼らの言う「リアル」と言うものは親密圏のことであって、そして彼らがそこになんらかの記号表現を与えようとすると言うことは親密圏を相対化するものとしての公共圏の存在が見えていると言うことの証なのではないかと思う。ただ見えてはいるが彼らの見えかたはあくまで「背景」であり、しかもそこに焦点が結ぶことなくただひたすらにもやもやとしたものとして見えている状態で、背景に焦点を結び相対的に主題を浮き上がらせるような視点への移行を拒む態度が「リアリズム」とされているのだと思う。
寒い
暖房を入れた部屋の中でマウンテンパーカーを着ている…
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正月で朝から酒をくらって眠くなったので居眠りをしたら変な夢を見た。テレビで臨時のニュースとして真冬のビル街を不鮮明な全裸の男が逃げ回っているところを取り抑える映像が流れ、テレビはそれがオバマ大統領だと伝えた。どうにも映像が不鮮明で、報道を鵜呑みにして良いかどうかわからず、しかし不鮮明で全裸と言う設定の映像を流すのは政治的に対立している勢力が貶める為にでっちあげたものかもしれないとも思って、態度は保留だが何かとても不穏な事が起きている事は間違いないと不安を抱えていた。夢の中では自分は高校生で、何らかの理由で借りた学校の鍵を紛失していたことに気付き、「見付けないと錠の取り替え費用を負担しなければならない」と不安になっていた。
カバー以外演奏禁止
http://i4.ytimg.com/vi/8E8a-hQcc2Y/default.jpg
ドロボー
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/SekienDorotabo.jpg
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[ぼんやり] 純情とか素朴と言う語を肯定的に扱う人々にとって、何故そうなのかと言うことがよくわからないと思っていたのだが、ふとその用いられかたを考えるとそれらと対になる概念は、「スレている」「ヒネている」と言うことで、それは狡猾さや下衆さを現わすことなのだと思えば、そういった人々にとっての成熟モデルが異常と言うか倒錯した形ではない成熟を見たことがないと言うことなのではないかと。
はてなゾンビ部
何度でも 何度でも 何度でも立ち上がり 死ぬよ
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基本的人権について「そんなもんフィクションに過ぎない」とドヤ顔を決め込む人がいるけど、「フィクションに過ぎない」のは「基本的人権」ではなく、もはや「権利」だとかそういうレベルからだよねと。強者が弱者から物資や身体を簒奪するような基本的人権の認められない原始的な社会であれ、その簒奪が「権利」によって何の抵抗もなく行なわれているのならば、それはそのようなフィクションを認めたからに過ぎない。結局のところ同じフィクションならば語り合える者全てが妥当し得る点として論理的に求められるものが基本的人権と言うものなんであって、それを「フィクションに過ぎない」って言うのは何も情報を増やしてはいないし、全く相対化すらしないわけだわね。ところで、その権利と言うの、たとえば初夜権みたいな強者が弱者から簒奪する権利みたいの、「権利」として制度化しようとするってのは、強者が常に自身が強くはなくいつ寝首をかかれるか恐れるが故に作っちゃうところってあるんじゃないのとか思ったりもするのよね。そうであればやっぱり強者が自身の強さを信じられないが故に作るものって側面もあるんじゃないかとか。
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[思い付き] 自由と言えば利己的で良いと言うことではなく、公共を重んじる精神を中心に据え、その上で自らの責任を受け止め判断して行動することとする。おそらく「自由からの逃走」などの文脈で語られる自由とはこういうものだ。利己的であると言うのは社会に対する自由ではない。社会からの自由であり、社会そのものは省みないものだ。ところでその自由について、そこには恐怖もあって「逃走」とはその恐怖故に語られるものではないかと思うのだけれど、実のところ自由な判断が結果として自由を捨てる事もあるのではないかと。昆虫的、単純な反射的に動き全体的な影響や行く末を案じるための精神的リソースが節約でき、分業的であることが当然な集団であるほど、個々人の貢献度合いは短期的には高くなり得ると言うことから。この問題は集団が崖を目掛けてまっしぐらになっているときに歯止めが効かないと言うことは言うまでもないのだけれど、この短期的な貢献感と、そもそも理性と言うものが常に歯止めとして動くと言う無力感との対比と言うのは結構分の悪いものなのではないかと。
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改憲問題において9条とは象徴であるが、象徴がそのようなものであるが故に本質論になかなか入らない。そして本質論に入ってほしくない側はあくまで象徴の上での時代の転換点の立役者として歴史に名を残そうとしているのであったり、そういうものをスポンサーに据えたいと考えているものであったり、なんとなくそこにムーブメントがあるからそこに同化したいと考えているものである。本質から論点を逸らすことが目的なのだから、9条は丸腰主義だと言うような頓珍漢が横行しているわけだが、その頓珍漢具合を指摘することは彼らには通用しない。結局は現状態度を保留している人々がどう転ぶかと言うことなのだが、結局のところ9条や安保体制と言うものが歴史的にどのような役割をはたしてきたかと言うことを省みることができるかどうかと言うことに関わってくる。それは「丸腰」と言う感情に対しての釣り針へのカウンターで「まずは落ち着け」と言うことなのだが、上手くできるかどうか。それはさておき、9条をめぐるものが戦後民主主義の象徴となるのは、やはり戦後民主主義は戦中を体験したひとびとの感情によって支えられていたと言うことを示すものであるようにも思えてなれない。
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「とどめを刺す」と言えば昨年末、故・菅原文太氏の「この法案が通ればとどめを刺される」と言うのを思いだしつつ、連鎖的に現状追認型冷笑主義者たちの「何度死ぬんだ民主主義」と言うのも思いだす。この社会にあって民主主義と言うのは実際には「何度死ぬんだ」ではなく度々をの種を蒔かれつつ、芽吹かなかったり芽吹いてもすぐに摘み取られたりしているものだ。撒いた種がすくすくと育つ事を望む者にとっては何度も殺されるのを見ると言うことはしばしばあるし、種を蒔く人々がいなくならないかぎり、あるいはそういう人々の墓標が視界から消えないことを「そこにあるじゃないか」と言う人々は、もう国の名に民主主義とついているだけの朝鮮民主主義人民共和国のような社会でもしぶとく適応し、「我が社会は先進的な民主主義社会である」と胸をはるのだろう。とりあえず、あの法案の通過は「とどめを刺す」ものではなく、死後硬直や腐敗といった死体の変化に近いものだったと思う。むしろそういう変化、あったものが失われる事によってそれがある事の重要さを再認識させられるイベントだったのだと思う。多分、戦後民主主義にとどめをさしたのは、戦中大人だった世代が現役から退いたことによってだ。それが、世代の感情を失えば失われるぐらいに脆弱だったのは、仕組みを周到に作ると言うことをしなかっただけではなく、やはり戦中の現実の周知が不十分だったのではないか。そしてその背後にあるものに、「無垢」を重んじる文化があるのではないか、無垢なる若い層に熾烈極まる戦地のことを教える事、あるいはそういうことで自身が「無垢」ではなくなった事を認識することに恐怖があるとかそういった事があるのではないかと言うこと、そして多分これはサブカルの様式にも繋がって行くこと。
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安倍政権は本気でマンガをプロパガンダに用いるようで、どういうマンガを用いるかと言うのはまだわからないけれど、いわゆるオタク的なフォーマットのものを用い、それも執拗に行うならばサブカル日本ブランドは止めを刺されるのではないかと。政権の狙いどおりに事が進むのであれば、国際社会からの、とりわけそういった面への評価は「こんなもので説得されてしまう社会」と「そんな社会の生み出したもの」と言うものに一気に傾いてしまうんじゃないかなと。まぁブランドは幻想に過ぎず、問題のある実態を隠してしまうのならそれが剥げてしまうってのは必ずしも悪いことではないかもしれないけれど、一方で様式は魂の奥深くまで根をはってしまうもの。それほど根の深くない人は早々に「あれは終わったものだ」と距離をとるほうがいいかもしれないし、自分のように根の深い人はそういう様式を用いつつ、そういう様式が表現してこなかった深いものに目を向けなければならないのではないかと。
何かを受信
メリーさん必死
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ふと思ったのだが徹底的に責任感の無い人、責任をはぐらかす人と言うのは、責任を引き受けざるを得ない状況を避けてきたと言うよりは、その人の所属する世間の空気に極めてまじめに従順に過してきた人でもあるのではないかとも思う。そういった人にとって「自由」とは「反逆」であり、そして責任とは反逆の意志、ないしは反逆に対しての罰に過ぎないのではないかと。しかし、一般的に成長の課程において関わる「世間」、関わる「社会」は複数あって、それらの規範が衝突することと言うのはあたりまえにある。思春期と言うのはそういった規範の衝突の超克の運動だと思っているが、あまり衝突しないか、一貫性のある法則をさほど必要とせず、ケースバイケースを過剰適用する人ってのは思いのほか多いのではないだろうか。「空気教」ってのはこのようなケースバイケースの規範に従順たれと言う態度なのかもしれない。
ゲームしりとり
ガンスリンガーストラトス
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排外主義はキャズム越えしてしまっているのかもとか思わなくもない。はてなは比較的空気としてマシなんだけど、多分大方はヤフコメみたいなもの。ある国のやり方に対する抗議、ある国のあるクラスタに対する抗議と、民族総体としての差別との区別も付かない…と言うか付けることに必要性を感じる事が出来ない…あるいは責任感が薄まれば娯楽のように人は人を殺せるからこそ、差別的な様式に抵抗感を失くした人が増えるほど、参入障壁は下がって行く。空恐しく感じたのは、排外主義的語らいが、他国の排外主義者の心理分析を伴いながら自身の心理をまるで省みる様子なく、そして主語を拡大しながら真しやかに行なわれているのを見たときで、それは彼らの動機があくまで差別への参入にあって、心理や状況分析ではないと言うことなのだけど、一方で心理分析的な語り口もまた劣化した形で利用されて行き、真っ当なものでも効果を失って行くのだろうと。ペンは剣より強いのかもしれない。しかしペンは剣より安く、子供でも扱えるほどに軽く、痛みの実感にも乏しい。
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内田せんせの週刊プレイボーイ インタビューの&gt;&gt;今回の解散・総選挙はどのような国益にもかかわりがありません。政権の延命が最優先している。かつての自民党政権は列島住民の雇用を確保し、飯を食わせることを主務とする「国民政党」たらんとしていましたけれど、現在の自民党は限定された支配層の既得権益を維持するための政治装置に変質してしまいました。&lt;&lt;と言うのを読みつつ、これはまぁその通りだとは思うのだけど、あくまで実利の問題であって実存の問題で言うと現状、自民を支持している人達にとっては「国民政党」なのかもしれないとも思う。インスタント実存の提供、しかし実利の面では剥ぎとって行くってのはまぁ丸っきりやりがい搾取の自己啓発セミナー系ブラック企業や、悪質なカルト宗教と同じ構造があるよなとか、まぁそれは狙ってやったと言うより自然にそうなって行った面があるからこそ警戒されにくいってのはあるのだろうなと。
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まぁ大手の予測どおりの結果であったし、安倍政権側も調査会社等を入れ時期を見計らっていただろう事から、「やっぱりか」「起きないものを奇跡と言うのだよね」って感想しかない。あと気になるのは比例区の比率についての分析ぐらいかな。ぶれない野党である共産の増加はそれだけの危機感を反映してのものだとは思うが、おそらくは民主制について意識をもった層がよりはっきりしたメッセージを出せる党に流れたと言うことで、国民総体としての意識はさほど変わらないのではないだろうか。まぁ年齢別の投票率の推移とかも気になるけど、とりあえず面白いものはあまり期待しないでおく。
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選挙の前後となると関係の無い場でも政治的な話題が増えるようになる。以前ならそういう傾向は好ましいことだと思っていたが、今のそれは「政治」ではなく「政治っぽいもの」、共通のモチーフを用いた挨拶のようなもので、それがしばしば「我々は仲間だ。奴ら敵ではない、仲間だ」と言うものになってくるのを見て暗鬱たる気分になる。こういう人々が選ぶ政権がどういうものになるか、想像はつく。政府と国民双方の劣化に共犯関係を認めることはできるが、共犯と言うよりもむしろ感じるのは重力とか拡大するエントロピーのような「天然」でしかなく、それに対抗できない文明の無力さであったり、そこに責任を負うべきひとりの人間となりたい、あり続けたいと願う者としては情無い気分がひたすらにかきたてられる。「空気」としては戦中のような状況にもはや突入しているのかもしれない。悪い状況のなかで、状況を改善するためにはより神経を使わなければならないことは確かだが、そこに「身を守る為に」と言う神経の使い方も加わってくるだろう。確かにサーベルをちらつかせた憲兵がそのへんをうろついている状況でこそないものの、魔女狩りのようなものは警戒していてよいように感じる。
苦手なものは何ですか
見付けにくいものですか(略フフッフー
ハイタ七周年
七夕
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この知の象徴の喪失と言うの、もしかして人文社会学の軽視と言うところに繋がっているのではないかと思えてしまう。かつての四書五経と言うのはそういった分野のものであり、そこで得た態度が根としてあって実利に繋りえるものとしての理系分野を枝葉とすると言うありかたを持てたのではないかと思う。おそらく学びの根としての能力は現代にも通用する四書五経にもあって、湯川秀樹博士は四書五経の暗唱ができたと言うし、それは彼の研究のヒントにもなったと言うことなんかは、その能力を示すものではないかとか。文理と言う区別は実のところ明治期の「和魂洋才」と言う発想から生まれたものではないかと思え、「洋才」は西欧列強への恐怖から急拵え的にとりいれた西洋近代の果実であり、より軍事的、産業的に貢献しえるものが理系とされたのではないかとか、あとは兵法的に組織運営の方法論などが参照される事はあっても、その根にあるものと和魂との折り合いは十分につかないまま敗戦へと雪崩れ込んでいったのではないか、その結果としての知性の象徴の喪失があるのではないかと思う。