萌える春秋戦国史 「しゅん☆じゅう」 その30
さて、夏コミで若干更新が遅れたけど、萌える春秋戦国史30回目を始めるわよ。
さて、前回は重耳一行が曹の国まで行った所まで話が進みました。
この後重耳一行は南へ進み、宋へ入ります。この時の宋の国君は以前登場した宋襄公です。
(第20話参照)実はこの時宋襄公は泓水の戦いで傷を負っていたのですが、一行に敬意を表して国君への礼をもって迎えました。
紀元前638年 宋都・商丘
宋襄公
重耳殿、よくわが国に立ち寄ってくださった。本来なら私が公子の帰国を支援しなければならないのだが・・・残念ながらわが国は疲弊して公子を助けることが出来ない・・・
重耳
いいえ、このような歓迎をしていただけただけでもありがたいことです。
ところで、公子たちはこれから楚へ行くと聞いたのだが、それより先に鄭に行くのはどうだろう。
実は先日わが国に知らせが入った。晋恵公が重病だとの事だ。このような状況では何かと晋に近い方が有利ではないかな?
鄭文公
鄭国8代目の君主。在位年は前674〜628年。在位年は長かったが、途中で諸公子を追放したり、晋と楚に攻められるなど、国を安定させる事は出来なかった。
何?晋の亡命公子が来た・・・?わが国は中華の中心に位置する国よ、亡命公子をいちいち相手にしていられますか!
叔袪
鄭の宰相。紀元前630年没。鄭に立ち寄った重耳一行を礼遇するよう進言し、それが受け入れられなかったので、一行を殺すように進言した。
公子重耳殿は聡明な方、それに家臣の方々も一国の宰相の器です。非礼は許されません。
・・・もし礼を尽くさぬのでしたら、いっそ殺してしまいましょう。後々わが国の害になります。
!?いえ・・・そこまですることも無いでしょう、早々に出て行ってもらいなさい。
鄭の宿舎
この近くに兵隊が集まってきたんで様子を見に行ったらそいつらがここを襲う相談をしていたんだよ!
こうして、重耳一行は間一髪で鄭から脱出する事に成功しました。また、この時鄭の公子蘭という人物が一行と行動を共にすることになります。
さて、この次に一行は楚へ向かいました。この時楚成王は一行を諸侯並みの礼遇で迎える事になります。
楚都・鄢
いや・・・楚成王は亡命公子の私に諸侯並みの礼を尽くそうとしているけど、辞退した方がいいんじゃないかと・・・
殿が国を出てから十数年・・・その間小国からも冷たい仕打ちに遭ってきました。でも楚は大国でありながら殿を国賓の礼をもって迎えようとしているのです。これは頼れる国です。辞退してはいけません。
楚成王
はっはっは、今日の宴も楽しかった・・・ところで、重耳殿。
もし首尾よく晋に戻れたら、私にどのように報いてくださるかな?
うーん・・・財宝も、領土も、美女も楚王はお持ちでしょう。一体何をお返しすればいいか・・・
では、こうしましょう。もし将来やむなく成王さまの軍と戦う事になった場合、三舎(軍の3日分の行軍距離)退く事にいたしましょう。
ところが、楚の子玉将軍がこの話を聞いて激怒します。
殿!殿は相手が晋の公子なのでこのように重耳を厚くもてなしたのですぞ。それなのにあの言い草はなんですか!領土の一つも差し出すのならともかく楚軍と戦った時に三舎退くとは何たる無礼!殺してしまいましょう!
まぁまぁ、そう怒るな。亡命公子の身で他にどんな約束が出来る。それに聡明な公子が国外で苦労し人間として大きくなっている。部下も国家の柱石となる人物だ。そういう人物とは仲良くしたほうがいい。
こうして、重耳一行は楚で快適な生活を送りますが、紀元前637年、ついに晋恵公が亡くなります。そしてこの時に一つの事件が起こりました。
紀元前637年 秦都・雍
太子圉
何!?父上が亡くなった!?いかん、このままでは他の公子が晋の国君に・・・よし、こうなったら・・・
秦の人質となっていた晋の太子圉が晋恵公の死後脱走して晋に逃げ出したのです。
いいえ、この背信に秦穆公が激怒し、ある決断をします。
おのれ・・・親も親なら子も子、親子そろって恩知らずとは・・・あのクソガキに目にもの見せてくれましょう。公子重耳を擁立し、晋の国君に立てます!
わが国に迎え入れましょう。公孫枝、貴方が楚への使者となってください。
実は今日秦から使者が来てな。重耳殿を秦へ迎え入れたいと言って来たのだ。
わが国が公子を助けるにしても晋までは他国をいくつも通らねばならぬ、その点秦は隣り合わせ、この機会に是非行かれるがいいのでは?
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