「コローをめぐって」はヴァレリー芸術論の宝庫!

 本日でヴァレリーの「コローをめぐって」をひととおり読了いたしました。最後の4頁ほどは、既視感があると思ったら、書かれている内容が『ドガ ダンス デッサン』のなかの断章「風景画とその他多くのことがらについての省察」とそれに続く断章「現代芸術と大芸術」で書かれている内容とほとんど同じでした。『ドガ ダンス デッサン』については去年の授業でかなり多くの断章を読みました。しかし、テクストの執筆・刊行の順番から言うと、「コローをめぐって」のほうがもともと1931年の講演に基づく1932年のテクストであり、『ドガ ダンス デッサン』のほうは1933年頃から書かれた断章がほとんどですから、つまりコロー論のほうがドガ論よりも早いわけです。比較断章法を活用しながら、さらに関連する『カイエ』の断章などを集めて、同じテーマのテクスト群を並べて(比較して)、その結果判明することがらを記せば、これで既に論文の一部になりそうです。十年ほど前に授業で読んだときと比べて、今回、あらたな気づきが多くありました。私の中ではドガ論と比べるとやや渋い光を放つ怪しい存在だったこのコロー論、じっくり読みこんでみると、ヴァレリー芸術論の諸々のテーマが集中的に現れた宝庫です! この夏休み、私なりに興味を抱いた問題点をいくつか整理して、休み明けの最初の授業で整理した論点をご紹介したいと思います。後期は再びゆるゆるとヴァレリーの『芸術論集』所収のテクストを読んでいく予定です。引き続き、よろしくご協力ください。では、皆さん、よい夏休みを!

問題設定は自分にしかできないということ

 前回は論文を書く前提となる問題意識の醸成や問題設定の仕方についてあれこれと話をしましたが、ポイントは、いろいろな先行研究を調べて状況を整理したあとは、自分で問題を設定し、自分で研究を進めていくしかない、ということでした。研究は他のひとに代わってもらうことができません。そんな当たり前のことを確認してから、今回は、受講生の皆さんに問題設定の具体例をおひとり五つずつ用意していただき、説明をしていただきました。硬軟、軽重あるなかで、これは重要という問題が自然と浮かび上がってきたように思います。私も皆さんの用意されたクエスチョンに触発されて、あれこれと思い浮かぶことも多く、そのなかから、なるべく関係のあるお話をするように努めたつもりですが、こうした談話や、皆さんとの質問の投げかけ合いと答え合いは、じつに豊かな言葉の時間です。そこから連鎖的にヒントが出て来て、次の問題意識、あるいは、いっそうの問題意識の絞り込み・明確化につながる可能性があるからです。今後は、実践的考察の手を緩めず、よりよい問題設定とは何かという課題を実践的に考えていきたく存じます。そこで次回は、実習の第四弾として、仮想的な修論の冒頭部(問題提起)を400字程度で実践していただくことにしました。なるべく冗長でない、ポイントの絞り込まれた文章で問題意識を明確化する練習です。引き続き、ご準備のほど、よろしくお願いいたします。

オリジナル状態に戻して読むことの大切さについて

 ヴァレリーの「コローをめぐって」を読んでいます。前に読んだ『ドガ ダンス デッサン』にせよ、「マネの勝利」にせよ、今皆さんと一緒に読んでいる「コローをめぐって」にせよ、いずれも最初は、ドガの絵と一緒にならんでいたり、マネ展のカタログの序文だったり、コロー版画展カタログの序文だったりしたわけで、ヴァレリーのテクストには、当然ながら、そうした画家の具体的な絵画や版画を踏まえた表現があちらこちらに挿入されています。私たちは、プレイヤード版やリーヴル・ド・ポッシュ版などでテクストだけを読んでいますが、これは邪道であって、本来のオリジナルの場所に戻して読んでやることが、ヴァレリーの言いたいことをより素直に読み取るためには必要なことと思われます。その意味で、2017年12月に、オルセーでの、ヴァレリーによるドガへのオマージュ展と合わせるかたちで、ドガの絵画・版画合計約50点とヴァレリーのテクストがセットになった1936年の初版本であるヴォラール版『ドガ ダンス デッサン』がガリマールから部数限定復刻出版されたことは慶賀すべきことと言えるでしょう。当時は現在の円換算で1冊あたり12万円~13万円もしたというヴォラール版が80年以上を経て、とりあえず250ユーロ(限定販売の割には安いというべきでしょう)で販売されることは、われわれにとって嬉しいことです。あとはヴァレリーが序文を寄せたマネ展カタログ(できれば展示された絵画の複製も一緒にのっているもの)とコロー版画展カタログ(これも作品の複製が一緒にのっているもの)があれば、オリジナル状態に戻して「適切に」テクストを読むことができるのですが、このあたりのことは私がちゃんと調べてみることにします。

〇〇と〇〇

 パラレルシュテレンメトーデ(比較断章法)の実践練習に入りました。まず私のほうから「ヴァレリーデカルト」という比較断章法を使ったコメント例を紹介しました。共通する表現やテーゼが同じであればあるほど、説得度が増すことは言うまでもありません。類似性の指摘に立って、何を言うかは論者次第です。自分が言いたいこと、主張の論点を明確にするために比較という手続きがあると考えましょう。後半は受講生の皆さんに、実践例をそれぞれ紹介していただきました。まだお二人分しかできませんでしたが、いずれもすでに本格的な論述に入っていると思われる質の高い比較断章法の実践例で、感服しました。〇〇と〇〇という、二つ並べる研究は組み合わせが無数にあります。たとえば、ヴァレリーとその時代、ヴァレリーと世紀末文芸誌、ヴァレリーと映画・演劇・表象芸術、ヴァレリーレオナルド・ダ・ヴィンチヴァレリードガヴァレリーデカルト、等々。この授業もすでに9回を終えました。残りはあと4回ほどです。来週も引き続き比較断章法による解釈・論述実践例を紹介していただきながら、前期の残りの回で、「問題設定」の仕方について、可能な限り技術的に捉えなおしてみたいと思っております。

ミケランジェロの詩

 ヴァレリーのコロー論も後半に入ってきました。自発的自然(自由闊達)は征服の果実であるというオクシモロン的一句について、ヴァレリーは得意の言説を展開します。p. 1339の内容は、すでにみたp. 1333のシンプルさの定義の部分と同じです。馬術の達人ボーシェのエピソードを思い起こしながら読むとわかりやすいはずです。芸術家の考え(意図)と素材を加工する技術・手段とのあいだのきわめて内密な照応関係について引用されるのがミケランジェロの韻文詩二行です。直訳すると「どんなにすぐれた芸術家でも、ひとつの大理石が宿さないような考えを抱くことはない」となります。ジャルティ先生の脚注によると、このミケランジェロの二行は『ドガ ダンス デッサン』でも引用されていて、そちらのほうの脚注では「その考えを具現できるのは知性に従順な手だけである」という続きの一句も紹介されていました。ヴァレリーはおそらくポーの短篇小説でこの引用文を知ったらしいとのことです。ミケランジェロ、ポー、コロー、ドガ、そしてヴァレリー。熟練の芸術家というひとつの系譜が浮かんでくるようです。

失敗談

 1999年発表の論文で私はヴァレリーによる或る引用文が加工を施されていると指摘し、その加工はヴァレリーのテクストの主張に沿ったものであると結論しました。2005年、新資料が発表されて、じつはヴァレリーが依拠したテクストは脚注でヴァレリー自身がその書誌情報を示していた仏訳版ではなく、そもそもの英語オリジナル版であったことが判明しました。私の1999年の論文は結果として誤った事実認識に基づくものとなりました。仏訳テクストの加工に見えたものが、じつは原文英語テクストのヴァレリー自身による素直な仏訳であり、それがテクストの方向性にも合致していたのです。2013年にこのテクストを翻訳する機会があり、その訳注では、ヴァレリーが英語オリジナル版の表現に忠実な仏訳を示したことに触れました。脚注の書誌情報を鵜呑みにして、原文テクストまで遡って確認する手間を惜しんでしまったことがすべての失敗のもとだったと反省します。長年研究を続けているとこうした「事件」が起こることもあります。私にとっては頂門の一針、受講生の皆さんにとっては他山の石となれば幸いです。

美的経験の一般的分析

 コロー論を読み進めて来て、突然、高度に抽象的な美的経験論が開示される箇所に突き当たり、今日はその箇所のテクストの模様を丁寧に眺めてみました。使った方法は昨日触れた「比較断章法」というやつです。テクストのかたまりがある程度大きいマクロ的な比較断章法と比べると、今日のテクスト分析ではむしろミクロ的なパラレルシュテレンメトーデを適用しました。これはたとえば日本語の現代文の評論の読解などの場でも十分応用できる方法です。類似(同形)表現をつなげて系を作り、テクストを図式化していくことで、述べられている内容を「見える化」します。そうしてみると、1336頁のヴァレリーの文章はきわめてシンメトリック幾何学的であることがわかります。場合におうじて、マクロ的パラレルシュテレンメトーデとミクロ的パラレルシュテレンメトーデを使い分けながら、各人の文学研究をダイナミックな場にできればよいと思います。