Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「I’ll be」

 この3日ぐらい寝てばかりいる。金曜日はABC本店で阿部和重さんのイベント、土曜日は銀座appleでデデマウスのイベントと、二日の休みはイベントに行って寝てと、日曜はなぜか爆死、いや爆睡して、昨日の月曜もどことなく起きているというよりは寝ている方が多かった。
 どうやらこのところ脳がはっきり動いていないような気がする。やるべきこととか考える事がしっちゃかめっちゃかでなんだかこんがらがって眠りに逃げようとしているのかもしれない。


 昨日は大塚英志著「大学論──いかに教え、いかに学ぶか」を読み終わる。僕は大塚さんが漫画を教えた大学の生徒のように追い込まれて何かを作っていないと思い知らされる。『「書く技術」は「私」という厄介なものを飼い慣らすための「生きる技術」となっていく』という部分があった。
 宮崎勤をはじめいろんな事件を起こした人の何割かが小説みたいなものを書いていたりすると、書き上げれてないとも指摘する。大塚さんは「書く技術」を得る事でそれが職業にならなくても近代以降小説が「私小説」として確立した日本文学が生きる上でもっとも厄介な「私」が暴走しない装置になると。そこには「漫画」も含まれている。


 種々様々な表現をすることが実は生きる上で社会から零れ落ちてしまいそうな「私」という自我を支える装置になる。だから表現をしようとする人間はおそらくどこか危ない「私」を抑え、それを表現として爆発させる手段としてそれを無意識にそれを選んでしまったのかもしれない。
 つまり僕らの中にある危険なものが助長される可能性はあるが、大多数は危険な方向に行かなくても済むんじゃないか。それはエロの表現や犯罪的なシーンなどが含まれる表現が受け手の一部を犯罪に走らせてしまう危険性を孕みながら、大多数は犯罪に走らなくて済むというう問題に似ているんだろう。


 表現は少なからず届いた時にプラスにもマイナスにも作用してしまうものであるし、そういうものがやはり表現なんだろう。そういうことを考えてしまった。僕が考えないといけないことはたくさんある。そして考えないでやることも必要だ。できれば考えないでやってしまいたい、でも考えないとダメな部分もあるしそういう比率だとかを上手くできるようになりたい。


 ある日突然作家になるだとかの話は時折聞く事は聞く。村上春樹さんみたいに神宮球場で野球を観ていて小説を書こうと思って作家になったというのは嘘なのか本当なのかはわからないが、作家はそういう語りも上手いというのはやはりあるはずだ。でも、書こうと思って書けるのは書くという技術が自然と身に付いていたのかもしれない、ある程度読んでいて自然と文体が身に付いていた、書きたいと思った文体がありそれが書けたということだろう。


 村上春樹という作家はアメリカ文学を翻訳する事で文体を得た作家だとも言うので翻訳するという行為がおそらくは根本にあり最も質のよい訓練になりその技術が作家として基礎にあると思う。大塚英志が漫画を書くために入学した生徒に漫画を映画にして撮らせる(石ノ森章太郎作品)のもある意味翻訳で、漫画を実写にする時の構図とかの問題を身を持って知るためだ。手塚治虫が漫画に持ち込んだ映画的技法や構図を逆にすることでわかること。


 大塚さんの小説の書き方の本としては「キャラクター小説の作り方」「ストーリーメーカー 創作のための物語論」「キャラクターメーカー―6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」」「物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン」などがあるのでそれらをきちんと再読してみよう、というかする。たぶん、方法論だとかも大事だし、書いてある事を実践してスキルをあげてその方法論も身を持って体験し獲得するしかない。本能的に今年来年の動き方でいろんなことが決まったり狭まったりするとわかる。


 僕はずっと表現していきたいけど、それで稼ぎたいし食っていきたい。それで誰かと繋がったり何かとコミットしたい。そのためにはいろんな力がなさすぎる。食う事を考えるならばどこに向けるのか、何をするのか、それで自分のしたいことを出せるのか、いろんな事をもっと理解しないといけないはずだし、もっと狙う場所をある程度はっきりとしないといけない。
 その前にもっと基礎を高めて応用が利くようにしないといざという時にレンジが狭いとチャンスを潰すだろう、寝すぎてしまうから起きている時は嫌でも考える事が現実的すぎる。


 家に帰ってから伊藤計劃著「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット 」の冒頭・プロローグを読む。冒頭から鋭い。伊藤計劃という作家が作家として実働した約四年で残した小説は実質的には「虐殺器官」「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」「ハーモニー」の3冊だ。ガンに侵されて死を目前にしながら死と戦いながらそれでも尚小説と言う表現に向かい合って、小説を書いて残そうとしたその明確な意志が刻まれている。


Mr.Children I'll be


 書いてたら↑この曲が浮かんできた。この曲が収録されているアルバム「DISCOVERY」は確か高三ぐらいだったはずでその中の「アンダーシャツ」を聴きながら高二の時に死んでしまった友達の事を思い出したりしてた。
 「I'll be」はシングル盤もあってこのver.よりもだいぶテンポがよいのだけど僕にとって染み入るのはこちらの方だ。


 高校の時には今以上に死ぬという事と生きるという事を考えていた。たぶん多くの人がそういう事を考える時期だろう。おまけに僕は野島伸司信者でその影響をどっぷり受けてペシミストの資質が肥大化した。


 葬式で亡くなった友達の紫色になった顔を観た瞬間に泣きそうになった、でも現実感がなかった。小学校の時に地区のソフトボールをしていた僕らの両親も手伝いによく来ていた。彼のおばさんもおじさんもよく知っていたし可愛がってもらっていた。
 そのおばさんが崩れ落ちそうに、倒れそうになった時におじさんがなんとか支えるのを見て涙と鼻水が決壊したダムみたいに止まらなくなった。脳内のどこかで初めて死ぬという事はそういうことなんだとわかった。


 「DISCOVERY」は僕にとってはその事を思い出させてしまうアルバム。だからミスチルの中でもあんまり聴かないし聴けない。でも、今この曲が浮かんだのはそういうことを考える時期なんだろう。

大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

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1Q84 BOOK 3

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キャラクター小説の作り方

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