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2018-11-20 『本がまくらじゃ冬眠できない』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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ロロ三浦直之作・演出のいつ高vol.7「本がまくらじゃ冬眠できない」を鑑賞。

今回は図書館舞台小説詩集を使いながら展開していく。本棚に舞城王太郎最新刊『私はあなたの瞳の林檎』があった。さすが三浦くんと思った。というか並べられている書籍がやっぱり小説とか好きなんだなって思うラインナップだった。作中でも使われた山田詠美著『ぼくは勉強ができない』はやはり偉大だ。

前回のvol.6が僕的にはドツボにハマるぐらいに良すぎたので今回は絶賛って感じではないのだけど、台詞の言い回しとか三浦くんが描く「青春」はキラキラしていて、もはや保護者目線で十代として演じている役者を見ているような気になってしまう。

どこに行った僕のエヴァーグリーン

2018-07-01 『パンク侍、斬られて候』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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新宿バルト9にて『パンク侍、斬られて候』鑑賞。

町田康さん(最初に出てくる父親役で町田さん出演)の原作因果応報の話であり、映画もストーリーとしてはその流れを。ただ、その最初の罪に対して主人公が受ける報いまでが、宇宙が爆発しますよ、というセリフ同様に尾びれ背鰭がくっつき虚構現実侵入して現実になり現実を覆いつくしてしまう。

猿対阿保の戦いになるのが、残念ながら今のこの世界メタファとして見える。阿保には何を言っても伝わらず、人間だと思いたいが残念ながら猿と変わりもしない。

パンク果たしてそんな世界に一子報えることができるのか。

途中途中で永瀬正敏さん演じるデウスのナレーション現実世界を皮肉る。宇宙みたいに広がることになる最初の過ち、因果応報世界が爆発しますよ、あなたのしたことは巡りめぐってあなたに返る。

だとしたら、このクソみたいな世界をもたらしているのは、まぎれもなくわたしたち社会世界のせいだと腹をふって踊り考えることを放棄した腹振り党、ああ、フィクションのフリをした、いや、フィクションはただの現実の写し鏡だった。

2018-06-19 『傘を持たない蟻たちは』文庫版 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 加藤シゲアキ著『傘を持たない蟻たちは』文庫版。窪さんが解説だった。窪さんの『よるのふくらみ』文庫版の解説はクリープハイプの尾崎世界観さんだった。『トリッパー』最新号の尾崎世界観さんの対談連載の初回が加藤シゲアキさんだった。あれ、ループしてる?

 ということで『水道橋博士のメルマ旬報』で連載している「碇のむきだし」で加藤シゲアキさんの作品と窪美澄さんの作品について書いているのでブログにまとめてみた。窪さんの文庫になった『さよなら、ニルヴァーナ』についてもメルマ旬報を配信しているBOOKSTANDで書いたのでそれも再録してみた。


vol.010 「新連載・リリー・フランキー『著者都合により休載します』」 - [2013年3月25日発行]

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碇本学の『碇のむきだし』

1942年2月15日のアメリカ西部軍管区発表によると敵性外国人としての逮捕数は日系人が3250人、ドイツ系人が1532人、イタリア系人が369人。日系人の数はこの国の人口の比率からみると格段に多い数だった。その上収容所の人数を決定的に多くしたのは1943年2月19日付の大統領命令。太平洋岸の日系人住民に立退きがせまられ3月27日までの自由立退期間に立ち除いたもの5396人、期日以後強制収容された人は11万2千人と発表された。これは太平洋岸への日本軍の上陸に備えて取られた処置だったと考えられる。

1931年の満州事変。

1937年の日中戦争。

1941年の日米開戦にいたるこの当時の日系人の思想は一世と二世でまるで違った。

一世は日本の主張を信じて幾度も日本軍に献金等を行なっていたが、二世はアメリカ市民権に基づいてデモクラシーを主張する風潮だった。こうした風潮の中での強制立退きによって収容された人達はチーフに立つ人19ドル、その他の人は16ドル支給されていた。収容所からは二世で米軍兵役へ入る人々も多く、収容所が賑やかだった日はこの人達を送るパーティだった。一方、ヨーロッパ戦線での四四二部隊の大活躍とまた対日戦線の好転は睨まれていた一世の人達の志願参戦をも許可されるようになった。

戦後には住み慣れた太平洋岸へ帰る人もいたが大部分は戦時移転局のアドバイスで各地に集団生活ではなく転在してアメリカ人に溶け込むようにという指導をいかして、イリノイに18000人、コロラドに6000人、アイダホ、ミシガン、ニュージャージー、ミネソタ等に新天地を拓いた。

戦後の日系人の大きな特質は太平洋岸の人達の大量奥地移住を短い期間に成功させた事だった。そしてこれを成功させた大きな力は皮肉にも長い排日運動の中で創り出した県人会のような組織とその協力体制だった。排日運動時代の県人会のこの国での役割は善隣会を表面にして、その実は小領事館的な働きと頼母子講を中心にした経済的協力等々が今度は戦後に生かされてその力を大いに発揮した。そしてそれを助長したのがすでにそれまでに全米各地に拠点を持って大活躍していた初生雛鑑別師達だった。

 

ジャニーズのNEWSのメンバーである加藤シゲアキによる二作目の小説『閃光スクランブル』を読み終えた。一冊目『ピンクとグレー』を数日前に読み、その数日前には『ジャニ研! ジャニーズ文化論』(大谷能生・速水健朗・矢野利裕、共著)を資料として読んだ。

資料として読んだ『ジャニ研!』を読んでいく中でジャニーズ事務所社長であるジャニー喜多川氏(以下・ジャニーさん)について僕が今まで知らなかった事がたくさんあった。意外というか驚きとジャニーズという事務所について納得するものだった。

 

上記のアメリカでの日系一世や二世の文章は去年僕が調べていたものからだが、これはジャニーさんの人生とも大きく関っている。彼はアメリカのロサンゼルスで1931年に生まれてアメリカで育った日系二世である。そして太平洋戦争開戦後には家族と共にカリフォルニア州内の日系人強制収容所に抑留されている。11歳の時に第一次日米交換船で日本に渡り、両親の出身地の和歌山市に移住するも戦争末期にアメリカ軍の和歌山大空襲で焼け出され日本の敗戦後にロサンゼルスに戻り高校に通う。

19歳の時に父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が美空ひばりのアメリカ公演の会場になったので、そのステージマネジメント全体を担当。それを機に美空ひばりと親しく交流するようになる。これが彼の日本芸能界への進出の一歩となる。

1952年に姉(メリー喜多川)と共に再来日(ここ重要! 来日なんです、そうなんです。ジャニーさんとか言われてるしアメリカ出身だけど日本人でしょ? ジャニーさんって思ってますよね。両親は日本人だけど彼は名前でわかりづらいけど根っからのアメリカ人なんですよ)し、アメリカ大使館の陸軍犯罪捜査局に勤務した後は朝鮮戦争勃発で板門店に出向いて現地の子供に英語を教えていた。その後上智大学に進学し卒業後に芸能界に参入している。

 

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マッカーサーが日本を去って、そして、アメリカからジャニーさんがやってきた、というわけです。

戦後、アメリカが日本にもたらしたものは、まずは「民主主義」。そして「ジャニーズ」です。マッカーサーは、戦後の日本で占領政策を布き、財閥を解体、農地を解放し、おしつけの憲法と民主主義とチョコレートを配り、実質的な再軍備である警察予備隊を生み出します。その後を受け継いだジャニーさんは、顔の可愛い男の子たちのグループを次々と生み出し、芸能という分野で日本の文化の実効支配を行なったのです。

大谷能生・速水健朗・矢野利裕著『ジャニ研!』より

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上記は『ジャニ研!』の一部分ですが、この本は個々のグループ、楽曲、ミュージカルや舞台、それらを仕掛けるビジネス上の戦略を研究するものです。

著者のひとりである速水健朗さんの著書『ラーメンと愛国』は国民食になったラーメンのその始まり、戦後の食糧不足とアメリカの小麦戦略にあったという所から始まります。戦争に負けた日本を統治したGHQ、アメリカは小麦粉が余りすぎていた。ならば敗戦国に売っちゃえばいいわ。でも日本人は米食う国民だしなあ、じゃあパンを給食に出して車で日本全国回ってパン食はいいですよ的なアピールをし、小麦粉を消費させる国にしちゃおうぜ! というパン食とラーメン文化に繋がっていった流れを記した第一章は阿部和重著『シンセミア』が元ネタだと速水さんご自身も言われていました。

『シンセミア』の主人公の家系は戦後からパン屋を営んでいます。もちろん日本とアメリカという関係を描く時に、戦後の文化戦略でアメリカ的生活を受容しアメリカ化した日本を描くのにそれは最も適している職業だったのです。

 

そして、戦後に日本文化に溶け込み大衆化したアメリカ文化と言えばベースボール、そう野球でした。SMAPの中居くんの巨人好き、熱狂的な野球ファンと言うのは知られている事です。なんか毎年ジャニーズってデッカイ球場で野球大会してるよなあと思いません? 僕はなんでジャニーズって野球やってんだろうなって思ってました。そもそもジャニーズ事務所の始まりは野球だったのです。ワシントンハイツという米軍の施設だった代々木公園でジャニーさんは日本の少年たちに野球を教えていた。そこから現在に至るまでのジャニーズ事務所の歴史が始まっている。

ジャニーさんはある日その少年野球のメンバー四人を連れて映画館に連れていき、『ウエスト・サイド物語』を観て大変感動します。そしてその四人を歌って踊れるアイドルのメンバーに仕立て上げて初代ジャニーズ(僕でも知ってるメンバーはあおい輝彦さんですね)が誕生します。そこから今に繋がる日本の芸能文化、男の顔の価値や意識を変えていったジャニーズ事務所という歴史の幕が開いたのです。

僕の年齢で近いジャニーズの人はKinKi Kidsの堂本光一さんやタッキー&翼の滝沢秀明さんで彼らはなんかずっと舞台でミュージカルやってるよなってイメージがあります。ジャニーズの始まりはそう『ウエスト・サイド物語』でした。だからこそ舞台やミュージカル、そしてコンサートという劇場でのライブ体験はジャニーズの核なのです。

そしてアメリカ人としてジャニーさんを本名のJohnny H.Kitagawaとして考えると、光GENJIや忍者や嵐といった最初に聞いた時は「マジか?」というグループ名もアメリカから見た日本のイメージでありネタとかじゃなくて本気でつけたんだ! と納得もできるのです。元KAT-TUNの赤西仁さんがシカゴ、サンフランシスコ、ヒューストン、ロサンゼルス、ニューヨーク五都市を巡るツアーを行なったのは、ジャニーさんが日本で作ってきたエンターテイメントで、故郷である本国アメリカで勝負しようという気持ちの表れのひとつだったのでしょう。

 

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傷だらけの消えそうなメロディー…、

目を刺す青空達…、

あぁ、そこらにあるオレンジジュースの味…、

穢れの先で。

70’s、80’s、90’sだろうが、

今が二千なん年だろうが、

死ぬように生きてる場合じゃない。

 

そこで愛が待つゆえに。

愛が待つゆえに、僕は往く。

 

僕は死ぬように生きていたくはない。

本音さ。死ぬように生きていたくはない。

中村一義アルバム『100s』 track2『キャノンボール』より

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そんなジャニーズ所属で小説家としてデビューした加藤シゲアキはなにか異質に思えました。ジャニーズのアイドルで男前、中学高校大学と青山学院でデビュー作が12万部ってもう嫉妬しかない! しかも一冊だけじゃなくて二冊目も出て書店では平積みになっている。

一冊目はまだ興味があっても読まなかった、二冊目が出たら書店で加藤シゲアキの上半身裸の背中にダリアのようなもの書かれたポスターとよく目が合うし、もう嫉妬だらけだけどメルマガに書くから読むぞと決めて二冊一気に買った。

 

『ピンクとグレー』あらすじ

大阪から横浜へ越してきた小学生の河田大貴は、同じマンションに住む同い年の鈴木真吾と出逢い、中学高校大学と密接した青春時代を送る。高校生になった二人は、雑誌の読者モデルをきっかけにバイト替わりの芸能活動をスタート。大学へ進学した二人は同居生活を始めるが、真吾がスターダムを駆け上がっていく一方で、エキストラから抜け出せない河田だけが取り残されていく。やがて二人は決裂。二度と会うことのない人生を送るはずだった二人が再びめぐり逢ったその時、運命の歯車が回りだす…(公式サイトより)

 

多少ネタバレも含みますがご了承ください。

小学生で転校してきた大貴は親たちに「スタンド・バイ・ミー」と称される仲良し四人組になって真吾たちとつるんで遊ぶようになる。河田なので河とリバー・フェニックスからもじってリバちゃんとあだ名をつけられる。まずなぜ『グーニーズ』ではなく『スタンド・バイ・ミー』なのか? と最初に思ったのは僕が『グーニーズ』大好きだからだったからだが物語の展開上は『スタンド・バイ・ミー』を使う事で意味を持たせている。

『スタンド・バイ・ミー』の語り部は誰だったのか? クリスを演じたリヴァー・フェニックスの末路は? 読みながら『スタンド・バイ・ミー』という作品名が出た事による物語の含みや役者になってスターダムになっていく白木蓮吾(真吾の芸名)はどうなるのかという興味がページを前に前に進めていく。

「渋谷サーガ」として構想されているのは、青学出身である加藤シゲアキ自身が十代を過ごした街として渋谷はもっとも書ける場所/風景であるからだろう。物語の二人もそこに通っている設定で、彼らの先輩でもあった尾崎豊のレリーフがある渋谷クロスタワー二階のテラスから17歳の章が始まるのも象徴的だ。

あと読んでいて多くの人が思い浮かべるのは村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』だろう。人気俳優の五反田君と僕という関係は、鈴木真吾と河田大貴の関係に近しい。『ダンス・ダンス・ダンス』での世界の謎や羊男というメタファーはないがそれが芸能界というもの、何かを演じるというものが代わりに機能を果たしているように思える。

 

『ピンクとグレー』は死と再生を描いている。河田と鈴木の主要登場人物は加藤シゲアキの影と光の部分であると見るのが普通だろう。どちらかが失われた場合、片方がもう一方の役目を伴うようになる、あるいは人格の統合のようにもそれらを引き受けて生きていこうという強い意思表示にも読める。

本名と芸名(あるいはペンネーム)の間にあるものについて、著者は自覚的だろう。芸能人である自分と本来の素の自分を二人に分離しながらも最終的に統合して行く、本書はジャニーズの加藤シゲアキの自己セラピー的小説として機能もしている。だからこそ彼はこの作品を書かなくてはならなかったと思える。しかもそれをアイドルである自分をきちんと客観し、多くの人が読めるようにエンターテイメントに昇華しようとしている。それは彼がアイドルとしてエンターテイメントの世界で生きてきた人だからこそ、純文学のように閉じられた世界ではなく開かれた場所で届かそうとしているのだろう。という事を読んだ人が思うように設計されている小説なんじゃないかなってそれもまた思う。

 

鈴木真吾は芸名の白木蓮吾として若手スターになっていく中で、芸名の白木蓮吾として生きていくしかなかった。もう逃げだす事はできなかった。キャラを演じるように役を使い分けていくように名前と言うのは人を善くも悪くも縛っていく。

芸名で思い出すのは横山やすし・西川きよしの二人が辿った人生の話だ。

木村雄二が横山やすしを演じているうちに本来の木村が消えていき、横山やすしでしかいれなくなったためにそのキャラに支配されて行き不祥事を起こし(本人の気質や性格も災いしただろうが)破滅していったが、西川きよしは本名(漢字をひらがなにした)だったためにさほど乖離せずに生き残れたという話を前にどこかで読んだか見たことがあったのだけど、この小説を読んでいて浮かんだのはそういう「名前」にまつわるエトセトラだった。

 

『閃光スクランブル』あらすじ

人気アイドルグループ、MORSE(モールス)に所属する亜希子は、自らのポジションを確立できず葛藤している。同期の卒業、新メンバーの加入と、亜希子を追い込む出来事が立て続けに起きる中で、年上のスター俳優・尾久田との不倫に身を任せていた。そのスクープを狙う巧。彼は妻を事故で亡くして以来、作品撮りをやめてパパラッチに身を落としていた。巧と亜希子が出逢った夜、二人を取り巻く窮屈な世界から逃れるため、思いがけない逃避行が始まる。互いが抱える心の傷を癒したものとは――。(公式サイトより)

 

こちらはアイドルというものの周辺を書いていて前作よりはエンタメ要素が高い。前作は気持ちのありようがメインというか大きく全体的にはおとなしいシーンが多かったのだけど今回は乱闘というか派手なシーンがあるので静と動という比較で読めるかもしれない。

あとアイドルグループのメンバーが主人公のひとりなので読み手はいろんな事が浮かんでくるのは仕方ない。

MORSEのセンターであり亜希子の親友だった水見由香が卒業していく、それは裏で進行していたが同時にスキャンダルも発覚し卒業後のソロ活動も白紙になってしまう。その中、亜希子は彼女がいなくなった分だけさらに気を張ってこのグループを引っ張って行こうとするのだがそこに自分に憧れて入ってきた新メンバーが現れる、時代は変わろうとしていた。彼女は自分のポジションや価値が見出せなくなっていく。

もう一人の主人公はパパラッチである巧だ。彼は妻を亡くしてから作品を撮らなくなっているが、仕事として亜希子を追いかけているうちに人々の欲望と現実と虚実の間にある利権や力関係、思惑に巻き込まれていく。その中で彼は失ったものを、時間を取り戻してまた作品が撮れるようになるのか? という内容です。

二作品とも喪失における再生を描いているという部分は共通している。英雄神話の基本構造である「出立」「イニシエーション」「帰還」をやっていて基礎構造がしっかりしているので読んでいて違和感もあまりない。

加藤シゲアキという作家は何かを失った人が再び生きてく決意だとか、何かを得ていくことを書き続けていく人なのかもしれない。

 

アイドルとパパラッチだと浮かぶのは阿部和重著『クエーサーと十三番目の柱』という作品。戦後のアメリカと日本の関係を書き続けてきた阿部和重という圧倒的な小説家の最も新しい単行本だ。

「神町サーガ」に代表される日米関係と天皇小説の系譜に現在のネットや技術をぶち込んで世界を多層化し時にはメタフィクションを、成熟しない故に成り立ったこの国の文化を小説にぶち込める作家が阿部和重である。ただ今作は日米や天皇小説ではなく、日英と女王にまつまる小説。しかしながら読んでいてゾクゾクする展開とタイトルに込められた意味がわかり始めると物語はさらに加速度を上げて暗闇のトンネルの中へ、そしてクエーサーな干渉に似た光のプリズムに包まれる。東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』を読んだ後に読むとさらに考えさせられる作品というか相乗効果がある作品。

この作品の冒頭はパパラッチがある一台の車を追っている所から始まる。パパラッチから逃げているのはウェールズ公妃ダイアナとドディ・アルファイドが乗っていた車だった。事故はトンネル内で起きて車は十三番目の柱にぶつかり大破して、物語が始まっていく。

 

「渋谷サーガ」の二作目は渋谷のスクランブル交差点が物語の中で大きな意味を持つ。主人公の巧や亡き妻がよく聴いていたのは中村一義やピチカート・ファイヴであり作中で出てくるのもそれらの楽曲だ。著者の加藤シゲアキは渋谷系などをリアルタイムで聴いていた世代ではないだろうから後追いのファンだろう。だから巧は彼よりも年齢が上でそれらをリアルタイムで聴いていた世代にしていると思われる。

そこに関しては好きなものを自分の作品に取り込みたいという欲望と自分のファンや読者に自分の好きなものを伝えたいという願望が感じられる。だからそこは微妙に背伸びをしている風にも読んでいて思えなくはない。

パパラッチとして生計を立てている巧は罪の意識がないわけではなく、芸能人の熱愛スクープをすると贖罪のように体に(大小≒代償の)タトゥーを入れていて数は日ごとに増えていっている。この事で僕が最初に思い浮かんだのは僕が大好きなバンドのDragon Ashのボーカルであり現在はNHK大河ドラマ『八重の桜』で新撰組の斎藤一を演じているKjこと降谷建志さんだった。

彼は自分名義のアルバムを出す毎にタトゥーを入れている。一枚アルバムがリリースされる毎に彼のタトゥーは増えていくのだ。僕は二十代半ばまでそれに影響されて普通に作家として自分の作品が一冊でも世にドロップアウトできたら一冊毎にKjを真似てタトゥーを入れようと考えていた、わりとマジで。ちなみに僕の体には未だにタトゥーは刻まれていない。

この一枚毎にKjがタトゥーを入れていることを加藤シゲアキは知っているはずだ。

僕はあまり書評を読まないので確かめていないのだけど、加藤シゲアキ関連の作品でこの事を指摘している書評家やライターさんはどのくらいいるのだろう。いるとしたらおそらく僕と同世代か三十代半ばの人だろうと思う。

 

1999年日本の音楽シーンは大きな転機を迎えた。

宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』が空前の売り上げを記録し、浜崎あゆみもブレイクし現在のAKB48のメンバーが幼少期に見ていたであろうモーニング娘。『LOVEマシーン』が大ヒットした。

Dragon Ashは『Let yourself go,Let myself go』『Grateful Days』『I LOVE HIP HOP』でブレイクしていった。ブレイク後に降谷建志は父が俳優の古谷一行だと口を開いた。

降谷建志と同じ年である椎名林檎が90年代に流行った「渋谷系」をもじって「新宿系」として『ここでキスして。』によるヒットで一躍ブレイクする。『ミュージックステーション』で頭に小さな王冠を載せた椎名林檎とタモリさんが同じ画面に映っていたのをなぜか今でも覚えている。そんな前世紀の最後辺りに十代後半だったのが今の三十代半ばから三十歳ぐらいまでの人たちだ。

 

高等部で中退しているが初等部から中等部、高等部と降谷建志は青山学院に通っている。加藤シゲアキにとっては彼もまた尾崎豊同様に学校の先輩である。そしてそのタトゥーの事と物語の最後に明かされる巧の秘密もおそらくは降谷建志がモデルになっているのではないかと思われる。

「渋谷サーガ」は三部作みたいな形になるみたいなので次も出たら読みたい。この物語をどう繋げていくのか、一冊目と二冊目の接点はない。繋げるなら二作の脇キャラが三作目の主人公や物語と絡んでシェアワールド化するのが妥当だし読み続けるファンには嬉しいだろう。次はやっぱり小沢健二や小山田圭吾とかその辺りの渋谷系の王道をメインに持ってくるかなあ、どうだろう。

でもそうやって上の世代と下の世代を繋げてクロスオーバーさせられる作家さんになっていくのかもしれない。それもエンターテイメントの魅力のひとつだから。

 

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君の眼に映る僕を、僕は知れない。

そう、だから、君に会うのは、自分と会うみたい。

僕の眼に映る君を、君は知れない。

ねぇ、だから、いつだって、僕だって、君だって、

そう変わりはない。

 

いろんな声が広がる、この街にさ、

君の声が聞こえてくる。

出会う人は、その声かえす鏡のように。

だから、僕はうたえる、うたえるから...。

中村一義アルバム『ERA』 track15『君ノ声』より

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vol.142 「皆様、よいお年を。 土屋敏男×水道橋博士×岡村靖幸 スペシャル鼎談掲載! 」 - [2017年12月30日発行]

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『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』について

 

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 十九歳の時に上京してバイト先で偶然にも現れたビートたけしはホログラムのように揺蕩い身を焦がすほどの憧憬の果ての夢の端に浮かび上がった幻影にも見えた。

 ボクはこの世では生きているか死んでいるかわからないのっぺらぼうの日々に見切りをつけた。

 二十三歳で出家同然にたけしに弟子入りしボクもあの世の登場人物のひとりに相成った。

(中略)

 おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。

『藝人春秋』と名付けた本書はこの世から来た「ボク」があの世で目にした現実を「小説」のように騙る――お笑いという名の仮面の物語だ。

水道橋博士著『藝人春秋』まえがきより

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 今年最後の連載では水道橋博士著『藝人春秋2』上下巻について感想を書こうと考えていた。発売したばかりの加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』上下巻も読み終わって、この小説に書かれていた構造を考えていたらこの2作品を絡めてなにか書けないものかと思っていたので勢いで書いてみることにした。

 上旬にはある程度、原稿を書いていた。そこから時間をおいていたのだけど、先日『最後のジェダイ』を観に行った。今回取り上げる神話論と切っても切れない関係にあるのが、『スター・ウォーズ』シリーズもといサーガだったりするのでそこも絡めて書けないものかと思って、さらに見切り発車してみようと〆切間近に書き足している。

 

 芸能界に潜入したルポライターである博士さんが、『007』になぞらえて自分は芸能界に忍び込んだ「スパイ」という設定を決めて、芸能人から政治家まで根気強く事実を探って資料や言質をまるでパズルのピースを集めるようにして書いたのが新刊『藝人春秋2』である。

スパイというとやはり表舞台の人ではなく闇で動き回っていて、この現実世界にいながらも少し僕らとは違う世界で生きている人のイメージがある。半分この世の者でありながらも半分はあの世に突っ込んでいるような存在と言えるのかもしれない。

 

 冒頭に引用したのは前作『藝人春秋』のまえがきだが、師匠・ビートたけしに弟子入りしたことにより小野正芳はこの世ではなく、あの世に移行して名前も「水道橋博士」となった。また、『チュベローズで待ってる』の著者である加藤シゲアキさんはジャニーズ事務所のアイドルでありNEWSのメンバーのひとりだが、NEWSというグループは2003年結成当時には9人だった。しかし、2011年10月7日に事務所から「山下(智久)はソロ活動、錦戸(亮)は関ジャニ∞の活動に専念するため、NEWSを脱退することになりました」とマスコミ各社にFAXが送られたことにより、残った現在の4人はNEWSとしての活動を継続することを決め現在の体制になった。

 同年11月22日、彼はそれまで活動していた名前である「加藤成亮」から「加藤シゲアキ」に変更し、『ピンクとグレー』(2012年1月28日発売)で小説家デビューすることを発表した。彼もまた大きな変化の時に名前を変えた人だった。 

 

 本名と芸名を分離することの意味はかなり大きなものであるはずだ。彼らの視線はあの世(芸能界)からこの世(一般社会ととりあえずしておく)を見る人となった。といえども博士さんの場合だと、夫であり3人の子供の父である小野正芳としてこの世で生活はしている。だが、一般人からすれば普通に歩いている彼は芸人である水道橋博士なのである。これはどこかこの世とあの世が入り混じっている感覚なのではないだろうかと僕なんかは思ってしまうのだが、顔を知られているという特殊な業種や立場の人でないと経験することはない事例だろう。

 

 彼岸にいながらも同時に此岸にいるという特殊な視線と立場だと僕は想像している。

 

 博士さんが同じくまえがきに書かれていたのは、素人時代には小説を読んで非現実に耽溺していたが今ではその時の方が現実感がなくなっており、現在ではテレビの収録現場にいる方だけでフィクションへの渇望がなくなっている、と。だからこそ、博士さんはノンフィクション系の書籍は読むが今や小説を積極的に読もうとは思わないということらしい。なるほど、と思う。逆に加藤シゲアキさんはフィクションを書いているので面白い対比だなと思ったりする。

 人と人を繋ぐ「星座」(コンステレーション)の概念とそれまでの人生で起きたことを現在において伏線を回収するという言い方を博士さんはよくされている。故・百瀬博教氏に言われた「出会いに照れない」を実践することでいくつもの数えきれない星も満天の星空が広がっていく、という考え方は博士さんが書かれたり発言されることで伝播していっているのも知っている。僕もそのひとりだと自覚している。

 今作『藝人春秋2』が書き上げられたのも星という単語を使って言うのなら満天星(どうだん)である。パッと見ではわからない繋がりや時間が隔てられてしまって途切れてしまったものをいかに結びつけるか、あるいは証拠を探し当てたり、当事者の元に赴いて言質を取っていく入念な下調べがあるからこそ、パズルのピースがカチッとハマるような快感があり、「星座」の物語になっていく。それ自体は博士さんの生き方に由来しているのだろうし、ライフワークとして小野正芳≒水道橋博士の軸になっている。だからこそ、博士さんはやめないしやめられないのだろう。

 

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 『チュベローズで待ってる』上下巻を読了して最初に思ったのは、処女作『ピンクとグレー』から彼の作品はずっと一貫しているということだった。物語には行って帰ってくる(鯨の胎内に入り戻ってくる)という英雄神話構造(キャンベルの神話論『千の顔を持つ英雄』)がある。簡単にいうと、王になるものは一度、死の国(クジラの胎内≒あの世)に行って通過儀礼をしてこの世に帰還することで現世の王になるというものだ。文庫版『リアル鬼ごっこJK』の中で小沢健二について僕は作中の登場人物のセリフでこの話をさせている。小沢健二は渋谷系の王子のまま突如日本から消え海外に行って様々な冒険と経験をして帰ってきた。『小沢健二の帰還』という宇野維正さんの本が出ているが、僕はどうしても王子が王になって帰還したとは思えないでいる。

 加藤シゲアキデビュー作『ピンクとグレー』で最も印象的だったのは、アイドルとしての自分とそうでない自分が「行って帰ってくる旅」を得て統合されることで彼(主人公≒著者)は「加藤シゲアキ」になっていく所だった。あるいは書くことで当時のメンバー脱退における傷だったり悩み、そしてこれから自分はどうしていくのかという意味を含めた自己セラピーのような役割があったのだろうということは簡単に想像できる。しかし、そう想像させるようにもあえて書いている感じをも匂わしてくるからとてもクレバーな書き手だと思った。

 同時に小説できちんとエンタメを書くことができるのも、エンタメにしないといけないのも彼の本業がアイドルだからというのも大きかったのではないだろうか。どちらかというと扱っている主題や内面の問題は純文学的部分があったはずだが、エンタメ小説にするために振り切って書ききったのではないかと推測している。

 

 今作の上巻では就活に失敗した大学生(光太)が新宿のホストに出会ったことで自らもホストになりナンバーワンになっていく。そして10年後を描いた下巻ではゲーム会社のやり手のクリエイターになった未来編が描かれている。

「このゲーム(物語)の主人公は僕ではなかった」と下巻の帯文にもあるようなミステリーになっているのも楽しめるポイントだが、僕が気になったのは先ほど述べたような人物が統合されるという部分があることだった。それを今回は二重螺旋のような構図で書いているのがミソだと思う。これは少しネタバレに近しいことを書いているような気はするが、これでラストのオチなんかがわかる人はすぐにミステリー小説が書ける人かもしれない。

 また、終盤の作品のキーマンと光太のやりとりは事務所と所属タレントのようにも見えなくはない。それは深読みではなくてあらゆる関係に起きる事柄だし、読んだ人ならなんとなくわかってくれると思う。あの部分はタレントである加藤さんの本音みたいなものが一部出ちゃっているような気がした。

 この小説で最も重要なことは上下巻で500ページ以上あるこの作品を手に取って読み終わる若い世代の読者がたくさんいることだろう。長い小説を読めると今まで読めなかったものも読めるようになるし、他の小説にも興味を持ってもらえることにもなる。それができる著者はやはり多くはないから、この小説が多くの人やいろんな世代に読まれることの意味は非常に大きい。

 

 僕がまんが原作者の大塚英志さんに影響を受けているので、小説を読んでいたり映画を観ていると構造なんかについて物語論や英雄神話構造なんかが浮かぶ。世間的に一番有名なのは『スター・ウォーズ』がジョーゼフ・キャンベルの神話論をジョージ・ルーカスが採り入れたということだろう。特に「鯨の胎内」というのは多くの物語に採用されているし、現実世界では実際に死んでなくとも近い経験や違う世界での経験によってパワーアップしたり新しい人生の局面に進むということもある。

 同時に作り手の多くはキャンベルの神話論を読んでいなくても、知らないうちに多くの物語からそれを受け取っているので、その構造を無意識であれ意識的であれ書いている。例えば、水道橋博士著『お笑い男の星座2』でも読んだ人の心を掴んで離さない「江頭グラン・ブルー」だとこう書かれている。

 

―――――――――――――――

 生と死は隣り合わせである。

 江頭は覚悟どおり死を選んでいた。

 たしかに、このわずか、数分のなかに江頭という男の一生を見せていた。

 救急隊員に酸素ボンベで吸入されているうちに、ボコボコボジャーボコと口から飲んだ水を戻すと、江頭が息を吹き返した。

「うぉ〜おおぉう、うえぇえぇ〜ん、あ゛〜ぅあ〜あ゛ぅあ〜ぁあ゛あ゛」

 江頭は号泣していた。

 その瞬間、まるで水槽という羊水のなかから大きな産声を上げ新たな生命が誕生したように見えた。

 決して日の目をみることのなかった芸能界の暗黒の深海芸人が、一瞬の死を経て、再び生を取り戻すと燦々と、太陽が降り注ぐ大海原に水飛沫をあげて浮上し輝いた瞬間だった。

―――――――――――――――

 

 実際に「鯨の胎内」という物語論を他の芸人さんに当てはめて考えてみるとどうだろうか。水道橋博士さんは免許を不正取得した事件(「運転免許を笑えるものにする」というたけし軍団内での遊びがあったが、博士さんは3年に1度の免許更新を待ちきれずに紛失したと偽って免許証を3回再取得した。これが道路交通法違反になり書類送検された)で謹慎をすることになった。『お笑い男の星座2』の第4章「変装免許証事件」にこの出来事は詳しいのだが、その謹慎によって歩合制だったために給料はなくなり仕事も当然なかった。相方の玉袋さんもコンビとして同罪扱いで謹慎になり、妻子と一緒にマンションから実家に戻ることになった。謹慎があけて高田文夫さんのプロデュースの舞台で浅草キッドとして復活することになる。けっこう当てはまっているように思えなくもない。

 『藝人春秋』文庫版のボーナストラックの「2013年の有吉弘行」での猿岩石でのいきなり大スター、そして一気に人気芸能人の頂点から転げ落ちていった有吉さんの雌伏の時間と現在に至る大々復活と再び頂点を登っていく姿も物語論的に考えることができそうだ。

 なんといっても「鯨の胎内」をリアルに体現しているのは博士さんの師匠であるビートたけしさんその人だろう。バイク事故で本当に死にかけて戻ってきた男。復活後に撮った映画は『キッズ・リターン』であり、最後のセリフ「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー! まだ始まっちゃいねーよ!」は観た人に印象深く刻まれている。ここからビートたけしであり北野武の再び王としての時代が始まることになったのは間違いない。という見方はわかりやすいが、実際に本当にフィクションではなくノンフィクションで体現してしまっているのだから仕方ない。王になる人には王になるべきいくつもの物語があり、それが語り部たちによって後世に伝えられていくから伝説になる。

 

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 キャンベルの物語論 三幕の17ステップにおける「第一幕」に『チュベローズで待ってる』の冒頭を当てはめるとわかりやすいのではないかと思ったので簡単に書いてみます。

 

「ホスト、やるやんな?」

就活に惨敗し、自暴自棄になる22歳の光太の前に現れた、関西弁のホスト・雫。

翌年のチャンスにかけ、就活浪人を決めた光太は、雫に誘われるままにホストクラブ「チュベローズ」の一員となる。

人並み外れた磁力を持つ雫、新入りなのに続々と指名をモノにしている同僚の亜夢、ホストたちから「パパ」と呼ばれる異形のオーナー・水谷。そして光太に深い関心を寄せるアラフォーの女性客・美津子。ひとときも同じ形を留めない人間関係のうねりに翻弄される光太を、思いがけない悲劇が襲う――。

「渋谷サーガ」3部作で知られる加藤シゲアキが、舞台を「新宿」に移して描き出す新境地ミステリー。(公式サイトより)

 

 

第一幕 出立

 1・冒険への召命

 2・召命の辞退

 3・超自然的なるものの援助

 4・最初の境界の越境

 5・鯨の胎内

 

非日常への旅立ち:呪縛と庇護者

1・冒険の召命

広い意味での幼年期にある主人公(=「セルフの覚醒」に至っていない)は、「幼年期の終わり」を告げる出来事に遭遇する。

 

父はすでに死去しており、母と年の離れた妹がいる主人公の光太。同級生の彼女は就職が決まっている。彼は30社近く入社試験を受けたが最後の1社からも内定の連絡が来なかった。就職浪人をするために来年一年大学に行こうと思っている。単位はほぼ取っているので家族の生活費と大学費用を稼ぐバイトを探さないといけない状態になった。新宿で内定をもらえなかった憂さ晴らしで飲んでいたらひどく酔ってしまい路上で吐いてしまった。そこにやってきたのはチャラチャラした男でホストの雫だった。ホストやりいな、となぜか雫に気に入れられてホストに誘われる。

 

2・ 召命の辞退

しかし人間は本能的に変化を拒む。素直には旅立たせず、主人公自身のためらい、あるいは周囲の人間の引き止めにより出立に二の足を踏む。これは「眠り」というモチーフで表現されることもある。

 

雫にホストに誘われるたがその夜は断って家に帰った。幼い妹はゲームばかりしている。光太はゲーム会社に就職したかったが落ちた。恋人は家族ぐるみの付き合いで家にもよく来るが、彼女から妹がゲームばっかりしてて大丈夫なの、家族として注意した方がいいんじゃないと言われる。ふたりが寝ようとすると妹がやってきて3人で川の字で寝ることになる。

 

3・超自然的なるものの援助

日常の惰眠へ引き戻される主人公を目覚めさせる存在が現れ、超自然的な力やアイテムを与えて背中を後押しする。

 

悩んだ末に雫に連絡をしてホストクラブに赴く。光太から源氏名である「光也」という名前が与えられる。ホストクラブに行って挨拶を済ませた後に雫から10万円を渡されてダサくない服を買ってこいと言われる。それが体験入店へのエントリーシートになる。そこで買ってきたものを雫が見て合格になり、ホストクラブで働けることになる。

 

4・最初の境界の越境

「こちら側→向こう側」への越境。「境界線」の存在とそのハードルの高さを象徴する「境界守」が配置される。

 

雫はオーナーの次に偉い存在であり、それまでは敬語ではなかったが敬語を使うように言われて上下の関係性ができる。閉店後に雫の下のホストたちに生意気だと洗礼を浴びせられることになる。妹が中学受験をしたいと言い出す。その塾代が4年間で250万ほどかかることがわかり、それをホストで稼ぐことを決意する。同時に彼女とともにいた大学生だった世界から離脱していく。

 

5・鯨の胎内

「向こう側」というのは「(象徴的な意味での)死の世界」であり、主人公は一度死に、再生して「こちら側」に戻ってくる。「再生」のイメージと「母胎」のイメージが重なり合う。

 

ホストになるのが光太にとって最初の「向こう側」である。そこでの名前は「光也」を使うことになる。彼が「こちら側」に光太として帰ってくるのは下巻以降になる。これ以降の上巻の展開は「第二幕 イニシエーション:試練と成長」のパートがうまく当てはまっているように思われる。

 

第二幕 イニシエーション

 6・試練への道

7・女神との遭遇

 8・誘惑者としての女性

 9・父親との一体化

10・神格化

11・終局の報酬

 

第三幕 帰還

12・帰還の拒絶

13・呪的逃走

14・外界からの救出

15・帰路境界の越境

16・二つの世界の導師

17・生きる自由

 

 となっているのでぜひ小説を読んでもらってこの流れにあるか確認してみてほしいです。キャンベルの物語論は3幕構成なので残りの第3幕については下巻「AGE 32」がその役割を担っていると考えられるかもしれません。

 

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 このキャンベルの物語論「三幕の17ステップ」を使って作られたのがジョージ・ルーカスによって作られた『スター・ウォーズ』(「旧三部作」オリジナル・トリロジー)でした。新作『最後のジェダイ』はエピソード8にあたり、「続三部作」シークエル・トリロジーの二部作目です。この三部作で『スター・ウォーズ』シリーズ、サーガは完結すると思っていたら、やっぱりというか2017年現地時間11月9日にウォルト・ディズニー・カンパニーにより、シークエル・トリロジー完結後に新たな三部作の実写映画の制作が予定されていることが発表されました。

 

『最後のジェダイ』の監督ライアン・ジョンソンが主導し、ルーカスフィルムに「三本の映画、一つの物語、新たな登場人物、新たな場所。フレッシュに始めよう」と提案したという。「エピソード1〜9」のスカイウォーカーの血統の物語からは離れた、新たな別の人物を主人公とする三部作を予定している。ライアン自身は1作目を監督する予定だが、全作を監督するかは不明。

 

 『最後のジェダイ』を公開日に観に行った最初の感想はもはやこのサーガには血筋などはいらないのだなということだった。「他者の物語」にどんどん興味が失われている世界では「自分の物語」だけにしか関心が向かなくなっているという事実がある。誰もがスマホがあればかつての方に情報をただ受信するだけではなく、自ら発信できる世界になっている。だからこそ、ある一族の、限られたエリートだったり王のような存在に感情移入する能力というか、想像し妄想して自分に重ねたりする力は失われてしまっている。奪われているとでもいうのかもしれない。

 誰もが主人公になれる、主人公であるという世界を『最後のジェダイ』では描いてしまっている。そして、シークエル・トリロジーの完結後に新しい三部作を作るということが前提である以上は、仕方のない物語の転換だったということもどこか理解できてしまう。『スター・ウォーズ』サーガがこの先、ディズニー傘下で作られていくということは今作で、『スター・ウォーズ』の軸にあったジョーゼフ・キャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』の中で殺す必要がどうしてもあった。だからこその物語展開であるのは非常に納得できるものだった。それが面白いか面白くないかは別問題ではあるし、観客の好き嫌いも別問題だということだ。僕は正直面白いとは思えなかった。

 『最後のジェダイ』は(息子世代のライアン・ジョンソンによる)『スター・ウォーズ』が(父であるジョージ・ルーカスの)『スター・ウォーズ』殺しをした作品である。それこそがまるで神話論の構造でしかないのだが、そうやって父(オリジナル)の呪縛から解き放たれてしまった『スター・ウォーズ』だからこそ、スカイウォーカー家の血統の物語からは離れた新しい主人公を置いた三部作を作ることが可能になる。うん、そうでしょう、でもさ、それって『スター・ウォーズ』って呼べるのだろうか、否か。

 富野由悠季監督は彼自身が作った『機動戦士ガンダム』シリーズにおける架空の年代史である宇宙世紀を自ら葬るために『∀ガンダム』を作り、その中で使われた言葉が「黒歴史」だった。過去に起きた宇宙戦争(宇宙世紀)の歴史を「黒歴史」という言葉で表現していた。これがいつの間にかネット用語で「なかったことにしたい」or「なかったことにされている」過去の事象を指すものとなって一般に広まっていることは意外と知られていない。でも、富野監督は自ら作り上げた世界観(宇宙世紀)を葬ろうとしたことは事実だ。そういえば、『最後のジェダイ』でのレイとベン(カイロ・レン)のやりとりってなんかニュータイプみたいな感じに見えて、アムロ・レイとララァ・スンのやりとりみたいだった。だから、ちょっと今更かよとも思った。

 ジョージ・ルーカス監督は『最後のジェダイ』については「見事な出来栄え」と肯定的な感想を述べているという。それはやはり自ら殺すことができなかった、あるいは旧三部作以外は制作できなかった『スター・ウォーズ』という手に負えなくなってしまった作品の中にある自分の存在を殺してくれたからだろう。ルーカスの分身でもあったルーク・スカイウォーカーの最後が描かれているのも当然だし、ルーカス≒ルーク・スカイウォーカー≒「最後のジェダイ」がいなくなった世界では新しい何がしかの物語が始まる。

 ルーカスは父殺しをされることで『スター・ウォーズ』から解放された。父を殺してしまって王位に就くライアン・ジョンソンやエピソード9の監督のJ・J・エイブラムスたちはどんな王国を作るのだろうか。と書きながら僕は中上健次の紀州サーガを含めた中上健次作品を集中して読む正月になりそうです。サーガ好きなんですよね、なんだかんだ言っても。

 

 今年もメルマ旬報1年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様によってよい年末年始になりますように。


vol.002 「博士の愛した靖幸(水道橋博士×岡村靖幸対談)」 - [2012年11月25日発行]

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碇本学の『碇のむきだし』

おはようございますの方、こんにちはの方、こんばんわの方、

どうも第二回「碇のむきだし」です。

原稿書いている今日は曇天模様で雨が降っています。

風も冷たくなって寒さが増してきましたが

皆様お体にはくれぐれもお気をつけ下さい。

僕は季節の変わり目にはよく風邪をひいてしまうので

今年はきちんとうがいをしようと思ってます。

と思いつつ毎年しないから12月に風邪引くんですよねえ〜。

今回僕が取り上げる作品は

11月17日より公開が始まった『ふがいない僕は空を見た』という映画

その原作小説を書いている窪美澄さんという小説家についてです。

 

『水道橋博士のメルマ旬報』vol.1の前編の

樋口毅宏さん『ひぐたけ腹黒日記』を皆様読まれたかと思いますが

その中の6月29日の日記の一文に、

 

小説新潮」の新井編集長とバッタリ。恐れていたことが起こる。

「樋口さ〜ん、いつになったらウチの連載をやってくれるんですか〜」

大阪の取材費を出させておきながら書いていないんだ俺が。

泣きながら平謝りするが、酔った新井編集長は許してくれない。

酒に酔うといつもよりさらに目が座っていて怖い。

肉厚の体型を揺すりながら、借金の取り立てだったという前職の片鱗が垣間見える。

「あんたね〜そんなんだから窪美澄とどんどん差がついていくんだよ」

てめえ俺の前でNGワードを出しやがったな。

 

↑この窪さんです。

窪美澄さんは新潮社主催の第八回R-18文学賞を『ミクマリ』にて大賞受賞し

受賞作を含む『ふがいない僕は空を見た』で2010年に小説家デビューされました。

 

R-18文学賞(アールじゅうはちぶんがくしょう)は、

新潮社が主催する公募新人文学賞である。

応募者は女性に限られており、また選考委員の作家や下読みにあたる編集者も

女性のみとしている。当初は、性について描かれた小説全般を対象とし、

女性のためのエロティックな小説の発掘を目指していたが、

第11回より、女性が性について書くことは珍しいことではなくなり、

性をテーマにすえた新人賞としては一定の社会的役割を果たしたとし、

募集作品を「女性ならではの感性を生かした小説」と定めた

(官能をテーマとした作品も受け付ける)。

最終候補作はウェブ上で公開され、選考委員の合議により選出する大賞と、

ウェブ上の投票により選出する読者賞を設ける。(wikipediaより)

 

映画『ふがいない僕は空を見た』は「元いじめられっ子で、

姑から不妊治療や体外受精を強要されている主婦・里美(田畑智子)。

友達のつきあいで行ったイベントで“あんず“と名乗る里美と知り合い、

アニメキャラクターのコスプレをして情事に耽るようになるが、

その写真が何者かにばら撒かれてしまう高校生の卓巳(永山絢斗)。

助産師として様々な形の命の誕生を見守っている卓巳の母(原田美枝子)。

痴呆症の祖母と団地で暮らし、コンビニでバイトしながら

極貧の生活に耐える卓巳の親友・福田(窪田正孝)。

元予備校教師で福田に勉強を教える田岡(三浦貴大)……。

現代社会に生きるそれぞれの登場人物が抱える思いと苦悩がリンクし合い、

やがて一筋の光が見えるラストに収束していく群像劇」(公式パンフより抜粋)。

 

監督は『タカダワタル的』、『百万円と苦虫女』、

蜷川実花監督『さくらん』の脚本を手掛けているタナダユキ監督。

脚本は山下敦弘監督の作品の多くを手掛け

タナダ監督の『俺たちに明日はないッス』でも組んでいた向井康介さん。

 

原作小説である『ふがいない僕は空を見た』がR-18文学賞から出た事もあり

性について書かれた作品で映画もそれを丁寧に描いているので

R-18指定になっています。

映画はR-18指定だけど高校生とか中学生が観てもいいのになあ

というか観た方がいいと思うんですけどね、

セックス描写もあったりするからの配慮なんでしょうけど

結局人が今そこにいる過程の最初はそれなんだから避けられようもないですし

隠す事でキレイキレイな嘘な環境の方が気持ち悪いですね。

でも、これをもし読んでいる中高生の方がいたら

映画はまだ無理だけど小説は問題ないのでぜひ読んでほしいです。

 

まずは映画から。

小説は連作短編集で同じ町を舞台にしていて短編ごとに主人公が変わります。

卓巳・里美・七菜(卓巳の事が好きな同級生の女の子)・福田・卓巳の母と

各章で視線が変わっているが物語は連続していたり、

あるシーンの裏側で他の人はどう動いていたかなども描かれる。

冒頭で卓巳と里美のコスプレセックスから始まり

その映像がバラまかれて彼らのひとつの想いや様々なものは終りを告げていきます。

姑(銀粉蝶)から不妊治療や体外受精を強要されている里美は

気持ちをうまく言葉にはできません。

日曜日に姑が新鮮な野菜を買って家に乗り込んできて料理を作り出す、

玄関で一度置いた荷物から落ちた野菜についていた土が

廊下やマットを汚している。そんな描写のひとつひとつが

日常の中で損なわれてしまう、どうしようもない気持ちを表していきます。

夫(山中崇)は卓巳とのことがわかっても離婚はしないという。

感情を出さない夫が感情を露にするあのシーンだけでも

山中さんを起用した理由なんだろうなと思えました。

 

話が少し逸れますが山中崇さんは最近よくお見かけするようになった役者さんです。

CMだとJTだとか、今年だと西川美和監督『夢売るふたり』、

北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』、園子温監督『希望の国』、

三池崇史監督『悪の教典』に今作『ふがない僕は空を見た』と

話題作にひっぱりだこです。

山中崇さんが出ている今年の映画外れなしです。

山下敦弘監督の作品の中でも僕は一番好きな『松ヶ根乱射事件』の

主人公(新井浩文)の双子の兄で注目された役者さんなんですけど

僕の感じだと数年前の田中哲司さんや大森南朋さんが

今みたいにブレイクする寸前によく映画とかドラマで見るようになって

なんかいいなってオーラみたいなもの、ブレイクする前の何かが

匂ってくるんですよね〜。山中崇さん目当てで来年から出てる映画観るのもありです

よ、ホントに。

 

小説の流れを映画は辿っていますが

七菜視線の『2035年のオーガズム』は映画には取り込まれていません。

なので映画では七菜の存在感は限りなく薄いです。

ただ卓巳の事が好きな同級生の女の子程度の役割で。

でもこの判断というか脚本で入れなかったのは

すごく流れもすっきりして映画のルックとしてはよかった。

『2035年のオーガズム』は七菜の勉強できすぎた兄が

新興宗教に入って連れ戻されて帰って来て町が大雨で

川が氾濫してやばい家が〜みたいな話で

お父さんは遠くに単身赴任しててという話です。

お父さんが単身赴任していて家にいないというのは

窪作品にとっては実は大きなものがあると僕は考えていますがそれは後ほど。

窪さんは四十代半ばですがこの新興宗教についての書き方というか

感じ方は僕とはやっぱり違うなと読んで感じました。

今の四十代半とかその上の世代の人は

1995年の地下鉄サリン事件があったのもデカイと思うんですけど

オウムとかにいた信者の人は世代的にも近かったはずで

自分達の世代的な問題の一部として

否応ながら引受けているような気がなんとなくします。

 

今年話題になった映画『桐島、部活辞めるってよ』は

同じ出来事(時間軸)を各人物から見て構成された物語でした。

『ふがいない僕は空を見た』も群像劇ですが

全体的にはそういう風にはなっていないのですが

卓巳と里美の二人の出来事はそういう見せ方で展開していました。

その後に親友である福田の住む団地の話になっていくので

あの辺りの事も考えると卓巳と里美の出来事を丁寧に描いて

団地編というか福田の話と卓巳の母の話に入っていくから

気持ち長く感じたのが正直な気持ちです。

二時間半ぐらいの上映時間だと思いますが

もう少し最初の卓巳と里美の件を短くしても充分伝わると思います、

テンポがよく進むわけではないので二時間ぐらいだと観やすいかなと。

 

卓巳と里美のコスプレセックスの画像や動画が

卓巳の家や学校に送られたり撒かれたりして二人の関係は終焉していきますが

卓巳の親友である福田と彼の幼なじみであるあくつが取る行動は

確かに残酷であるのに美しく青春映画のワンシーンとしても輝いています。

そのシーンがどのようなものであるかは映画で観てもらいたいです。

小説にできることと映画にできることはもちろん違います。

あのシーンは小説でも福田とかの気持ちわかるし

自分でもそれやっちゃうだろうなって思えるけど

映像にしたらもっとわかるっていうか躍動感も含めて

残酷さの中に潜むキラキラしたものが映し出されていました。

 

あとは卓巳の母で助産師をしている原田美枝子さんの安定感ぶりが

ハンパないですね。なんだろうあの感じは。

メルマガの水道橋博士編集長とさきほどの樋口毅宏さん繋がりで言えば

原田美枝子さんはゴジさんこと長谷川和彦監督『青春の殺人者』のケイ子が

浮かんできます。

もう素敵な肉体でしたねえ、可愛いしスタイルもいいし。

今作でも田畑智子さんが絡みのシーンで脱いでるんですが

こういう先輩が同じ映画に出演されていると心強いのかな

なんて思ったりするんですがどうなんでしょうね。

青春の殺人者』に一緒に出ていた桃井かおりさんと共に

蜷川実花監督『ヘルタースケルター』に原田さんは出演されていました。

全身整形な主人公・りりこの芸能事務所の社長が桃井さんで

その整形外科医をやっていてりりこを改造したのが原田さんという役どころで、

こういう先輩が役どころとして固めていたから

沢尻エリカもやりやすかったりしたのかなとか思ったり

二人をそういう役どころで配置してさらに追い込んだのかなって。

でも、原田さんや桃井さんみたいな天然(美少女だった)が

年を経て人工的な美を作り出す役どころというのも

すごい皮肉には見えたりするんですけどね蜷川さんの。

『ヘルタースケルター』では原田さんは冷たい感じなんですが

今作では助産師さんで温かいというか命について信じている人で、

生を描くためにもちろん性はさけて通れないし

性がなければ生もまたなくて命についてずっと考え続けてる人でした。

だから言葉がすごく沁みてくる。

 

観終わってスカッとするというよりはジワジワと染み込んできたものが

内面のひだに届いていろんなことを考えたり思うきっかけになるような

作品だと思います。そして役者陣はすごくよかったです。

主演の二人の佇まいもいいですし、二人の会話は少ないけど

どうしても避けられない欲情に戯れて何かを失っていくあの感じは

もちろんバカにできない、誰にだって起きうることだから。

「バカな恋愛したことないやつなんているんすかね?」と

助産師の母親の下で働いている長田が言うんですけどまさにその通りです。

永山さんは冒頭で顔が映った瞬間に

やっぱり兄の瑛太さんに似てるなって思いますね、輪郭なのかな。

特に気になったのは福田役の窪田さんでした。

こないだ放送されたNHKドラマ『平清盛』で演じた平重盛役も

素晴らしかったです、これからもっと見たい役者さんのひとりです。

 

ここからは小説というか窪さんについて

僕がなんとなく考えたことや前に読んだ時のレヴューを書いてみようと思います。

窪美澄さんの小説は現在三冊刊行されています。

取り上げたデビュー作『ふがない僕は空を見た』

(第24回山本周五郎賞受賞、第8回本屋大賞二位)、

『晴天の迷いクジラ』(第3回山田風太郎賞受賞)、

最新作『クラウドクラスターを愛する方法』。

 

僕が最初に『ふがいない僕は空を見た』を手に取ったのは

単純にタイトルのセンスというか惹かれるものと装丁がよかったからでした。

僕はCDやレコードのアルバムをジャケ買いする人がいるように

本屋に行くと装丁買いすることが多々あります。

タイトルと装丁で惹かれるものがあれば自分の中にあるものと

何かしら呼応しているので大抵外れはないです。

そういう一冊が『ふがいない僕は空を見た』でした。

僕が買って読んだ頃にはある程度売れていたと思います。

出版社の担当者さんが足をつかって本屋さんに出向いて

全国の書店員さんもこれは売らなきゃと思って展開したりという

まず愛され売れていった本であるということです。

本屋大賞二位というのはその表れです。

僕も書店で二度ほどバイトをしたことがありますが

書店員が好きな作家を推す時の想いは熱く、

この作家はまだ世間的には売れていないがなんとしても展開して

すこしずつでも売るという伝道者としても

書店員さんたちは働いているのを知っています。

しかも本を読みまくっていて目は肥えていますから

本当に数年後にブレイクしていく作家さんたちを

いち早く押し上げていくのが書店員さんたちなんです。

そういう人たちにこの本をお客さんに読んでもらいたいと

強く思える小説だったんですね、『ふがいない僕は空を見た』は。

だからこそ余計に届いていった作品です。

 

第二作『晴天の迷いクジラ』はは四つの章からできています。

構造として物語の主軸にあるのは

一作から続いて章ごとに主人公目線)が変わる部分ですね。

個人の「私小説」的な一人称で見た世界を描くのではなく

章ごとの主人公がなんらかの関係を持ちながらも目線が変わる事で、

同じ出来事も細部が変わってゆく。

同じ体験をしてもそこにいた者同士でも考える事や思う事はもちろん違う。

生きている人間の数だけ細部の異なる世界が存在しているのが

僕らの世界の成り立ちである。

窪美澄という作家はそこを丁寧に描ける作家さんです。

第一章「ソラナックスルボックス」は仕事の忙しさから鬱になり、

学生時代の恋人にも振られ、

勤めていたデザイン会社が潰れそうな青年の由人の物語。

第二章「表現型の可塑性」はがむしゃらに働いてきたが、

不景気のあおりで自らのデザイン会社が壊れて行くのをただ見守る女社長の野々花

の物語。

第三章「ソーダアイスの夏休み」は母親の偏った愛情に振り回され、やっとできた友

だちも失って引き籠るリスカ少女の正子の物語。

終章「迷いクジラのいる夕景」は

湾に迷い込んだクジラを見に行く事になった由人と野々花、

そして途中で彼らと出会い、一緒に同行することになった正子の物語。

そこで出会う人々と喪失の先にあるものが、

少し柔らかい日差しのような希望として描かれています。

「家族」という個人の最初の場所が引き起こす個人の歴史における痛みと

生きづらさ、ある種メタファーとして迷いクジラ。

それらが出会う、集う場所は他人同士が同じ場所に居る

ある種いつわりの「家族」だけれど、

そこでそれが癒され、心がほどかれていく。

 

「家族」は一番小さな社会でありコミュニティなのは誰も否定できないでしょう。

窪作品に性的な描写があるのが僕は当然だと思うのは

人の発端はそこからだし、その欲望がなければ人は生まれてこないからです。

「家族」を描く際に個人の欲望(性欲)を描かない方が僕はやはり不自然です。

作家が家族を描くことは「性」を嫌でも引き受ける事で、それが始まりであるから。

だから「家族」について描き続けている作家ほど

性のことをきちんと描き続けている。

 

各自それぞれに喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に

迷い込んでいるクジラ。まるで先祖帰りして陸を目指すかのような

この巨大な生物の行動は、自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に入り、

再び出てくるという死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、

その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人と

ある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごします。

そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。

それは癒しに似ている生への渇望であり、

柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びのようです。

闇をきちんと見据えた上での光。

それは共存し、どちらかがなくなることはない。

彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。

僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。

得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。

だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも

諦めずに日々を生きて行くこと。

それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということ。

そんなふうに、それでも誰かと生きていきたいと思える小説

『晴天の迷いクジラ』です。

ほんの少しの光や温かさが冷めきった心をわずかばかりに癒す、

完全には癒せなくてもそれで少しだけ笑えたら、

前に進めたらそれはとても素敵な事だなと読んでいて心がほっこりしました。

 

第三作目が『クラウドクラスターを愛する方法』。

窪さんの小説は視点の変わり方がうまくて

その視点の変化と描かれている景色や風景や何かの色彩が

登場人物に心象風景に重なっていく。

今作では主人公の紗登子の視線だが

彼女の両親と母方のおばたちとの関係、ある種の女系家族の関わりを

この小説ではメインに書いている。

家を出て行った母とやがてそこから出て行った紗登子。

どことなく金原ひとみ著『マザーズ』に通じている視線を感じなくもない。

『マザーズ』はとんでもない作品なのでこちらもオススメです。

女系家族で姉妹の中で唯一嫁にいかなかった叔母と紗登子の時間。

虹というワードとその色彩に希望のようななにか期待がある。

暗闇の中にいても虹は出るのか、出すためには光を集めるのと光源が必要です。

 

光はどこから灯すべきか。

 

紗登子の弟の現在が描かれていない(出てこない)のは

女系家族の中で期待されていた母の死んだ兄のように

祖母や叔母が住んでいる家には男はいらないし、いれないからだろう。

娘たちはその家というある種のライナスの毛布があるだけ外にいける。

しかしその娘たちの系譜の家は女たちの聖域であって

男は迎えに来ても長居はできない。

迎えにくるのはその家と血縁関係のない紗登子の母と結婚したおじさんだけだった。

 

『ふがいない僕は空を見た』『晴天の迷いクジラ』は傑作だし

窪さんが熱狂的に支持されていくのは読めばわかるので

人に勧めたいといつも思う。

だが心のどこかで勧めた人には重すぎるかも、

その人の精神状態によっては諸刃の刃になりかねないとも

少し思ったりしていたがこの作品はどちらかといえばライトだ。

だからといって質が落ちているというのではなくとても受入れやすい。

あと三十前後の女性にはどストレートを投げつけられているので

すごく響きすぎてしまうだうなとは読んでて感じました。

 

一緒に収録されている短編の『キャッチアンドリリース』の方が

少年と少女を主人公に置いているのに表題作よりも重い、

なんだかチョコレートを溶かしたものを飲んでいるように何かドロドロと重い。

オナニーを覚えかけの少年の父へ抱いた仄暗い気持ち、

心を置いて体は勝手に女になっていく少女。

彼女を見る大人の男が自分を女として見てくるその気持ち悪い視線。

体は大人になっていくのに

心はまだその段階に追いついていかない不安定な時期、

いつか僕らが通りすぎた季節で

ずいぶん忘れていたような思春期の入り口にあった自分の記憶と

彼らの物語とが時間軸も違うのになにかリンクしていく。

表題作の「クラウドクラスター」とはいったい何なのか、

何を示しているのかがわかった時に窪美澄という小説家の

タイトルのセンスと作家性がわかってニヤリとしてしまう。

そしてまたやられたあと思いつつページは進んでしまいます。

 

『ふがない僕は空を見た』、『晴天の迷いクジラ』、

『クラウドクラスターを愛する方法』と三作のタイトルは

空がワードに関っている。これも特徴のひとつですね。

神とは空の抽象化にすぎないと考えることもできますが

どうしようもない時に空を見上げてしまうのは

そんな存在がいると信じていようがいなかろうが

自分の足がついている大地ばかり見ていても仕方ないから

ふと見上げてしまうのかもしれません。

先ほど書いた『2035年のオーガズム』では父親は単身赴任していました。

『クラウドクラスターを愛する方法』を読んでいると完全に女系一族の話です。

窪さんの体験とかが無意識化に出ているんだと思いますが

窪さんの物語には父がいない、父性がない。

『ふがいない僕は空を見た』の卓巳の父親は彼と母とは別に住んでいます。

福田にいたっては父は死んでいて母すらも彼氏の家に入り浸って

父の母である痴呆症の姑の面倒も息子に任せています。

この母親は園子温監督『ヒミズ』の住田の母親に限りなく近い感じです。

 

朝日カルチャーセンターで園子温監督×脳科学者茂木健一郎さんの

トークイベントにて園監督が

『ヒミズ』に出てきた茶沢家にあった絞首台の話をされていたのですが、

監督はいろんな女子高生に取材をしたら

実際に家で両親が絞首台を作っている家が何件かあったそうです。

次の模試の試験の結果が悪かったらそれで死ねよと。

『ふがいない僕は空を見た』で出てくる里美の姑は

息子や里美のために子どもを作れとは言っていませんでした。

自分のために自分の孫が欲しくてそう強要していたのですが、

試験の成績が悪かったら死ねと言えてしまう親。

最初は子どものためだったのだと思いますが大事な事が失われてすり替わって

自分の為に何かを人にさせようとすると

人は思いやりとか温かみみたいなものから削がれて残酷な事が

言えるようにできるようになってしまうのでしょうか。

少しずつ損なわれてしまうもの。

 

窪さんの小説にはどうも父性が絡んでこないのは

読んでいるとなんとなく感じることです。

タイトルには空が出てきて女系家族ばかりではないけど父がいない家庭が多い、

あるいはあまり描かれない女性的なものや母性、その象徴は海。

空と海。

人が足をつけているのは大地。

そうやって窪さんは父性の失われていく現代を書いているのかもしれません。

 

窪さんが作家として出てきたR-18文学賞が

当初は性について描かれた小説全般を対象とし、

女性のためのエロティックな小説の発掘を目指していたこともあり

僕の中ではR-18文学賞から世に出ている小説家さんの事を考えると

なにか漫画家の岡崎京子さんたちが居た場所について

考えてしまうことがこの所ありました。

前述した蜷川実花監督『ヘルタースケルター』の原作としても有名だし

代表作『pink』『リバーズ・エッジ』など90年代を代表する漫画家である

岡崎京子さん。

『ヘルタースケルター』の映画化で一番よかったのは

その関連で過去に発売された漫画が新しく刷られて

数冊の岡崎京子の作品について書かれた本が出た事でした、僕的には。

 

 

そうよこれがB-Girlの品格

ど真ん中 プラスNo.1

自分を誇るのが基本 乙女なキラ目の主人公

少女マンガの中に後ろ姿 見つけられなかった仲間達のため

(RHYMESTER B-Boy+Girlイズム feat. COMA-CHIより)

 

 

この歌詞がなぜか岡崎さんの居た場所を考える時に

どうもBGMとして浮かんでしまう。

岡崎京子のメジャーデビューの舞台になったのは

ロリコンマンガ誌『漫画ブリッコ』でした。

今では『多重人格探偵サイコ』などの漫画原作者でもある大塚英志氏が

編集者でいた雑誌で中森明夫さんが「『おたく』の研究」という連載を始めて

ここから「おたく」という言葉が生まれたと言われています。

少女マンガでは自分達の書きたいことは書けずに

漫画を書く場所がなかった岡崎京子や白倉由美や桜沢エリカらは

男の論理で作られたロリコンマンガや自動販売機だけで売っていたエロ本などに

書きながら世に出て行った。

今本屋に行けば少女漫画とは別に岡崎京子たちが出してから一般的になっていた

少女マンガのコミックよりも青年誌連載のコミックよりも

小説のハードカバーよりも少し大きいA5判コミックが並んでいるのは

彼女たちが作っていった足跡の軌跡の形だ。

岡崎京子が出している物語集『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』や

コミックのあとがきに書かれていた彼女の文章を読むと

小説も書いてほしかったと思う、この人が小説を書いたら

新しい何かは生まれたのかななんて思えたりするから。

大学在学中にエロ劇画誌『漫画エロジェニカ』でエロ漫画家とデビューし

同期だったまついなつきさんと女子大生エロ漫画家として取り上げられていた

山田双葉名義で世に出てその後小説家になった山田詠美さん。

その事を思うと余計にそういう可能性もあったんじゃないかと思ったりもする。

そんなのはもちろん後の祭りだけども。

 

===================================

 

彼ら(彼女ら)の学校は河ぞいにあり、それはもう河口にほど近く、広くゆっくりと

澱み、臭い。その水は泥や塵やバクテリアや排水口から流れこむ工業・生活排水をた

っぷりとふくんだ粘度の高い水だ。

流れの澱み、水の流れが完全に停止した箇所は、夏の水苔のせいですさまじい緑とな

り、ごぼごぼいう茶色い泡だけが投げこまれた空カンをゆらしている。その水には彼

ら(彼女ら)の尿や経血や精液も溶けこんでいるだろう。

その水は海に流れ込んでいくだろう。海。その海は生命の始原というようなイメージ

からは打ち捨てられた、哀れな無機質な海だ。海の近く。コンビナートの群れ。白い

煙たなびく巨大な工場群。風向きによって、煙のにおいがやってくる。化学的なにお

い。イオンのにおいだ。

河原にある地上げされたままの場所には、セイタカアワダチソウが生い茂っていて、

よくネコの死骸が転がっていたりする。

 

彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発

的な事故として。

あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つこ

とを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした

書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決し

てなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。

 

一人の少年と一人の少女。けれど、彼の慎ましい性器が、彼女のまだ未熟なからだの

なかでやさしい融解のときを迎えることは決してないだろう。決して射精しないペニ

ス。決して孕まない子宮。

 

惨劇が起こる。

しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るよ

うに。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。

 

彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)

はそのことを徐々に忘れていくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新

しい皮膚になっていくように。そして彼ら(彼女ら)は決して忘れないだろう。皮膚

の上の赤いひきつれのように。

 

平坦な戦場で僕らが生き延びること。

 

『リバーズ・エッジ』あとがきより

 

 

人影もまばらな夜に通りを抜けドーナツ屋に入ったとたん、そうだ、

あそこに行こう、とおもいたった。

町で一番高いマンションへしのびこむことにしたのだった。

びくびくしながら門をくぐり、わたしたちはガラスのドアを開けた。

管理人部屋を横目でにらみ、誰もいないことを確認した。

エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。

ごとんごとんと機械の音。

手にはふかふかのドーナツと熱いコーヒーの入った袋。ドアが開く。

息をひそめて通路を曲がると、わたしたちの目の前に、夜明けの東京がひろがって

いた。

群青から薄い青、そして茜色へのグラデーション。

雲はひとつもない。わたしは空を見上げた。

おはよう。おはよう。

 

『チワワちゃん』あとがきより

 

===================================

 

居場所がない中で自分達の表現をしていく中で

最初はエロ漫画であろうが出て行った彼女たち。

でも性をきちんと描こうとすることで生に対しての真剣さも尊さも儚さも書いて

自分達のジャンルを形成していった岡崎京子さんたちのように

R-18文学賞出身の小説家の強みってあるんじゃないだろうかと考えていた。

第11回から女性が性について書く事はもはや特別な事じゃなくなったので

女性ならではの感性を生かした小説を募集要項になったみたいです。

女性と男性の役割やできることが違うように描ける世界も感性も違うし

女性のためのエロティックな小説の発掘にしたほうが

より個性的な才能が集まるような気はする。

だってエロティックな小説という縛りがあってもそれを書いていたら

他はどんなジャンルであろうが書いていいわけだし

SFであろうが純文学でもラノベであろうが

書き手は脳内ドーパミン出まくって逆に応募者の作家性が

うまく出るような気がするのだけど、そうじゃないのかな?

 

『ふがいない僕は空を見た』の中で卓巳が出産を手伝って

生まれてきたばかりの赤ん坊についている小さなペニスを見て思う事。

小説では最初に収録されているR-18文学賞受賞作でもある『ミクマリ』の最後に、

映画では最後に卓巳の台詞として言われる。

あれは男としてはたまに思わなくもないけども

たぶん言葉にしたり文章で書いたりしないかもなって思う部分があって

あれを書けたのは息子さんがいる母でもあって

女性な窪さんの視線だからって気がした。

映画は脚本の向井さんは男性だけどタナダ監督は女性で

あれはどうしても外せない部分としてきちんと台詞にしたんだと観ていて感じた。

 

窪さんは作家としてデビューする前に妊娠、出産、子育てなど、

女性の体と健康を中心にした編集ライターとして活躍していた事が

作品にもかなり影響して現れているのは間違いない。

その普遍的であり永久的に先鋭的なそのテーマを彼女は書き続けていくのだろう。

だからこそ僕たち読み手は小説に出てくる登場人物たちと

環境や生まれは違うけど、気持ちを重ねることができる。

読んでいてしんどくなることもあるけれど、

それでも前に進んで、時には逃げる彼らが愛おしくすら思える。

それは僕らの一部分でもあるから。

窪美澄という小説家の名前は

嫌でもこれからもっと聞くようになっていくのは間違いないと思います。

まずは『ふがいない僕は空を見た』の文庫も出ましたし皆さんオススメですよ〜。

窪美澄さんと樋口毅宏さんの小説がもっと売れて

お二人の作品を読む人が増えたら面白い事になっていくんだろうなって

ファンとしては思いますし小説世界も新しい風が吹いてくんじゃないかなと

期待しています。

僕は作家志望なんで好きな作家さんたちと殴り合いして

本屋の平台を奪い合うバトロワに参加できるようにしなきゃなとも思います。

 

次回は樋口毅宏新刊『ルック・バック・イン・アンガー』が刊行されるので

読んだ感想を書きます。



いつか誰かと居たことを懐かしむ前に、差し込む光のように(BOOKSTANDニュース)

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https://bookstand.webdoku.jp/news/2018/05/18/170000.html

↑文字数多すぎて途中で切れるのでリンクで読んでください。

2018-02-25 <メルマ旬報>『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 古川日出男さんの新著『ミライミライ』が早い所では書店で並び始めた。去年の今頃は『新潮』で連載中であり、古川さん自身もUCLAで日本文学の短期授業のために渡米されていた。去年中に単行本になるのかと思っていたが、デビュー20周年の2月に出ると言われたのはいつだったか覚えていないのだけど、それはすごくいいことだと思った記憶がある。

 『水道橋博士のメルマ旬報』というメルマガで「碇のむきだし」という連載を創刊時からさせてもらっている。先月の1月30日に配信されたvol.145で『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演について書いていたのだが、2月28日には僕のいる「ま」組も配信されるのでこのブログに転載しようと思ったのは、今日は古川さんのデビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】がオープンしたというのが一番の理由だったりする。ネットで誰でも読めるようにしておけば、何か引っかかってどこかに繋がっていくかもしれないとも思うので。

デビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】

http://furukawahideo.com


『水道橋博士のメルマ旬報』

https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase


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 7年前の今頃のことをちょっと思い出してみる。

 3月の早生まれなので29歳になる少し前。もうすぐ三十路だなあと思いながら、上京して9年近く経っていて思い悩んでいた時だった。30歳までになんとかなっていたいという思いと裏腹に現実はそうはいかないフリーターとしての毎日は、ゆるやかに諦めに向かっていくにはもってこいの日々だった。そういう時に、1月の終わりに電報が来た。見たこともないのになぜか赤紙みたいだと思った。実際には応募していた新人賞の連絡だった。応募した時になぜか電話番号を書き忘れていて、編集者さんが連絡手段として電報を送るという手段を取るしかなかったのが赤紙が送られてきた理由だった。電報には「シキュウレンラククダサイ」と電話番号と一緒に書かれていたので、すぐに電話をした。

 新人賞は取れなかったが、最終に残っていたので会って話をしたいと言われて、数日後に文京区の音羽に初めて行った。30歳を手前にギリギリなんとかなるのかもしれないと思った。かすかに希望が見えたのが2011年の1月の終わりから2月頭のことだった。

 2月の末には一般で申し込んでいた東京マラソンに当選していたので、マラソンを初めて走った。練習せずに出たら27キロ過ぎには股関節とか炎症したみたいで走ることもできなくなって、ひたすら痛みに耐えて残りの距離を足を引きずりながら歩いて6時間ちょっとで完走した。帰りが地獄だった。駅の階段の上り下りが本当に大変で、練習しといたら終わった後も普通に動けるんだなってことを知った。

 目標には達成していないけど、今年はわりといい感じにいくんじゃないかなって思っていた時にあの地震が起きた。あの日は中目黒のガソリンスタンドでバイトをしていて、見上げた空が青空と真っ黒な雲で境界線を引いたようにはっきりと分かれていた。

 大きく揺れてから近所の会社の人たちが、アリが巣穴から一斉に湧き出てくるかのように道路に飛び出してきた。駅近くの超高層のビルがグルングルンと回るように揺れていた。帰り道の246を自転車で横切った。246沿いを歩く人たちが歩道を埋めていて、車はスローモーションみたいにのんびり進んでいた。それは死者の群れが地獄の閻魔さまの元に足取り重く進んでいくみたいに見えた。

 2011年の震災以降には、実家の岡山に2回ほど帰郷したが、福島には4回ぐらいは足を運んだ。基本的には郡山に行っていた。小説家の古川日出男さんが学校長として『ただようまなびや』(http://www.tadayoumanabiya.com)というワークショップと言えばいいのか、「自分の言葉」をどうやったら持てるか、発信できるのかということについて考えたり実践する文学の学校を地元の郡山で開催されていた。

学校長・古川日出男「ただようまなびや宣言」

http://www.tadayoumanabiya.com/declaration/


 僕は開催された2013、2014、2015年の3回とも参加した。古川さんをはじめとする多種多様な講師の方々、そしてボランティアスタッフの皆さんが作り上げたこの文学の学校は、受講者(生徒)の学びたいという意欲に溢れていたし、参加した人たちと関わる人たちが震災後の東北だけではなく、日本について、そして海外に向けての自分の言葉について考える場所だった。

 毎年、郡山に行っていたのでスタッフの方にも顔を覚えてもらって、行く度に声をかけてもらえるようになった。僕にはそれまで関係のなかった、知り合いのいなかった郡山という街に親しみを強く感じるようになった。スタッフの方々もいろんな想いが当然あったはずだ。改善されない状況だったり、風評被害や原発の問題、善と悪という簡単な二項対立ではない様々な事柄が入り混じってしまった中で、地元の郡山に来る、県内だけではなく県外から来る僕たちを歓迎してくださっていた。

 古川さんは高校時代に演劇をやっていて有名だったらしく、『ただようまなびや』のスタッフの方々は古川さんの高校の後輩にあたる人が多かった。皆さんが「日出夫先輩」と慕っているのを見るとなんだか勝手に嬉しい気持ちになった。2015年が今の所、最後の『ただようまなびや』になっているが、最終日のことはニュースになったので見たり聞いたりした人もいると思う。

村上春樹氏「文章を書く、孤独な作業は『1人カキフライ』によく似ている」、古川日出男氏「見事にカキフライの話をされてしまって…」

http://www.sankei.com/life/news/151129/lif1511290050-n1.html


 初日にいろんな講義に顔を出している人がいて、どう見ても村上春樹さんだった。参加している僕たちにはまったく知らされてなかったので、当然ざわついた。1日目の終わりのホームルームで、古川さんがみんな気づいていると思うけど、村上春樹さんが来られています。このことは明日が終わるまではSNSなどに書いたり言わないでください、と言われた。確かに参加していない人たちが来てしまうと対応ができないし、諸々と学校に支障が起きてしまうのは目に見えていた。そして、それは守られた。

 二日目の終わりに上記の記事のような話を村上さんがされて、ご自身の短編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うということについて』の朗読も披露された。たまたま参加していたハルキストの人は宝くじにあったような喜びようだった。そういう時にたまたまいた僕はなんかラッキーってぐらいの感じだった。僕が好きな小説家である古川さんが影響を受けている村上さん。そのお二人が壇上で話をされているのを見ると、間接的に自分も村上さんに影響を受けているんだよなって思った。

 村上さんの小説をきちんと読む前の20代前半の僕は、村上さんが訳されていたレイモンド・カーヴァーを好きで読んでいた。だから、村上さんのイメージはカーヴァーの訳者だった。僕が好きなアメリカの小説家はレイモンド・カーヴァーにチャールズ・ブコウスキー、フィリップ・K・ディックとかでみんなアル中だったり精神的にヤバかったりして、貧乏なブルーカラーの人たちだった。

 ブコウスキーなんか郵便局でずっと働いていて作家として売れたのはだいぶ年を取ってからだったし、僕が彼らに共感するのはそういう部分もやはり含まれているのだと思う。出版業界の人って基本的に大学出てるしブルーカラーに対して言えば、ホワイトカラーな人たちだ。昔は感じなかった学歴コンプレックスみたいなものは、それがあるのが当たり前の世界に顔を出すようになると無意識のうちに自分の内側に広がってきた。だからと言っても、どうにもならないものなのだけど、インテリな人たちの中にいると自分はまったくそうじゃないのにどさくさに紛れ込んでるなあって思う。

 今、小説を読んでるような人たちってある程度、教養があったり学があったりする人たちが大半で、ひと昔だったら紙とペンがあれば小説書けるしってことで書くことで成功する若い人(ブルーカラー)たちも少なからずいたんだろうけど、今だったらそれは小説という文学の形ではなくて、ラップとかになってるのかなって思ったりする。

 ラップもやってて小説も書いているという人になるといとうせいこうさんになるんだろうけど、もっと若い世代で20代とかの、例えば団地育ちとかのラッパーの人が小説を書いて賞を取ったり評価されるようになったら、日本の小説もなにか大きく変わっていくのかもって何年か前から思ってる。言葉ってことを考えたり、小説好きの友達と話すとそういう話をよくする。きっと、新しいリズムと文体の問題になってくるんじゃないかなあって。

 郡山に行ったのは『ただようまなびや』の3回ともう1回あり、それはメルマ旬報vol.28の時にも書いたのだけど、古川さんの母校である安積高校で『朗読劇 銀河鉄道の夜』公演を観に行った時だった。この朗読劇は、

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宮澤賢治の不朽の名作を小説家・古川日出男がオリジナル脚本に仕上げた朗読劇「銀河鉄道の夜」が誕生したのは、2011年の聖夜のこと。

古川自身の朗読に、音楽家・小島ケイタニーラブの音楽と歌、詩人・エッセイスト管啓次郎の書き下ろしの詩、そして翻訳家・柴田元幸のバイリンガル朗読が加わり、まったく新しい「賢治」の世界が生まれました。

http://milkyway-railway.com/about

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 というもので東京だけではなく、東北各地や西日本でも公演を20か所以上回っている。河合宏樹監督によって、『ほんとうのうた 〜朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って〜』(http://milkyway-railway.com/movie/ )という映画にもなっている。

 この『朗読劇 銀河鉄道の夜』がまったく新しく書きかえられて上演されると聞いたのは去年の11月とか年末近くのことだった。新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』の第一回は去年の12月に青森の八戸公演だった。僕はそちらには行けなかったので、同時に発表されていた1月の南相馬公演に行こうと決めてチケットを取っていた。郡山には行ったことがあったが、南相馬には一度も行ったことがなかったのも行こうと思った大きな理由だった。

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『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演

http://milkyway-railway.com/2956

ある時、バスに乗ってみてください。そして、おもむろに周囲を見回してみてください。窓の外に目を向けることはよくあることかもしれないけれど、車内を眺めてください。すると、知らない人がいっぱい乗っています。そして、知っている人も乗っています。友達の顔も、一人、見つけます。でも、何かがおかしいのです。あなたは「何がおかしいのだろう?」と考えます。その友達とは、ここで会えるはずがないのに、同じバスに乗っている。その友達は、本当に本当に、遠いところに行ってしまっていて……。『銀河鉄道の夜』とは、そんな物語です。さて、いま南相馬にいるあなたは、死者たちと同じ列車に乗り合わせてしまったら、何を考えますか? ―――古川日出男


 20日の午前中に渋谷から大宮まで電車に乗って、そこから新幹線(はやぶさ)に乗り換えて仙台まで行った。大宮からの新幹線で福島で降りて、南相馬までの高速バスもあったが便の数と時間帯の問題があった。僕は新幹線で仙台まで行って常磐線に乗り換え、南相馬の原ノ駅まで行くほうが時間に余裕があったのでそちらの方から向かった。

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 常磐線で宮城県を南下していく。途中で窓の向こう側に海が見えた。乗客の人たちはほとんど地元の方だったのだろう。いろんな年代の方が乗っていた。そこから見える景色、あの日のことを想像してみた。ほとんどの乗客は見慣れた景色なのだろう、外を気にしていないようだった。あるいはあえて気にしないで見ないようにしているのかもしれなかった。

相馬に近づいて行くときに、スマホを取り出してspotifyでくるりの『soma』を聴こうと思った。アルバム『坩堝の電圧』(2012年)に収録されている曲だ。アルバムの発売当時は福島にまだ行ったことがなかったし、テレビやネットの中で東北の状況を見ていたり聞いたりしていた。それでもこの曲を聴いたときに心に響いてきたものがあって、岸田さんの歌詞が優しくて「相馬」という単語を聞くとこの曲が浮かぶようになっていた。だから、いつか相馬の方に行くことがあったらその景色を見ながら聞きたいと思っていた。

 曲を再生し歌詞を表示させながら聴いていたら、泣きそうになってしまった。電車の中で泣くわけにもいかないので我慢していた。外の景色は次第に海から田んぼに、町の方に南下していく。海から離れてもう一度歌詞を見ながら聴いた。

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 1時間20分ほど電車に揺られて原ノ町駅についた。宿にチェックインするのは15時でまだ時間があったので、大通り沿いにあった食堂でラーメンを食べた。そこから夜に『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演をする南相馬市民文化会館ゆめはっとまで歩いてみた。15分ぐらいでついた。ゆめはっとの前には市役所があって、市長選があったのか二人の候補者のポスターが貼られていて、遠くから選挙カーのスピーカーの音が聞こえていた。そこから一度泊まる予約をしていた「もりのゆ」まで歩いて行って場所を確認してから近所にコンビニがないか時間潰しに歩いてみた。

 南相馬という初めてきた町、土曜日だったけど歩いてる人はほとんどいなくて時折車が通り過ぎる。とても静かな午後に一人のんびりと歩いていると不思議な気持ちになった。知らないはずの町なのに、どこか知ってるような気がしてくる。誰も知っている人がない町を歩いていると、いつの間にか歩いている自分が溶けるような、自然と消えていってしまうような気になる。僕以外の誰もいないようでもあるし、僕以外のすべてがあるようにも思えてくる。

 どこでもそんな気がしてくる。

 郡山もそうだったし、北アイルランドのポーターダウンやロンドン、地元の井原市もだし、ロサンゼルスのダウンタウンも高知市の竹林寺まで歩いた時も、毎年元旦に神田川沿いを歩いて隅田川まで歩く時もそう、歩いているとどこだって同じような感覚に陥る。車社会では道路によって土地が区切られているから。だから、違うはずの町もずっと歩いていると重なってくるのかもしれない。砂漠をロバに乗っていったり、アマゾンの中を歩くとその感覚は違うものになるんだろう、きっと。

 移動するということはいつも自分がいる世界ではなく、外の世界に触れることになるので客観視できるということもあるのだと思う。知らない町や場所ではいいことあるし、嫌な思いももちろんする。価値観や常識の違いもあるということを実際に体験するということで、多様性みたいなことを考えたりすることって大事なことだと思う。

 グローバリゼーションの波が世界中を覆って、誰もが国家とか大きな枠を飛び越えて交友や経済を以前よりもより自由にできるようになった。そして、行き来がより簡単になっていくと、それができない人たちのルサンチマンが爆発するように、アレルギー的な反応として先進国でナショナリズムが台頭しているのが僕たちの現在の社会だ。だからこそ、僕は移動をするってことが大事なんじゃないかなって、以前よりも強く思うようになった。インスタグラムでもなんでもいいのだけど、自分の物語をスマホがあれば世界に発信できる世界では他者の物語への興味は少なくなっているし、影響力も弱くなっている。

 他者への想像力が薄れていくこと、多様性の失われていく世界ってやはり息苦しいものになってしまう。僕は自分がそうならないために創作による物語や他者の物語を受容するし、時折何かのきっかけで移動していくことを続けていきたいと考えている。だからこそ、こういうきっかけで行ったことのない町に行くというのは楽しいし面白くて、移動っていいなって思う。

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 コンビニを発見して飲み物や食べ物を買ってから宿に戻ってチェックインした。素泊まりの一泊で、風呂トイレなしだった。風呂は大浴場があり、トイレは各階に男女別の共同のものがあった。ふかふかの布団に寝転がると寝そうになってしまう。寝たら18時半開演に間に合わないかもしれないという恐怖が襲ってくる。スマホで18時前にアラームをセットして、もしも寝てしまっても起きれるようにしていた。実際は20分ほどうとうとしたぐらいでアラームが鳴る前に目が覚めた。ここまで来たのに寝過ごして公演を観れなかったらという思いがどこか緊張感を持たせていたのかもしれない。

 外に出るともう真っ暗になっていた。歩いて10分ほどの南相馬市民文化会館ゆめはっとに向かった。専用の駐車場には車がかなり停まっていた。『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演は一階のホールだったが、二階ではBEGINのライブがあったらしく、両方のお客さんが来ていたので駐車場に車がたくさん停まっていたということを終わってから知った。

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 ゆめはっとの中に入ると「銀河チーム」と呼ばれている知人のスタッフさんたちが関連グッズの売り子さんをしていたのでご挨拶をした。古川さんの奥さんのチエさんが男性の方とお話をされていて、僕もご挨拶をしたのだけどチエさんとお話をされていた方は、『ただようまなびや』をお手伝いされていた古川さんの後輩である松本さんという人だった。

 僕がTwitterとかブログなんかで『ただようまなびや』について書いたりしていたので僕のことを知ってくださっていた。松本さんはフェイスブックで今回の公演のイベントページに僕が参加にしていたのを見ていたらしくて、なんと『リアル鬼ごっこJK』文庫版を持ってきてくださっていた。サイン書いてくださいと言われて、書かせていただいた。ほんとうにありがたいな、と思った。文庫にサインを書いてると自分のオリジナルの単著を出したいという気持ちが湧いてくるような、前面に強く出てくるような気がした。

 最初に『リアル鬼ごっこJK』のノベライズ単行本が出た頃、イベントに行った時にいらしたチエさんにお話を聞いてもらったことがあった。古川さんもデビュー作『13』の前に『ウィザードリィ外伝II 砂の王』というゲームのノベライズを書かれていた。それはある種、黒歴史とも言えるのかもしれない。だけど、それをベースにした小説『アラビアの夜の種族』(第55回日本推理作家協会賞、第23回日本SF大賞受賞作)という作品がある。それを見ていたから僕がその時に悩んでいたことを聞いてもらって、チエさんにアドバイスをしていただいたのを思い出した。

 『ただようまなびや』に毎年行っていたので、松本さんに覚えていただいてるのもうれしかったし、同時に不思議な感じもした。人のご縁というのは移動することで生まれるのかなあ、とも思ったりした。

 チケットは売り切れていて満席だった。ご高齢の方から子供まで幅広い年代のお客さんがいらしていた。僕のように県外からきた人もいたはずだ。19時半ちょうどぐらいから公演はスタートした。

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 『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演を鑑賞した後に、以前よりも物語が立体化している印象を受けた。事前にアナウンスがあったように古川さんが今までの公演とはまったく違う脚本を書かれていた。最初に登場したのは「さそり」=「翻訳家」=「柴田元幸」と「いたち」=「音楽家」=「小島ケイタニーラブ」の二人だった。彼らが舞台の左右にいて「銀河鉄道の夜」を観察するように見るという構図がまずあった。そこに「ジョバンニ」=「小説家」=「古川日出男」と「カンパネルラ」=「詩人」=「管啓次郎」が真ん中に現れて「銀河鉄道の夜」の物語が進んでいく。その構図自体は前の公演の時も基本的には同じ役割だった。

 しかし、新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』は過去と現在が共に現在進行形として未来に進む形になっていた。そのことが僕に立体的に感じさせることになったのだと思う。宮沢賢治が書いたフィクション(物語)としての『銀河鉄道の夜』がまずベースにある。そこに小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の出演者たちのノンフィクションが入り交じる形になっていた。

 小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の現実の姿が物語の中では「前世」として扱われているのも今回の新しい部分だった。だから、メタフィクション的な要素が入り込んでくる。そういう意味では今までの公演よりは少し話としてはわかりづらくなっている部分もあるのに、構造がはっきり見えてきてわからなさも含めて物語の世界に観客も一緒に溶け込んでいくようだった。

 さそりといたち、ジョバンニとカンパネルラの二組が舞台にいることで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と古川さんが脚本を書いた『朗読劇 銀河鉄道の夜』の世界が徐々に重なり合っていった。ある意味で、どちらも半透明で重なることで細部は違うのに重なり合う部分ははっきりとして、違う部分もより強調されていた。そこに過去と現在、そして未来が孕まれているような、それこそ宇宙みたいな空間が広がっていた。二組が時には混ざり合いながら銀河鉄道の夜を色付け、音を鳴らして、言葉が煌めいていって星々みたいに輝いた。そして、最後の古川さんと柴田さんのセリフと同時に鳴っている音で少し泣いた。ほんとうに凄まじいものがあった。

 公演が終わったあとに古川さんと柴田さんとお話できたので立体的に感じたということをお伝えした。そして、郡山に車で帰られる松本さんとゆめはっとの前でお別れをして歩いて宿に向かった。

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 知らない南相馬の道、夜だからまっくらな場所もあった。通り沿いの公園近くで夜空を見上げると冬の星座が輝いていた。僕にわかるのはオリオン座の3つ並んだ星ぐらいだった。南相馬に公演を見にきてよかったなと、夜空を見て歩きながら改めて思った。自分がとても優しい気持ちになっているのを感じた。古川さんたち出演者の方々や銀河チームの皆さんに会えたのも嬉しいことだった。

 宿について寝る前に園さんの懐刀だった船木さんからラインが来た。僕が南相馬にいることを知って連絡をしてくれたみたいだった。園監督『希望の国』の舞台になった鈴木さんのお宅の場所をラインしてくれて、泊まっている宿からは6キロぐらいしか離れていない場所だった。歩いても1時間ちょっとぐらい。翌日の朝に東京に帰ることにしていたので行けなかったけど、福島から原ノ町への高速バスで山間部とかを通ると復興しているところとしていない場所が見えるということも教えてもらった。さすがにこの距離は車がないとちょっとムリだなって思ったけど、また福島には来るだろうし、船木さんと今度一緒に南相馬とかに行きましょうと約束をした。

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 翌朝9時前には宿をチェックアウトして原ノ駅に歩いて向かった。日曜日の午前中は人気がなくて、自分がなんだか異邦人みたいな気になってちょっとワクワクしながら町を歩いた。原ノ町駅から仙台までの常磐線に乗った。帰りも『soma』を選んで聴きながら車窓から見える海を見た。聴き終わってからはアルバム『坩堝の電圧』の最後の曲『glory days』を何度もリピートした。口ずさみながら窓の外の景色を見ていたけど、停車する毎に乗客が増えていって車内は人でいっぱいになっていった。

2018-01-13 ロロ『マジカル肉じゃがファミリーツアー』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 ロロの新作『マジカル肉じゃがファミリーツアー』をKAATで 鑑賞。旅シリーズ三部作の最後の一作は家族の記憶を巡る旅。

 忘れていくこと、なにか形が残るもの、跡がわずかにあるもの、日々積み重なるもの、家族に自分が含まれる前のこと、シリアスにならずどこか懐かしくてポップさがある物語だった。誰もがどこか通じる経験をしているはずという共通体験に近いことが幼い頃にあったのではないだろうか。僕は見ながら思い出したのは、母が小学生とか中学生の頃によく言っていたことだった。幼い僕がテレビを見ながら「飛行機が落ちた」と何度も言っていたらしい、日航機の事故のことらしいのだが、僕は当然ながら覚えていない。だが、母にとってはとてもよく覚えている僕の幼い頃の出来事であり僕の発言なのだ。同じように昭和天皇の崩御の際も、僕は小一になるかならないかの時だが同じような感じだったと言われた。当人にとってはもはや身に覚えもないことだが、家族や一緒に過ごしていた人には印象的な出来事して刻まれていて、何かあるたびにその話になることで、当事者でありながら覚えていない僕にもそれは自分の記憶のようにゆっくりとじんわりと染み込んでくる。

 一つのコミュニティにおける記憶とはそういう相互補完のようなものがある。誰かが忘れていても誰かが覚えている、あるいは少しずつ細部の違うものが混ざり合いながら形を変えて記憶されるようなもの、誰かがそうだと思いたかったことなんかの集合体であり、そのコミュニティにいた人たちがいなくなれば消えていくものだ。僕の記憶もあなたの記憶も、こうやってブログに書いて残していても、ネットが僕が死んでからも残ったとしても、書かれた瞬間にそれはどこかズレていく。家族という最小の単位の社会における冒険とは、ある時期を形成していたメンバーによる記憶の集合体を巡るものだ。だからこそ、愛おしくていつかなくなっていくせつなさがある。家族にいい思い出がない人にとってはそれは封印されるものとなっていく。ロロはそれをまっすぐにポップに描き切る。今につながるかつての幸福な時間を。


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 第一弾だった『BGM』は下北沢のスズナリで鑑賞。

 移動すること過去と現在が交差していく。過去は地層のように重なり現在の足元にあるイメージ、掘り起こすとそれは化石みたい。化石はその時の想いや景色を孕んでいて、現在のそれらからの光でミラーボールみたいに光る、あるいは光らない。ロロ的想い出小旅行。三部作的な旅シリーズで一番好きなのは実はこれ。新しい次元に入った感じを受けた。友達の女の子の結婚式に向かう男二人。彼らは恋人である。過去の旅と現在の旅が重なることで浮かび上がること、生きていることの多幸感、誰と一緒にいることが大切なのかということ、僕はこの作品がロロで一番好きかもしれない、そうとても好きです。


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 第二弾だった『父母姉僕弟君』はシアターサンモールで鑑賞。

 白昼夢のような此岸と彼岸の境界線が曖昧になって入れ替わるように進む。いつか会えなくなってもまたいつか会える、またね、じゃあ、こんどね、ごめんね、ありがとう、いつかまた巡りあうまでハローグッバイ、過去と現在とありえた未来がそこにあり、僕らは今日を日々を。

 ロロという名前を最初に聞いたのはいつだったか忘れたが、教えてくれた人には舞城王太郎&(古川日出男)×ボーイーミーツガールだよって言っていたので興味を持ったのだと思う。この『父母姉僕弟君』は再演だったはずだが、ラストのあの景色にそれを教えてくれた人が言っていたことが表現されている気になった。そういう景色が舞台にあったから。

2017-11-28 『ブレードランナー2049』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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リドリー・スコット監督がフィリップ・K・ディックの小説をもとに生み出した1982年公開の傑作SF「ブレードランナー」から、35年の時を経て生み出された続編。スコット監督は製作総指揮を務め、「メッセージ」「ボーダーライン」などで注目を集めるカナダ出身の俊英ドゥニ・ビルヌーブ監督が新たにメガホンをとる。脚本は、前作も手がけたハンプトン・ファンチャーと、「LOGAN ローガン」「エイリアン コヴェナント」のマイケル・グリーン。前作から30年後の2049年の世界舞台に、ブレードランナーの主人公“K”が、新たに起こった世界の危機を解決するため、30年前に行方不明となったブレードランナーのリック・デッカードを捜す物語が描かれる。前作の主人公デッカードを演じたハリソン・フォードが同役で出演し、「ラ・ラ・ランド」のライアン・ゴズリングがデッカードを捜す“K”を演じる。(映画.comより)


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監督/ドゥニ・ビルヌーブ

原作/フィリップ・K・ディック

原案/ハンプトン・ファンチャー

脚本/ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン

出演/ライアン・ゴズリング(K)、ハリソン・フォード(リック・デッカード)、アナ・デ・アルマス(ジョイ)、シルビア・フークス(ラヴ)、ロビン・ライト(ジョシ)、マッケンジー・デイビス(マリエッティ)、カーラ・ジュリ(アナ・ステライン)、レニー・ジェームズ(ミスター・コットン)、デイブ・バウティスタ(サッパー・モートン)、ジャレッド・レト(ニアンダー・ウォレス)、エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)、ショーン・ヤング(レイチェル)ほか


 公開からしばらく経ってしまいましたがタイミングがあってようやく観に行けました。平日のTOHOシネマズ渋谷で3割か4割程度はお客さんがいたような気がします。僕は原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の著者であるフィリップ・K・ディックが好きなので観たいなって感じでした。正直に言えば、今ドラマでやっている『高い城の男』はどうも観ても合わないし、前作の『ブレードランナー』も観たような観ていないような記憶がありません。

 『ユービック』を映画でやってほしいなとずっと思ってます。ミシェル・ゴンドリーあたりで。しかしながら、『ブレードランナー』以降のSF映画はこの世界の延長戦やこの作品によって確立されたものなので、ある意味で多くの人には見慣れてしまった景色になっているという驚くべきことになっていますが、それが当然になってしまうというオリジナルティはもはや自然すぎて驚かれないという逆説的なものこそがオリジナルであると言えるのだと思います。


 僕は『週刊ポスト』で「予告編妄想かわら版」というミニコラムを書いていて公開前に『ブレードランナー2049』について以下のような妄想を書いています。


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 1982年に公開された『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー2049』(10月27日)。この世界では、レプリカント(人造人間)が奴隷労働をしているが、製造から数年後には彼らには自我が芽生え、人間に反旗を翻すようになる。その対策として寿命を4年としたが、人間社会になんとか紛れ込もうとする彼らを解任する任務を追うのが専任捜査官ブレードランナーだった。

 予告編では前作の主人公・デッカード(ハリソン・フォード)に今回のブレードランナー・K(ライアン・ゴズリング)が会いにいきます。新旧主人公が顔を合わせる、ワクワクします!

「いつも言ってるじゃない。あなたは特別なの」と言うのはKと一緒にいる今回のヒロイン。  

 SF作品は近未来などが舞台ですが、根本的なテーマは普遍的なものだったりします。歴史修正主義者だったりナショナリズムに走る人々、都知事が平気で「排除」と言ってしまう時代に、人種、思想、国籍などで簡単に人を区別し、カテゴライズして優位に立ったと思い込むことが自分や大事な人を「特別」な存在にするわけではないはずです。妄想できませんでしたが今だからこそ観るべき一作だと思います! 僕が人間だって保証なんか一つもないよなあっていつも妄想はしているのですが(笑)。               

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 この中にある<「いつも言ってるじゃない。あなたは特別なの」と言うのはKと一緒にいる今回のヒロイン>という部分ですが、このセリフを言っているジョイ(演じたのはアナ・デ・アルマス)はある意味ではヒロインなのですが、ホログラムというか現実人間でもなくレプリカントでもないのです。しかし、主人公のKの恋人であり心の拠り所です。

 今作において<人間>であるのか<レプリカント>であるのかという問い、生きているのか死んでいるのかということ、本物であるのか偽物であるのかという真実が何層かになって物語られています。

 前作の主人公であるデッカードにKが出会うまではかなりの時間が経ってからだと思います。おそらく半分ぐらい経ったぐらいか、1時間以上は物語が経ってからだと感じました。前作の最後でもデッカードがレプリカントであるかどうかという謎がありましたが、今回の主人公であるKは旧型ではない新型のブレードランナーであることは冒頭で明かされますが、今回の物語の大きな軸は30年前にレプリカントの子供が生まれていたということです。その子供がどうなったのか、父親はデッカードなのか、そしてKは何者なのかという点です。子供が生まれるということはレプリカントの製造会社となっている組織の希望です。いくらでもレプリカントという製造の難しい彼らにとっての奴隷が作りやすくなるからです。


 本物であるか偽物であるか、

 人間であるかレプリカントなのか、

 主人なのか奴隷なのか、

 この物語の最後には<人間>らしさを持っているものは誰なのかという問いが改めて観客に提示されることになります。主人公であるKの存在とはなんなのかということは観客である僕たちに突きつけられてきます。自分という存在について悩む人たちはKに感情移入するはずです。

 誰もが特別な存在でありたいと願っている、そして同時に凡人であるということを受け入れて生きていくかしないという事実。この『ブレードランナー2049』で描かれてしまっているのは近未来のSF的な世界ですが、それは壮大なメタファーをまとっているだけで限りなく現実のこの世界にいる私たち自身のことを描いてしまっています。


 僕たちはいつだって特別な存在でいたいし、誰かにとっての特別な存在でいることを願います。それは瞬間的には叶うのかもしれないし、叶うこともある。だが、運や努力や才能のすべてをつぎ込んだとしても特別な存在になれないという現実もあります。それでも僕らは誰かにとっての特別な「何か」になりたいと願ってしまう生き物です。

 Kは僕たち自身です。

 だからこそ、彼は最後まで駆け抜けていきます。たとえ願いが叶わないものだとしても、たとえ自分が特別な存在でないことを知ってしまっても、そこの先には奇跡みたいなものが起きる可能性があるならば、自分がその奇跡を見れなくても。

 誰かにとって特別な誰かに出会うために僕らは生きているのかもしれません。

2017-05-23 『メッセージ』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 『メッセージ』はなんで世界で使われている方の正式なタイトル『アライヴァル』からこっちの邦題にしたのかしら、と。

 時制のこと、『インターステラー』もだけどすべての時間がいくつもの可能性が同時に存在しているなら、この現実を受け入れているのはわたしたち、するりと違う可能性に接続するのもわたしたち、ただ、あのカンガルーの件の字幕の部分はすでに観たことあるんだよなあ、予告でやってたのかなと予告見直したけどそんな部分はない。ロスから帰りの飛行機で字幕なし観たけど途中で寝てたし、僕もまたどこかで未来を見ていたか。

 エイリアンから地球へルイーズへ渡されたのはある種の言語、それによって時折見ていた謎のフラッシュバック映像は未来だったことがわかる。未来が過去のように存在し、時間の行く先が見える。すべての時間について、だからこそ原作であるテッド・チャン著『あなたの人生の物語』というのは実際のところネタバレにも近いほど正しい。だって、これから生まれてくる娘の人生の始まりについての物語の序章としてこのばかうけのような宇宙船とエイリアン達は到着し去っていったのだから。

2017-04-08 2016年「詩」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

『太陽』

眩しくて目を閉じると見えない、ただ感じている。熱さや強さを。

影が出てきて伸びて、ついてくる。分身にもならずに僕の名残惜しさみたいに。

だけどね、光の速度で祈ってみようと思うんだ。思ったんだ。

祈るってことはそれだけで強い愛、いや僕は愛なんてものはわからないから違うのかもしれない。

でも、限りなく愛に近いそんなものだ。と言い切りたい。

青空に浮かぶ太陽に届くほどの祈りはイカロスの羽のように溶けてしまうか、

しまうのならば溶けて落ちてきたロウでLOVEって形作ろうか。

でも、愛とLOVEってなにかが違っている、気がする。

たぶん、意味あいが違うのさ、だけどその意味の違いを僕は知らない。

いつか祈りが届いたらその時は、また目を閉じる。

想いが、空に溶けて、太陽に照らされて輪郭だけが、ただ、ある。



『誰もいない』

あらゆるものの角度、

過ぎ去っていく面影、

世界は平等ではないと言い切った君の横顔、

いくつかの事柄が複雑に噛み合った結果、

そこには僕しかいないのに、僕以外のすべてがあるような錯覚、

いや、確かにあるのだ。

この今の時間と同様に存在している過去の時間と未来の時間が。

トリックアートのように左右縦横が繋がって循環していく、

それも錯覚の一部だけど。時間は進んでいるのにレイヤーはいくつかある。

だから、誰もいないような街角に立っていて今以外の時間での人々が見える、

皮膚の感覚でわかる。

君も大勢の中にいて溶け合うのが嫌だから。個が奪われたくないから、

ひとりでいることが多い。故にいろんな時間の中に存在している。

横顔だけ残してふいに消えて、でもいたる場所に居る。



『呼吸』

空気が冷たいから肺を意識する。

吸って吐いて吸って吐いて。

幾度となく繰り返している呼吸は、いつ覚えたのか。

もう備わっていた事は本能か。

知らない間に生まれていた。それは本能か。

呼吸する事は誰にも教わらなかったし、気づいたら居た。

もう存在しちゃってたんだよ、吸って吐いて吸って吐いて。

繰り返しながらもうここにいた。

深呼吸をする。冷たい空気が肺を満たす。

ああ、ここにいる。

吸って吐いて、吸って吐いて吐いて吐いて。

吸う、数?

知らない間にいたのならそれはもう正しさを伴っている。

呼吸、吸って吐いて吸って吐いて。ここに。



『たったひとりの女の子』

彼女の視線はどこか哀しげだ。

いちど何かを諦めてしまったようなそんな温度、絶望を知っている光。

僕はその瞳に期待する。

哀しそうな顔の君が笑うのを見たい。でも、その笑顔は僕だけにと思う。

そんなこと不可能なのに。

とびっきり素敵な女の子、いつもは不機嫌な女の子、君の冷たい視線。

僕は君の隣で笑っている顔を見たい。だけどその微笑みも諦めの先にある。

君が幸せになればいいなとどこか他人事、僕は君を笑わせることができない。



『惑星』

猿が踊っている惑星で干支がひと回りアンダースタンドな投法。

落ちていたロケット鉛筆を持って空中になにかを書いている。

神はいなくて、ただ猿とロケット鉛筆、いやロケットペンシル。

わかっているのかいないのか猿は手にしてるそれを空に投げる。

宙で一瞬爆ぜる。音と熱がして猿のが燃える。

ファイヤーモンキー、リンボーダンス、アンダースタンドな姿勢できない。

ロケットペンシルは宇宙に向かっていく、猿だけ、いやこの惑星を残して。



『ランダム』

黒い空の中に笑っている光の束が分裂していく。

ああ、終わるのだと僕が言えば、君は始まるのだと言う。

光の細切れは大地に降り注いでランダムに人に刺さる。

赤い血が大地に流れて、息絶えた人々の口から光が放射される。

死に絶えた体は徐々に硬質になっていって新しい批評になる。

批評、いや資料、いやいや肥料だ。

刺さらなかった人々はその肥料を担いで、

光にできるだけ触れないようにして、

家に持ち帰って庭に埋める。

すると新しい太陽の芽が出てきて夜中でも生活ができた。

ランダムに死んだ人のおかげで、おかげで。



『波』

消滅するのは時間、いや体感、瞬間、獰猛な目だけが見据えている。

そう視線のみだけがあり、ゆえに見られているという自意識に踊る。

空中に浮かんでいる言葉尻を掴んでブンブン振り回す、

落ちてくるものは母音ではなく、子音なのか、


音が撒き散らされてノイズしかない。

ブンブンどんどん振り回す、音はやがて消える、いや速すぎて。

もう聞こえないのだ。消滅したのは僕、いや音の波。



『表情』

苦笑いばかりするとほんとうの笑い方を忘れてしまうらしいよ

泣き笑いばかりしてたらほんとうの泣き方を忘れてしまうみたい

ただ笑っていたい日々はいつだってそこに、この瞬間に、

あるのだけど笑えないことが多すぎてうまく笑えないようになっていく

ああ、笑えないって泣きたくもないし

僕はどんな表情でいまここに立っているのかって君の表情で探る



『咲いて』

君の片思いが実ってしまったらそこから芽が出ていつか花が咲くのだろうか

咲いた花はどんな色をしてるんだろう

君と片思いの誰かの関係性と日々の生活によってその花は成長する

僕はそれをどんな気持ちで見ればいいんだろう

その美しく咲くであろう花を僕はキレイだなと言えるだろうか

いや茎から折って花をちぎってしまうことはないだろうか

だからどうか花が咲いたら僕に見せないで

僕が忘れてしまう頃に咲いていて



『灰』

いつも大きなものに流されていく

新しい象徴は受け入れられては飽きられる

その名前が変わるけど欲望の質は変わらない

消費されつくしも残るものがあるとして

燃えがらの灰の中に光ものだけは残る


輝きは色あせずにただそこにある

だけど通り過ぎた人は

大きな流れにしか身を任せない人はもう気づけない



『メタフィクション

語り部がそこにいる

語られている人がそこにいる

語られていると思っている人がいる

だが、書かれた文字や映し出された映像が

真実だって一言も言っていない

フィルターがかかっている、薄い膜がある

彼が彼であると勝手に思い込んでいたから

彼が彼でない時には次元が変わる

ぐるりと反転する

反転した方が真実に近い、でも、反転する前の世界

嘘か、真か、どちらでもありどちらでもない

レイヤーが重なるほどに可能性は増える

そして真実はどこかに彷徨う



『たより』

この寒さがゆるやかに去り、

眩しい季節のあとに

また同じような寒さが舞い戻る時に

なんにも現状が進展してなかったら、と思うと怖すぎる。

だからこの感覚や感情だけがたよりだ。



『三日月』

風が通る、いやその空間を通りゆく僕がいる

体温が下がっていく、だから皮膚感覚がマヒしていく

指先に血が通ってないような、ただの肉

重さすらも遠くにあるような

意識と身体が乖離していく感覚という感覚

ああ、冷たい風が頬を撫でていく死神の吐息

車のヘッドライトが照らすのは僕じゃなくて

傍にいる死神の大きな鎌の刃先

つるりと輝いて浮かび上がる

ずっとずっと彼方に飛んで行って三日月



『いつくしみ』

つくしみという言葉

やわらかそうだけど言いづらい

あまり会話で使わないけど心にはあるようなもの

だけどやっぱり使いづらい

慈愛と言われてもなんか菩薩の心みたいな

どうしてかなにか上からの想いみたいだ

だからってどうということもないのだけど

つくしんでいるともあまり使わない

慈しみと漢字とひらがなの組み合わせになるとなんか寂しい

つくしみってひらがなだけだと伝わりづらい

そう、それは届きそうでわかりやすそうでわからない想い



『ゴースト』

小学生の低学年の頃は子供だけで学区内を出て遊びにいくのはダメだった。

でも何人かの友だちで自転車でその境界線を越えて遊びに行くのはドキドキした。

見つかったら怒られるけど未知の世界と言うか広がっている世界に足を踏み入れる事の興奮の方が増していた。

広がるパノラマ、知らない匂いがした。

少しずつ移動距離も知識も増えていくと行動距離は広がり町を、市を、県を、越えて動けるようになる、もう国だって越えられる。

二十歳を過ぎて東京に出てきた時に僕には知り合いは誰もいなかったし、友だちらしい友だちは誰も上京してなかった。だから一旦ゼロになって二十代は始まった。

時間の波は止まることなく膨大に増え続けてその中に巻き込まれていく、

時間が季節が一年が過ぎていくのが感覚として早くなっていく。

自分自身の時間の地層が積み重なる、

過ぎ去っていったそれはゴーストのようにいつも片腹にあり僕らは時折ゴーストに付きまとわれたりしながらも未来に進む。

僕らの時間は少なくなっていく。

やがて消えゆき肉体の残り時間は消滅する。

人の死は肉体の、その個人の死が第一段階にあり、その人の事を知っている人達の中に残された記憶が存在する限りはまだ世界に存在している。

やがて僕が死に、僕の記憶を持った人達も死んでしまうと僕の死は第二段階に入る。

第二段階の死は記憶の死。

世界の記憶から消えていく、その時人は本当に死んでいくのだろう。

だけども今はネットがある、死んでも僕らが残した文章や何かはネットのどこかに潜んでいて、それらのシステムが崩壊し消えない限りは。

という事は現代の僕らは第二段階の死の先も世界に残りうる。

好きな、

興味のある世界にダイブしていくとその界隈や周辺の人達と知り合いになっていく。

知り合いや顔見知りの人が増えていくと、

時折世界というのはどうやら思っていたのよりも狭いのかもしれないと思え、シンクロしているのを知っていく。

動き出したら繋がって連鎖していく。

シンクロを感じて繋がっているのを知った時に少しだけ時間の波に抗えるような気がする。とんでもない事や哀しい事があってもなんとかこの世界を楽しめる、面白い事は起きていくんだと思える。

そのためには動き出さないといけない、点と点の間を動いて見えなかった線に気付く。僕が東京で出会った人たちはそういう人が多い。

面白そうな人達に近づいていって話をしにいってそこに入って巻き込まれていけば面白そうな事が起きていく。面白い事がないなんてことはない。

面白い事ばかりだ。

僕らは革命なんて起こせないけど、

だけど世界に深くダイブすることはできる。



『春夏秋冬』

春と修羅

夏と蓮華

秋と龍神

冬と羅刹



『浮かんでる』

アパートの壁をコンコンと叩く

薄い壁の向こう

空洞みたいな音がする

コンコンと叩き続けると違う音がする

何かがある 

空洞ではなくコンクリートかなにかで塞がれている

鈍い音の反響があってその感触に

コンクリートみたいなもので隠されているのは白骨死体

イメージがあふれる

突如、白骨死体がコンクリートと壁をぶち破って

こちら側にやってくる

砕けるコンクリート破片と薄い壁だったもの

白骨死体は、そう僕だ

過去の僕の面影だけを残している骸

壁の向こうは過去

戻ることはない時間軸に無数にある白骨死体の僕

今だって僕は白骨死体になろうとしている

羽化して現在進行形の僕になる

羽化してる、浮かしてる、浮かんでる?



『居場所』

物語とは「居場所」を巡るお話だ。

どこにいても誰といても

いや、どこにいて誰といるかが大事なことだ

逃げ出したくなる環境から逃げて、逃げて、逃げて

たどり着いた場所で新しい関係性ができる

だが、そこが大切な心地いいものになったとしても

それは移りゆくもので、確実なものではない

変化し続けていくものだから

「居場所」だっていつか気がつかないうちに

毎秒毎分毎時毎日毎月毎年

変わっていってしまう

そしてここではないどこかを夢想する

君の求めるものはその瞬間にしかない

今が愛おしいならこの瞬間だけが「居場所」になる

いや、それだけが君の宿り木。



『ないで』

泣いてないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないでないで



『TRANSLATOR』

伝えようとする 

なにかに変換しなければ伝わらない

そのまま伝えようとしてもそれでは共通言語にならず

翻訳する者は透明ではない

どんなに薄くてもその存在のフィルターはかかる

かかるざえない

意味は追加されるのか削減されるのか

ただ、伝えるためにフィルターはいる

いるんだ

言葉だけではなく、ジャンルをこえて表現の枠をこえて

ほら、新しいものが伝わる

本来の意味に何かが足されて引かれたもの

そう、

だから、

越えてきたものだ

伝えるということはそういうことを否応にも孕んでしまう



『まどろむ』

まどろみながら夢を見ていたい

誰かに愛されるような甘さを

誰かに羨ましがられる憎さを

誰かを貶めてしまうような皮肉を

まどろんだ先で誰と一緒にいたのか

それすらもモザイクな心象風景になる

雨が降り出して空中に浮かんでいた塵が地上に落ちた

クリアな視界になったまどろむ世界

なにがまどろんでいたのかを知らないままに

塵と埃が消えた世界は綺麗すぎて目がくらむ



『誰といた?』

あの時誰といたのか、ということがいつしか思い出になる

次第に薄れていく景色の中で

ぼんやりと浮かぶもの

漂う香りで思い出す後ろ姿

君のうなじのライン

転がっていった空き缶の音

これ見よがしに通り過ぎた車のヘッドライト

汚いのれんの店から流れてくるいい匂い

優しく撫でるような風とふんわりめくれるスカート

なにを思い出すのだろう

なにを忘れていくのだろう

忘れたくないことばかりだねって言った君も

すべてをなくしたいと言ったあなた

忘却した空のした

今日も元気ですか?



『ふれ』

ふれたのに

どこにもない

青い雫だけの連打の音

猫がブロック塀からジャンプしてくる

ふわっと舞う猫の毛がすぐに見えなくなる

時間という概念のようにあるようでない

見えなくなってどこにもない

あるのは想いぐらいだけど

ふれられないから不確かだ

あるべきところに収まっていない

ふれられたら

どこかにいってしまう



『哀優』

哀しくて優しい小説が書きたい

矛盾してるような、でも近しいものが

同居するような肌触りみたいなもの

いつかそういうものに

なればいい

面白くて楽しい小説

きっと無理だろうから

哀しみの果てになにがあるかなんて

知らないって歌ってたけど

哀しみの果てに優しさがあればいい気が

最近はしてる

優しくて哀しいではない

哀しくてどこか優しいものを



『喋る』

思考すること喋ること結びついているのに

零れ落ちてしまうもの

それをうまく零さないようにする

だけど零れ落ちていくものがある

たぶんそれをうまく説明するために

なんとか形にするために人は話すんじゃないかな、って

話すことは伝えること、伝わらないこと

その差異ができるだけ薄くなるように

でも、話さないと自分の中で腐敗していまう

芽を出すためには自らの外に出すしかない



『幻影』

もういない、君も僕もいない。

あの時の姿は風に舞って、火で炙られて、土に埋められて

新しい自分しかない

会いたかった君も、僕もいない

しかし、どうだこの現在進行形の僕たちは

いなくなったはずは幻影の世にまとわりついている

たまに陽炎のように揺らめいて見えることがある

実態はない、あるのは脳裏にだけだ

もういないのだ、と思うとすべてがどうでもいいとすら感じる

だけど毎日は続いていってしまう

もう君も僕の今日は舞って炙られて埋められた

なにかが違うのかよくわからないんだ



『嫉妬』

向こうからは見えていない、こちらからだけ見えている

見える、見えない、その境界の先にあるもの

届かないから眩しくてムカついて

声に出してノーって叫びたいような気持ち

わかりきったことも人には言われたくない

言っていいのは自分だけか?

ああ、相手にされてないってことに気づいているから

届かないってわかりきってるから

さあ、この想いが間違ってしまった方向に

向かなければいいのだから

そう、この感情は負から始まる先への一筋



『紫煙』

ふらりとする

暗がりの中でまっすぎな眼

知っている色が

懐かしくて新鮮だった

なにかが変わったのか

変わらないままに

星の下で紫煙を吐いている

その匂いと声色と冬の一日



『虹』

ブクブク、ブクブクと

はるか下から浮かび上がっている気泡

泳いでいるのは七色の鱗を持つ古代魚

鰓で呼吸をしている

その口にくわえられたあなたはなぜか息ができている

そのままもっともっと下に連れて行って欲しいと

泣く、泣いているけどその涙は混ざって溶けてしまう

古代魚が舞うたびに水中に虹が舞う

あなたはそれを見てキレイだと思っている

もっともっと乱反射するような虹を見せて



『流星』

星を見上げている君の横顔を見てしまっていた

その表情を閉じ込めたくてゆっくりと目を閉じた

この刹那だけが永遠の眷属

今、君が横にいてくれることだけが至福

そして、君も僕もやがていなくなるだけだ

どうしようもなく哀しい運命だ

星の輝きよりも儚くてまぶしい

冷たい君の手を握りしめると

君はどうしたの?と僕を見る。

ゆっくりと目を開けて君を見る

流星は見つけれそうにない



『たまねぎ』

たまねぎの皮と少し青い部分を取った

包丁で一センチぐらいの感覚で切る

泣いてしまうだろうと思ったけど

涙はすぐに出てこなくて

どちらかというと目が痛い

たまねぎを切ると泣いてしまうと無意識に思っていたのかも

沁みるような痛さがあって、

涙は出てきてはくれない

泣きたいわけじゃなかったけどたまねぎを切って

少しだけ泣いてみたかったけど

ただ痛いだけ



『ウォーターフロント』

電車の中にいるのだけど、視界は青の色

窓の外には魚が泳いでいる

車内も水で溢れていて、電車はいつの間にか水の中を走っていて

すべての水の中にあるといえる

だから、すべては青の色の中にある

目の前にいた彼女はなんともない顔をして車内を泳いでる

おいでよ、と彼女が笑うと口から酸素が溢れ出る

笑ってしまう僕の口からも

青色の世界を彼女の後を泳いで進んで行く

僕は走っているはずの電車の中を肺呼吸ではなく

もはや鰓呼吸しながら先頭車両に泳いでいく

ここはもう水際ではない

ここが最前線な青の世界、それがすべて

泳いでる僕らはいつだって鰓で呼吸して恋をする



『酔いどれ』

つまみは映画でビールを飲んでいる

スクリーンでもビールを飲んでいたから

ああ、同じだってプレモルの小瓶を口に近づける

体が少し熱いような、ふわりという感覚があって

輪郭がゆるやかにゆるんでいく

ビールばかり飲んでいると物語が追えない

最後の終わり方はどうだったかビールは教えてくれないけど

なんだか嬉しいという気持ちだった



『かわいい』

かわいいと感じていたことがいつか終わりを告げる

好きだという気持ちが景色を変えていくように

過ぎ去ってしまった景色はもう過去のワンシーンでしかない

繰り返していくことはできず

想いはもう一瞬のうちに満開になって君を彩った

花弁は散って舞って風に運ばれて

君の想いも、僕の想いも、いつかの風景の中にしかない

かわいかった君はもういない

そうやって僕たちはいつだってかわいかったとか好きだったとか

過去形がゆっくり消えていくのを待ちながら

かわいいが彩る日々を心待ちにしている



『The End + One』

終わりの風景に佇んでいるあなたが思い浮かべているのは

かつての誰なのだろうか

ふいに振り向いた先に見えた気がした人はもういないのに

なにか夏の日の残像みたくあなたは感じた

一番会いたかった人の気配を

すぐに風と共に残像も運ばれていってしまう

頬を撫でていく風の行く先を

あなたの瞳から流れる雫が

落ちながら教えてくれていた

あなたは歩き出す

かつてあなたの手を握っていた体温を思い出しながら

もういないことを握りしめて



『歯ブラシ』

寝起きまなこで目が覚めるために蛇口をひねる

顔を拭いて朝歯ブラシっでって感じで

カップに入ってる自分の歯ブラシと歯磨き粉と君の歯ブラシ

使われていない色違いの君のもの

君の歯ブラシはいくつあるのだろうって思いながら

歯ブラシして口をゆすって

うがいして元に戻す いつも通りのカップの中に

僕と君の歯ブラシと歯磨き粉

使われていない 使われることの可能性を思う

いつ捨てればいいのかって教えてくれない歯ブラシ

君の歯ブラシはあと何本



『フラワーガール』

フラワーガールが海辺で佇んでいる

近づいていくとこちらを見て

右手で顔の花を一本抜いてわたしに差し出した

ふんわりとした黄色い花

受け取ると花は燃え出して黄色い炎になって消える

フラワーガールはもう一本抜こうとする

それを断って海辺に座ろうと提案した

フラワーガールと打ち寄せる波を見ている

わたしの肩に花が寄りかかる

甘酸っぱい匂いがしていて

鼻を近づけると花が笑いかけてくる

遠くから匂いにつられたミツバチがやってきて

蜜を吸うと彼女はくすぐったそうに笑う

ミツバチはたくさんの蜜を蓄えて飛んでいく

その方向には地上に落下しそうなオレンジ色の夕日

萌えるような地平線にミツバチが飛んで行って

フラワーガールと夜に落ちていく



『カイト』

空から地上を見たいというから、

背骨をギュッと焼き鳥の串みたいに

引き抜いてグニャグニャになったあなたを天日干しして

糸をつけてカイトにしたら空に舞い上がった

そこからの景色はどうだい、

と手を離したら大気圏に向かっていった。

ずっとずっと上の方に、

太陽を目指すように僕と離れていった。



『通過』

大きな空の先に丸い虹が見えた

七色の光輪の間を通っていけたら

君の場所にたどり着けるのかもしれない

通過、通過、通過

近くにあると思ってもまだまだ先にある丸い虹

手を伸ばすと掴んでいるような錯覚

通過できない 通過できない 通過が遠い

次の雨が降る前に

通過 通貨 two羽化 雨下にはなるな

光輪の間の空が青すぎて目を閉じる

あっ通過した



『いまここ』

この世界には入れ違いと思い違いが大半を占めている

どうにもうまくいかない日々はいつもより多く寝てみる

とくに変化の兆しはないけども

肉体だけは丈夫にしておきたい

心が疲れた後に体までやられたら元の木阿弥

というより二段階で落ちてしまう

体力をつけよう体力を

本当に体力だけが自分を救うのだろう

さあ、走ろう 無理ならコンビニに行くぐらいの散歩を

春先に桜が舞う頃には

入れ違いも思い違いもなにもなかったぐらいに次のことを

春はもうすぐだというのに

冷たい風が夕暮れの商店街の埃をさらっていく

少しずつ夜の時間帯になって人々は家路を辿る

さあ、夜が来て朝がくる

明日は少し早く起きて走ろうか



『246』

滑り落ちそうな月の雫が浮かんでいた

夜空とビルの明かりが煌めいている東京

ヘッドライトの光が通り過ぎていくだけで

空から雫が落ちてこないけど

なにか思い出を彷彿させるような光を放っていた

246沿いの景色と共に

さあ、家に帰ろう

月を背にして

滑り落ちたものがあったとしても

今の僕には見えないのだから



『彷徨』

遠くに見えたものに唾を吐いてもなにも変わらない

オレンジ色の時間帯に飛んでいくカラスの美しさ

届かないことに諦めを飲み込むのではなくて

いかに飛ぶことができるのかやりかたがあるのか

必死に探すだけだしそれを発明するしかない

空の青さや橙色が消えた紺色と黒の狭間の中で

光るものになれたらいい

自ら発光するのかなにかの光を集めるのか

見え方と見せ方の在り方を

もっともっと叫びながら彷徨せよ



『いつか』

いつか来た道だと思うのだけど

それがどのくらい前だったのかわからなくなる

いやどのくらい先の光景だったのかもしれない

道は幾重にも分かれている

どれを選んでも結論は同じであるのならばそれは宿命だろう

過去も未来も現在も同時に存在している

今、目の前にある道は過去へ、未来へ同時に繋がっているが

それは確かに変えれる

宿命は見取り図のような装いで全てじゃない

選んだ道を掴んでいけば運命になって変わっていく

変えるなら今だ



『この町にはあまり行くところがない』

生まれた町には特になにもなかった

国道沿いにあったコンビニだって潰れていた

僕が東京から帰って見たら近所の家々は新しく建て替えられたか更地になっていた

大きな街の新幹線が停まる駅からバスに乗って帰る

国道沿いの景色はほとんど変わらない

墓石を作っている作業所みたいなとこも使ったことのないラブホもまだある

どんどん生まれた町に近づいてくる

曲がりくねった川が視界の隅にうつる

途中で小学校が同じだった男の子がなんにんかの集団で乗ってくる

彼は特殊学校にいた子だったが大人になった今は

あの頃の雰囲気をそのまま年取った感じでなにかが哀しい

その集団は大人しく窓の外の景色を見ていて

それぞれの家の近くの停留所で降りていく

大きな銀行が見えてくる前に僕は降りる

そこは祖父が亡くなった病院のところで

最後に見た時には半身不随で手を握るとなぜか僕だとわかったという

祖父がなくなったのはゴールデンウィークの初日で

いきなりのことだったから新幹線も乗車率が100%を超えていたから

品川から最寄りのその大きな街の駅までほとんど立っていた

バスから降りて病院の隣にあって潰れていないコンビニに寄る

知り合いには合わないままで買い物をして

国道沿いを歩いていく

通り過ぎる車にもしかしたら同級生が乗っているかもしれない

だけど僕も彼も彼女もきっと気づかない

歩いている町にはほとんど行くところがない

帰ってくると傾斜の激しい丘みたいな場所にある墓に参る

家の墓はかなり高いところにあって町が見渡せる

どこにも行けないと思っていた風景が広がる

5時になると時計台みたいなところから音楽が鳴る

いつも聞いていたそれはまだ鳴らない

背景にある木々が揺れる

遠くにあるさっき歩いていた国道沿いの車の音が小さく聞こえる

丘の上から町を見てもどこにも行きたい場所がない

急な坂を下って家に向かう

見慣れた家も古びていて家族も年老いている

道路を挟んで母屋にの反対側にある倉庫みたいな離れ

そこの二階が高校生からの僕の部屋だった

深夜に窓を開けて国道の方を見ると赤信号がずっと点滅していた

一階には毎年つばめが帰ってくる

巣立ったどれかが親鳥になって帰ってきて子育てをする

永遠と続いている帰巣本能が一階にはある

僕はここから出て行ったのはまだここがあるからだ

だけどここに帰ってくる理由もどんどんなくなっていく

この町にはあまり行くところがない



『理由』

風呂場に流れる血は水で排水溝に追いやられる前に写真で撮る

口の中が赤に染まっているそれも

裸は白くてところどころマーブルなソバカスみたいな斑点もある

金色に近い毛は光に当たると消えてしまうような錯覚がする

泣いている写真はなんのためなのかわからない

英語で書かれているから理由ははかれない

瞳はまっすぐで強いのになにか儚い

裸になるのはきっとそれが正しいと感じているから

その体で表せるものが彼女の存在証明かもしれない

雄弁に答えるように君の胸や陰毛は見える

きっとすぐに消えてしまうような美しさはもう

止まることはない

だから今シャッターが押される

いま閉じ込めた



『魚類を喰らう』

午前八時前、風が強く吹いている

小雨みたいなものは降っていなかった

空を見上げるとなにか落ちてくる

光るペンダントを持つ少女なんかじゃなかった

イカだった

どこからって空から落ちてきてコンクリートにベチャって

今度はイワシが五匹落ちてきた

どんどん魚類が落ちてくる

ビチャビチャとコンクリートを叩く

魚の大きさはどんどんデカくなってきて

カツオはさすがに当たったらヤバいと逃げた

空って海だったっけ

海のない街に魚類の群れが

上空を黒い翼の集団が旋回して

舞い降りてくる

カラスが魚類を嘴でつつく

イワシをどんどん飲み込んでいく

落ちてくる魚類を黒い鳥は避けながら食べ続ける

こんな世界間違っている



『遠く』

遠くまで見える家家家家、ビルビルビル、建物たち街の風景

見渡しているけどこれはわたしのものではない

ずっと先まで続くいろんな人たちの生活が孕まれている日常空間

どこにも行けるようで行けない同じように見える世界

ここにいるわたしが見えているものはなに

なにを見てなにを見ないでいるのだろう

見渡すすべてが焦土化していても

わたしは今見える景色をトレースして

現実を塗りつぶすだろう



『同じ夢』

なんかどっかの楽屋で知らない人とエロいことをしていた

雨が降って水浸しの町の道路

プールにシートを浮かべてその上を走るみたいに

草や木々の上を原付でなんとか渡りきる

先の家に入ったら蛇がいてどこかにどける

誰かが来て家を出ようとしたら

その蛇がまた現れたから外に出したら、

目が覚めた。



『プラスチック』

プラスチックな魂はグジャグジャと

駅から歩いてくる人たちの靴に潰されている

元の形には戻ることはない

中身はこぼれ出ているし外側も壊れている

誰かに蹴飛ばされて排水溝に落ちる

ドロップしてその泥水やゴミの洪水の波

浮かんで先へ進んで行く

海へ海へ

プラスチックは自然にはなれないから

どこまでいってもある意味では変わらない

海へ海へ

辿り着く頃には中身は違うもので満たされていて

外側も内側もなにか違うものになっている

でもプラスチックな魂はそのまま



『スルー』

どのくらい届いたのか誰か伝えてほしい

いつだって通り過ぎるだけの熱量の行き先は

もうぶつかっていくことがないから

存在していたかすらわからなくなる

想いのベクトルはもう手元から離れてしまって

跡形もない

だからその先でどうなったのか

おしえて欲しかった

もう通り過ぎていくだけのものは

ないようなものと同じだって

お願いだから

通り過ぎた先で幸せであればいい

違う熱量が大爆発しながら

新しい天地創造を

通り過ぎた色彩の中で



『街』

すれ違う人たちの多さに立ち尽くす

自分とは関わりのない人たちの世界が同時に動いている

もう誰も彼もが己の生を全うしようと足掻いている

街の風が吹く方にあるのが幸せなのか不幸なのか

なんて誰にもわからない

ただ、できれば誰もが幸せな世界を望むのだけど

どうやらそれも無理らしい

僕の幸福だってどうなるかわからない

あなたの哀しみを引き受けるほどの覚悟もない

なにも言わずに聞いてあげれたらいいのに

でも、僕はきっとなにかを言ってしまうだろう

君の求めるものを持っていないから

通り過ぎる人たちの背中に孤独と勇気を感じて

いつだってみんなひとりで立っている

時には誰かに寄り添いながら笑っていたい

街の風景の中に溶け込んでしまった僕や君は

いつか笑って出会って別れるだろう



『ホットコーヒー』

あったかいコーヒーを

香りが漂って

少しばかり苦くて

喉元をすぎていく

ああ、まだ熱いから

冷めるのを待っている

ホットコーヒーが苦手だから

少しだけ冷めるのを

待っている

その間は香りを楽しんでいよう



『どうにも』

どうにもならないことが増えていく

そのどうにもならなさを引き受けていく以外に方法はどうやらないらしい

僕はそんな時に誰に電話したり話を聞いてもらうんだろうか

僕はそうなった人の話を黙って聞いていてあげれるだろうか

そんなものを持ち合わせているんだろうか

どうにもならないことばかり

どうにもできないことばかり

笑っていたいけどそんなに簡単じゃないよって

言われているような気がしてしまう

誰かが僕に電話をしてきて

誰かが僕に話したいと言って来た時に

黙って聞いてただ頷けるような

優しさに似たものを持ち合わせているだろうか



『逆鱗』

キラキラと光る鱗の輝き

それは水中に届いた光が反射している

一匹が犠牲になってほかの集団を助けるという

人間の死が、魂が海の底に沈殿する

死は塩になっていく

鱗は水中に浮かんでいるか

人の魂は、いや死というものも水中にある

しかし、底にある、地ではなく天に向かわず、海に

逆立った鱗に書かれている言葉は暗号だ

アナグラムであり言葉遊びだ

キラキラと光って輝いている

人魚が泳いでいる海の底にあるもの

人が作りし哀しき人魚と踊っていった魂たち

沈んでしまった底には光が届かない

だけど、忘れてはならないものが逆立った鱗みたいに光っている



『日々、われる』

乾燥している空気

段ボールが指先の水分を奪ってく

奪ってしまうからボロボロになって

指先からカサカサと冬の様子

指先から春はまだやってはこない

ひび割れて、ジリジリする

鼓動がそこにあるみたいな

血の流れみたいなものがヒリヒリと

日々、われている



『鯨歌』

鯨の歌が、骨音と共に聞こえて。

胞子の踊りが、舞いあがった。

さあ、いくつもの時間が屹立した。

「島」から、フランスから、メキシコから、東京から。

2026年、オリンピックもとうに過ぎ去った刻に。

競走馬の蹄が翔ける先に、

騎乗している青年の眼差しの向こう側に、

新しいサウンドトラックが鳴り響いている。

歌っているのは少女と鯨といくつもの時間か....

あるいは修羅の十億年か。



『赤い青』

新しいひび割れの中に芽吹いたものの色は赤

澄み切ったキレイな赤ではなくて

どこか黒ずんでいる赤さ

それは劣情に似ているように

空の青さとと対比するように淀みきっている

だけど、そこから黒さが薄れてしまったら

晴れ晴れとした気持ちでなにも覚えてはいないだろう

覚えていれることはなくなるだろう

赤黒さがドクンドクンと溢れだしていく

肌色の上にラインが引かれていく

青い色なんてないんだ

なぜなら体内に流れているのは

赤と黒

青は頭上か想像のなかにしかない



『猫』

トタン屋根の隙間に猫がいて

昼寝をしている

風は強いが冷たくはない

猫は近づいて一瞥だけして

目を向けてまたすぐに閉じた

太陽はどこか寂しげだ

猫は眠りこけて夢をみている

どんな夢なのか知らないけど

空から魚が落ちてくる夢かもしれない

鰯は青魚じゃない

新鮮な鰯はヒカリものだから銀色に輝いている

猫が見る鰯の夢は銀色の輝きに満ちている

トタン屋根は昔そんな色だったかもしれない

猫は夢なんか見てなかったりするのかも

見ているのは空から魚が落ちてくる夢

いや、猫が空を泳いでいる夢かもしれない

風が吹いて猫を撫でていく



『きっと』

きっと君はもう僕に連絡を取るってことはなくて

僕もきっとそうだし

だけど確かにあの時の時間は大事なもので

君に会えてよかったって本当に思ってる

僕だけかもしれないし君はそんなこと思ってないかもだけど

生活は続いていてやがて人生は終わっていく

どこかで君が幸せならいいと思えるぐらいには

懐かしい存在になってしまった

どこかですれ違ってもきっと知らないふりして

通り過ぎるだろうね僕たちは



『うるう』

うるう年は四年に一度

次は東京オリンピックがある年らしい

それまでにどのくらいのことが起きているのか進んでいるのか

想像の先を行くことばかりだろう

未来はワクワクしているほうがいい

哀しいことは避けられないけど

それでもできるだけ笑っているように

君も笑っていれたらいいねって

遠くで思えるぐらいな平穏な一時を

僕は過ごせるだろうか

ねえ、どうだろうね



『並列』

道玄坂の坂道を上っていく

ラブホテルとライブハウスの町並み

乾いた血がついたナプキンが坂に落ちていた

少子化対策が急がれる国で

ラブホ街でふと目にしたそれ

いつだって生まれては死んでいく

生まれることはないものばかりがあって

隙間を埋めるように見えないけどそれらはある

死んでいった者たちとこれから生まれてくる者たちと

僕らは一緒に生きている

そうならなかった者たちとも

いくつもの時間軸が同時に並列に存在している

すべての時間がゆるやかに交差しているのを想像できるかい



『浅草』

まっすぐな道の先にライトアップされた浅草寺

店じまいした浅草はしっとりしてる

近くにはグレー色の光をともすスカイツリー

東京だけど下町風情が残る町

粋な人たちがいるって感じがする

きっとそれはたけしさんのせいだ

あの優しさには誰も届かないんだろう



『名前を呼んで』

君が僕を呼ぶ時の名前は君と僕の関係の中にある

僕が君を呼ぶ時も同じで

君は僕じゃない人にはなんて呼ばれているのだろう

いくつ呼び名が、名前があるんだろう

その数だけ君の関係性が存在している

たくさんの名前の集合体が君で

僕が知っているのはそのひとつだけだけど

いろんな君がいることが嬉しいし不思議だ

僕じゃない人が君を呼ぶ時に君はどんな顔をして

どんな声で答えるのか僕には一生わからないままに



『ずっと』

いつか来た、そんな気がする道で待っている

太陽は高く車からは好きな音楽が流れていて

天国みたいな気持ちだった

だから僕らはもう死んでいるのかもしれない

君はどうやってやってくるのかを僕は知らない

予定時間よりもだいぶ早く来たから

待っている時間も豊かな気持ちになる

地平線の向こうに見える人影

陽炎みたいに揺らいでいる

もしも、あれが君だったらどのくらいの時間で辿り着くんだろう

僕はのんびりと好きな音楽を聴きながら待っている

ずっとずっとずっとずっと



『ある光』

いくつもの光の柱が立っている

そのどれもが本物で偽物だ

ものの見方を知らねばならない

なにが自分にとって必要であるか

どれが本物であり偽物なのか

それを見極めるための決めるための

光というものと同じ分量の闇がある

まずは闇を見極めるんだ

そうすれば光の眩しさに負けない

光と闇、どちらも自分の眷属にしてしまうしかない

どちらかだけに向かってはならない

だから、だから、だから、

ある光とある闇

共に抱えていけ



『ロブスター』

ある世界ではパートナーを見つけずに独りで生きているものに罰を与える

その罰とは人間から他の動物にされてしまうというものだ

だから、誰もがその施設に送り込まれて45日に以内に相手を見つけようとする

しかし、そうやって誰かを人は好きになれるのだろうか

好意は持つことはあるとして相手が一生いたい人かどうか見極めるのは

無理がある

逃げ出した先には違うコミュニティがある

そこでは独りで生きるということを推奨している

恋愛は禁止されているのだ

そうなれば人は禁じられている故に欲望が増してくる

一度火がついたら欲望は止まらない

男女が互いに好きになっていく過程の激しさ

やはり、いつしかバレる

罪に対しての罰が与えられる

二人はそこからも逃げ出す

女に与えられた罰とそれを受け入れようとする男

男が選んだこと

すべてが美しくて残酷であるということ

世界とはまさしく盲目であり

失うことと得ることは同時に起こりうる



『テリーヌ』

甘ったるいというと当然じゃないのと言われる

テリーヌとはとても甘いものだと知らなかったから

冷たい水の喉元を通るとその甘さがよくわかる

暖かいコーヒーを飲むとその甘さがとてもわかる

甘ったるというのは褒め言葉だと思っていた

知らないことばかり

テリーヌは甘くて美味しいもの

水の美味しいお店はなにもかもが行き届いていて優しい



『シャッター』

顔には生き様が出る

ただ見栄えがいいとかじゃない、年輪みたいなもの

男だったらどこか悪さがあるほうがいい

無理やりではなくてその人の一面として

それがどこか溢れ出ているような

女はもういろんなものがあるから

おっぱいだとか体の曲線とか

性交してるようにシャッターを押す

切り取る

時間を

人物を

世界

自分と被写体の関係性を切り取る

極楽と地獄を行き来して射精する

アラーキーの写真はアートさも忘れない

エゴとエロがあるから

ズシンときてエロティックだ

性交と極楽と地獄

女陰の先にあるのかそこから出てくるのか

ただそこにあるのか



『愛のようだ』

愛と恋はどう違うのかと言われたら言葉が違う

恋はきっといろんな場所に咲きかけるし彩られている

恋から愛に変化することはあるんだろうか

次元が違うような気がどうもしてしまう

愛とはそう容易くたどり着けるものだろうか

結婚して子供ができて家族になったら恋の名前は愛に変わるのだろうか

たぶん、みんなそう思いたいだけだしそうならないと気持ち悪いのだ

出会った瞬間に恋に落ちることはあるだろう

愛に落ちたら人はどうなってしまうのか

きっとかえってこられないものを愛と呼ぶんだろう

そして、それは通り過ぎた季節のように

過去形でしかない

愛するという現在進行形はどうも嘘くさい

愛してたという過去形はもう触ることのできない真実味がある

愛のようだ

愛するようだ

愛してたようだ

南極で氷河に閉じ込められたままのマンモス

氷から取り出せばその肉体はバラバラになってしまう

きっとそんなものだ

刹那の中にしかないのならばそれは過去形の想い

愛のようだ



『雨球』

スローモーションみたいに雨があがる

一粒ずつが地面から空に戻るように

逆回転している

空に降る雨はレーザー光線みたいに真っ直ぐな軌道

雨だけが時間を遡っているのに世界の時間は進む

次第にすべての水分たちが地上から球のように浮かび上がり

どんどん集まって大きな水溜りになって宙に上っていく

やがて僕の体からも水分が溢れ出て

地上からすべての生物が消えた



『いい方に』

空が白と黒にわかれていたのを見た

大きな揺れが起こって

近くの高いビルがグルングルンと回るように揺れていたのを見た

目に見えないものへの恐怖とか

平凡な日常は変化した

街の灯りは落とされて暗がりが増えた

日々が過ぎていろんなものを忘れていく

忘れてはいけないことも忘れてしまう

それでも忘却してはならないこと

あの日、心細くてやっと会えた大事な人を

抱きしめた温もりはとうにないけど

いつだってこの日が来れば思い出す

平凡な日常になっているような錯覚

あの日があって変わらなかったことも

苛立ちも続いている

温もりはいつか失われる

大事な人は急に奪われるかもしれない

だから、いつも少しぐらいの余裕を持って

大切な人たちに優しく接すれるように

いつか終わるなんて寂しいことを言うなって

君は言うかもしれないけど

なにもかも有限なんだ

だからこそかけがえないのものなんだ

ずっと後悔し続けるし世界はいいようには変わらないかもしれない

そんな時でも微笑んで少しでもいい方に

いい方に

もっともっともっともっと



『浮かぶように、日々』

見えるかい

いや凝視できるか

いちばん遠くの音を意識できるかい

すぐそばにいる人の温もりを感じることができるかい

浮かぶように、日々がある

いや地に足をつけて生きている

たまに、ふいに、宙に浮くように

非日常っていうか物語に接続するように

浮かんでいる

君と僕はその刹那だけ浮いている

戻れない時間だ

浮かぶように、日々



『プールサイド』

夜のプールに忍び込んで

水面はライトと月に照らされていて

甘酸っぱくて淡い想いが揺れるように

少女がプールに飛び込む

少年はプールサイドで見ている

水から顔を出した少女は髪を直すようにして

少年を見ている

その眩しさに少年は波打つ水面に目をそらす

すぐに少女を見返すと彼女はまた潜っている

飛び込もうと思う

彼女を捕まえないといけない

少しの助走で飛び込む

大きな波紋で水面に映った月が割れて揺れる

少年が水面から顔を出す

少女も顔を出す

ふたりが笑うように波紋がプールをゆく

いつだってそんなシーンは作られていく

あのワンシーンがいつだって時間を巻き戻すように



『春雨』

春の雨はこの先のことを思い浮かべるのがいい

桜が咲いて新しい季節になるから

この寒さの向こう側には暖かい穏やかな時間がある

もう少し雨宿りしていよう

もうすぐ桜が咲く、その頃までは



『Re:Re:』

後悔は先に立たないと言うけど

やってみて顔が赤くなるような小っ恥ずかしさ

多少の後から笑える程度のことは

なんだかんだ言ってもやったほうがまだマシだし

ずっと生きていったって後悔しかどうせ残らないなら

少しでもやってみて失敗したことのほうが

まだマシだろう、その時はクソみたいに項垂れても

たいていのことは失敗して落ちていくものだから

たまに空を舞うカイトのように風に乗るかもしれない

うまく飛べることもあるだろう

なんとか成功するのがベスト中のベスト

うまくはいかないよって笑いながらも

うまくいくことを願ってんだ

僕の知ってる人たちが笑ってる世界がいい

できるだけ笑っていてほしい

そのためには同じような日々の中で

迫り来る判断で道が分かれていく時に

いい方に向かって、後悔しないほうに

うまくいくことを願ってんだ



『君の顔』

白い手と白い手がからみあう

首筋に触れる唇はあたたかくてくすぐったい

ベッドの上で眠るようにおちていく

素敵な夢を見れたらいいのにね

目が覚めるまで一緒にいよう

それを君がなんて呼ぶのかはわからないけど

愛おしいという気持ちが体のすみずみまで行き渡る

あたたかい気持ちだけがすべてで

なんだかくすぐったい

眠りに落ちる前に見た君の顔が

目が覚めたらそこにあるという幸せ



『つぶす』

グヂャと手のひらでつぶれる

水分を感じる

嫌なものを潰したが嫌なものの存在感は増すばかり

グヂャとする感触はいやだ

嫌いなものだから力で変えようとしても

残影みたいなものが残ってしまう

嫌いなものは姿を消すような展開か

好きになるしかないのかもしれない

時が経てば変わることもあるのだから

2016-06-27 『あげくの果てのカノン』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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誰かのことを強く想うということは異常だ。

恋とは純粋で強欲で清らかで危なっかしい。

そして、世界はそもそも正常なのか?

そんな想いばかりの惑星でふつうって言葉にカテゴライズされて誰もが安心し、あるいは逸脱しようと試みる。

境界線の向こう側に行くことを躊躇っていても、いつかは終わるから。その想いも肉体も滅びるから。

君も僕もあなたもみんなも。

異常すぎる想いの行く先の、先にあるもの。

きっと冷たい雨が降り続ける街で、

水たまりに映った想いの果て。

2016-06-22 『死神の系譜』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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水道橋博士のメルマ旬報』vol.19(2013年08月10日発行)「タモリ特集」より


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『死神の系譜』(伊坂幸太郎著『死神の浮力』刊行記念かってにスピンオフ<伊坂さん文藝春秋さんすいません>)

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人間は、その日を摘むこと、日々を楽しむことしかできないんだ。というよりもそれしかないんだよ。なぜなら」

なぜなら、人間はいつか死ぬからだ。

伊坂幸太郎著『死神の浮力』より

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 数えきれない人間たちが青信号になった瞬間に前に歩き出した。

 空はもくもくの灰色の雲が浮かんでいた。風が出始めてきて一雨来そうだった。今にも降り出しそうだったが自生する巨大な街はそれに抗うように様々な電飾やライトがすでに点いていた。

 私はスクランブル交差点を渋谷駅を背にして歩き出していた。巨大なビジョンに映るミュージックに惹かれながら前方からくる笑顔の者や疲れ果てた者、老若男女の群れを避けて進んでいた。

 交差点の真ん中辺りでなんとなく視線を感じたのでそちらに視線を移すと正面から歩いてくる四十にも三十にも二十代にも見える輪郭がぼやけているような女性がいた。彼女は私の正面で止まり話かけてきた。

あなた人間ではないでしょ」

 そう言った彼女の額には第三の目というかチャクラが開いてその目が私をガン見していたのでそちらを見ながら答えた。

「なぜわかる? その目か」

「そうよ、この世の者でもないのにどうしてこんな所にいるのかなって思って、ちょっとした興味というか好奇心かな」

 君も半分はこの世の者ではないよと言おうとしたがやめた。笑う彼女は二十代のようにも見えるから不思議だった。目尻や肌の質感は四十代ぐらいの感じがする。

「今から仕事なんだ」

「仕事ってなに?」

 第三の目は私の手元を見ていた。どうやら黒の革手袋をしているのが気になるらしい。

 真夏に長袖のシャツにジーンズに革靴、それに黒の革手袋とはやはり違和感があるのだろう。私の見た目は三十代前半ぐらいで爽やかな見た目の青年風になっている。私たちは毎回調査する相手に接しやすい風貌を設定される。だがいつも手袋はかかせない。

 私たちが素手で人間に触るとその人間の寿命は一年縮んでしまうからだ。だいたい調査する相手の人間はかなりの確率で近々亡くなるのでさほど問題はないのだが。

人間を観察して「可」か「見送り」を決定し報告する」

「へえ、人間にとっては重要な役割なのね」

「まあ、そうだとも言えるだろうな。信号が点滅しているぞ」

「じゃあ、さようなら死神さん」

 彼女が足早に走り出す。私も反対側に走り出すとポツリポツリと雨が体を打ち始めた。渡りきって地下鉄の入り口に入る。私が仕事の時にはあまり雨は振らないので久しぶりの雨の匂いだった。そういえば同僚の千葉はいつも仕事をする時は天候に恵まれないと言っていたのを思い出した。

 千葉が言うには「死を扱う仕事」であるだけに悪天がつきものなのかと勘ぐったこともあったらしいのだが私の場合はたいてい晴れている。だからそれはただの偶然だろう。千葉に晴天を見たことがないと言われた時にはそれは信じがたいという顔をするとそれは事実なのだから仕方がないと千葉が雨降りの空を見上げたのを思い出した。


 情報部から渡されたスケジュール表に書かれていた書店を目指していた。時計を見ると19時16分だった。目的の書店を見つけると中に入って店内を見渡す。

 入り口近くに展開されているコーナーの場所にその調査対象の女性はいた。

 黒ブチ眼鏡をして髪も染めておらず、背は高くも低くもない。化粧気もあまりなく服装は仕事帰りなのか地味な感じだ。一言でいうとまるでモテそうにない。もう少し明るい色や疲れた表情でなければそれなりに可愛いのかもしれないが彼女がそれをしそうには見えなかった。私は彼女の後の方で他のコーナーの本を見ているフリで観察していると時折、彼女はレジの方を伺っていた。

 レジには二十代ぐらいの背の高いキリッとした顔立ちの青年と四十代ぐらいの主婦に見える女性と背が低く頭部が薄くなっている社員らしい三十代後半に見える男性の三人がいた。彼女の視線は背の高い男性に向いているように思えた。私は彼女がいるコーナーの隣りに立つ。これでもかと店員の想いが溢れているコーナーだった。

 平台に積まれた本のタイトルは『タモリ論』とあった。帯には黒サングラスのようなデザインがされていて「やっぱり凄い!」とデカデカと書かれている。

 サングラスの下には「異才の小説家が、サングラスの奥に隠された狂気と神髄に迫る、革命的芸人論。」とあった。ふと私は手に取って冒頭から読み始めてみた。まだ隣りの彼女は動き出しそうになかったからだ。冒頭の「はじめに」を読み終わり<第一章 僕のタモリブレイク>を読みかけてすぐに彼女は一緒に積まれていた紫色の文庫を持ってレジに向かった。

 レジは並んで二つあって青年と主婦がいて主婦の方はサラリーマンの会計をしていた。彼女は青年の方に向かうと青年は大学生ぐらいの男に問い合わせをされてレジを離れてしまった。その大学生と私は目が一瞬合い、オヤっと思ったのだがレジは中年の社員に変わって彼女は会計をすることになった。その表情は見えなかったがきっと笑顔ではなかっただろう。

 書店から出て行く彼女の後を少し離れて追いかけていく。鞄からイヤフォンを出して耳に装着した。心なしか彼女の足下がリズムに乗っているような気がした。同時に鞄から鍵が落ちたのだがそれに彼女は気付いていなかった。私はそれを雨が濡らした道路から拾うと早歩きで彼女の前に立って鍵をみせた。後から肩を叩こうと思ったがミュージックを聴いている彼女の顔を少し見たいと思ったのだ。鍵を見て彼女は驚いたようで自分の鞄の中を探ってないことを確かめた。

「それ私の」

「さっき君が落としたのを見て拾ったんだ」と私がそう言うと「ありがとうございます」と言って手のひらを出した彼女に鍵を渡す。普通に渡しだけなのに鍵はなぜか手のひらから零れ落ちそうになって瞬時に反応して手を出すと彼女の手に触れた。

 しまった、と思った時にはすでに遅かった。

 書店で本を読む時に黒の革手袋を外していた。彼女の顔は悲鳴をあげそうな顔になった。まるで死神を見たかのように、まあ実際には目の前にいるのだけども、血の気のひいた青ざめた顔になってその場にへなへなと座り込んだ。やってしまったと後悔しても時は既に遅し、とりあえず周りには誰にいない。同僚には見られてはいないだろう。人間を素手で触ってしまうのがバレるとペナルティが課せられてしまう。手袋をつけて座り込んでしまった彼女を抱えて私は歩き出した。

「本当にいただいていいんですか?」

 目の前のパフェにさっきまでとは違う目の輝きと笑顔の彼女は言った。

「これも何かの縁だろうし、きっと急に倒れるってのは疲れすぎているからだ。糖分を取ってないからだろう。そういえば君の名前は?」と一応名前を確認しておいた。

「柊みちるです」

 彼女はひらがなでみちるです。『青い鳥』の兄妹のチルチルミツルの妹のミチルですと言った。母親が青い鳥を見つけれるようにって名付けてくれたんですと照れながら言う。

「で、青い鳥はいたのか」

「変な人ですね。簡単に見つけることができたら本当にいいのに。あっ、名前聞いてなかったですね、お名前は?」

「岡山というんだ」と私は答える。人間は対する相手の名前を聞かないとどうも不安らしい。

 仕事で送り込まれてくる私たちには、決まった名前が付けられている。姿や年齢などは毎回変わるのにその固有名詞は変化しなかった。きっとそうほうが管理しやすいという理由だろう。

 話は後でいいからパフェを食べてしまったほうがいいよと言うと彼女は美味しそうに食べて始めてぺろりと平らげてしまった。

「ごちそうさまでした。いやあ、本当に美味しかったです。ここまた来たいな、パフェ食べに。会社も退屈で毎日がしんどくて死にたいっていつも思ってるんですけどこういう美味しいものを食べていると至福というか生きていたいと思えますね。でも日々仕事に追われて何やってんだろうって思ってため息ついてはもう消えたいなって思ってるんです。ここは退屈迎えに来てって感じです。死にたい、でも誰か迎え来てみたいな」

 私たちが担当する相手は促したわけでもないのに、「死の話」を口にすることが多い。死という暗闇に脅えながらもそれすらも救いだという顔をする。私たちが調査している間に相手の人間が死ぬことはない。私は、「残念ながらまだ死ねないんだ」と彼女に対して少し申し訳ない気持ちにもなった。自殺や病死は死神の管轄外なのでそれがいつ起きるかはわからないが調査中に起きるということはない。

 私が相槌を打たないでいると彼女がコーヒーを一口飲んでから言った。

「『ここは退屈ここは迎えに来て』って小説があって凄い良かったんです。私も地方出身だからわかるなって部分があって」

「そうか君は東京出身じゃないのか。しかし君は本が好きなんだな」と知らない感じで言ったが情報部からの資料で彼女に対する大抵のことは知っていた。

「はい、大好きなんです。岡山さんもさっき書店で本読んでたじゃないですか」

 彼女はデザートと本が好きでその事を話し出すと顔が活き活きして見えた。鞄の中からさっき買った紫色の文庫を袋から出す。

 黒い帯には「ババアが死んだ。俺は雑司ヶ谷の神になる。」とある。ほほう、神になるのなら私も死神だから同類といったところだ。彼女はその文庫を手に取ると私にさらに話かけてきた。

「さっき岡山さんが読んでいた新書の『タモリ論』書いたのがこの『雑司ヶ谷R.I.P.』って小説を書いたのが樋口毅宏さんって小説家さんなんです」

「そうか、はじめの部分しか読まなかったんだが今後の参考にその『タモリ論』の感想聞かせてもらってもいいかな?」

「いいとも! いやそういうノリではなくてですね。岡山さん冷静で落ち着いてるような顔をしてそういうの仕掛けてくるんですね。やりますね」

「いや、よくわからないのだが。とりあえず聞かせてくれ」

「これはつまりタモリについて語るときに樋口毅宏の語ることってことなんです。この新書は「タモリ」という存在について樋口さんの記憶や資料などから語られます。あれ? 話が脇道にそれて、ああそっちから攻めて来た!な展開で飽きさせない感じで読んでいけるんです。樋口さんの語るタモリ論ですからつまり樋口毅宏という作家のこれまでとオーバーラップさせながら語るという自分語り部分も入ってくるわけです。だからこれは論じゃないとかいう批判もあるんですがそれは本質を捉えていない。ひとりひとりのタモリという存在について考えさせられる本なわけです。そして「タモリ」を語る事は「たけし」を語る事であり、「さんま」を語る事になっていくのは至極当然です。いわゆる三位一体ですかね、違うか。ロラン・バルトのいう所の空虚な中心みたいなものでタモリさんはお笑い界の空虚な中心として樋口さんは語るわけです。まあBIG3というテレビにおけるお笑いの祝福であり同時に呪縛として未だに君臨し続ける彼らについて樋口さんは「たけし」は誰である説や「さんま」は誰である説を巧妙に語っていきます。『いいとも!』に起きた乱入事件なんかとともに。小説家としての樋口毅宏ファンである私は期待と不安がありつつ、読みながら感じたのは樋口作品においてオマージュという先達や影響を受けた人へのシンプルな尊敬と愛をぶちこんできた樋口さんのそれらがタモリさんやたけしさんにさんまさんにも注がれていて読んでいくうちにはなんだか嬉しくなってきたんです」

 まくし立てるように話した彼女はコーヒーを一気に飲んでさらに水も一気に飲んでから店員に水のお代わりをお願いした。私は飽きれながらも、いや感心しながら話を聞いていた。

 人間というものはあんなに死にたいとか退屈だとか言っているすぐ側から目を輝かせて自分の好きなものを語る時は水を得た魚のように振る舞える。そんな強さがもちろんこの大人しそうな彼女にもあった。

 唇を舌で軽く舐めるように濡らすとまた話し出す。

「『パピルス』で連載していて未だに書籍としては発売されていない『アクシデント・リポート』って作品があって、それを連載中に読んで思ったのは樋口さん本当にタモリさん好きなんだなって、そういうシーンが出てくるんですよ。テレフォンショッキングな場面ですごいショッキングなシーンをぶち込んでくるの。たぶん、『タモリ論』と同時期に執筆していたようなそんな気がするんです、違うか、でもいっか。新書の中でも書かれていたあの事故との繋がりとか。だから新書を面白く読んでいるのに小説が読みたくなってくる不思議遊戯感が満載なんです。だから、私は『タモリ論』を楽しく読みながらも早く『アクシデント・リポート』読みたいって気持ちがしてきて読み終わったらテレビでは『タモリ倶楽部』が始まっていつものオープニングの曲が流れているそんな金曜深夜もとい土曜日の午前〇時だったんです。で、私とタモリさんというとね、ひとつだけあって。私は中学時代に卓球部だったんだけどその頃は学校の卓球台とかも黒に近い緑色みたいな台だった。でもタモリさんが卓球はネクラのスポーツだとかテレビで言って卓球協会もやばいみたいな感じになっていろいろそれまでの物からモデルチェンジしていくことになったそうです。私が市の大会に出ると今まで通りの緑色の卓球台の方が多かったんだけど新品というか新しい水色の台とかが何台か入るようになってそれが次第に増えていったの。ボールの色もユニフォームも今のオリンピックとか世界大会とかテレビで見るようなカラフルなものが増えていった。それって実はタモリさんの発言の影響で変わっていったんだよね、そのくらい影響力が大きかった。私が中学の頃はそうやって卓球が変わろうとしてた、でも『稲中』のマンガがあったからネクラよりも変態的なイメージもあったんだけどね」

「なるほど、そうやって聞くときちんと読んでみたいと思える」と私は言ったが自分語り的な要素が孕まれているとなると私の場合は死神とタモリになるわけだ。私がタモリブレイクするとタモリが死んでしまう、そんな気もする。

「この樋口って人間小説も面白いのか」

「好きか嫌いかみたいな、DEAD or ALIVEっていうか。好きか嫌いかが両極端に分かれる作家さんではあるかも。私は大好きですけど。樋口さんは編集の金さんに依頼されてこの『タモリ論』を書いたんです。それは金さんの慧眼だと思います。そしてこのお二人は確実にこの新書が話題になるっていう手応えがあったはず。処女作の『さらば雑司ヶ谷』でのタモリさんがオザケンについてのあの箇所の件はこの新書に確実に繋がっています。そして続編のこの『雑司ヶ谷R.I.P.』の文庫が『タモリ論』が出た後に発売されるタイミングとかは新書が話題になって一作目も続編もきっと読むに違いないと今まで樋口作品あんまり刷ってくれなかった新潮社さんYO! と二人がサングラス越しにニヤついて乾杯しているように思えるんです。そしていつか出るだろう『アクシデント・リポート』にまで連なる流れなんですよ、たぶん。そこまで長期的に考えていたんじゃないかなって私は最近疑っているんですけどね」

「そうか君にとっては面白くない日常の、死にたい平凡な日々に刺激をくれる作家なわけだ。でも、もし『アクシデント・リポート』が出なかったらどうするんだ」

「その時は死にますね」と彼女は笑いながら言った。残念ながらその願いはすぐにでも叶うのだがと少し申し訳ない気持ちになった。


 彼女と別れて246沿いを歩いて道玄坂まで出てそのまま宮下公園の方に向かう。目的地は大型CDショップだった。私の足取りは早かった。今回の仕事も順調で仕事自体は気楽なものだ。私たちは人間の姿になって調査対象の人間について一週間の調査が終わると、担当部署に結果の報告を行う。

 その結果が大半は「可」であるのだが、その翌日のつまり八日目に、「死」が実行される。ようするに私たちはその実行を見届けて仕事を終了したことになる。

 担当した人間がどのような形で死ぬのかを私たちは情報部から聞かされてはいない。だから見届けの時が来るまでは彼らがどのように死ぬのかは知らない。たいてい仕事で人間の姿になるとCDショップを探す習慣がついている。

 人間世界は行列など最悪なものが多いがミュージックだけは格別に最高なものだといえる。

 21時を過ぎている平日の店舗はほどほどの客でこれはのんびり視聴できるぞと顔が自然とニヤけてきた。邦楽ロックのコーナーの階を見渡していると視聴機の前でヘッドフォンをして音楽誌を読んでいる男がいた。書店で問い合わせをしていた大学生だったので近づいて肩を叩いた。大学生はヘッドフォンを外すと私を見て頷いた。

「やはり千葉か」

「ああ、さっき気付いたよ。俺は二日前からだが。お前はいつから?」

「今日からだ。雨が降ってるから千葉のことを思い出したがまさか同時期に仕事とは。仕事は順調にいきそうか?」

「最後まできちんと見て報告するよ」

「でも、「可」だろ」

「たいていの場合はな。お前はどうなんだ?」

「まあ限りなく「可」だよな。なんかオススメのミュージックないか。今日来たばかりだからな」

 千葉は肩にかけていたヘッドフォンを外して私の頭にかけて再生ボタンを押して「じゃあな」と言った感じで上りのエスカレーターがある方に歩いていったが途中で立ち止まり私に向かって左手でピースをして右手は指を全部開いて何かを示そうとした。私も同じようにして視聴期を指差すと千葉はグッドラックみたいに指を立てて角を曲がって消えた。私は再生される音楽に身を預けるように目を瞑った。

 特徴的な声と物語のワンシーンを描くような詞の世界と重すぎず軽すぎないほどよく疾走するロックが鳴っていた。千葉が読んでいた音楽誌の表紙に聴いているアルバムのバンドが載っていて私も手に取って彼らのインタビューを読みながらずっと視聴機から流れるミュージックを聴いていた。千葉の示していた七曲目になった。やっとメジャーデビューして出したシングルがオリコン七位になったこと受けて作られた曲のようだった。

 中心人物でボーカル・ギターで作詞をしている人物の名前が尾崎世界観と書かれていた。詞の世界観がいいですねと言われたことに対してつけたものらしい、かなりひねくれているが面白い。


 私は閉店になるまでミュージックを楽しんだ。夜になると良いミュージックが鳴っている店を探すか深夜までやっている書店にでも行ってさっき聞いた小説でも読もうかと思った。CDショップで視聴機の前で真剣な顔をして立っているのがいたらたいていの場合は死神だ。次に仕事でこっちに来るのがいつになるかわからないから来た時はできるだけ浴びるようにミュージックを聴いている。

 私は小説も読むというと千葉や同僚には変わったやつだなと言われるが仕方ない。天使はたいてい図書館にいるらしい。そんな映画があると同僚が教えてくれた事があった。だが、私は恋のキューピッドではない。あと一回か二回程彼女に接してみよう、こう見えてもわりと仕事はきちんとするほうなのだ。

 とりあえず深夜遅くまでしている書店に向かう事にした。私たちは死神だから寝る事もないので人間が活動を控える深夜帯は店が閉まるので地方に行くと大変手持ち無沙汰になる。だから朝日を見ると安心する。やっと人間たちの活動が始まっていくのだと。

 さっき読んでいた音楽誌『MUSICA』のインタビューでバンドのボーカルである尾崎世界観は衝撃的な体験のひとつとしてラジオを聴いていて初めて朝になる瞬間を見た事だとインタビューで答えていた。

 自分の窓から見える夜明けを見るのが好きになった。だけどそれは寂しいという感覚だったらしい。夜明けにだけ見る、自分にとって特別な景色だが遠くのほうでは小さく車が動いている音がして、この景色も今もずっと動き続けている世界の一部だなって現実に引き戻された。ただその気持ちは常に持っておきたいと思ったと彼は語っていた。


 三日目に書店で彼女があの長身の大学生風の男にレジで会計してもらっているのを見る。大学生が文庫にカバーをかけているようだった。

「僕もこの作家さん好きなんですよ。お待たせしました。どうぞ、ありがとうございます。またお越し下さい」

 青年にそう言われた彼女は恥ずかしそうな笑顔になって書店を出て行った。好意があるのならば言えばいいのにと内心思った。昔担当したことのある男がよく言っていた言葉を思い出す。

「出会いに照れるな」とそのキャップを被った男は死神の私にさえそう言う豪快な男だった。

 店内を見渡すと大学生ぐらいの姿になっている千葉がまたいた。私は彼女を追いかけるように読みかけの小説を棚に戻して店外へ出た。彼女は私には気付かないようで、それもそのはずイヤフォンをしているのでミュージックを聴いていた。私の興味は彼女がどんなミュージックを聴いているかどうかだったかとりあえず距離を持って見失わないように歩く。

 彼女と私、そしてもう一人私の後を歩いている者がいた。彼女がコンビニに入っている間は遠くから私は待っていた。

 うしろから来た男は私を追い越してコンビニの前のガラス越しに彼女を見ると踵を返して私の前を走って通りすぎた。エプロンぐらいは外せばいいのにと私はその男を見て思った。人間という者は本当に愚かだなと思わずにはいられない。

 ここまで追いかけてきて声もかけずに帰っていく、時間と労力の無駄遣いとしかいいようがない。

 六日目、コンビニで偶然を装って彼女と居合わせた感じで声をかける。

「こんばんは」

「よかった岡山さんだ」と彼女はふっと緊張していた顔から安心したような顔になる。

「よかったって、なにか悪いことでもあるのか」

「誰かに後をつけられているような気がして。怖くてずっとここで立ち読みをしてたんです」

 この間、私も君の後をつけていたがまったく気付かれなかったがと言いそうになるのを抑えた。一度お茶したぐらいの関係で安心感を持つような危機感のなさがそうさせるのだとも言いたかったが。

「あの〜、もしよかったら家の近くまでついてきてもらったりできませんか? わがままなお願いで申し訳ないんですけど。ひとりだと怖くて」

「まあ、いいよ。ここから近いのか」

「五分ぐらいなんですけど街灯があんまりなくて暗がりなんで」

「それじゃあ、行こう」

「ちょっと待ってください。それなら買い物します。すぐに終わるんで」

 さっきまで怖がっていた彼女は発泡酒二本とつまみを買っていた。本当に怖いのか疑問になった。安心して食い気が戻ってきたのかもしれない。

 確かに彼女のアパートに続く道は街灯があまりなく静かな閑静な場所と言えば聞こえはよいが夜の女性の一人歩きには向かないかもしれなかった。

「まだ後をつけられているような気はするか?」

「わからないですけど岡山さんいるしさっきみたいな怖さはないです」

 彼女は暗がりの方を振り返って凝視しているが何も見えないだろう。私にはかなり遠くに男性が息を沈めるようにして立ち止まっているのが見えたがそれを彼女にわざわざ教える必要があるとは思えなかった。そしてその男が私たちとは反対側に走り出したのが見えた。

 歩き出した彼女の横に並んでアパートの方に向かう。仕事の愚痴を聞かされる。

「なんで私こんな仕事してるんだろうっていつも思うんです。給料日に銀行残高が増えて家賃払って公共料金支払ってってしてたらどんどん残高減って、あれ? わたしの価値ってなんなんだろうって思って寂しくなってきて。ずっと死ぬまでこれが続くのかなって思うとなんか狂いそうっていうかただただ怖いっていうか。こんな運命なのかなって思ったりして。死ぬまで、寿命が来るまでこんな毎日なのかなって」

「寿命はあるさ。当然。だがみんながみんな寿命で死ぬわけじゃない。それを待っていたらバランスが崩れてしまう」

「バランスって?」

「人口とか、環境とか世界のバランスだ。寿命の前に死んでしまう事もある。突発的な事故や事件に巻き込まれるような。それは寿命とは別だ。火事とか溺死とかそういうものは後から決まるものだ」

「誰が決めるんですか?」彼女が私に問いかけてくる。

「死神とか呼ばれるそういうものだ。おおまかにいう神様みたいなものだろう」

「まるで死神に知り合いがいるみたいな話し方ですね」

「そう聞こえたのならそれでもいいが」

「神様なんているんですかね。じゃあ、もっと私の人生楽しくてもいいはずなのにね、そう思わない岡山さん。私は退屈で死にたいって思ってるけど、もっともっとなにか良い事があるんじゃないかとも思ってるんです。そうじゃないとこんな生活続けていけない」

「この生活が終われば楽になれるとも聞こえるが」

「でも、やっぱり生きていたら楽しい事や嬉しい事があったり、ときどき何年とか何十年に一度ぐらいは美しい景色とかが見えるかもしれないじゃないですか、やっぱりそれを信じて生きていたいです私は、信じるぐらいはいいですよね」

 私は答えずにただ頷いた。三階建てのアパートの前に来ると彼女は頭を下げて丁寧にお礼を言った。「おやすみなさい」と言って彼女はアパートの階段を上っていった。

 来た道を引き返して歩き出した。大型のCDショップか書店に向かおうと思った。コンビニを過ぎてしばらく経った交差点で警察車両が停まっていた。

 ガードレール沿いに千葉が立っていた。見届けにやってきたのだろう。私に気付くと軽く手を挙げた。

「見届けが終わったか」

「ああ、車に轢かれた。女性の後を追いかけていたんだが急に振り返って走り出して無我夢中で信号も無視して車に撥ねられた」

「お前の担当だったのかあいつは」とエプロン姿の背の低い男の事が浮かんだ。

「そうだ。仕事は終わりだ。最後にミュージックを聴いておこうと思ったがどうやら時間がないらしい。次はいつになることやら。この間のはどうだった?」

「すごくよかった。面白いとも思った」

「岡山も結果の報告を出す頃だろう。どうするんだ、いつも通りか」

「今、ちょっと考えてる。でも、おそらくはいつも通りにするだろうが。まあもう少しはこちらでミュージックと小説を楽しむよ」

「それは羨ましいな。じゃあ、また。そういえばさっき死んだ男が言っていたが私達のことを書いてある小説があるらしい」

「ほお、それは興味あるな、なんてタイトルだ」

「『死神の浮力』というやつらしい。俺は読んでないが時間があればどうだ。じゃあ」

「ああ、また」

 私は千葉と別れて歩き出す。私たち死神は人間がどうなってもさほど関心はないが彼らが死に絶えてミュージックが無くなってしまうことは、つらい。

 報告をどうしようか私は考えながら私は街を歩いている。千葉に言われた小説をとりあえず読もうと書店に向かった。



エピローグ

 久しぶりにこちらに来たのでミュージックが聴けると嬉しくなっていたが情報部から渡されたスケジュールではすぐに接触しなければいけないらしく、しばらくはお預けのようだった。だが、すぐ近くに 大型の書店があったのでスケジュールに記されている時間まで私はそこで時間を潰そうと思った。

 一階の部分では新刊が広く展開されていた。以前、聞いた事のあった著者名とタイトル名の置かれている本を一冊手に取って冒頭を読んでみた。

 何人かの人間が置かれているその本を手に取ってはレジに向かっていった。すると私の視界の隅に一人の女性が目に入った。

 髪の毛も少し明るい色になって黒ブチ眼鏡はそのままだが明るい柄の服を着ている、そう彼女は柊みちるだった。もちろん彼女は姿など変わった私に気付くこともなく積まれた本を手に取ってパラパラめくるとその分厚い、まるで聖書のような樋口毅宏著『アクシデント・リポート』をレジに持っていった。

 私は時計を見ると予定の時間に近づいていたので本を戻してすぐ近くのアルタ前に歩いて行く。しばらくすると情報部からのスケジュール通りにアルタ前に停まったタクシーの中から四十過ぎの男が降りてきた。

 さあ、仕事だ、と私が調査対象の男の方に歩き出そうとした刹那、黒いサングラスをした決して狂わない男が私の目の前を通りすぎようとしていた。しかし、黒いサングラスの上の額に第三の目が現れて私をガッと見つめてすぐに閉じてそれは消えた。黒いサングラスの男は何事もなかったかのようにそのままアルタの中に入っていった。