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2018-11-23 『ハード・コア』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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山下敦弘監督『ハード・コア』初日を鑑賞する。

政治活動を手伝っている、正しくない世界だから間違っていると言って何が悪いという兄の右近(山田孝之)と、商社マンで正しくない世の中だから妥協して生きているという弟の左近(佐藤健)、女性経験がなくほとんど話さない右近友達である牛山(荒川良々)と謎のロボットのロボオを中心に、家族もいない、あるいは頼ることもない彼らのコミュニティや関係性を描いていた。

山下さんの描くどうしようもない男たちの哀愁に似たもの、負け犬と呼ばれても仕方のない彼らの衝動やむなしさや人間関係はどうしてもなにかを掴まれたような気になる。きっと、どこにもいけない、なにものにもなれなかった者たちの鎮魂歌

途中で石橋けいさんが出てくるが、異様にエロい、それも監督や男性が求めてしまうある種都合のいい男性主観妄想的な女性像であったりもする。だけど、こういう女性はいることはいるのだと思う。映画の中ではすごい美人ではないがどこかエロティックであり、自分享楽のために男を誘い、彼らがハマって自らオチていくのをたのしんでしまうような、それがもしかしたら目的かもしれないような、昔だったら魔性の女って呼ばれていたのかもしれないそんな女性

この作品で出てくる女性って基本的に男性の性的な欲望の対象ではあるけど、メインキャラとそれを省いて関係を持つものがいない。そのためにホモソーシャルな関係は持続し、大切なものとして強固になる。

最後にスタッフロール見てたら、衣装伊賀大介さんだった! 

2018-11-17 『ア・ゴースト・ストーリー』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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シネクイントで『ア・ゴースト・ストーリー』初日の上映を観る。

ゴースト基本的には「過去」であり、そのメタファ。突如交通事故に遭い死んでしまった男はゴーストとして恋人と住んでいた家に帰ってくる。そして、彼女の側にいる。ここまではありふれたゴースト・ストーリー。

大切な人が死んでしまっていなくなった現実を受け入れるまでの期間を喪に伏す時間とも言えるけど、それは実際のところ人それぞれ違う。現在を生きているものはやがてそれを経て違う未来を歩き出す。しかし、この話は喪に伏される側のゴーストの大切だった場所と時間を巡る構造になり、場所や時間すらも越えて、やがて死んでしまった側の彼=ゴーストが知りたかったものを見つけるまでの『ア・ゴースト・ストーリー』になっていた。肉体を失い意識だけが残された者がその意識を失うための。

だから、とてもわかりやすい20世紀的な映像想像力で作られてもいる。わたしたち理解しやすい時間空間を用いて。これに更なる次元を加えて物語るとクリストファー・ノーラン監督インターステラー』になる。

2018-02-25 <メルマ旬報>『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 古川日出男さんの新著『ミライミライ』が早い所では書店で並び始めた。去年の今頃は『新潮』で連載中であり、古川さん自身もUCLAで日本文学の短期授業のために渡米されていた。去年中に単行本になるのかと思っていたが、デビュー20周年の2月に出ると言われたのはいつだったか覚えていないのだけど、それはすごくいいことだと思った記憶がある。

 『水道橋博士のメルマ旬報』というメルマガで「碇のむきだし」という連載を創刊時からさせてもらっている。先月の1月30日に配信されたvol.145で『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演について書いていたのだが、2月28日には僕のいる「ま」組も配信されるのでこのブログに転載しようと思ったのは、今日は古川さんのデビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】がオープンしたというのが一番の理由だったりする。ネットで誰でも読めるようにしておけば、何か引っかかってどこかに繋がっていくかもしれないとも思うので。

デビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】

http://furukawahideo.com


『水道橋博士のメルマ旬報』

https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase


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 7年前の今頃のことをちょっと思い出してみる。

 3月の早生まれなので29歳になる少し前。もうすぐ三十路だなあと思いながら、上京して9年近く経っていて思い悩んでいた時だった。30歳までになんとかなっていたいという思いと裏腹に現実はそうはいかないフリーターとしての毎日は、ゆるやかに諦めに向かっていくにはもってこいの日々だった。そういう時に、1月の終わりに電報が来た。見たこともないのになぜか赤紙みたいだと思った。実際には応募していた新人賞の連絡だった。応募した時になぜか電話番号を書き忘れていて、編集者さんが連絡手段として電報を送るという手段を取るしかなかったのが赤紙が送られてきた理由だった。電報には「シキュウレンラククダサイ」と電話番号と一緒に書かれていたので、すぐに電話をした。

 新人賞は取れなかったが、最終に残っていたので会って話をしたいと言われて、数日後に文京区の音羽に初めて行った。30歳を手前にギリギリなんとかなるのかもしれないと思った。かすかに希望が見えたのが2011年の1月の終わりから2月頭のことだった。

 2月の末には一般で申し込んでいた東京マラソンに当選していたので、マラソンを初めて走った。練習せずに出たら27キロ過ぎには股関節とか炎症したみたいで走ることもできなくなって、ひたすら痛みに耐えて残りの距離を足を引きずりながら歩いて6時間ちょっとで完走した。帰りが地獄だった。駅の階段の上り下りが本当に大変で、練習しといたら終わった後も普通に動けるんだなってことを知った。

 目標には達成していないけど、今年はわりといい感じにいくんじゃないかなって思っていた時にあの地震が起きた。あの日は中目黒のガソリンスタンドでバイトをしていて、見上げた空が青空と真っ黒な雲で境界線を引いたようにはっきりと分かれていた。

 大きく揺れてから近所の会社の人たちが、アリが巣穴から一斉に湧き出てくるかのように道路に飛び出してきた。駅近くの超高層のビルがグルングルンと回るように揺れていた。帰り道の246を自転車で横切った。246沿いを歩く人たちが歩道を埋めていて、車はスローモーションみたいにのんびり進んでいた。それは死者の群れが地獄の閻魔さまの元に足取り重く進んでいくみたいに見えた。

 2011年の震災以降には、実家の岡山に2回ほど帰郷したが、福島には4回ぐらいは足を運んだ。基本的には郡山に行っていた。小説家の古川日出男さんが学校長として『ただようまなびや』(http://www.tadayoumanabiya.com)というワークショップと言えばいいのか、「自分の言葉」をどうやったら持てるか、発信できるのかということについて考えたり実践する文学の学校を地元の郡山で開催されていた。

学校長・古川日出男「ただようまなびや宣言」

http://www.tadayoumanabiya.com/declaration/


 僕は開催された2013、2014、2015年の3回とも参加した。古川さんをはじめとする多種多様な講師の方々、そしてボランティアスタッフの皆さんが作り上げたこの文学の学校は、受講者(生徒)の学びたいという意欲に溢れていたし、参加した人たちと関わる人たちが震災後の東北だけではなく、日本について、そして海外に向けての自分の言葉について考える場所だった。

 毎年、郡山に行っていたのでスタッフの方にも顔を覚えてもらって、行く度に声をかけてもらえるようになった。僕にはそれまで関係のなかった、知り合いのいなかった郡山という街に親しみを強く感じるようになった。スタッフの方々もいろんな想いが当然あったはずだ。改善されない状況だったり、風評被害や原発の問題、善と悪という簡単な二項対立ではない様々な事柄が入り混じってしまった中で、地元の郡山に来る、県内だけではなく県外から来る僕たちを歓迎してくださっていた。

 古川さんは高校時代に演劇をやっていて有名だったらしく、『ただようまなびや』のスタッフの方々は古川さんの高校の後輩にあたる人が多かった。皆さんが「日出夫先輩」と慕っているのを見るとなんだか勝手に嬉しい気持ちになった。2015年が今の所、最後の『ただようまなびや』になっているが、最終日のことはニュースになったので見たり聞いたりした人もいると思う。

村上春樹氏「文章を書く、孤独な作業は『1人カキフライ』によく似ている」、古川日出男氏「見事にカキフライの話をされてしまって…」

http://www.sankei.com/life/news/151129/lif1511290050-n1.html


 初日にいろんな講義に顔を出している人がいて、どう見ても村上春樹さんだった。参加している僕たちにはまったく知らされてなかったので、当然ざわついた。1日目の終わりのホームルームで、古川さんがみんな気づいていると思うけど、村上春樹さんが来られています。このことは明日が終わるまではSNSなどに書いたり言わないでください、と言われた。確かに参加していない人たちが来てしまうと対応ができないし、諸々と学校に支障が起きてしまうのは目に見えていた。そして、それは守られた。

 二日目の終わりに上記の記事のような話を村上さんがされて、ご自身の短編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うということについて』の朗読も披露された。たまたま参加していたハルキストの人は宝くじにあったような喜びようだった。そういう時にたまたまいた僕はなんかラッキーってぐらいの感じだった。僕が好きな小説家である古川さんが影響を受けている村上さん。そのお二人が壇上で話をされているのを見ると、間接的に自分も村上さんに影響を受けているんだよなって思った。

 村上さんの小説をきちんと読む前の20代前半の僕は、村上さんが訳されていたレイモンド・カーヴァーを好きで読んでいた。だから、村上さんのイメージはカーヴァーの訳者だった。僕が好きなアメリカの小説家はレイモンド・カーヴァーにチャールズ・ブコウスキー、フィリップ・K・ディックとかでみんなアル中だったり精神的にヤバかったりして、貧乏なブルーカラーの人たちだった。

 ブコウスキーなんか郵便局でずっと働いていて作家として売れたのはだいぶ年を取ってからだったし、僕が彼らに共感するのはそういう部分もやはり含まれているのだと思う。出版業界の人って基本的に大学出てるしブルーカラーに対して言えば、ホワイトカラーな人たちだ。昔は感じなかった学歴コンプレックスみたいなものは、それがあるのが当たり前の世界に顔を出すようになると無意識のうちに自分の内側に広がってきた。だからと言っても、どうにもならないものなのだけど、インテリな人たちの中にいると自分はまったくそうじゃないのにどさくさに紛れ込んでるなあって思う。

 今、小説を読んでるような人たちってある程度、教養があったり学があったりする人たちが大半で、ひと昔だったら紙とペンがあれば小説書けるしってことで書くことで成功する若い人(ブルーカラー)たちも少なからずいたんだろうけど、今だったらそれは小説という文学の形ではなくて、ラップとかになってるのかなって思ったりする。

 ラップもやってて小説も書いているという人になるといとうせいこうさんになるんだろうけど、もっと若い世代で20代とかの、例えば団地育ちとかのラッパーの人が小説を書いて賞を取ったり評価されるようになったら、日本の小説もなにか大きく変わっていくのかもって何年か前から思ってる。言葉ってことを考えたり、小説好きの友達と話すとそういう話をよくする。きっと、新しいリズムと文体の問題になってくるんじゃないかなあって。

 郡山に行ったのは『ただようまなびや』の3回ともう1回あり、それはメルマ旬報vol.28の時にも書いたのだけど、古川さんの母校である安積高校で『朗読劇 銀河鉄道の夜』公演を観に行った時だった。この朗読劇は、

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宮澤賢治の不朽の名作を小説家・古川日出男がオリジナル脚本に仕上げた朗読劇「銀河鉄道の夜」が誕生したのは、2011年の聖夜のこと。

古川自身の朗読に、音楽家・小島ケイタニーラブの音楽と歌、詩人・エッセイスト管啓次郎の書き下ろしの詩、そして翻訳家・柴田元幸のバイリンガル朗読が加わり、まったく新しい「賢治」の世界が生まれました。

http://milkyway-railway.com/about

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 というもので東京だけではなく、東北各地や西日本でも公演を20か所以上回っている。河合宏樹監督によって、『ほんとうのうた 〜朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って〜』(http://milkyway-railway.com/movie/ )という映画にもなっている。

 この『朗読劇 銀河鉄道の夜』がまったく新しく書きかえられて上演されると聞いたのは去年の11月とか年末近くのことだった。新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』の第一回は去年の12月に青森の八戸公演だった。僕はそちらには行けなかったので、同時に発表されていた1月の南相馬公演に行こうと決めてチケットを取っていた。郡山には行ったことがあったが、南相馬には一度も行ったことがなかったのも行こうと思った大きな理由だった。

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『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演

http://milkyway-railway.com/2956

ある時、バスに乗ってみてください。そして、おもむろに周囲を見回してみてください。窓の外に目を向けることはよくあることかもしれないけれど、車内を眺めてください。すると、知らない人がいっぱい乗っています。そして、知っている人も乗っています。友達の顔も、一人、見つけます。でも、何かがおかしいのです。あなたは「何がおかしいのだろう?」と考えます。その友達とは、ここで会えるはずがないのに、同じバスに乗っている。その友達は、本当に本当に、遠いところに行ってしまっていて……。『銀河鉄道の夜』とは、そんな物語です。さて、いま南相馬にいるあなたは、死者たちと同じ列車に乗り合わせてしまったら、何を考えますか? ―――古川日出男


 20日の午前中に渋谷から大宮まで電車に乗って、そこから新幹線(はやぶさ)に乗り換えて仙台まで行った。大宮からの新幹線で福島で降りて、南相馬までの高速バスもあったが便の数と時間帯の問題があった。僕は新幹線で仙台まで行って常磐線に乗り換え、南相馬の原ノ駅まで行くほうが時間に余裕があったのでそちらの方から向かった。

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 常磐線で宮城県を南下していく。途中で窓の向こう側に海が見えた。乗客の人たちはほとんど地元の方だったのだろう。いろんな年代の方が乗っていた。そこから見える景色、あの日のことを想像してみた。ほとんどの乗客は見慣れた景色なのだろう、外を気にしていないようだった。あるいはあえて気にしないで見ないようにしているのかもしれなかった。

相馬に近づいて行くときに、スマホを取り出してspotifyでくるりの『soma』を聴こうと思った。アルバム『坩堝の電圧』(2012年)に収録されている曲だ。アルバムの発売当時は福島にまだ行ったことがなかったし、テレビやネットの中で東北の状況を見ていたり聞いたりしていた。それでもこの曲を聴いたときに心に響いてきたものがあって、岸田さんの歌詞が優しくて「相馬」という単語を聞くとこの曲が浮かぶようになっていた。だから、いつか相馬の方に行くことがあったらその景色を見ながら聞きたいと思っていた。

 曲を再生し歌詞を表示させながら聴いていたら、泣きそうになってしまった。電車の中で泣くわけにもいかないので我慢していた。外の景色は次第に海から田んぼに、町の方に南下していく。海から離れてもう一度歌詞を見ながら聴いた。

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 1時間20分ほど電車に揺られて原ノ町駅についた。宿にチェックインするのは15時でまだ時間があったので、大通り沿いにあった食堂でラーメンを食べた。そこから夜に『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演をする南相馬市民文化会館ゆめはっとまで歩いてみた。15分ぐらいでついた。ゆめはっとの前には市役所があって、市長選があったのか二人の候補者のポスターが貼られていて、遠くから選挙カーのスピーカーの音が聞こえていた。そこから一度泊まる予約をしていた「もりのゆ」まで歩いて行って場所を確認してから近所にコンビニがないか時間潰しに歩いてみた。

 南相馬という初めてきた町、土曜日だったけど歩いてる人はほとんどいなくて時折車が通り過ぎる。とても静かな午後に一人のんびりと歩いていると不思議な気持ちになった。知らないはずの町なのに、どこか知ってるような気がしてくる。誰も知っている人がない町を歩いていると、いつの間にか歩いている自分が溶けるような、自然と消えていってしまうような気になる。僕以外の誰もいないようでもあるし、僕以外のすべてがあるようにも思えてくる。

 どこでもそんな気がしてくる。

 郡山もそうだったし、北アイルランドのポーターダウンやロンドン、地元の井原市もだし、ロサンゼルスのダウンタウンも高知市の竹林寺まで歩いた時も、毎年元旦に神田川沿いを歩いて隅田川まで歩く時もそう、歩いているとどこだって同じような感覚に陥る。車社会では道路によって土地が区切られているから。だから、違うはずの町もずっと歩いていると重なってくるのかもしれない。砂漠をロバに乗っていったり、アマゾンの中を歩くとその感覚は違うものになるんだろう、きっと。

 移動するということはいつも自分がいる世界ではなく、外の世界に触れることになるので客観視できるということもあるのだと思う。知らない町や場所ではいいことあるし、嫌な思いももちろんする。価値観や常識の違いもあるということを実際に体験するということで、多様性みたいなことを考えたりすることって大事なことだと思う。

 グローバリゼーションの波が世界中を覆って、誰もが国家とか大きな枠を飛び越えて交友や経済を以前よりもより自由にできるようになった。そして、行き来がより簡単になっていくと、それができない人たちのルサンチマンが爆発するように、アレルギー的な反応として先進国でナショナリズムが台頭しているのが僕たちの現在の社会だ。だからこそ、僕は移動をするってことが大事なんじゃないかなって、以前よりも強く思うようになった。インスタグラムでもなんでもいいのだけど、自分の物語をスマホがあれば世界に発信できる世界では他者の物語への興味は少なくなっているし、影響力も弱くなっている。

 他者への想像力が薄れていくこと、多様性の失われていく世界ってやはり息苦しいものになってしまう。僕は自分がそうならないために創作による物語や他者の物語を受容するし、時折何かのきっかけで移動していくことを続けていきたいと考えている。だからこそ、こういうきっかけで行ったことのない町に行くというのは楽しいし面白くて、移動っていいなって思う。

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 コンビニを発見して飲み物や食べ物を買ってから宿に戻ってチェックインした。素泊まりの一泊で、風呂トイレなしだった。風呂は大浴場があり、トイレは各階に男女別の共同のものがあった。ふかふかの布団に寝転がると寝そうになってしまう。寝たら18時半開演に間に合わないかもしれないという恐怖が襲ってくる。スマホで18時前にアラームをセットして、もしも寝てしまっても起きれるようにしていた。実際は20分ほどうとうとしたぐらいでアラームが鳴る前に目が覚めた。ここまで来たのに寝過ごして公演を観れなかったらという思いがどこか緊張感を持たせていたのかもしれない。

 外に出るともう真っ暗になっていた。歩いて10分ほどの南相馬市民文化会館ゆめはっとに向かった。専用の駐車場には車がかなり停まっていた。『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演は一階のホールだったが、二階ではBEGINのライブがあったらしく、両方のお客さんが来ていたので駐車場に車がたくさん停まっていたということを終わってから知った。

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 ゆめはっとの中に入ると「銀河チーム」と呼ばれている知人のスタッフさんたちが関連グッズの売り子さんをしていたのでご挨拶をした。古川さんの奥さんのチエさんが男性の方とお話をされていて、僕もご挨拶をしたのだけどチエさんとお話をされていた方は、『ただようまなびや』をお手伝いされていた古川さんの後輩である松本さんという人だった。

 僕がTwitterとかブログなんかで『ただようまなびや』について書いたりしていたので僕のことを知ってくださっていた。松本さんはフェイスブックで今回の公演のイベントページに僕が参加にしていたのを見ていたらしくて、なんと『リアル鬼ごっこJK』文庫版を持ってきてくださっていた。サイン書いてくださいと言われて、書かせていただいた。ほんとうにありがたいな、と思った。文庫にサインを書いてると自分のオリジナルの単著を出したいという気持ちが湧いてくるような、前面に強く出てくるような気がした。

 最初に『リアル鬼ごっこJK』のノベライズ単行本が出た頃、イベントに行った時にいらしたチエさんにお話を聞いてもらったことがあった。古川さんもデビュー作『13』の前に『ウィザードリィ外伝II 砂の王』というゲームのノベライズを書かれていた。それはある種、黒歴史とも言えるのかもしれない。だけど、それをベースにした小説『アラビアの夜の種族』(第55回日本推理作家協会賞、第23回日本SF大賞受賞作)という作品がある。それを見ていたから僕がその時に悩んでいたことを聞いてもらって、チエさんにアドバイスをしていただいたのを思い出した。

 『ただようまなびや』に毎年行っていたので、松本さんに覚えていただいてるのもうれしかったし、同時に不思議な感じもした。人のご縁というのは移動することで生まれるのかなあ、とも思ったりした。

 チケットは売り切れていて満席だった。ご高齢の方から子供まで幅広い年代のお客さんがいらしていた。僕のように県外からきた人もいたはずだ。19時半ちょうどぐらいから公演はスタートした。

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 『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演を鑑賞した後に、以前よりも物語が立体化している印象を受けた。事前にアナウンスがあったように古川さんが今までの公演とはまったく違う脚本を書かれていた。最初に登場したのは「さそり」=「翻訳家」=「柴田元幸」と「いたち」=「音楽家」=「小島ケイタニーラブ」の二人だった。彼らが舞台の左右にいて「銀河鉄道の夜」を観察するように見るという構図がまずあった。そこに「ジョバンニ」=「小説家」=「古川日出男」と「カンパネルラ」=「詩人」=「管啓次郎」が真ん中に現れて「銀河鉄道の夜」の物語が進んでいく。その構図自体は前の公演の時も基本的には同じ役割だった。

 しかし、新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』は過去と現在が共に現在進行形として未来に進む形になっていた。そのことが僕に立体的に感じさせることになったのだと思う。宮沢賢治が書いたフィクション(物語)としての『銀河鉄道の夜』がまずベースにある。そこに小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の出演者たちのノンフィクションが入り交じる形になっていた。

 小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の現実の姿が物語の中では「前世」として扱われているのも今回の新しい部分だった。だから、メタフィクション的な要素が入り込んでくる。そういう意味では今までの公演よりは少し話としてはわかりづらくなっている部分もあるのに、構造がはっきり見えてきてわからなさも含めて物語の世界に観客も一緒に溶け込んでいくようだった。

 さそりといたち、ジョバンニとカンパネルラの二組が舞台にいることで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と古川さんが脚本を書いた『朗読劇 銀河鉄道の夜』の世界が徐々に重なり合っていった。ある意味で、どちらも半透明で重なることで細部は違うのに重なり合う部分ははっきりとして、違う部分もより強調されていた。そこに過去と現在、そして未来が孕まれているような、それこそ宇宙みたいな空間が広がっていた。二組が時には混ざり合いながら銀河鉄道の夜を色付け、音を鳴らして、言葉が煌めいていって星々みたいに輝いた。そして、最後の古川さんと柴田さんのセリフと同時に鳴っている音で少し泣いた。ほんとうに凄まじいものがあった。

 公演が終わったあとに古川さんと柴田さんとお話できたので立体的に感じたということをお伝えした。そして、郡山に車で帰られる松本さんとゆめはっとの前でお別れをして歩いて宿に向かった。

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 知らない南相馬の道、夜だからまっくらな場所もあった。通り沿いの公園近くで夜空を見上げると冬の星座が輝いていた。僕にわかるのはオリオン座の3つ並んだ星ぐらいだった。南相馬に公演を見にきてよかったなと、夜空を見て歩きながら改めて思った。自分がとても優しい気持ちになっているのを感じた。古川さんたち出演者の方々や銀河チームの皆さんに会えたのも嬉しいことだった。

 宿について寝る前に園さんの懐刀だった船木さんからラインが来た。僕が南相馬にいることを知って連絡をしてくれたみたいだった。園監督『希望の国』の舞台になった鈴木さんのお宅の場所をラインしてくれて、泊まっている宿からは6キロぐらいしか離れていない場所だった。歩いても1時間ちょっとぐらい。翌日の朝に東京に帰ることにしていたので行けなかったけど、福島から原ノ町への高速バスで山間部とかを通ると復興しているところとしていない場所が見えるということも教えてもらった。さすがにこの距離は車がないとちょっとムリだなって思ったけど、また福島には来るだろうし、船木さんと今度一緒に南相馬とかに行きましょうと約束をした。

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 翌朝9時前には宿をチェックアウトして原ノ駅に歩いて向かった。日曜日の午前中は人気がなくて、自分がなんだか異邦人みたいな気になってちょっとワクワクしながら町を歩いた。原ノ町駅から仙台までの常磐線に乗った。帰りも『soma』を選んで聴きながら車窓から見える海を見た。聴き終わってからはアルバム『坩堝の電圧』の最後の曲『glory days』を何度もリピートした。口ずさみながら窓の外の景色を見ていたけど、停車する毎に乗客が増えていって車内は人でいっぱいになっていった。

2018-02-16 『リバーズ・エッジ』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 映画『リバーズ・エッジ』を公開初日にTOHOシネマズ渋谷で観る。

 観ながらつくづく感じたことは岡崎京子さんという漫画家は、手塚治虫が戦後に漫画に持ち込んだまんが・アニメ的リアリズムだったり「アトムの命題」におけるキャラクターの傷つく身体、24年組が少女漫画で「内面」をいかに漫画で描くかという歴史を正統に受け継いで、あの時代の空気を取り入れながらアップデートしようとした漫画家だったということが、彼ら生身の俳優によってあの物語が演じられてしまうことで証明してしまった、いやそもそもそうだったんだけど、今回めっちゃ強く感じたし今まで以上にわかった気がした。

 漫画読んでなかったら、たぶん問題ない90年代の話って感じだろうけどさ。観にきているような十代や二十代前半の女の子にはこの映画や登場人物はどう映ったのか、感情移入はできたのか、どんな気持ちになったのかは気になる。この作品において観音崎というキャラをどうするかってのがかなり大きな問題ではあると思う。最低であるが、人間らしくはある。感情の上下が一番激しいということもある。あとの人物は基本的に冷めた視線で毎日を過ごしている、それは死んだように生きるというような漫画が書かれた当時の気配を孕んでいる。

 漫画から実写映画に翻訳する際に抜け落ちてしまう部分、それを映画ではあるシーンを度々導入することで補おうとしたのかもしれないし、批評性を行定監督は取り入れようとしたのかもしれない。僕には蛇足に見えてしまった。

 なぜ、原作の主題を見据えてオリジナルシーンでも新規のキャラクター(それはかなり困難だが)でも、新しいエピソードをぶちこまなかったのか? 時おり読者を突き放すような岡崎京子作品にあるものはどこにある? 行定監督が撮る意味ありましたか?

 ただ原作通りにしてもあそこに描かれていたものは漫画的な表現だったんだから。漫画は何十年も前から文学になってるし、吉本ばなな以降は完全に小説とか文学ってものは漫画の影響化にある。行定監督は文学好きで何作も原作もので映画してんだからさ、わかってるはずなんだよ。それでもできないのは製作委員会のせいなのだろうか?

 もう、『リバーズ・エッジ』と『pink』はセルフリメイクで今の中国を舞台にして撮った方がいいよ。その方が描かれている世界の雰囲気とすごくマッチすると思うし、届くものが多いのでないだろうか。

2018-01-09 『お嬢さん』二回目 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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【見逃した映画特集2017】『お嬢さん』@UPLINK

http://www.uplink.co.jp/movie/2017/47866

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去年、観たのは3月20日だった。2017年のマイベスト3に入るぐらい面白かった作品

http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20170320

↑にも書いているが最初はタイトルもまったく惹かれることもなくスルーしていたが、菊地成孔さんの書いたレヴューを読んですぐに映画館に。

菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密

http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4373.html

↑「いつまでも最高20代で時を止めて、ずっと恋をしていたいという「中、高、大、あらゆる二年生病」という、西欧からアジア〜アフリカまでを覆う現代のペスト、本作はそのパンデミックへのダーク・アスピリンである。大人には、こんな悦びがある。本作は「大人が退行する事」の古典的で正しい形がしっかりと示され、現代のペストが、いかに病的であるかを、全く別の病理が炙り出し、撃つ。毒を持って毒を制するのだ。」


 この数年かもしれないが、僕は間違いなく映画に関しては菊地成孔さんの批評を参考にしてるし、好きなものだったり、新しい発見をさせてくれる映画に出会えるきっかけを菊地さんにもらっていると思う。最初は『バードマン』だったような、『セッション』問題から以前に増して興味を持ったという部分はあった。僕も『セッション』観ていいとは思えなかったからだ。そこで菊地さんが『バードマン』をオススメしていても観に行ったら最高だった。パンフも尊敬している小説家の古川日出男さんが寄稿されていた。

 同じ作品を二回観に行くというのは年間に2作品程度だと思う。去年は、『ベイビー・ドライバー』と『南瓜とマヨネーズ』だった。『お嬢さん』は二回目を見逃していた。実際問題として僕はDVDとか動画配信だと集中力が持たないので、なにかライター仕事に関係していることでもない限りそういう視聴はしない、というかできない。やっぱり映画館で観るのが好きだし、自由を奪われた箱の中で観るしかないという状況を含めて僕は映画というメディアが好きなんだと思う。

 そんなわけで何か面白い作品はないかなと探していたら、UPLINKで【見逃した映画特集2017】というのをやっていて『お嬢さん』が上映中だったので通算二回目を観に行った。満席ではなかったがわりと埋まってた。女性客の方が多かったと思う。口コミの力だろうか。一応、ジャンルとしては「百合」だしなとか思いながら。イギリスの人気ミステリー作家・サラ・ウォーターズの小説『荊の城』が原案、サラ・ウォーターズはレズビアンの人らしく、彼女の作品基本的に「百合」的な世界が描かれているらしい、それを監督のパク・チャヌクがもう二次創作なぐらい舞台背景など設定を完全に変えたもの。しかし、映像になることでよりビジュアル的にエロティックで美しいものに仕上がっている。映画は1部、2部、3部と章が変わるごとに原案がミステリーだったこともあり、どんでん返し的に観客を裏切ってくる。その辺りも巧妙で面白く、客を惹きつける。

 珠子と秀子お嬢さまの関係は次第に密なものとなり、互いにとって一番大事な存在になっていく。その過程を本当にうまく描いていて、「百合」的なジャンルに興味がない人でも十二分に楽しめるものになっている。そこはさすがパク・チャヌク監督。彼は男性社会から彼女たちを解放していく藤原伯爵のような詐欺師、いや、マジシャン的なテクニックで物語を展開させていく。珠子と秀子が勝ち取るものは閉じられていた世界からの脱却であり、新しい世界へのパスポートだった。同時にメインキャストである藤原伯爵と秀子の叔父である上月の最後は対照的であり、彼女たちのこれまでの境遇を考えると爽快でもある。描写はわりと残虐だが。

 二度目の鑑賞だったが秀子お嬢さま役の女優さんは、去年も観て思ったけど「のん」「酒井若菜」の系統の顔だと思う。(この系統の)かわいいからキレイのグラデーションの中にこの三人は入んじゃないだろうか。あと、前にも書いたけど秀子の幼少期を演じている少女が本当に美少女で将来、とんでもない美女になるんじゃないだろうかって思う。

 原作や原案がありでも、監督がここまで自分のオリジナルティややりたいことを持ち込んで、原案をよりスケールアップしたり、素晴らしい作品にできるということは本当にすごいことだ。ただ、原作やヒットしている小説や漫画がベースだったらヒットすると思って企画を通すような世界では、対して誰も幸せにならないというのは目に見えていることなので、こういう作品を観た作り手や役者はなにかを心に灯すはずだ。そこから、日本でも何かをぶっちぎってしまう映画ももっと多く生まれると思いたい。そういうのが観たい、オリジナルでも原作ありでもいいから、映画監督の作家性を全開にしたものを、役者がよりアグレッシブで自由なところで。

2018-01-07 『スーパー・ササダンゴ・マシンのノンストッププレゼンテーション』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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『スーパー・ササダンゴ・マシンのノンストッププレゼンテーション120min Vol.2 <昼の部>』

http://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/79320

 ラブホとライブハウスの町になっている渋谷の円山町のユーロスペースがあるところにちょっと前にできたロフト9。ユーロには行くのに実は一度も入ったことがなかった。今日初めて入った。昨日、そういえば、ササダンゴさんのイベントがあったよなと思って調べたら昼の部があったのでその場でチケットを取ったんだけどチケット取るのも簡単になったものだ。

 08年ごろにTBSラジオの「文化系トークラジオLife」界隈の人たちと知り合いになってからトークイベントに行くようになった。新宿ロフトで番組のメインパーソナリティーのcharlieこと鈴木謙介さんが出演した時には元赤軍派議長でこの前亡くなった塩見孝也さんもイベントに出演されていたはずだ。それが僕の初めてのロフトだったような気がする。観客の席にいた番組のサブパーソナリティーの仲俣暁生さんが言われていたのは、「トークイベント難民」という言葉でずっと僕の中で印象に残っている。今みたいに本屋だったり様々な場所でトークイベントという頃ではなく、どのトークイベントに行ってもいる奴がいるという意味で言われていた、と思う。

 あれから十年ほど経った。トークイベントは増えまくり、出版業界も出版記念イベントなどが当たり前になった。本を書くだけではなく人前でトークができるかどうか、うまいかどうかも含めてタレント性が求められるようになった部分は間違いなくある。

 最初はどんなやつか見たいという欲望があるが、それが何回もと続くようになるか、客が入るかどうかはその人のトークスキルだったり、司会のレベルや一緒に登壇する相手との相性やトークスキルが非常にデカい。あとはどう考えても場数を踏んでないと人前で話せない、最初から話せるような人は元々そういう人だとしか思えない。

 「文化系トークラジオLife」という番組からゼロ年代以降の言論人だったり批評系だったりライターの人たちが、その後にラジオだけではなくテレビに呼ばれて行くようになったのは、ラジオという場所でcharlieや黒幕に呼ばれ、その場所で話すことで場数を踏んで行くという訓練に近いものがあったから慣れていったはずだ。今でもその機能は活きているし、例えば東浩紀さんがやっているゲンロンカフェでのトークイベントなんかも、ある意味ではそういう若手の人間の場数を踏んでいく場所になっているのだと思う。

 トークイベントが増えすぎたためになんかトークイベントぐらいどうにかなるんじゃないかなって思う人も客席にはいるかもしれない。きっと、人前であるテーマについてだったり、自分の話をして相手の話を聞くというのは想像以上に難しいし、それでお金を取るというのは結構難しいとことだと思うのだ。

 僕はトークイベントはお手伝いしたことはあるが、最初から最後まで人前に出て話したという経験はない。しかし、『水道橋博士のメルマ旬報』に連載しているので、年に一度ほど「メルマ旬報TV」というBS12の番組に呼ばれてトークをする。これは人前ではないが、テレビの収録だ。放送時間は十数分ほどだが、撮影はだいたい一時間ぐらい回している。

 初めて収録に行った時には博士さんが収録に参加していない頃で、たぶんなのだが、『藝人春秋2』に書かれている症状だった頃だと思う。そんなわけで僕自身のはじめての収録はメルマ旬報の副編集長的な存在であり、働きすぎて全然寝ていないので本当は3人ぐらいいるんだろうなって思われているであろう原カントくんさんと僕、というただの素人の男が話すという謎のトークだった。ただ、原カントくんさんはラジオをやったりとか人前で話す仕事もどんどんこなしているので、トークスキルが一般人であるはずなのに異様なレベルになっている、あとはくる球を拒まずに獲るという人なのでどんな相手でも合わせてしまう、いや合わせれる。

 その後、二回出演した時には博士さんと原カントくんさんと僕という3人での収録になった。芸人でありトークのプロである博士さんがいると心強い、どんなことを言っても受けとめて返してくださるし、どんな話を振ってもらってこちらが話しやすいようにしてもらえるのを体験するとプロっていうのはこういうことなんだなって思う。だからこそ、トークとか超怖いって実感としてあるのだけど。そんなわけで、トークイベントに行くのは好きなのだがトークって難しいなと思いながら観ているというのが僕です。

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 今日はスーパー・ササダンゴ・マシンさんのプレゼントークイベントを堪能できたとはっきり言える。出演者はササダンゴさん以外だとDJ急行さん、セラチェン春山さん、RAM RIDERさん、司会は中西茂樹さん。スーパー・ササダンゴ・マシンさんとRAM RIDERさんのお二人はメルマ旬報執筆陣であり、年末の忘年会ではお話もさせていただいた。あの時はスーパー・ササダンゴ・マシンさんが同じく松竹芸能所属の角田弁護士も連れてこられて、ちょっと下世話な話をした(笑)。

 ササダンゴさんもラムさんも博士さんのフランス座のライブの楽屋挨拶とかですれ違う時にご挨拶する程度だった。あの時、きちんとお話をさせていただいたけど、ササダンゴさんは「いかり〜、碇本〜。いかりってことは塩飽水軍か村上水軍関係?」といきなり言ってきた。

 地元が瀬戸内海に近いこともあり、海がすぐという地域ではないが、父に幼い頃にうちの名字について聞いたら、「塩飽水軍の下っ端だたんじゃねえかのぉ」と言っていたので僕もずっとそう思っている。ほぼ、初対面の人に塩飽水軍とか村上水軍と言われたのは、はじめてだったのでちょっと驚いた。それをすごく嬉しそうに楽しそうにいうササダンゴさんに親近感を感じた。こっちとすればプロレスには疎いが『水曜日のダウンタウン』とか出てる人だよねって部分もあるわけで、すごい不思議ではあるのだけど。普通に有名人だもんなって思ってるっていう部分。

 ラムさんは仕草とか物言いがすごく丁寧な感じがして、どこか客観的に物事を見たりしている視線のような。これは完全に僕が思っていることだが、ラムさんは話をしながら、脳内でその先にどんどん自分の中で話が展開していく、先に進んでいるタイプの人なんじゃないかなって。そういう人は脳内での展開でふわりと周りと違う流れで笑ったりする人がいる。ちゃんと人の話も聞いているのでいつも違うところで笑っているわけではないのだが。何人かそのタイプの人を知っているが、基本的に天才肌に多い気がする。

 このイベントは5人のチームワークとそれぞれのプレゼン(の内容が被らずに)特化していたし、皆さん場馴れしているからトークが上滑りしないでどんどん笑いも含めてプレゼンしている世界の話に入らせていく。あと確実に会場にいたお客さんの反応がよかった。前回も来ていたお客さんが多かったし、このメンバーなら観たいという人たちが多いとやはり反応はよくなるし、場の空気がよりホーム感を増すことになる。これは本当に大事だと思う。ぬか漬け選手権的な「私をスキーに連れてって」を文字ったものもありつつ、二時間の予定が三時間越してたんじゃないかな、面白いからお得って感じしかしなかった。何よりに登壇している人たちが笑顔というのがいい。それ本当に大事。

 イベントが終わってから最後にササダンゴさんとチェキを撮れるチェキ会があったので、ご挨拶も兼ねて並んでチェキを撮ってもらった。帰る時に握手をしてもらったけど、デカくて温かい手だった。撮ってもらったチェキは諸事情で世に出せない(そういう最後のプレゼンからの流れだったので)、メルマ旬報忘年会の時もそうだったけどなんかササダンゴさんやさしい、まあ、僕は彼に苦学生扱いされてる(笑)。五歳しか実は変わらないっていうね。


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 イベントが終わりロフト9から青山に向かって青山ブックセンターとかでひたすら時間を潰し、それでも時間が有り余るので原宿のナイキショップに寄ったりして久しぶりに表参道をブラブラ。観光客の人が本当に多いね。どうすんだろうオリンピック、まあ、やらないで欲しいけど、もうやめてはくれないんだろうから、どうまともに機能させるかとかみたいな話をするしかないんだろう。一番いいのはやらないことしかない。誰のためにやるのかわからないし、多くの人がきちんと自分の仕事をすればするほどにみんなが不幸になるシステムみたいなオリンピックって感じしか今のとこしない。

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 元旦にニコラの曽根さんとユカさん夫妻とイラストレーターの横山くんと一緒に飲んだ山田くんのピアノを聴きにヘイデンブックスに初めて行った。なんてオシャレな物価の高そうなとこにあるんだ。すげえ久しぶりにあの辺りを歩いた気がする。昔、あの辺りにナンバーナインかアンダーカバーのショップがあった気がする。アンダーカバーだったような、でもなくなってた。お客さんはいっぱいだったし、なんかみんなオシャレな感じで、普段会うことがないような感じの人たちの客層だった。横山くんも来てた。アウェイ感がすごくあったんだけど、そういう場所にも顔を出したり、行くようにしないといけないなと思っていたのでちょうどよかったのかもしれない。が、アウェイはアウェイなのでおとなしくしてた。

 山田くんのピアノはすごく良くて、あの飲みの時のキャラに最初に会っていなかったら、と思ったんだけど、飲んだ時に山田くんが堀江敏幸さんの小説『燃焼のための習作』をススメてくれたのが彼のピアノを聴いてわかった気がした。きっとあのピアノの旋律と堀江さんの文章のリズムと文体はきっと合うのだと思う。文体というのは旋律。自分にない文体は、わりとそれに近い旋律を聞くとすんなりと読めるようになることがある。僕には過去にそういうことがあったから。

山田俊二「交わらない時間たち」

https://soundcloud.com/shunji-yamada/idtdmjlbwssr

2017-12-00 『彼女がその名を知らない鳥たち』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 基本的にみんなズルいし(人間らしい欲望として)感情移入できないけど、なぜだかわからないが現実や日常はそうなってしまっている、そうなってみんな日々を過ごしていて、その裏側にあるものに目を背けている。

 彼(阿部サダヲ)の行動や想いを愛というのかどうかは僕にはわからないし、僕は彼のように行動したりするのかしないのかはわからないけど、ただそこにある感情は否定できないと思った。

2017-10-21 『ミックス。』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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 本日公開、TOHOシネマズ渋谷にて9時40分の初回の回で観る。台風が近づいていて雨のためもあるのか半数も埋まっていなかったような、どうなんだろう。フジテレビが製作していることもあって、新垣結衣&瑛太コンビが宣伝のためにいろんな媒体に出ているが、今作の脚本が『リーガルハイ』の古沢良太さんの脚本ということもあり、ガッキーと組ませてフジテレビが映画を作らせたかったのだろう。『逃げ恥』でまたもやガッキー人気は急上昇であり、極めて同感の成長しているはずなのにまだ制服もいけるんじゃないというこのままYUKIのようなロリババア(良くも悪くも)になりそうな彼女は嫌いな女優ではないことは事実で、女性化粧品かたお菓子のCMタレントであり、男子も好きな女優さんというちょっと無敵感がある。

 今回はその可愛さが序盤ふてくされているように見える、基本的に元天才卓球少女という存在だった多珠子は熱血指導をしていたコーチである母の死後は卓球を捨てて平凡な人生を思春期を過ごして会社員をしていた。それは誰にも言っていない黒歴史であり、恋人の浮気によって実家に帰ることとで彼への想いと自分のアイデンティティをかけて男女混合ダブルスで彼と浮気相手に勝つために再び卓球を始めるという物語である。ダブルスを組む元プロボクサーの瑛太(役名は忘れた)と卓球クラブのポンコツな仲間たちと全日本卓球選手権に出るための神奈川県予選に出るが、ボロボロに負けてしまう。そして、そこから再起が始まる。多珠子たちメンバーはそれぞれに抱えていることに対して前に進むため、絶ちきって覚悟することでそれまでの不甲斐ない自分たちや目を背けていたものと対峙する、その成長は卓球でのダブルスでの強さとリンクしていく。終盤ガッキー&瑛太コンビのそれぞれ人生の岐路に立つことになり選択を強いられる。彼らが選ぶものは物語の展開上胸熱にするためには当然の帰結だが、一緒に過ごした時間というのも大事な要素だと思う。願うことは最初は違っていたが一緒に練習した日々や互いの存在、誰かがそばにいてくれるという安らぎ、そしてダブルスのパートナーであるということが合致していく。

 二時間ほどの作品なのでかなりコンパクトにまとめられているがテンポよく進むこともあり、各キャラクターのクセがちょうどいいぐらいなので鼻につかない、それもテレビドラマで脚本を書き続けヒット作を出しているからできるセンスなのかもしれない。ガッキーってやっぱり可愛いんだなという当たり前の感想はみんな持つだろうが、『ちはやふる』第1作のような観終わって心がほっこりするチームものという部分もある。もっとそれぞれのキャラクターの葛藤や物語に奥行きを持たすようなシークエンスがあったほうがいいという人もたぶんいる、だがこの長さにしたことが大事なのだと思う。みんなこのぐらいのテンポでわかりやすい作品を気軽に観たいのだから。そして、こういう作品がヒットすることと対になるような答えのないわかりづらい作品も収益どうこうでなく作られて観てもらえることがきっと健全なのだろうなと思う。

2017-01-21 『沈黙』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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『沈黙』は日本人論でもあるんだなあ、と観ながら思った。

キリスト教における「神」という概念は日本人には理解できない。日本人は自然に神を見るから。諸行無常。台風や噴火や水害など自然災害で家はなくなるという風土だから紙と木でできた住居だったんだろうなって、それは北アイルランドとイギリスに行った時に石でできた建物とか実際に見た時に感じた。そりゃあ、住んでいる建物と自然環境における時間の積み重ねによって成り立っている思考の部分も根本的に違うわな、と。

だから、この沼地の国ではキリスト教という概念は育ちようがないという部分とかも大名とかはきちんとわかってる。弾圧している側がそのことをしっかり把握してる。そういう意味ではお役人がきちんとお役人の仕事を、藩や日本のことを考えて行動をしている。そういう部分では『シン・ゴジラ』的な感情を持ち込まないでそれぞれの仕事をしていて、震災後の日本の政府ができなかったことをまた映像で見せられている感じもある。

また、島国だったおかげで、そのせいで基本的には他の国から大量に人が移動してこないし、どこかに支配されることもないから多様化しなくてよかった。個人主義にはならずにいた。それがきっと戦後の高度経済成長時代ぐらいまではよかったんだと思う、日本よ再びみたいな復興は果たされて豊かになって多様化しようとするとそれが邪魔をする。出る杭は打ちのめすし、日本的なものにカスタマイズしちゃうから本質とはズレて入っている所が面白いことだったけど、不景気がやってくると残っていた外への関心も薄まり保守化する、神武天皇なんかいないのに、神話の人物がいると言い出すほどにひどくなる。

役者さんだと窪塚洋介さんと浅野忠信さんイッセー尾形さんの存在感がすごい。日本では撮れないから台湾とかで撮影してるんだと思うけど、エンドロール見て悔しがってる映画関係の人は多いんじゃないかな、でもそれも作中である人物が言う台詞に表れてるのかもしれない。

塚本晋也監督も出演してたけど、たぶんSABU監督も出てたと思う。PANTAさんも出られてましたね。これ観てやっぱり外に出ていく映像関係のスタッフさんや役者さんは増えていくのかなあ。

2016-05-14 『ひそひそ星』初日舞台挨拶 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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監督:園子温

脚本:園子温

プロデュース:園子温

プロデューサー:鈴木剛、園いづみ

出演:神楽坂恵、遠藤賢司、池田優斗、森康子ほか


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園子温監督が2014年に設立したシオンプロダクションの第1作として、自主制作で完成させたモノクロSFドラマ。園監督が1990年に執筆した脚本を、妻である女優・神楽坂恵を主演に迎えて映画化した。類は数度にわたる大災害と失敗を繰り返して衰退の一途にあった。現在、宇宙は機械によって支配され、人工知能を持つロボットが8割を占めるのに対し、人間は2割にまで減少している。アンドロイドの鈴木洋子は、相棒のコンピューターきかい6・7・マーMと共に宇宙船に乗り込み、星々を巡って人間の荷物を届ける宇宙宅配便の仕事をしていた。ある日、洋子は大きな音をたてると人間が死ぬ可能性のある「ひそひそ星」に住む女性に荷物を届けに行くが……。共演にミュージシャンの遠藤賢司、映画「at Home アットホーム」などに出演する子役・池田優斗。(映画.comより)


 いよいよ公開になった園子温監督最新作。去年の東京フィルメックスで一足早く観ているのだがやはり映画館で観たいと思って新宿のシネマカリテに行く。今作は園さんにとって最新作ということではあるのだけどこの『ひそひそ星』は25年前に園さんがメジャーデビュー作として取り組んでいた作品だったりする。しかし、頓挫したというか作られることはなく家には大量の絵コンテがあり、引っ越しの度に新しい家に持って行かれたという。園さんは自宅だったアパートが火事になったりとかで台本とか原稿が残っていない作品もあるのに、この作品はその度に生き延びて撮られるのを待っていたかのようにも思える。

 上映後の舞台挨拶で奥さんの神楽坂恵(プロデューサーである園いずみ)さんと一緒に立ち上げたシオンプロダクションの第一作になったという話をされていた。だから、これで再スタートみたいな気持ちがあるということに言われていて、最近のウェブのインタビューではもう原作ものは撮らないと言われているので、シオンプロダクション設立以降は基本的には園さんのオリジナル作品をどんどん作っていくみたいですごく楽しみでしかない。


 今作はモノクロで地味な作品に思える、園さんといえばエログロとか血が吹き出るというイメージがある人が圧倒的に多いと思うが、あれは嫌いではないと思うが世に出るためのある種の戦い方でもあったのだろう。実際にそれで園さんの名前は一躍有名になって日本映画の救世主みたいな感じになっていったのは間違いではない。しかし、『部屋 THE ROOM』と同時期か近い時代に書かれたこの作品もアートに寄っている部分がある。こちらも園さんの資質というかやりたい部分ではあるはずだ。おそらく、こういう作品を撮れば反対側の方向を撮られるだろうし、多作な園さんは一作ごとイメージややりたいことを明確にして違う園子温を見せつけてくることになってくるだろう、それも含めてシオンプロダクション作品が楽しみで仕方ない。


 『ひそひそ星』では福島の15キロ圏内立ち入り禁止区域の風景や『希望の国』で撮影に協力してもらった取材をした方々も作品に出てくる。福島の風景が語りかけてくる物語、それだけで成り立つものは何かあるのだろうかと思っているとかつて書いたSF映画と溶け合った。

 スクリーンに映し出される風景は現実だ。しかし、とてもフィクションみたいだ。草がぼうぼうに生えている草むらに押し流されてきた船がある、誰もいない町、廃墟になった建物の部屋に溜まった水溜り、一瞬だけモノクロからカラーになるワンシーン。最後の人生の走馬灯のような影絵の惑星。

 

 映像はモノクロだが、音は非常に鋭利に響いてくる。二回目だから前よりも意識的に音を聴いた。福島の風景が語りかけるものとかつて園さんが書いた物語が解け合っていてそこに音が非常に重要なものとしてある。大きな声で大事なことが言えなくなる日がいつか来るかもしれないと思って、ひそひそ話す物語をかつて書いたと舞台挨拶で言われていた。今そんな時代になったとも。


 劇場でいい音で観て欲しい一作です。


園子温、構想25年の新作で初心に「ゼロからの出発」

http://www.cinematoday.jp/page/N0082626


 来週には大島新監督『園子温という生き物』をまたシネマカリテで観てこようと思います。