けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

三歩進んで二歩下がって三歩進む私の現在地と速度

苦し紛れにじたばたしていると、じたばたしたなりに何かに触れることがある。
それはだいたい誰かの静かな心遣いとして私の前にあらわれて、私の前にあった道のかたちを変えてゆく。すれ違いざまに肩が触れた名前を知らない人々の、偶然の言動に強く影響を受けて優柔不断に生きる自分には、どだい信念というようなものがないのだと思い知る。

すれ違う人々の名前を知らないのは、私が名前を訊ねるのをためらっているからだ。名前を知らない方が、落ち着いて付き合える。
私はたいへんな臆病者で、誰かに嫌われることを強く恐れている。その人を知らなければ知らないだけ、付き合い方の作法は単純で、場合分けも少なく済む。
その人の名前を知り、素性を知り、過去や現在背負っているものを知るうちに、私のあたまはパニックになる。私自身は永遠に体験することのできない誰かの人生を、勝手に想像し、おもんばかったつもりになって、前例のない事例を前に”嫌われないための正解”を求めて右往左往する。よく知る人との付き合いは面倒だ。面倒で、怖い。

そのくせ、私は誰かが自分の人生について話すのをきくのがすきだ。その人がどんな背景を持ち、どんなふうに現在地に辿り着いたのか、その歴史をきくのがすきだ。
自分が生の道を歩き続ける覚悟がなくて、きっと私はどこかでつまづいてしまう、きっと私はどこかで代わり映えのしない景色に飽きて、歩くことをやめてしまう。そんな予感ばかりがある。だから、その道を今日まで歩くことのできた人たちが、いったいどんな景色を見てきたのかが気になる。まるで冒険小説を読むように、他者の人生をコンテンツとして、あるいは明日に辿り着くための糧として消費している。

そうやって、知りたいと望んで近づいておきながら、知ったら知ったで、その人に嫌われない方法がわからない、という身勝手な理由で離れたくなる。
かつて”とても知りたいと望んだ他者”と向き合うことの恐怖から逃げてしまった私は、その後も他者から逃げ続けている。
なぜ嫌われてはいけないのか、その理由も説明できないくせに。
嫌われたら何が起こるのか、そもそもどういう状態を回避したいのかさえ、よくわかってもいないくせに。

ひょっとしたら私が回避したいのは、誰かとの付き合いを通して”すごく嫌な感じの自分”を見つけてしまうことなんじゃないのか。付き合う人が増えるだけ、対応する自分も人の数だけ仮面をかぶることになり、中には自分でも好きになれない仮面が出てくる。
私が本当に避けたいのは、嫌なやつであるところの自分を目撃すること。だとしたら、私は”知りたいと望んだ他者”と向き合うことを通じて、私自身の嫌な側面を目撃し、その不快感に耐えきれずに逃げ出した、ということ。

今日はここまで。