ja, konrad !

2018-11-06

linedrawing2018-11-06

[] NOSEFLUTES – Several Young Men Ignite Hardboard Stump(LP Reflex Records ‘86)英 23:05

Roger Turnerが来日していたと聞いて、ドラムを得物とした即興演奏家とは承知しているけれど、さてどんな仕事をしていた人だったか…。

調べてみると、なんとNoseflutesの1stでも叩いていた。

Captain BeefheartからTalking Headsへの道を辿る内に迷子になって、用心のために棍棒やらバール手にして荒くれたがNoseflutes。

彼らも2枚の12”がある(内1枚にもRoger Turner参加)レーベルRon Johnson Records。

そこからリリースのあったバンドを中古盤屋のエサ箱に追っている内…手の込んだ組み立てながら結果トライバルな印象に刻まれるリズムや、ハードコアから捩じり取ってきたかの鳴り、小回りの利かないボーカル…とあまりの共通項の多さに見分けがつかなくなってきて、これはもう時間掛けて集めてきたけれど十把一絡げに処分をと考えていたところ。

それが改めて聴き返せば、埃まみれではあってもジャケットは着ているぜと示すこのメロディーの伊達っぷりはどうだ…場末の流儀みたいな旋律の魅力は、この機の発見だった。

肝心のRoger Turnerはというと、そうそう壊れる際のスタイルが味なんだよと、収録曲の半分近くでアタックの周辺へ砕け散っていくようなドラム、打楽器を担っている。

ライブに足運ぶこと叶わず、身動き出来ない時に於いても、充分にトリガー足り得る「興味を持つ」ということ。

藪から棒ではあるけれど、Roger Turnerには感謝しなくちゃね。

https://youtu.be/nsg2S_4C1JA

2018-10-19

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[] 展示案内 15:07

点と線のコンビネーションで空間は拍を持つだろうか。

青山通りにある家具店内ギャラリーで、市村しげのさんとの二人展。

新作旧作揃えて控えておりますゆえ、秋空の下お誘い合わせ出掛けてもらえましたら。

2018年10月19日(金) - 11月27日(火)

【RESONANCE - 蘇生する空間】市村しげの×小川敦生

at DELL’ARTE(デラルテ)/カッシーナ・イクスシー青山本店2階

11:00 – 19:00(水曜定休)

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DELL’ARTE / Cassina ixc. Aoyama shop

東京都港区南青山2-12-14 ユニマット青山ビル

tel. 03-5474-9001(代)

http://www.cassina-ixc.jp/shop/pages/cassina_aoyama.aspx

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『over border』 小川敦生

車に乗せてもらって国道を辿っていれば標識が教えてくれたんだろうけど、こう勘を頼りにフラフラと自転車で街路を彷徨っていては、いつ県を出たのか未だ市の中にいるのかどうにも掴みづらい。

地図上ではハッキリと境界線が引かれているのにだ。内/外が判別し難いといえば、この身体にしてもそうだ。

口腔内は内なんだか外なんだか…そうそう、内科、外科の区分ってやつ。

いや、そればかりじゃないな。

昨日読み終えた本は、僕の内にあるのだろうか。

夕飯に食ったうどんはどこで僕の内へと侵入してくるのか。

細胞レベルで摂取したところで、最後まで栄養素のイメージから離れられず、自分の一部となる気がしないけど。

この島に上陸しながら、未だ日本へ入国した気がしないでいる海外から来た者があるだろう。

周囲の扱いから、人の中にありながら自らがその一員であるとは信じることが出来ない者もあるだろう。

境界は確かに明示されているが、現場に居る者が内/外の確証を持てることなんてない。

だから現在どこに居るかとは聞いてくれるな。

もう携帯の充電も危ういし、尋ねるなら目的地にしてくれ。

きっと着くから、明日そこで会おう。

2018-07-08

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[] ミュノーナ - スフィンクス・ステーキ(未知谷) 22:22

同著者の邦訳を新たに2冊手に入れたので、頁切る前にこちらを再読。

ミュノーナは、哲学者ザロモ・フリートレンダーが創作物す時の筆名。

パウル・シェーアバルトと親交結び、タダイスト達の活動の傍にあったので、前触れめくイマジネーションとダダを繋ぐ存在だろうか。

エネルギー保存の法則を発見したローベルト・マイヤーの評伝執筆していることも忘れないでおきたい。

シニカルな掌編集ぐらいの印象でサクサク進めた初読の憶えはどこへやら、これがどうして、注意喚起されるところ多く躓いてばかり。

こちらの読解力に僅かばかり成長したところがあるのか、単なる読み零しを拾い直しているのやら。

収録作のほとんどに、究極への志向から極端な選択をした人物が登場する。

その選択が技術・思想で成立するため、寓話めかしてはいても味わいはSFに近い。

究極なところでの判断とは叶うか/叶わぬかしかないから、もはや白黒二元論の世界、たとえ「愛」を俎上に載せたところで情緒的な部分は排除されてしまう。

ここでの愛の成就は、パートナーの意向や生死に拘らず、永遠に施行されるものなのだ。

悲喜劇と他人目に映ったところで、当人は理想の内、「悲」があるはずもない。

周囲をバリバリと粉砕しながら進む理想の実現には、もう笑うしかない。

一方で「ゲーテ蓄音機 - ある愛の物語」の一篇は様子が違う。

どれほど過去の発声であっても微細ながら振動は空間に残るはずとの理論からゲーテの声を再生する発明は、肉声から故人の思惟を量れるものでもあろうに、ただ発明家の想い人の気を惹く道具に。

手にした究極的能力で見得を切るのみというのもまた極端な話ではあるけれど、どうしてか、こちらの方がチャーミングだ。

可否ではなくて、距離手繰る恋愛だしね。

愛嬌とは白黒ではなく淡いにあると。


註. ローベルト・マイヤー永久機関の発明に明け暮れた後、不可能と断じてエネルギー保存の法則」の発見に至る。これもまた極端な話。




2017-12-26

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[] 田淵安一 - 西欧人の原像(人文書院) 22:57

田淵安一はフランスを拠点に活動した画家。

1951年前衛集団コブラの運動終息の年に渡仏しているが、参加メンバーとは深く関わっていたようだ。

それもあってか、表象よりもマチエールの具体性を追う視点は共通しているように思える。

場所や時系列がスキップする文章までは、先のアレシンスキーの本に似なくても良いのに…さすがに話の筋は通っているけれど。

おまけに、註釈もなく地名や歴史固有名詞が繰り出されるのには閉口した。

おかげで辞書としてのスマホ活用術が見えた気がするよ。

地中海から内陸へと史跡辿る旅の中で、日本人である著者が覚える西欧への違和感、その正体を探ったエッセイ…。

体裁はそのように繕われているけれど、やはりこれは「ものの見方」についての本だと感じる。

でなければ、序に続いて置かれた「象徴についての前章」は異様だ。


「…外界とは無縁に、脳の生理的機能から独りでに表われる形であって、幼児はこういう生理的に発生した図形を組み合わせながら、自然の認識を深めてゆくものらしい。つまり視覚器官が受け取った外界の刺激をいくつかの基本的な祖型の回路に送りこみ、これに修正を加えながら、次第に外界の事物の複雑な形態を学んでゆく。象徴はこういう意識のとどかない回路のなかでの主体事物とのふれ合いに、遠いか近いかの起源をもっている。」(p.23)


史跡に図像の由来を追っているようで、意識の底を流れる地下水脈を辿っている。

水脈は表現者の内にばかり流れているわけではない。

観る者も「意味」とは別のところで無意識の水脈が捉えるものがある。

このふたつの識閾下のレイヤーにおいて像を結ぶところに、はじめて対象が生じる気すらしてくる。

そうであれば、イメージの直接性が招く不自由さを回避出来るはず。

認識する対象とは、無為の志向ともいうべきものの恣意性の焦点となるからだ。

「みる」ことが「ある」を描いている。

2017-12-01

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[] P. アレシンスキー - 自在の輪(新潮社) 22:36

昨年の大規模展覧会を切っ掛けに、ようやっと積読から救い出せた一冊。

図版も多く、ブルトンからアポリネールジャコメッティ…そして自身の画業へと巡り、イメージの原型探索する愉しき随想。

その予測は大筋違わなかったのだけれど、これがなかなかに厄介な文章で綴られている。

イメージの相似に気が付くと、しりとりみたいに、場所や時系列…どころか筋すら無視して話が飛ぶ。

しりとりは単語レベルにまで及ぶようで、その辺りまで酌もうとした訳文なのか、見たこともない日本語が頻出する。

だからといって、五里霧中に放り込まれた感もない、標は確かに示されている。

アレシンスキーは、デンマークベルギーオランダに亘る前衛運動コブラのメンバー。

コブラの中心人物アスガー・ヨルンの「はじめにイメージありき」志向を、「言葉ありき」のブルトンと対比して紹介している。

ブルトンを信奉するアレシンスキーの立ち位置は微妙だが、詩性が先行することは変わらぬものの、シュルの経脈がコブラシチュアシオニストに到って遂に言葉を抜き去りに掛かっているとも見える。

しかし言葉とは「そのもの」であることはなく、相互了解という伽藍の上に成り立っているだけで、意味を縛りつける力は実は持っていない。

読み手の能力次第で、言葉をジャンピングボードに高く飛ぶことも可能だ。

対してイメージとは眼前/脳内の「そのもの」であって、何かを固着しはしないだろうか。

だからこそ、アレシンスキーをはじめコブラの面々は、自由度を上げるため意味の縛りを切りつつ作品の量産へと駆られたのでは…。

いや、この不安は次に読んだコブラとも関わりのある本で解消しているんだけどね。

回りくどいことを抜きにすれば、出口なく紆余曲折するばかりのこの本は、きっとアレシンスキーが文章で描いてみせたドローイングだ。