ベタとメタの狭間

2011-07-22

[]コクリコ坂から



映画「コクリコ坂から」を見た。舞台は1963年の横浜ノスタルジーな空間を醸成した作品。


ノスタルジーと言っても「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなコテコテの古ぼけた「東京下町ノスタルジー」というわけではなく、セル画もきれいで、港町の様子が自然に風景に溶け込んだ感じが良かった。その時代の風景をシンプルに切り取ったような肩肘張らない感じは好感が持てた。



学園闘争がテーマ。ホームページに掲載されている宮崎駿のメッセージには次のようなことが書かれていた。

(…)結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである。

少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。

今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。(…)


それに対して「コクリコ坂から」原作版コミックに掲載されている宮崎吾朗の解説では次のように回答していた。


どこでどう間違えたのか、僕は40歳も近くなってから、アニメーション映画に携わることになった。そして、新しい企画として『コクリコ坂から』が示されたときには、戸惑った。学園紛争という題材を含んだ『コクリコ坂から』は、嘗てそこが古めかしく見えて映画化できなかったが、今ならできるという説明にもピンと来なかったし、舞台を1963年に置き換えることの意味もピンと来なかった。東京オリンピックの前年である1963年といえば、日本は高度経済成長の只中にあって、その当時高校生だった人たちはいわゆる団塊の世代だ。現代社会が行き詰っているとするなら、その原点である時代を描いても、昔は良かった式の映画にしかならないのではないかという疑念がついてまわった。


宮崎駿が言うように、この映画で登場する学園闘争というテーマはノスタルジーとして描かれている。熱く議論を交わし、体制に学生が反発するという時代。それに対して、疑問を呈する宮崎吾朗。「昔は良かった」で思考停止して未来へ前進がないという、ノスタルジーを描く際の問題点に自覚的になっている様子が見られるけれども、映画を見ていてこの問題に対してどのように回答しているのかいまいちわからなかった部分もある。未来へ昔存在していた熱い思い、意思を受け継ごうとしていたのか。そのあたりがうまく伝わらず、やはり相変わらずの「昔はこんな熱く学生が戦い、議論していた時代があった」というノスタルジーの文法に回収されてしまっている気がした。


この問題についての宮崎吾朗の回答やインタビューもまだ発見できずにいる。



一方、少女マンガアニメーション映画に持ち込んだという点でも、なんだかすっきりしない感じが残ったような気がする。二人が徐々に距離を詰めていく様子がよくわからず。二人の思いが近付く描写の不足に対して、気持ちの接近が早くそのあたりのズレを感じた。「『耳をすませば』を見ればいいじゃないか」という批判をかわせるか。

2011-06-11

[]IPPON グランプリ


松本人志の存在がすごく気になる。番組全体を通じて「解説」を加えているけれど、どうもノイズに聞こえて仕方ない。この番組に果たして松本の存在は必要か。


ラリー遠田さんは「解説者」松本の存在を評価している。「CYZO×PLANETS SPECIAL PRELUDE 2011」内の原稿「ポスト『お笑いブーム』の展望」の中で、自身も優秀な大喜利プレイヤーであり、また一流のお笑い解説者でもある松本の的確なコメントの数々は番組を見る上での大きな魅力であるとしている。バラエティ界全体で「松本人志」というアイコンが重荷になっているケースが目立つ中で、解説者としての新たな才能を引き出した功績は見逃せないという評価だ。


確かに松本の解説は鋭く興味深い。ただ、見ている限り常にメタ視点から見つめる松本の存在がベタに番組に没入することを躊躇させる、この感覚は否定できない。客観的な視点が常に与えられていることは、ネタに対する評価を嫌でも意識させられる。それは、純粋に大喜利を楽しむ上ではノイズだ。


松本の「場の空気」に対する解説は、メタ視点の可視化であり、番組をベタに楽しみたい多くの視聴者にとって明らかに邪魔で不必要なものとなっている。あえて解説を設置したのはなぜだろう。メタ視点を放棄することでこそバラエティは楽しめるものなのに。


なぜ松本は必要だったのか。チーフプロデューサーは「すべらない話」の佐々木さん。松本を解説に起用したのには何か理由があるのだろう。ただ、自分にはよく理解できなかったので、誰かそれについて言葉を持っている人は説明してほしい。

2011-06-01

[]リンダリンダリンダ


リンダリンダリンダ [DVD]

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公開中の映画「マイ・バック・ページ」の山下敦弘監督の作品。文化祭に向けて練習する4人組のバンドの様子を淡々を追ったもの。


物語が一切ない。文化祭前の学生バンドの様子をノイズ(演出・物語)抜きで切り取った。そんな印象に近い。ドラマ的、映画的な文法が排除されている。


例えば、徹夜で練習していて気付かないうちに寝てしまって朝を迎えるシーン。起きて「うわーもう朝じゃんー。」の一つくらいあってもよさそうなものだけれど、そんなセリフすら排除されている。できる限り、ドラマ仕立てにせず、言うなればドキュメンタリーに近いくらい(もちろん、全くドラマ的な文法がないわけではないけれど)なタッチで映像を撮っている。


特別なこと(物語)がなくても普通の「日常」こそが素晴らしい。そんな意思を伝えたいような作品になってる。文化祭までの練習の過程。これが楽しそうに見える。そして、最後に見事練習の成果を発揮して歌いあげる。本当にどこにでもありそうな話。でも、だからこそ、そんな普遍的な日常こそが素晴らしいというメッセージが強く伝わる。



ただこの作品自体は成功しているけど。やはり「文化祭」というものはあくまでも「非日常」的。どこか祭りに向かうまでの過程(バンドの練習)も普通の日常とは少し違う。文化祭という非日常装置を用いなければロマンを描くことはできないのか。普遍的な「日常」を愛せる作品も見てみたい。

2011-04-05

[]ソラニン

ソラニン スタンダード・エディション [DVD]

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だいぶ今更だけど、映画「ソラニン」を見た。


聞いていた悪評判よりは悪くなかったように思うけど、原作に忠実な分だけ「漫画→映画」の書き換えを行った時に発生するズレのようなものを感じて仕方なかった。漫画的な表現は漫画の中でこそ成立し、それを実写化した時その表現は機能を失う…というような問題を解決できていなかった印象。もちろんこれは「ソラニン」に限った話ではないけれど。


漫画で表現される浅野いにおらしさが脱臭されて、結果単なる「青春映画」として市場に回収されてしまった。原作ファンが憤るのも無理はないという感じ。「ソラニン」は単なる「青春物語」ではないのだから。



さて、久しぶりに(映画、漫画の区別は抜きにして)「ソラニン」という物語に触れてみたわけだけど。就活生となった今の自分では1年前に初めて触れた時とその感触はだいぶ違っていた。


その感触の差はひとまず置き。「ソラニン」では音楽という要素を通じて、どこを拠所とし、どんな物語を信じるのかに対する不安が蔓延する現代への回答を示しているように思う。



社会に対して現実感を持っていなかった種田は「音楽で世界を変えてやる」とカウンターカルチャー的な意味を持つものとしてロックという物語を志向していた。そんな種田はそのロックの世界へと足を踏み入れるきっかけとなった冴木が社会に迎合したビジネスマンとなっていたことに失望する。その冴木はロック的な意味を脱臭させた大衆バンドのリアルを語り種田の依拠する物語を揺さぶる。


冴木に自分の信じる物語を揺るがされた種田は苦悩するけれども、そのうちに本当はそんな物語なんて最初から志向していなかったことに気付く。

「芽衣子さん、俺は音楽で世界を変えようと本気で思ってた。
夢のためならどんな困難でも立ち向かうべきなんだと思ってた。
……でもこの頃は、俺はミュージシャンになりたいんじゃなくて、バンドがやりたかっただけなんじゃん?…ってさ
みんながいて、芽衣子がいて、きっとホントはそれだけでいいんだ。」

種田が本当に求めていたのはロック的な物語ではなく、そのロックを介した仲間との繋がりだったのだと。

追うようにして、ビリーと加藤もそのことに気付く。そして芽衣子もその種田のバンドとしてみんなと繋がるという物語を自分の物語へと転換させた上で、その証明としてライブを行いそのことを確信する。


恋人を失い社会にもコミットできない自分を救うものとは、そんな自分を肯定するための拠所としてカウンターカルチャー的に機能していたロック的なる物語ではなく、そこから意味が取り除かれ脱臭されたロックを介した仲間との繋がりだったのだと。そうしてようやく日常を祝福できるようになった所で物語は幕を閉じる。



以前読んだ時はなんとなくこれで納得した。でも、超氷河期と言われるさなか就活生として社会にコミットしようとしている今の自分ではリアリティを持てなくなっていた。


たとえ今生きる日常を仲間との繋がりで祝福できたとしても、その時はいいとしてその先はあるのだろうか。社会にコミットしない代わりに手に入れた物語は、現実逃避以上の価値や意味があるのだろうか。果たしてそんな物語でこの厳しい世の中を生き抜くことができるのだろうか。この部分に対して、疑問を感じた。そしてこの物語はその答えを提示できていないように思う。もちろん、そんな答えなんてなくてもいいのかもしれないけれど。自身の実感として、以前のように共感することはできなくなっていた。


社会が厳しさを増し混沌としていくにつれ、この物語の強度は弱くなっていく。そして、自分が以前と違った感触を抱いたのは、社会に出る手前の身として、その厳しさが蔓延する空気をわずかながらも吸ってしまっているからなのかもしれないと思った。

2011-03-25

[]ツーリスト

ツーリスト [DVD]

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イタリアを訪れたアメリカ人旅行者フランクが、謎の美女エリーズに翻弄され、知らないうちに巨大な事件に巻き込まれていく物語。


偶然出会った男女二人が恋に落ち、お互いを守り敵に命の危険を晒されながらも共に困難を乗り越える。そんなプロット自体はよく見られるもの。元々作品自体がフランス映画『アントニー・ジマー』(2005)の忠実なリメイクだとかで。ストーリー自体に特筆する目新しさは正直ない。


そうして変わり映えの無いストーリーが引き算された時、ではこの映画に何が残っていたのかというと。やっぱりアンジェリーナ・ジョリーとジョニーデップの2大スター競演に尽きる。


「世界が夢見た豪華競演 ついに実現!」
「ナンバーワン男女優が夢の初競演!」


そんなコピーが映画の告知・広告に踊っていたように、良くも悪くもこの映画はその二人の魅力が打ち出され、かつそれに依存しきったもの。二人のやりとりの様子が強く印象に残るように、物語がどんどん二人に引っ張られていく。物語よりもキャラクターの方が強い。そんなことを感じさせられた。


さて、映画にストーリーの引き算が行われた時、もう一つ残るものが撮影された舞台のベネチア。スクリーンいっぱいに映された豪華な町並みに、ベネチアの水路を生かした水上のアクション。街の魅力を存分に生かしたシーンの数々はアンジーとジョニーの魅力を倍増させていた。


まさに、この映画は「[アンジー+ジョニー]×ベネチア」というような固有名詞の魅力を足してかけ合わせた作品。そして、えてしてそうした固有名詞に依存した作品には何も残らないもの。それゆえ、エンタメ映画以上の意味を読み込めるのかということは疑問。


でも、その2大スターがベネチアを舞台にするというまさに「豪華×豪華」で。ひたすらにそのゴージャスさを追求した映像は良かった。美男美女に、美しい町並み。


この映画の「評価」というものは、(おそらく多くの人がそうであるように)初めからエンタメ映画として見た時、その豪華さを楽しめるのかどうか、見るに値するのかどうかという所に発生するのだと。


んで自分自身はそこを楽しむことができた。(そしてベネチアに行きたくなった!)ストーリーが凡庸だったわりに、わりといい気分で映画館を後にできたのはそれゆえだったような。