ダメ情報の見分けかた

ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために (生活人新書)

ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために (生活人新書)


荻上チキが(共著ですが)久々に本を出していたので購入。パートナー(?)の飯田泰之社会学者の鈴木謙介の3人で「リテラシー」について論じています。
それぞれの論が独立している形式なので、それぞれについてコメントを。


荻上チキ「『騙されない』から『騙させないぞ』へ」
ネット時代の流言リテラシーについて、いくつかの具体的なケースを紹介しながらその流言にどう向き合うかを述べています。ポイントだなと感じた部分が2つ。
一つは「自分はリテラシーが高い」と認識して(思いこんで)しまっているがゆえに自らが流言の発信者になってしまうということ。例えば、リテラシー高く政治により強い感心を持っているからこそ、情報に飛びついてしまい「もっと広めなければ」という意識から流言を拡散してしまうと。自分が情報に通じているという認識ゆえの落とし穴。怖いですね。
2つ目が個人のリテラシーには限界があるということ。どんなに情報への感度が強く確からしい情報に辿りついても、専門知がなければ情報の確かさを検証することができないという限界。ついついやってしまいがちだと思うのですが、情報が見抜けなかったことを必ずしも個人の能力、リテラシーの欠如に還元してはいけないわけですね。そういえば以前にニコ生で「ウィキリークスのリーク情報を判断するのは?」という質問でほとんどの人がマスメディアやネットではなく、個人と回答していて拍手喝采、なんてことがあった気がしますが。ちょっと理想論に近そうですね。


飯田泰之「情報を捨てる技術」
次は飯田さん。専門の経済学の知見を生かしてリテラシーについて述べています。「外部性」「ナッシュ均衡」という経済学の概念でリテラシー獲得のコストの高さ、インセンティブの無さを指摘し、それゆえにコストの低い「誰でもできる」リテラシーをここで教えてくれています。
話はリテラシーからずれますが。ナッシュ均衡の概念によるマスメディアの画一的な報道の説明がすごくはまっていて良いなと思った。需要側(視聴者)にリテラシーが無い、それゆえに供給側が他と代わり映えのないような報道をしても安定した視聴率がとれる。だから、あえて自分たちだけ違った報道をする必要がないので動けないというナッシュ均衡にはまり、画一的な報道になっていると。今の海老蔵ラュシュなんかもそれっぽい。海老蔵やっておけば視聴率とれるから流しておくと。私たちもなんだかんだ「もういいよ」と言いながらテレビつけてますからね。ここでみんなが「海老蔵もうやだ!」とか言ってニュース始まったとたんにプチってチャンネル切るようなことがあれば、テレビ側もナッシュ均衡から脱出できるかも。


鈴木謙介メディアリテラシーの政治的意味」
これがなかなか…。リテラシーの話と思いきや政治思想のお話。もちろん関連付けられてはいるけど。とりあえず、メディアリテラシーの教育実践が政治的な影響で変化していると。イギリス、カナダでこれまで情報を批判的に読み解くというものから映像作品を作るという実践的なスキルへとシフトが起きたそうで。ようやく、なんで「メディアリテラシー論」の授業で映像制作をするのかなというなぞが解けました。
さて「偏った」リテラシーという考え方が新鮮でした。一見偏った意見に流されず中立を保つことこそがリテラシーだと考えがちですが、個人が自分の興味に合わせて情報を選択して取得するこのネット社会ではそれは難しい。だから、あえて自分が偏っているということを自覚して、他の偏った立場にも目を向ける。そういう姿勢が求められているのだと。下手に中立を維持し続けるよりもこちらの方が楽そうな気はします。



さて、一通り読んで気をつけなければならないと思うのが、こういう本を読んで「リテラシーがついた」などと下手に認識しないことです。ミイラとりがミイラになるではありませんが、前述したように自分がリテラシーあると思い込んで、それゆえにデマや流言にコミットしてしまっては仕方ありません。あくまで一つ一つの情報を丁寧に扱うことですね。そして、日常生活でそれをし過ぎると疲れてしまうのである程度ゆるく、気張らずに。どこで、どの情報でそのリテラシーを強く持つ姿勢を保つのかということを判断できることもまた一つのリテラシーなのかもしれませんね。