ノーランズ

なんかもうくそ暑いですね。35℃とか当たり前の世界。
今年は梅雨明けも早かったですし。いつもは7月半ば過ぎまで雨なのに、もう七夕前には明けちゃいましたからね。
個人的には暑いのが大の苦手なので、この季節は一番嫌です。もう一日でも早く秋になってほしいと願いつつ、毎日冷房をかけっ放しにしています。
体に良くないのは分かってはいるんですが、どうしても暑さに耐えられないんですよ。
とりあえず後でガリガリ君でも食って何とか凌ごう。


こういう時期ですので夏らしい爽やかな音にすればいいのに、と思うのが普通ですが、実は今回は爽やかとは程遠い追悼記事なんですね。
先週こんな記事が出ました。ワイドショーなどでも話題になっていたので、ご存知の方も多いかもしれません。


ノーランズのバーニー・ノーランさん、乳がんで死去 52歳 - シネマトゥデイ


ノーランズってこのブログ的にどうなの、って思わなくもなかったのですが、別にロックに限って取り上げるって決まりがあるわけでもないですし、懐かしいのは事実ですし、第一子供の頃お世話になった従姉がノーランズのファンだったので、結局書くことにしました。
今回の更新は従姉に捧げますって感じですね。まあ彼女はこのブログ読んでませんし、それどころかこのブログの存在も、僕がブログを書いていることすらも知らないと思いますけど。
しかしもうこうなると何でもありですな。正直書こうと思えば、デュラン・デュランでもバナナラマでもスパイス・ガールズでもブリトニー・スピアーズでも更新できますから。そのへん伊達に長く洋楽を聴いてません。デュラン・デュランバナナラマについては、いずれ本当に書いてみるつもりなので、もし興味のある方は楽しみにして頂ければ、と思います。
話が飛びましたけど、しかし乳がんというのは女性にとっては切実な死因なんじゃないかと思います。調べてみると乳がん患者全体の1%くらいは、高齢の男性なんだそうで驚いたんですが。
あと抗がん剤の影響でスキンヘッドになってしまったバーニーの写真も、個人的にはかなりショックでした。がんって怖いなと改めて思いましたね。


とりあえずノーランズの歴史について、振り返ってみましょう。
ノーランズの結成は72年に遡ります。ダブリンでクラブ歌手をしていたトミー・ノーランとモリーン・ブレスリン夫婦が、子供たちを含めたザ・シンギング・ノーランズとしてデビューしたのが始まりです。
アイルランドのポップシーンの特徴は、家族で構成されているグループがかなり多いということです。コアーズとかママズ・ボーイズなんかいい例ですね。エンヤの在籍していたクラナドも、姉弟と叔父によるファミリー・グループでしたっけ。
何でもアイルランドは娯楽が少なく、セックスばかりしているせいで子沢山の家庭が多く、また貧しいため自宅で家族と歌でも歌う以外する事がない、というのが理由らしいですが、これはアイルランドをバカにした英国風の偏見なのかもしれませんね。
とにかくノーラン夫婦も多くのアイルランド人夫婦の例に漏れず、2男6女の子沢山だったため、巡業に子供たちを連れて行き、時にはステージで歌わせており、そこから自然とグループ結成みたいになったようです。
その後74年には両親と男児二人が抜け、アン、デニス、モリーン(この人は本名がマリー・アントワネット・ノーランという強烈さ)、リンダ、バーナデット(以下バーニー)と準メンバー扱いのコリーンの姉妹で、ノーラン・シスターズとして独立します。


The Nolan Sisters - But I Do


ノーラン・シスターズのデビュー曲です。
これはクラレンス"フロッグマン"ヘンリーが61年に全英3位とヒットさせた曲のカバーですが、確かにめっちゃ古式ゆかしいポップスという感じです。
メイン・ヴォーカルは末っ子のコリーンですが、どう見てもまだ単なる子供ですね。まあ当時は9歳ですから無理もないですけど(ちなみに長姉のアンは当時24歳)。
あと動画はクリフ・リチャードのテレビショー出演時のもののようで、最初にリチャードのご尊顔が拝めます。英国のプレスリーみたいな存在の彼ですが、この頃はまだ若いですな。


75年にはフランク・シナトラの欧州ツアーの前座を務めたことにより、ある程度知名度は上がったものの、レーベルを転々としてヒットチャートとも無縁でした。
その後も78年にはデニスがソロ活動のため脱退し、コリーンもソロのアイドルとしてシングルをリリースするなど紆余曲折もありましたが、翌79年にはメジャーのエピックと契約し、『Spirit,Body and Soul』でチャートインを果たします。


The Nolan Sisters - Spirit,Body and Soul


79年のシングル。全英34位に入り、彼女たちの初のヒットとなります。
かなりアダルトな感じの曲で、『ダンシング・シスター』あたりの路線しか知らない人が聴くと面食らうんじゃないでしょうか。


その年の末に彼女たちはノーランズと改名し、『I'm in the Mood for Dancing』(邦題は『ダンシング・シスター』)をリリースします。するとこれが全英で3位、アイルランドで2位と大ヒットし、ブレイクを果たしました。
80年にはアンが結婚のため休業しますが、代わりに成長したコリーンが正式メンバーとして加入することとなり、日本で知られるラインアップができあがります。この年日本でもノーランズはデビューを果たし、『I'm in the Mood for Dancing』がオリコンで1位に輝く大ヒットを記録して、一躍お茶の間の人気者となるのです。


The Nolans - I'm in the Mood for Dancing


これがその『ダンシング・シスター』です。全英3位。オリコン1位。
まあ普通のポップスなんですが、メロディは非常に覚えやすく分かりやすく、ヒットする曲の必要条件は揃ってますね。
あと姉妹(メンバーの名前と顔がほとんど一致しないですが)のヴォーカルには張りがあり、コーラスワークにもメリハリがあって、実力も普通に高いんじゃないでしょうか。
ちなみにオリコンの海外グループでの国内デビューシングル・海外女性グループでの首位はオリコンチャート史上初、海外ミュージシャンの日本国内でのデビューシングル首位は欧陽菲菲の『雨の御堂筋』(71年)以来史上2組目、兄弟・姉妹でのシングルチャート首位はフィンガー5の『恋のダイヤル6700』(74年)以来史上3組目なんだそうです。結構いろいろと記録を持ってるんですね。
あと5年くらい前にキグルミがこの曲をカバーし、フジテレビの『めざましどようび』のテーマソングにもなってました。


Nolans - Gotta Pull Myself Together


80年のシングル。全英9位。オリコンも9位。邦題は『恋のハッピー・デート』。
いかにもアイドルらしい可愛らしい曲です。しかし歌詞は失恋もので、そのギャップが面白いです。それを考えると邦題はとんでもないですね。
『ダンシング・シスター』の追い風もあって、30万枚以上日本でも売れたらしいです。石野真子もこの曲をカバーしてましたっけ。あと意外なところではHi-STANDARDもカバーしてるんですよ。今回調べて初めて知りました。


The Nolans - Sexy Music


81年のシングル。英国ではシングル化されてないのか、記録が見当たらないんですが、日本ではオリコン7位のヒットとなりました。東京音楽祭世界大会でも、グランプリを獲得しています。
それまでの曲とはちょっと違っていて、親しみやすさの中にもソウルフルなシャウトを入れていたりして、割と本格派路線なんじゃないかと思います。
90年にはWinkがこの曲をカバーし、彼女たちの最後のオリコン1位獲得曲にもなっています。


彼女たちは本国以上に日本で人気者になり、一大ブームを巻き起こしました。
今見ると故ダイアナ妃を劣化させたような面構えなんですが、当時は『平凡』や『明星』や『近代映画』といった芸能雑誌(『平凡』と『近代映画』は既に休廃刊したが、『明星』は『Myojo』と名前を変えて、ジャニーズ中心の雑誌として生き延びているらしい)に毎月グラビアで登場するなど、本当に正統派アイドルでした。
水着姿のポスターやピンナップもありましたからね。当時見て「やっぱり外人は胸でかいな」とか思ってましたっけ。外国人の女性アイドルとしては、アグネス・ラム以来の存在だったかもしれません。
もちろんセールスも好調で、オリコンの洋楽では初めてシングル、LP、カセットの三冠王を記録し、レコードはトータルで900万枚売れ、82年には日本武道館でライブを行ったのですから、洋楽アイドルとしては上出来の売れっぷりだったと言えるでしょう。
個人的にはタモリオールナイトニッポンにゲストで来たのが記憶に残ってますね。タモリが向き合って座ったらしいメンバーの誰かを見て「すごいな。おっぱいがテーブルに乗っかってるよ」って言ってたのを、妙にはっきり覚えていますから。
しかしブームというのは儚いもので、あっという間に飽きられてしまい、83年にリンダが脱退してからは、ほとんど顧みられることはなくなってしまいました。人気商売とはそんなものですが、やはり厳しいですね。
日本の洋楽史上における彼女たちの役割は、ディスコ・ブームと80年代ブリティッシュ・ポップ(カルチャー・クラブとかデュラン・デュランとか)とのつなぎ的存在だったんでしょう。


その後も彼女たちは欧州圏で活動を続けますが、エピックから契約を切られてメジャーからドロップし、その後のセールスもいまいちパッとしなかったようですね。
83年には英国でノーランズ担当スタッフによるチャートの不正操作が発覚し、シングル『Dressed to Kill』がチャートから削除されるという事件も起こしています。そんなにスキャンダラスな内容ではなく、ファンクラブを通した販売でちょっとした違反をしたために、チャートが無効になったということらしいのですが。
しかし捨てる神あれば拾う神あり、91年に彼女たちは思わぬ形で、日本での復活を遂げるのです。
90年にA.S.A.P.による松任谷由美のカバー楽曲集がヒットを記録したことで、二匹目のドジョウを狙ってテイチクレコードがノーランズに白羽の矢を立てました。
彼女たちは『ひと夏の経験』『イミテーション・ゴールド』など、山口百恵の楽曲をカバーしたアルバム『プレイバックPart.2』をリリース。それから矢継ぎ早に小泉今日子カバー集『ROCK AND ROLLING IDOL〜なんてったってアイドル』、『飾りじゃないのよ涙は』『風立ちぬ』『渚のバルコニー』『六本木純情』などをカバーした『寂しい熱帯魚』と、日本語カバーアルバムを連続リリースします。
すると何がウケるか分からないもので、これがバブル崩壊時でありながら3タイトルで20万枚を売るヒットを記録し、同年の第33回日本レコード大賞企画賞を受賞したのだからたいしたものです。
その余勢を駆ってノーランズは、彼女たち自身の過去のヒット曲を再レコーディングした『スーパー・ベスト』をリリースし、9年ぶりに再来日も果たしています。
この時彼女たちは「日本の曲はメロディがとても美しいし、ヴォーカル・アレンジが英語詞とは異なるから勉強になる」と、リップサービスを交えながら語り、オールドファンを涙させたのでした。
その後も彼女たちはマドンナ、シンディ・ローパーマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーカルチャー・クラブらのヒット曲をユーロビート調メドレーでリメイクした『ショッキング・ノーランズ』をリリースしたり、バレンタインデー企画盤、卒業シーズン企画盤、60年代歌謡曲集を発表したりするなど、約1年間を企画もの一本で通すこととなりました。
当時テイチクは、ジグゾー(ミル・マスカラスのテーマソング『Sky High』であまりにも有名)のシンガー、デス・ダイヤーに浜田省吾や安全地帯、上田正樹の曲を歌わせてみたり、ヘレン・シャピロ(この名前を聞いて懐かしいと思う人は60代以上)に杏里の『オリビアを聴きながら』をカバーさせるなど、異常な逆カバー企画を連発していましたっけ。きっと予想外のヒットに会社自体が発狂状態だったんでしょうね。
そうした粗製乱造を繰り広げた結果、この路線もあっさり飽きられ、またしてもノーランズは日本から姿を消す事になりました。まああまりにも変なブームだったんで、予測は十分可能な結末でしたけどね。当人たちもこれが長く続くとは思ってなかったでしょう。でもそうは思ってもやらなきゃならないのがお仕事なわけでして。


その後ノーランズは94年にコリーンが出産のため、95年にバーニーが女優活動のため脱退し、一時はアン(82年に復帰していた)とモリーン(この人だけノーランズにずっといる)だけになってしまいます。
しかし00年には二人に加えてアンの娘であるエイミー・ウィルソン、そしてエイミーの友人ジュリア・ダックワースを加え、一部若返って再度シーンに復帰を果たそうとしました。
新生ノーランズは英国やオーストラリア、シンガポールなどでライブ活動を行いましたが、結局成功することはなく、05年にはついに解散しています。
そして08年にはアンが自叙伝『Anne's Song』を出版し、その中で父トミー(98年に死去)から、繰り返し性的虐待を受けていた事を告白していました。
あとコリーンも09年に自叙伝を出し、その中で16歳の時に当時のボーイフレンドで、ノーランズのバックバンドのキーボード奏者をしていたロビン・スミスとの間に、子供を身ごもってしまい堕ろしたことを告白しているそうです。このへんは芸能界にありがちなどろどろとした話ですね。
一方脱退したデニス、リンダ、バーニーはいずれも舞台女優として活躍していました。コリーンは一時引退していましたが、復帰後はテレビ番組のプレゼンターとして朝のお茶の間に登場する他、番組の企画で6ヶ月間に及ぶダイエットを敢行するなど、そこそこ頑張っていました。
このまま皆それぞれの道を歩いていくと思われた09年、何を思ったのかノーランズモリーン、リンダ、バーニー、コリーンの4人で再結成します。このニュースはさすがに当時驚いた記憶がありますね。
しかも驚いたことに、アルバム『I'm in the Mood Again』(日本では未発売)をリリースすると、どういう層が買ったのかこれが全英22位のヒットとなり、見事に再起を果たしたのです。


The Nolans - I'm in the Mood for Dancing


これが09年のテレビ出演時の映像です。
もうみんないろいろ変わり過ぎていて、誰が誰やらって感じですが、とりあえず頑張ってるのはよく分かります。
さすがに全盛期の張り上げるようなハイトーンボイスは出ないようですが、そこは年齢的に仕方ないんでしょう。


このメンバーで英国やアイルランドでツアーするなど、ノーランズとしての活動は活発だったようです。しかし12年に予定されていたツアーはバーニーの乳がん再発のため延期となり、結局翌年彼女は帰らぬ人となってしまいました。
ノーランズはアンとリンダも乳がんを患っていたことがありましたから、一族にまつわる宿痾のようなものなのかもしれませんね。
今後の彼女たちの活動予定は決まってないようですが、多分3人で続けるんじゃないかという気がします。アンやデニスは他の姉妹と確執があるそうですし。
特にアンは下積みの厳しい時に自分が中心になって支えたのに、ブレイク時に出産などのためにグループを離れたため、再結成メンバーから外されたなどと不満をあからさまにしているようです。まあ気持ちは分からなくもないですが。


最後におまけ曲を一つ。普通なら取り上げる機会もなかなかないので、ちょうどいいかなと思って。


Young and Moody Band - Don't Do That


ヤング・アンド・ムーディ・バンドの81年にリリースしたシングル。全英63位。
これはステイタス・クオーの作詞家として活動(全英1位になった『Down Down』も彼の作詞)し、5人目のメンバーと称されていたボブ・ヤングと、当時ホワイトスネイクにいたギタリストのミッキー・ムーディが組んだバンドです。
ノーランズモリーン、リンダ、パーニー、コリーンがバックコーラスとして参加しているので取り上げたのですが、他のメンバーを見てもベースがモーターヘッドレミー・キルミスター、ドラムスが当時レインボーにいた故コージー・パウエルという超豪華さです。
ヴォーカリストは髪型を見て一瞬アート・ガーファンクルかと思ってしまったのですが、この人はエドウィン・ハミルトンといい、グラハム・ボネットの『Night Games』(邦題は『孤独のナイトゲームス』。西城秀樹も『ナイトゲーム』としてカバーしてました)を書いた人なんだそうです。
さて肝心のヤングはどこにいるのか、と言うと、ギターのムーディの横でハーモニカを吹いています。仮にもバンドの頭に名前があるのに、この影の薄さったらないですね。
正直特筆するほどのものでもない、普通の曲だと思いますが、メンバーの取り合わせが面白くて、珍品だというのは間違いないですね。特にハードロックとノーランズのミスマッチ感がなかなかです。
ちなみにレミーは若い頃のノーランズと仕事が一緒になる機会が多かったらしく、当時を回想してこういうコメントを残しています。
ノーランズは『トップ・オブ・ザ・ポップス』で何回か一緒だったんだ。可愛い子ってイメージがあったけどタフで、根性が座ってたよ。一番小さい妹を楽屋に連れ込んでヤッちまおうとしたけれど、マネージャーのガードが固くてダメだった」。
さすがレミー御大。キャラをよくわきまえた発言でございます(苦笑)


バーニーは52歳だったということで、まだまだ若いですね。
特にファンだったことはなかったですが、全盛期はいろいろ楽しませてもらいました。ご冥福をお祈り致します。