[][][]レミー・キルミスター

えー、今月初めに「再開します」と言っておきつつ、いろいろアクシデントがあって気力が出なくてずっと放置していました。ごめんなさい。

アクシデントというのはまず転倒して頭を打って、今も時々頭痛がすること、そしてもう一つはアイドルに夢中になっていて、体調の良い時はコンテンツをずっと追いかけていたことです(どこがアクシデントだ)。

頭を打った云々については、まだいろいろあって詳しく書くことは差し控えておきます。アイドルに夢中云々については、いずれもう一つ持ってるアイドル専門のブログに書くことになると思いますが、まあこのブログを読んで下さってる方々は興味ないことだと思いますので。

それはそれとして、ようやく書く気が起こったので、こちらのブログを再開致します。

まだ本調子ではないのでちょっと適当ですが、それなりに頑張ろうと思っておりますので、生温かい目で見て頂けると幸いです。

それと自分が入院している間にコメントして下さった方、大変遅くなりましたがすべてレスしてあります。本当に申し訳ありません。


さて再開一発目ですが、いきなり追悼記事です。

去年の暮れにモーターヘッドレミー・キルミスターが亡くなりましたよね。

彼のことは子供のころから大好きだったんですよ。ですから彼の在りし日を偲んだ記事を書こうと思いまして。一か月以上経って追悼記事というのも変な話ですが。

ただモーターヘッドというのは40年も活動していたバンドですから、その活動をまとめるとなると膨大な量の記事になってしまいますし、第一気力や体力がもちません。

ですから今回はレミー個人に焦点を当てて、モーターヘッドを含めた彼の活動を、断片的に紹介したいと思っています。モーターヘッド全般についてもいずれは書きたいのですけど、いつになるかな。

これが終わったら、次はデヴィッド・ボウイの追悼記事も書くつもりです。彼の場合は断片的な紹介とか無理なので、十回くらいに分けて書こうかな、と思っています。

ですからしばらくは追悼記事が続きますが、辛気臭い内容にはならないと思います(と言うかそういう筆致で書けない)ので、御了承頂ければ何よりです。

ボウイについて書いたら、その後は10ccのグレアム・グールドマンのソロとか、ストラングラーズの小ネタとかになると思いますが、予定は未定です。


レミー・キルミスター(以下レミー)はモーターヘッドのフロントマンとして長年活動を続け、大音量でハイスピードの乱暴なロックンロール一般的にはメタルと捉えられていますが、レミー自身はモーターヘッドメタルとは思ってなかったようです)というぶれない音楽性で、世界中のロックファンから尊崇を集めている人物です。

ロック・ミュージシャンもしくはヘルズ・エンジェルスにしか見えないその強烈な風貌と、誰が聴いてもすぐにレミーと分かる激しいダミ声、マイクを高くセットし上を向いて歌う独特のスタイル(常に酔っぱらっているため、下を向いて歌うとゲロを吐いてしまうので、こうなったらしいです)、そして高音弦やパワーコードを多用してギターのようにかき鳴らすベース奏法は特徴的で、その極端さゆえに一度見たら絶対に忘れないくらい個性的です。

また四六時中ジャックダニエル*1コーラ割を飲み続け、しらふの時がほとんどないという破滅的なライフスタイルと、常に体制や権威に逆らい毒づき続ける反骨精神は、良くも悪くもロック・ミュージシャンらしく、個人的には真似したくはないですけど好感を持っていました。


そんなレミーですが、本名をイアン・フレイザー・キルミスターといい、1945年12月24日のクリスマスイブ(これはかなり笑える事実)に、イングランドのスタッフォードシャーのストーク・オン・トレンドで生まれています。同郷の有名人には英国で大人気のポップシンガー、ロビー・ウィリアムズや、ハードコアパンクのディスチャージの面々がいますね。

彼の実の父は英国空軍従軍牧師だったそうなのですが、生後3か月で離婚してしまい、母親と祖母は幼いレミーを連れてニューカッスル・アンダー・ライム(一般に知られるニューカッスルは、正式にはニューカッスル・アポン・タインといい、こことは別)に移り住みます。

そしてレミーが10歳の頃、母は元サッカー選手のジョージ・ウィリスと結婚し、ウェールズアングルシー島に移りました。

このウィリスという選手は当時の英国3部リーグでインサイドフォワード*2をしていた選手で、要するにローカルプレイヤーなんですが、英語版のウィキペディアには記事がありましたね。レミーの義父だからなのか、それともそれだけ英国サッカーが盛んだからなのか、そのへんはよく分かりませんけど。

ウェールズのセカンダリー・スクールに通って、そこで「レミー」とあだ名をつけられた彼は、卒業後は地元にあるホットポイント*3の工場で働きながら、ローカル・バンドでギタリストとして活動していました。

また16歳の頃には、地元のキャバーン・クラブというライブハウスに来た駆け出し時代のビートルズを見て、ギターをコピーするなど激しく影響を受けています。レミー曰く「ジョン・レノンが客と殴り合いをするところを見た」そうですが、そのへんはどうなんでしょう。

そして17歳の頃、レミー英国本土に渡ります。たまたまアングルシー島バカンスに来ていた、キャシーという女性を追いかけて、そのまま英国ストックポートに住みついてしまうのです。

彼はそこでキャシーとの間に一子ショーンを儲けています。ただレミーは子供のことはほったらかしで、ショーンと会ったのは21世紀に入ってからだとか。


ストックポートに渡ったレミーは、そこでレインメーカーズとかモータウンセクトという名前のローカルバンドにギタリストとして加入し、うだつの上がらない3年間を過ごしていましたが、65年にロッキン・ピッカーズというバンドに加入すると運も向いてきて、CBSと契約し3枚のシングルをリリースしました。


The Rockin' Vickers - It's Alright

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これがロッキン・ピッカーズのシングル。ザ・フーのカバーですね。

まあ当時の英国の標準的なロックバンドという感じですが、レミーのギターソロはサイケデリックな感じで、なかなか特徴的かもしれません。

あと映像には当時のレミーの顔も出てきますが、結構イケメンですね。ひげがないので言われなければ分からなかったかもしれないですけど。


レミーは67年までの2年間をロッキン・ピッカーズの一員として過ごしています。バンドは本国では売れなかったですが、何故かフィンランドではそこそこ人気があり、ヨーロッパ各地をツアーしています。また65年にはユーゴスラビアで演奏し、同国を初めて訪れた英国のロックバンドとして名を残しています。

この間バンドはマンチェスター本拠地を移し、レミーはそこでトレーシーという女性との間に、ポールという子供を儲けています。彼についてはこの後に書きます。


しかし67年にロッキン・ピッカーズは解散してしまいます。新しい曲も作らず小銭稼ぎのツアーばかりしていた、このバンドの活動に既に嫌気の差していたレミーは、単身ロンドンに移りフラットで共同生活を始めました。

そのフラットで共同生活した相手が、なんとジミ・ヘンドリックスエクスペリエンスベーシストであるノエル・レディングと、エクスペリエンスのマネージャーだったネヴィル・チェスター*4だったため、レミーはその伝手で一時期ジミヘンローディーを務めていました。

まあローディーとは名ばかりで、ジミヘンミッチ・ミッチェル(ドラムス)のドラッグ調達係だったらしいんですけど。レミー曰く、二人は10錠調達してくると、3錠は分け前としてくれたんだとか。

そして68年になると、レミーはサム・ゴパルというバンドに、ヴォーカリストギタリストとして加入します。

このバンドはマレーシア出身のタブラ奏者、サム・ゴパルを中心としたサイケデリック・バンドですね。

前身のサム・ゴパルズ・ドリームには、後にロッド・スチュワートのバックやジェファーソン・エアプレイン(ジェファーソン・スターシップ)でベースを弾いたピート・シアーズや、ビ・パップ・デラックスやビル・ネルソンズ・レッド・ノイズキーボードを弾いたアンディ・クラークが在籍していましたし、レミー脱退後には後にヘヴィ・メタル・キッズやスティーブ・マリオッツ・オールスターズでギターを弾いた、ミッキー・フィン(T.レックスパーカッショニストであるミッキー・フィンとは別人)も加入しています。


Sam Gopal - Sky is Burning

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これがサム・ゴパルの貴重な映像です。

音はサイケデリックと言いますか、なんかアシッド・フォークのような趣ですね。

T.レックスの前身であるティラノザウルス・レックスも、こんな感じの音だったような気が。

レミーのヴォーカルは我々がよく知っているダミ声ではなく、むしろとりとめのないような茫洋とした感じで、言われなければレミーだとは誰も思わないでしょう。


しかしレミーは1年でサム・ゴパルを脱退し、今度はチェルシーショッピングセンターで偶然で会って意気投合したドラマーのサイモン・キングに誘われ、彼のバンドであるオパールバタフライに加入しています。

ここでのレミーギタリストに専念していたようですね。


Opal Butterfly - You're a Groupie Girl

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70年リリースのシングル。

これも当時はやりのサイケデリック・ロックなんですが、ポップ風味もあって聴きやすいことは聴きやすいです。

ただこのバンドは商業的にパッとせず、この後すぐに解散してしまいます。


ここまではくすぶっていると言っていいレミーの音楽人生ですが、71年に突然転機が訪れました。

当時サイケデリック・ロックの雄として人気のあったホークウインドに、ベーシストとして迎えられるのです。彼はオパールバタフライでの同僚キングを誘い、バンドに加入しました。

ホークウインドは現在でも活動している、英国カルト・バンドです。音楽的にはサイケデリック・ロックハードロック、歌もの、キーボード主体のハード・ポップ、ハウス、テクノなど、様々に変化してまったくとりとめがないんですが、どの時代でも聴く者をトリップさせるようなドラッギーな感覚だけは共通していて、そのへんアメリカグレイトフル・デッドにある意味近い存在かもしれません。

レミーが加入してからのホークウインドは、それまでのサイケデリック・ロック一辺倒からロックンロール的な側面を強め、商業的に成功を収めていきます。


Hawkwind - Silver Machine

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72年リリースのシングル。全英3位の大ヒットを記録しています。

反復リズムを基調としつつ、シンセや発振器でドラッギーな味を出したヘヴィなサイケデリック・ロックですね。

単調と言えば単調ですが、この繰り返しが逆に聴く者にトリップ感覚を味わわせる効果を出しています。このへんは初期のブラック・サバスにも近いかもしれません。

ステージでは180cmの巨大なヌードダンサー、ステイシア(映像にも出ていますが、テレビ番組なので脱いでいません)が半裸もしくは全裸で踊りまくり、サイケなライトが激しく明滅し、大音量のライブを展開していたらしいです。楽しそう。


しかし75年にレミーは、ホークウインドの全米ツアー中、カナダオンタリオ州ウインザー近くの国境地帯で、薬物所持の容疑のため逮捕されてしまいます。

そしてこの件は不起訴で一件落着になったのですが、レミーはそのままバンドを解雇されてしまったのでした。

解雇の理由なんですが、ホークウインドのほかのメンバーはマリファナなどのソフト・ドラッグを愛用していたのに対し、レミーだけはスピード(覚醒剤)を愛用していたため、日頃から軋轢があったんだとか。レミー曰く「70年代のドラッグ差別だな。植物系がお好みの彼らには俺が疎ましかったんだろうよ」だそうで。

これはてっきりジョークなのかと思っていましたが、ホークウインドの中心人物ニック・ターナーサックスフルート)も「メンバー間で違うドラッグにハマると不協和音が起きる」と語っているんで、どうもマジみたいです。よく分からないけど面白い話ではありますね。ジャンキーの考えることはよく分からん。

実際レミーは一度寝たらずっと起きないし、一度起きたらずっと寝ないというかなり面倒なジャンキーだったらしく、周囲にかなり迷惑がられていたのは確かなようです。


ホークウインド解雇されたレミーは、同年ロンドンUFOにちょっとだけいたことのあるラリー・ウォリス(ギター)と、ルーカス・フォックス(ドラムス)とともに、バスタードというバンドを結成します。

しかしレミーの友人でもあり後に彼の息子ポールの義理の父にもなる、元T.レックスの初期メンバーのスティーブ・ペレグリン・トゥック(彼はウォリスとピンク・フェアリーズというバンドで同僚だった)に「その名前ではBBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出られない(Bastardは放送禁止用語に近い言葉なので)」とアドバイスを受け、バンド名をレミーホークウインドのために書いた最後の曲名であるモーターヘッドに変えました。ロック史上に燦然と輝くバンドは、こうして誕生したのです。

そしてフォックスがその年のうちに、ウォリスが翌76年に脱退し、カーティス・ナイト(かつてジミヘンの在籍していたカーティス・ナイト&ザ・スクァイアーズのフロントマン)のバンドに在籍経験のある"ファスト"・エディ・クラーク(ギター)、若手のドラマー(おっさんにしか見えないんですけど、バンド加入時はまだ21歳でした)だったフィルシー・"アニマル"・テイラー(ドラムス)にメンバーが入れ替わります。ここに黄金期モーターヘッドのメンバーが勢揃いすることになりました。

ここでモーターヘッドの初期の曲を何曲か紹介しておきましょう。


Motorhead - Overkill

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79年リリースの2ndアルバム『Overkill』(全英24位)のタイトルナンバー。全英39位。

イントロのツーバスドコドコから暴走する、モーターヘッドならではのナンバー。

レミーのダミ声と荒っぽい演奏が、当時のハードロックとは一味違う凄みを出していてなかなかです。


Motorhead - Bomber

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79年リリースの3rdアルバム『Bomber』(全英12位)のタイトルナンバー。全英34位。

ワイルドに疾走するロックンロールですが、当時にしてはザクザクし過ぎていて、疾走というより暴走とか暴発とかそんな感じに思えましたね。でもそこが良い。

この頃の彼らの音はあまりにうるさくて、「ノイズリダクションをすると何も聞こえなくなる」と揶揄されていました。しかしそれこそが彼らに対する最大の褒め言葉ですよね。


Motorhead - Ace of Spades

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80年リリースの4thアルバム『Ace of Spades』(全英4位)のタイトルナンバー。全英15位。

モーターヘッドってどんなバンド?」と聞かれたら、この曲を聴かせれば一発で理解してもらえるでしょう。

へヴィでハードコアごり押しサウンドなんですけど、結構キャッチーさも備えたカッコいいロックンロールです。

短い時間で一気に頂点まで駆け抜けるあたり、理屈抜きで最高ですね。


Motorhead - Iron Fist

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82年リリースの5thアルバム『Iron Fist』(全英7位、ビルボード174位)のタイトルナンバー。全英29位。

リフがカッコいい、アグレッシブな名曲です。まあCDだとちょっと音が軽く聞こえるところもあるんですが、ライブだと最強。

とにかく荒っぽいんですけど、そこが良い。


Motorhead - Shine

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83年リリースの6thアルバム『Another Perfect Day』(全英20位、ビルボード153位。邦題は『悪魔の化身』)からのシングル。全英59位。

前作『Iron Fist』のプロデュースについて、クラークレミーと揉めて脱退したため、代わりに元シン・リジィワイルド・ホーセズのブライアン・ロバートソンが迎えられての作品です。

ロバートソンのプレイはブルースがルーツのメロウなものだったため、モーターヘッドハードコアな音と合うのかどうかは最初から危惧されていたんですが、いざ『Another Perfect Day』がリリースされるとこれが大不評。

「メロディアスになった」「軟弱になった」とガチガチのファンほど反発し、中には「ロボ(ロバートソンの愛称)を殺さないといけない」とまで言い出す者(というか日本の某雑誌)も現れる始末。

このファンの反応に激怒したレミーは、ライブのセットリストから定番曲をすべて外すという挙に出て対抗しますが、結局セールスはいまいちでロバートソンは脱退を余儀なくされました。

というわけで『Another Perfect Day』は駄作の烙印を押され、僕もそう思っていたんですけど、今回改めて聴き直してみると結構良いじゃないですか。

確かにクラークのギターのような荒々しさには欠けますが、これはこれでレミーとロバートソンの個性が見事に融合していて、哀愁の一曲に仕上がっています。

まあルックス的にも全然モーターヘッドっぽくなかったんで、どっちにしろロバートソンは長く在籍してなかったと思いますけど、それは別の話としてこれは渋い名作です。

当時ボロクソに言ってた人は、今こそ虚心になって聴いてみてほしいですね。


その後モーターヘッドからはテイラーも抜けますが、メンバーチェンジを経て時には4人組になりながら(またトリオに戻りましたけど)も活動を続け、多くのロックファンやミュージシャンからリスペクトを受けています。

モーターヘッドがなかったら、ハードコアパンクスラッシュメタルも存在しなかったか、もしくは出てくるのが相当遅れたはずです。それくらい影響は大きかったと思いますね。

レミーの死によりモーターヘッドも終わったのですが、その名は永遠に残るんじゃないでしょうか。


さてここからはレミーの関わった、ちょっと変わった映像を二つほど紹介しましょう。

まずはモーターヘッドガールスクールが共演した、その名もヘッドガールです(安直)。

ガールスクールって覚えている人いますかね。NWOBHMのブームの中から登場してきた、メンバーが全員女性のメタルバンドです。

そもそもこのバンドはレミーに見出されて、その口利きでメジャーデビューした(ほかにもタンクがレミーに見出されてます)ので、非常に友好的な関係でした。で、どういういきさつだったかは忘れたんですが、80年1月に共同でシングル『St. Valentine's Day Massacre EP』をリリースしたのです。

このシングルは好評で、全英5位まで上昇するヒットになっています。


Motorheadgirlschool - Please Don't Touch

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『St. Valentine's Day Massacre EP』のリードトラック。

ジョニー・キッド・アンド・パイレーツのカバーで、何も考えずに気軽に聴ける、なかなかノリのいい曲に仕上がっています。

映像ではテイラーがドラムを叩かずに踊っていますが、これは当時彼が首を痛めていて、ドラムを叩くことができなかったからだったはずです。

このメンバーから既にレミーテイラーケリージョンソン(歌っているギターの女性)が亡くなっていますが、ガールスクール自体は今も存続しています。


続いてはヤング・アンド・ムーディ・バンドです。

これはステイタス・クオーの作詞家として活動(全英1位になった『Down Down』も彼の作詞)し、5人目のメンバーと称されていたボブ・ヤングと、ギタリストミッキー・ムーディが組んだバンドです。

結成後にムーディがホワイトスネイクに加入したため、シングルとアルバムを1枚リリースしただけの活動に終わったんですが、そのシングルに何故かレミーが参加しているのですね。


The Young and Moody Band - Don't Do That

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81年にリリースしたシングル。全英63位。

曲以前にとにかくメンバーが豪華です。レミーやムーディはもちろんですが、ドラムスは当時レインボーにいた故コージー・パウエルですし、バックコーラスはノーランズモリーン、リンダ、故パーニー、コリーンですから。

ヴォーカルの人は髪型だけ見ると一時期のアート・ガーファンクルみたいなんですが、この人はエドウィンハミルトンといい、グラハム・ボネットの『Night Games』(邦題は『孤独のナイトゲームス』。西城秀樹も『ナイトゲーム』としてカバーしてました)を書いたシンガーソングライターなんだそうです。

そしてバンドの筆頭に名前が来ているヤングですが、どこにいるのかと言うとムーディの横でハーモニカを吹いています。一応自分の名前を冠したバンドなのにこの影の薄さって、J・ガイルズ・バンドJ・ガイルズに匹敵するどころか軽く超えてるんじゃないでしょうか。

曲はまあ普通だと思いますが、ハードロックのサウンドとノーランズコーラスのミスマッチ感は、面白いような気がします。


そして最後に、レミーの息子ポール・インダーについて紹介しましょうか。

ポールは6歳になるまでレミーと会ったことがなかったそうなんですが、母親のトレイシーは当時ポール・マッカートニーと付き合ってたそうですから、両親ともにちょっと規格外の人だったんでしょう。

で、ポールは美しい若者に成長し、14歳になった81年にはシングル『Machine City』、アルバム『No Girls Please』でデビューを果たすことになるのです。

当時のポールのシングルのジャケットはこちら。


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もう1枚画像を。


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そりゃもうレミーとは似ても似つかないわけですよ。まあレミーも若い頃は結構イケメンでしたけど、こんなに貴公子然とはしてなかったわけで。

このルックス(今見ると角度によっては微妙にごつい気もしますが)ですから、もちろん売り方はティーンのアイドルでした。音も若い女の子受けしそうなハード・ポップ(しかも声も高かった)でしたから。

そしてデビューに際し、レミーとの関係については公には伏せられてました。そりゃレミーと言えばワイルドで無軌道で飲んだくれの人で、おまけに粗野で不潔なイメージすらありましたから、ポールのようにアイドル売りする場合、その息子だと名乗っても何もイメージ戦略上プラスになることはないでしょうしね。

これについてはレミー自身の意向もあったようです。彼は後に「自分のイメージが彼にとってマイナスとなる可能性もあったから」と語っており、意外な思慮深さを見せてくれます。

ただ残念ながら、ポールの売り出しは不発に終わりました。こういうのは水物ですから、なかなか難しいですよね。彼は自分で作詞も作曲もギターもこなし、『Machine City』もそこそこ良い曲でしたから、才能はそれなりにあったと思うんですけど。

その後ポールは自らのバンド(ポール・インダー・バンド)を結成して80年代半ばまで活動した後、主に裏方の仕事をしていたようです。

元X-レイ・スペックスのポリー・スタイリーンのシングルをプロデュースしたり、モーマスのシングルにギタリストとして参加したり、バナナラマ(!)のアルバムでベースを弾いていたり、元メン・アット・ワークのコリン・ヘイのアルバムにペースとプログラミングで参加したりと、ジャンルを選ばない(と言うか選べる立場にない)仕事ぶりを見せています。

またモーターヘッドのライブに登場して、ギターを披露したこともありました。『Machine City』の音源がどこにもないので、代わりと言っては何ですがその映像でも貼っておきましょうか。


Motorhead - Killed by Death

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09年11月のライブです。とりあえず仲は良いようで何よりですね。

ちなみにポールが17歳の時、レミーが彼に託した言葉はこれです。

「いいか、コカインだけはやめとけ。やるならスピードにしとけ。体に良いぞ」

いやどっちも良くないだろう。笑

まあレミーらしいアドバイスであります。


あとレミー第二次世界大戦関連、特にナチス関連グッズのコレクターで、世界一を自称しています。ドキュメンタリー映画極悪レミー』でその一部が紹介されていましたが、そりゃもうすごいものでした。

当然ドイツ人ユダヤ系の団体から抗議を受けることもあるんですが、彼はこんな言葉を残しています。

「俺は黒人のお姉ちゃんも抱いたし、党員としては失格だな。ナチの軍服着てるだけで、ナチ呼ばわりしないでくれ。こっちはカッコいいから着てるだけで何でもいいんだ。誰にも迷惑かけちゃいないし、人の楽しみにケチをつけないでくれ」

ごもっともです。

また粗野で野蛮なイメージにもかかわらず、英国では大衆的な人気もあり、お茶の間の人気者としてCMや映画(と言ってもトロマ*5の映画ですけど)などにもたびたび登場していました。


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これは英国で最も人気のあるポテトチップスのCMだそうです。

強面のイメージとは違ってかなりユーモラスで、ちょっとZZトップっぽいところもあって楽しいですね。


あれだけ酒に女にドラッグにと無軌道な生活をしていながら、つい最近まで元気で活動していたこと自体が驚異的ですし、そう考えると十分生きたのでしょう。

今は安らかに眠ってほしいです。

*1アメリカテネシー州の酒造メーカー、ジャックダニエルの製造するテネシーウイスキーの銘柄。

*2サッカーでまだフォワードが5人だった頃に、外から2番目に配置されていたポジション。

*3アメリカ屈指の家電メーカー、ワールプールのグループブランドとして有名。現在はワールプールが買収したイタリアの家電メーカー、インデシットのブランドになっている。

*4:後にクリーム、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、ビージーズ、マージービーツなどのマネージメントも担当している。

*5アメリカの映画制作会社。低予算のB級映画を専門に制作している。『悪魔の毒々モンスター』シリーズ、『悪魔の毒々ハイスクール』シリーズ、『悪魔のしたたり/ブラッドサッキング・フリークス』、『キラーコンドーム』『カブキマン』などが有名で、そのあまりのくだらなさからカルト的な人気を誇っている。日本でも関根勤をはじめ熱狂的なファンが一部存在しているため、劇場未公開作品でもだいたいはビデオ化、DVD化されている。

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liquidmania2
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おっさんの更新する音楽ブログ。基本的に後ろ向きで、ひたすら懐古に傾いていますが、突然新し目のネタを出すこともあり。高度な音楽理論や小難しい評論とは無縁の世界です。