来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

人は育てられない

最近めろこ。と話してて、そうだなぁと思ったのが「人は育てられない」ということです。

これまで色々と人材育成的なことをやってみました。しかし、なにひとつ上手くいきませんでした。その原因は「人は育てられる」という思い込みにあったのです。

 

どういうことかというと、人が育つかどうかはその人が能動的に動くかなのです。どんなにうちにノウハウがあったとしても、それを教えても受動的な人は伸びない。

 

振り返ってみれば、そんな当たり前のことに全然気づかなかったんだなと。

ただ、気づかなかった理由というのもあります。それは、人に恵まれていたということです。

NEXTというサークルをやっていた頃からメンバーが優秀で、個々の能力を発揮していました。その後所属した組織や関わった人はみんな出来る人でした。

だから、売れるとか成功するかはともかくとして、誰でも最低限やるべきことをはやるだろうと思っていたのです。しかし実際は違いました。

 

世の中の多くの人は受動的だったんです。私はそういう人たちも才能があると思ったら色々サポートしてきました。将来を期待してその費用はこちら持ちで。

しかし、それも良くありませんでした。費用をこちらで負担することによって、そのお金をかけている価値を本人が気づけなくなったのです。

これが、声優事務所がワークショップを有料でやっている理由だと知りました。

 

たとえ才能があろうとも、本人の性格が受動的なら成功は有り得ないと理解したのです。

 

人は育てられないのです。自ら成長していく人をサポートすることは出来ます。人選で勝負は決まっていたのです。

 

もう人材育成は考えません。それより自分をもっと育てなくてはと思いました。まだまだ隠居には早いなと。

日本のドラマ・映画が海外で受けない理由を考えた

Amazonで配信中の韓国ドラマ「私の夫と結婚して」を見ました。映像が非常に綺麗で話の展開もわかりやすく、最終16話までダレることなく見ることが出来ました。面白かったです。

この勢いで別の韓国ドラマも見ました。こちらは「高潔な君」というかなりコメディ寄りなドラマ。2015年の作品と古めですが、当時の流行りか尺が短く小気味よく最後まで見れました。

 

ここ1年ほどはアニメ・マンガ・ドラマとかなりの作品を見たと思います。

そんななか日本のドラマ・映画が海外で受けない理由がこれじゃないかなというのを思いつきました。

 

それは「テンプレ(型)で構成されすぎ」です。

 

ドラマでよくある独り言をつぶやいたときに

「何か言った?」

「いや、なんでもない」

 

みたいなやつです。

 

TVドラマは特にテンプレが多く、それが見慣れているひとにとっては理解のしやすさに繋がりますが、逆に言えばそのテンプレをわからないひとには情報が足りません。

さらに最近多いのが、テンプレを使いたいがゆえに登場人物のキャラを変えてしまうことです。テンプレ表現のためにキャラに合わないセリフを言わせてしまう。

 

もちろん、海外のドラマにもそういうテンプレはあります。しかし日本のコンテンツはそれが顕著すぎるのです。

それはおそらく予算と時間がないことに起因してるのではないかと推測しています。テンプレは、作るのも撮るのも楽だから、それでとりあえず形には出来てしまうのです。

表現に必要なテンプレだから使ったわけではなく、作り側が楽をするために、手を抜くために強引に型にはめてるだけのテンプレです。

しかし、そんな作り方を続けてては、これからヒットする可能性は少ないでしょう。国内外ともに。

 

ちなみに、このテンプレの究極みたいなのが異世界転生モノ。読み手にとってはテンプレを知ってると消費カロリーが少なく読め、作り手もテンプレがあるので書くのが楽という共依存になっています。

そんな異世界転生モノはさまざまなテンプレが折り重なり、もはやカオスと化しています。そのせいでアニメ化の際にさまざまな説明をすっ飛ばされて、テンプレ知識のない人にはなんだかさっぱりわからないアニメになっている作品も数多くあります。

しかしながら、アニメではこのテンプレが海を超えてしまい、理解できるファンも増えてるように見えます。すごいっちゃすごいですが、さらに市場を拡大するのに壁となってることには変わらないかなと。

 

この表現のガラバゴスを変えていくことが、これからの日本のコンテンツの生き延びる道だと思います。

幼児語の必要性

 

私も上の人みたいに思ってました。このポストに対して

 

 

 

このようなポストが。ああ、なるほどなと。

 

今英会話の勉強をSPEAKというアプリでやってるのですが、このアプリはスピークというだけあってとにかく話すことがメインです。文法が〜とか発音が〜とかよりもまずは声に出す。これが効きます。

今まであった「英語話したいけどなんか言葉が出てこない」という状況が少しずつ減っていくのです。

 

それを考えると、幼児語というのもまず「ぶーぶー」でも声に出すことで親とコミュニケーションがとれていればそれは目的を達成してるわけです。「車」と言えるまでは話すのをやめておこうとはなりません。納得。

 

私は今英語の勉強で幼児語みたいなことをやってるのですね。

コンテストも「選ばれる側」です

R1グランプリの準決勝審査員にお見送り芸人しんいちが選ばれ、それをZAZYが批判しています。

 

 

これ結構重要なことだと思います。コンテスト出場者は当然トップになりたいですが、その評価を誰にされるかによってそのトップの価値は大きく変わります。

つまり、審査員選びの時点でそのコンテストの価値は決まっているのです。

R1運営がどういうスタンスで審査員を決めたかわかりませんが、お見送り芸人しんいちという人間の言動を見るにとても審査員として適切とは思えません。

というのも、R1優勝後トロフィーを持ち歩くというのは、芸よりも権威に価値を置いているという証拠だからです。そして、それは自分の芸に自信がない証拠でもあります。

この審査員批判はお見送り芸人しんいちではなく、R1運営への批判です。

こうしておかしいことをおかしいと批判するようになったのはとても良いことだと思います。

一瞬でAIに仕事を奪われた業界があります

最近ではAIの登場で仕事を奪われるとか奪われないとか色々議論がありますが、すでにAIによってあっという間に仕事がなくなってしまった業界があります。

それは、仮歌です。

これを聴いてみてください

youtu.be

これは、Synthsizer Vという歌唱ソフトです。AIを採用してから格段に歌が自然になりました。この動画の歌を聴いてAIだと思う人は殆どいないと思います。

AI以前はボーカロイドが主に歌唱ソフトとして利用されていましたが、ボカロはとにかく癖が強くて、自然に歌わせようとするととんでもなく手間がかかりました。その手間を「調教」と呼んでいました。

しかし、Synthsizer VのAIはメロと歌詞を打ち込むだけでかなり自然に歌います。大した手間はかかりません。

 

それで、割を食ったのが仮歌の仕事です。仮歌とは、言葉の通り仮の歌です。

音楽業界に「コンペ」というのがあります。アニメの主題歌やアイドルの歌などの企画で作家から曲を集め、その中から採用するというものです。このコンペではメロとアレンジの方向性を確認するのですが仮の歌詞と仮の歌が必要なのです。本番ではプロの作詞家が作詞して、歌は声優やアイドルが歌います。

以前はその仮歌をボーカリストにお願いすることが多かったのです。仮歌をメインの仕事にするボーカリストもいるのです。

Synthsizer Vの登場で相当仕事が減りました。コンペによっては、仮歌をSynthsizer V指定というものもありました。

人に頼めは当然ギャラをお支払いする必要がありますが、Synthsizer Vを買ってしまえばソフトの金額以上のお金はかかりません。

そしてお金以上の強みが、修正が簡単ということです。人が歌うと、その修正にレコーディングの時間がかかりますが、Synthsizer Vは使い方はガレージバンドなどと同じような感覚で音符や歌詞を手直しできます。

 

AIが業界の要望にきれいにフィットしてしまうと、本当に一瞬で仕事を持っていかれてしまいます。私は作曲が仕事ですが、プロレベルの楽曲をAIが作るのも時間の問題というか、すでにプロ一歩手前のレベルのものは登場しています。

 

明日はわが身でございます…

初期不良に当たりました

データを保管整理するためにNASを買ったのですが、見事に初期不良にぶち当たりました。

その初期不良を確認するため、NASにつなぐ15ピン対応の液晶モニタとそのケーブルをハードオフに買いに行き(ジャンク購入。計1430円)、それを繋いで晴れて初期不良が確定しました。

5年ぐらい前に15ピンケーブルなんてもう一生使わんと思って捨てましたが、こんな事で買い直すことになるとは。使わないと思って処分したら必要になる。あるあるですね。

NAS買ったのはAmazonだったのですが、返品に関してはAmazonかなり楽。サイトから返品の手続きをして、うちまでヤマトが引き取りに来て終了です。

 

今回は交換ではなく返品なのでNASは買い直さないといけないのですが、別のメーカーにしようかな。

 

早く私にデータの整理をさせてください。

残念な文化保護

とある沖縄の文化の継承を訴えるための展示イベントを見に行きました。

結論から言うととても非常に残念なイベントでした。

文化の継承を!と言いながら何が文化として貴重なのか、継承する必要性があるのかを言語化せず、要約すると「このままでは文化が途絶える!だから補助金の文化事業でイベントしました」とだけパンフレットの冒頭に書かれていました。

 

特に私が気になったのは、文化と言いながらその歴史に全く触れていないこと。いつ誰からその文化が始まり、どのように継承され技術が確立、変化していったなどの記述がパンフレットにも会場にもありません。

その上酷いのが、パンフレットに載っている作品の写真には制作者の名前もプロフィールも載っていません。これでは誰からその技術を継承すればいいのかもわかりません。

 

会場で流していたビデオの出来も中途半端、会場のスタッフ、関係者らしき人は結構いるのに、来場者に説明をするわけでもなく内輪で雑談してるだけ。

 

私の見立てでは、それは文化継承に値しないものです。おそらく関係者も本気で継承するべき文化なんて考えてないです。歴史を掘り下げないし、出来ない。それが証拠です。ただの補助金目当て。

 

こういうことするから沖縄の文化は駄目なんです。ほんと呆れます。