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Lithos kulindomenos to pukos ou poiei.

2008-11-02

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庭園美術館 「1930年代・東京」展

 

 目黒にある庭園美術館に行ってきました。

 東京都庭園美術館朝香宮邸として1933年(昭和8年) に建てられた建物を美術館としたものです。

今回の展示企画は朝香の宮邸が建設された1930年代の東京に焦点が当てられ、当時の、絵画、広告デザイン、写真、文章などが展示されていました。

 それまでの1930年代のイメージとしては世界金融恐慌軍部の台頭・全体主義に向かう流れというイメージがあり、

市民生活も抑圧されたものだったのではないかというイメージを持っていました。

 確かに展示物の中には、軍備拡張、領土拡大をあおるような見出しの新聞や、雑誌が街中の売店に並んでいる写真の展示などもあるものの、芸術や建築文化については開放的な部分もまだあり、世界にも目を向けられていた時代だったんだということが伝わってくる展示内容でした。


 そんな中で「神原泰 詩『1930年の彼女の風景』(「風俗雑誌 1930年8月号」《東京都庭園美術館蔵》)という展示がありました。

 で、展示者側が意図的に見せたいと思って展示をしていた蒲原泰の記事と同じ見開きページに 秋山勇作の『エロチシズム』という記事を見つけました。

 

 ガラスケース越しに見ながら、さささっと、メモ書きをしてきたのですが、おおよその内容は、

・(女性の服について)それまでのたけの短い脚線美を強調したファッションから、脚は見えないが、腰線美を強調したピッタリとした服装が流行している。水着についてもピッタリとした傾向がある。

・ツーピースよりもワンピース

・女優クララ・ボウ(*1)の映画「イット」の輸入やコロンタイ(*2)の「恋愛論」の影響が最近の女性にはある。

・通經薬(漢方民間療法での月経を正常化させる薬。避妊の効果もあるとされた)と、産児制限相談所(*3)に行列ができる。

・雑誌は全ページの数%を占めるエロによって売れ行きが左右される。

通信販売のエロ雑誌やエロ書籍が登場。

性病の増加や貰い子殺し(*4)にも影響している。

といったものでした。


 なお、帰宅後調べてみると、1930年代は

1930年(ドイツ)避妊のためのグレーフェンベルグ・リングの発明

1931年 (日本) 荻野久作が受胎調節法を発表(オギノ式避妊法につながる)

1932年 (日本) 避妊のための太田リングの発明。

1934年 (日本?)ラテックス製コンドームの開発。(商品名:ハート美人)《これ以前はゴム製などのコンドームだった。》

1936年 (日本) 避妊リング(IUD)、有害避妊器具に指定される。

1937年 (日本) 母子保健法制定。産児調節運動弾圧。

1938年 (日本) 内務省警保局「婦人雑誌に対する取り締まり方針」。

 という産児と避妊にとって大きな動きのあった時代だったようですね。

戦争に向けての埋めよ育てよの考え方と、女性の避妊をする権利との衝突、

貧困の中での命を左右される子どもたち。

自分にとって性に関する歴史の大きな転換点は1950年代1960年代サンガー婦人の性革命や同性愛者のストーンウォールでの警察との衝突など)だという頭しかなかったのですが、1930年代も調べてみると面白いのかもしれませんね。


写真は庭園美術館の建物や、庭園内のバラの花など

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(*1)クララ・ボウ(女優) Clara Bow  1905.8.6−−1965.9.27

 ニュ−ヨ−クのブルックリンの貧しい家庭の一人っ子として生まれたクララ・ボウはサイレント映画スタ−の座にのぼりつめ、引退後はレックス・ベルと結婚し、ネヴァダ副知事夫人となった。

 幼少時代は近所でもっとも汚い格好をしていたため、女の子たちの仲間には入れてもらえず、男の子と、時にはボクシングをして遊んだ。だが、美人コンテストに優勝したクララはハリウッドに進出し、パラマウントと契約。からだつきはボ−イッシュで、胸も小さかったが、十七歳で『モダンガ−ルと山男』でデビュ−し、『人罠』そして『あれ』(IT)(←セックスの意味)で、セックスの女神と呼ばれた。クララは映画の世界で表現した。二〇年代はボウ一色になった。

 多くの男との遍歴を重ねたクララの前に最後に登場したのは、西部劇俳優のレックス・ベルである。ベルは熱心な共和党員で、一九五〇年代にはネヴァダ州の副知事を二回つとめている。二人は一九三一年に結婚した。そして、夫のベルが急死した四年後、彼女も亡くなった。

 クララは亡くなる少し前にかつての元気なフラッパ−らしい元気さを取り戻し、こんなことを言っている。

「なんといってもいままでの人生、とっても楽しかったわ。これまで、ボロボロだったけれども、それだって好き勝手に生きてきたから」

(*2)アレクサンドラ・コロンタイ

 彼女は旧ソ連において外交官として海外で顕職を歴任した。フェミニストとしてのコロンタイは、自由恋愛を強く主張したことから反対者から指弾されてきた。しかし、コロンタイの自由恋愛論は、単なる放縦な男女の性交を奨励したものではない。実際、彼女は社会主義の下で男女間の不平等な上下関係、男性による女性の搾取が解消すると思った。コロンタイは真の社会主義の成立が、セクシャリティーの急進的な変化なしでは成し遂げられないと見なしていた。巷間、コロンタイは「性的な欲求の充足は、一杯の水を得ることと同じくらい単純でなければならない」と言ったとされるがこれは彼女の言では無いにしろ、性の問題を深く見つめ、性的な関心が飢餓同様、自然な人間の本能によるものであることを捉え、女性の解放を急進的に実現しようとした。

結婚と家族に関しては、共産主義社会では自由恋愛の下、解体されると主張していた。伝統的な結婚と家族は、家父長制による個人への圧制的な仕組みであり、財産権継承による個々のエゴの集積化されたものであるという知見を持っていた。そこで来るべき共産主義社会においては、男女両性は相互に労働をすることで互いを支え合い、家族ではなく社会によって子供の養育・教育が成されると説いた。こうしてコロンタイは、真の解放のために、男女両性とも本来自然に持っている伝統的な家庭生活に対する、ノスタルジアを放棄するよう促していたとされる。 コロンタイが著した小説「紅い恋」は当時の日本でも流行し、西條八十作詞の「東京行進曲」は、当初、コロンタイの著作「赤い恋」の語句が歌詞中に使われていた。

(*3)産児制限相談所

 日本では間引き及び堕胎(人工妊娠中絶)が暗然と行われてきたが、明治新政府は両者を法律で禁じた(堕胎罪参照)。また産児制限にも冷淡であり、特に当時は富国強兵政策の一環として「産めよ殖やせよ」政策を取っていた。1937年には産児制限が「国体維持に反する可能性がある」として警察が石本(加藤)シヅエを連行、その隙に産児制限相談所を家宅捜索しカルテ等を持ち出した。その結果産児制限相談所は閉鎖に追い込まれた。

(*4)貰い子殺し

 昭和5年4月に発覚した【殺人鬼村のもらい子殺し事件】。

 東京都内のある集落は、元々日銭稼ぎの労働者と無業者が多く住んでいたが、関東大震災後には被災した身寄りの無い人達もなだれ込み、一種の無法地帯となっていた。

 この集落では、農村などで生まれて、両親が子育てをする経済力などがない家の子どもを、仲介業者が「(経済力のある)別の家庭に引き取ってもらう貰い子斡旋」という名目で現金と共に子どもをひきとっていた。しかし、実際は、仲介業者は自分の取り分を除いた現金と子どもを、この集落に住む別の貧しい女性に引き渡すということが行っていた。

 警察、東京府によるこの集落に対する徹底的な捜査の結果、ある女性は仲介業者を通して引き取った子どもを約二年間で4人を殺し、養育料50円を横領していた。また、この集落の女性12人がもらい子殺しをしていた事が判明した。その結果、殺された赤ん坊は40人で、騙された養育料は1200円を超えた。

 この集落民は仲間意識が強く、横領した養育料は集落仲間との飲食代に化けた。一方、事情があって、泣く泣く子供を手放した母親は「子供の行く末を考えて金持ちの家に引き取られたと思っていたのに」と泣き崩れたが、世間の体裁を意識して訴えることがなかったため結局、警察が立件したのは1件のみだった。

 政府は、この事件を重視。全国のホームレスである子供の調査した。その結果、殆どが捨て子やもらい子であることが分かったとされている。