ねたみをなぜ抑制すべきですか

「また闘争やねたみのうちを[歩むの]ではなく,昼間のように正しく歩みましょう。」(ローマ13:13) 


 ねたみはどのような害をもたらすでしょうか。ねたみをなぜ抑制すべきですか。ねたみをどのように克服できますか。


 ラケルは子供がひとりもできなかった時、姉のレアをねたむようになり、夫のヤコブに対して「わたしにも子供を与えて下さい。でなければわたしは死んだ女となってしまいます。」と言いました。けれども、ラケルは実際にはヤコブからレアよりも一層愛されていました。(創世記29:30,30:1)けれども、「死んだ女となってしまいます」というラケルの言葉はラケルが夫から愛されているという事実に盲目になってしまっていたことを示しています。


 それで、他の人の持ち物をねたむならば、自分がエホバ神から与えられている祝福に対して盲目になってしまうことがあることが分かります。エホバは神の僕の一人一人に対してふさわしい祝福を与えてくださいます。そのことを考えるなら、他の人の持ち物をねたむことのないように気をつけるべきです。(出エジプト20:17)


 それから、ヨセフの兄弟たちはヨセフがエホバから預言的な夢を与えられてエホバから高められた時に、ヨセフをねたみました。また、ヨセフの兄弟たちはヨセフが自分たちよりも父親から愛されていたので、ヨセフをねたみました。その結果、彼をエジプトに奴隷として売りました。


 カインもアベルを殺してしまったのは、アベルに与えられた神の好意に対するねたみが原因でした。
サウル王はダビデに与えられた賞賛に対するねたみから、それまで良い関係にあったダビデの忠節を疑うようになり、ダビデを殺そうと追い回すようになりました。(サムエル第一18:8,9)サウル王がダビデを疑う理由はありませんでした。ダビデはサウル王を殺す機会が二度ありましたが、二度ともサウルに手を出そうとはしませんでした。


 ですから、ねたみを抑制しないならば、自分が神から与えられている祝福に盲目になったり、根拠もなく相手に不信感を持ったり、ねたんだ相手を攻撃したり、神の律法に違反することをしてしまうかもしれません。(創世記4:4〜7、37:11)私たちは他の人をねたんでいるならば、そういう状態になっていないか自己吟味をすべきでしょう。


 聖書は愛があればねたまないと述べています。(コリント第一13:4)たとえば、サウル王の息子であるヨナタンは、自分に与えられるはずの王権がダビデに与えられることになったことを知っていたのですから、ダビデをねたんでも当然でした。けれども、ヨナタンダビデの特質を高く評価しており、自分のように愛していたので、ダビデをねたむことはありませんでした。(サムエル第一18:1;20:17)かえってヨナタンは命の危険を犯してダビデを助けました。


 それで、私たちはねたみの感情が起きたなら、その人の良い特質を探したり、その人と交わったりしてその人に対する愛を培うように努力するならば、ねたみを克服できるということが分かります。