(3)人間は神に創造された

聖書は創造者が地球上に最初から人間男女を創造してに置かれたと述べています。進化論者は、何万年も前に存在していた類人猿から徐々に進化して人間になったと唱えています。どちらが真実でしょうか。


先回、説明したように自然界の遺伝の法則によって、親と子供は同じ種類の生物です。親猿は子供の猿を産み出します。人間の親は、人間の子供を産み出します。遺伝の法則のために、何世代経っても種類は変わりません。



Mother's Love by Ashok666(monkeymotherchild)
親ザルから小ザルが生まれます



母と子 by iandeth(motherbaby)
人の親から人の子供が生まれます



では、長い期間が経過して、類人猿が人間へと進化してきた証拠があるでしょうか。例えば、進化論では、人類の先祖として、アウストラロピテクスネアンデルタール人クロマニヨン人が有名です。アウストラロピテクスの脳の容量は約400ccです。現生人類ホモサピエンスの脳の容量は約1500ccです。


アウストラロピテクスは、人間とサルの合いの子のような画像で描かれることが多いです。しかし、それは進化論者の想像です。多くの場合、頭蓋骨から、それが生きている時の姿を推測したり想像したりするのは、大変難しいことです。アウストラロピテクスが人間の先祖の猿人の姿をしていたとするどんな根拠があるでしょうか。


現在、チンパンジーの脳の容量は約400cc、オランウータンの脳の容量も約400ccです。チンパンジーもオランウータンも、何世代経っても、脳の容量が増えることはないでしょう。なぜなら、猿は本能に従って彼らなりの生活を送っており、彼らは彼らの生活に満足しています。彼らは他の種類に変化する必要性はないからです。同じようにアウストラロピテクスに、進化して脳の容量が増えなければならない必然性はありません。



現在、アウストラロピテクスと同じ容量の脳を持つ猿がいるのですから、アウストラロピテクスは人間の先祖と考えるよりも、チンパンジー、オラウンターン、あるいは他の種類の猿の先祖と考えるのが妥当ではないでしょうか。



Australopithecus afarensis endocast - Smithsonian Museum of Natural History - 2012-05-17 by Tim Evanson (Australopithecus )
アウストラロピテクスの脳と骨格


チンパンジーの母子 (Chimpanzee) by Dakiny(Chimpanzee)
現在のチンパンジー
アウストラロピテクスは脳の容量が現在のサルと同じですから人間の先祖ではなくサルだったのではないでしょうか



そして、ネアンデルタール人の脳の容量が約1600cc、クロマニヨン人が約1500ccです。そして、ホモサピエンスの脳の容量が平均約1450ccと言われています。なぜ、ネアンデルタール人クロマニヨン人の脳の容量は、小さくならなければならなかったのでしょうか。それは進化と言えるでしょうか。




A Young Neanderthal by Ryan Somma(Neanderthal2)
ネアンデルタール人の骨格は現生人類の骨格に似ています




ネアンデルタール人の想像図−ネアンデルタール人は人間の先祖ではなく人間そのものではないでしょうか−今でもこのような容姿の人は存在します
Neanderthals by Mara ~earth light~ free potential (Neanderthal1)


聖書は、ノアの洪水の前に人間が大変長生きで、千年近くも生きた人々がいたことを記録しています。(創世記5:5,27)昔、人間は、完全に創造されたアダムにより近い状態にありました。ですから、ノアの洪水より前に存在していた人間が今の人々よりも、脳の容量がより大きかったということは考えられることです。人間は進化していると言うよりも退化しているというのが当たっているかもしれません。


しかしながら、現在でも、頭の大きい人は存在します。例えば、作家のツルゲーネフの脳は2012cc、アインシュタインの脳は1230ccです。ですから、ある程度頭の大きさが違っても同じ種類の中の変異に過ぎません。とても賢いとされる人の中にも、脳の容量の小さい人は存在するのですから、脳の容量が小さくなっても、必ずしも大幅に退化したとは言えないかもしれません。いずれにしても、現生人類よりも少し大きな脳を持つネアンデルダール人は、現生人類より下等な猿人というよりも、人間の分かれのひとつと考えられるのではないでしょうか。


それで、人間の先祖とされる類人猿は、サルか人間かのどちらかだと考えることができます。何千年もの間、最初から、人間は人間として、サルはサルとして存続してきたのです。


 さらに、古代絵画を調べてみると何千年前も現在と同じ種類の生物が存在します。例えば、約六千年前とされるエジプトの壁画には、人間が登場します。数千年時が経っても、人間は人間として存続してきたことが分かります。


Mural by Daniel Paquet(egyptmural)
何千年も昔から人間は人間として存続しています



聖書は、人間と動物の間では、それぞれ特質が異なることを述べています。人は、「知恵と理解力がある」と述べられる一方、聖書は「動物的」なことと「闘争心とねたみ」を結び付けています。(ヤコブ3:13,15,16)


日本の高崎山でのニホンザルの研究によると、オスでもメスでもすべてのサルの間で力の強弱による順位が決められています。そして、餌場では、順位を決めるために、いつもけんかが行なわれています。そして、順位が上位の猿が与えられた餌を優先的に食べるという傾向がありました。また、交尾期にはそのけんかはよりひんぱんになりました。ですから、サルの社会はいわゆる強者中心の縦社会であり、聖書が述べるとおり「闘争心やねたみ」によって動いています。



Monkey Fight! by gripso_banana_prune(monkeyfight1)
サルはけんかによって順位を決めます−動物界は闘争心で物事が行われています


また、ニワトリの群れの研究によると、同じ傾向が見られます。ニワトリの群れの中で、けんかをして社会的順位が決められています。そして、常に上位のニワトリは下位のニワトリをつつきます。一番上位のニワトリから餌を食べます。一番、下位のニワトリは、餌を食べられなかったり、皆につつかれたりして、死ぬこともあります。このようにサルでも、ニワトリでも、その社会の根底にあるのは「闘争心」かもしれません。


しかし、人間の社会は必ずしもいつも、闘争心や順列で物事が決まっているというわけではありません。例えば、老人のために年金制度、病人のために保険制度、困窮者のために生活保護が設けられることがあります。


また、物事が愛や理解に基づいて行なわれることも確かにあります。うつ病や自殺願望のある人、失業者、自然災害の被災者を助けるために、政府、自治体、NPO、ボランティアのグループで、相談窓口が設けられたり、助けが差し伸べられることもあります。ですから、人間社会の場合は、必ずしも、「闘争心やねたみ」だけで物事が行われているわけではありません。政府や個人の利益の追求のために物事が行われるのではなく、なんとかして知恵を働かせてより多くの人の福祉を図る努力が払われます。しかし、動物の場合はそのような熟慮に基づいた組織的な助け合いはないでしょう。



南相馬仲町ボランティア活動センター。松本センター長の説明がはじまるところ。ボランティアの人数はざっと40人ぐらいか。by jetalone(volunteer)
人間社会ではしばしば愛や理解に基づいて物事が行われます−明らかに動物の世界とは異なっています



動物から人間に進化したのではありません。動物と人間の間には、はっきりとした特徴の違いが見られます。人間は、神の像につまり神の特質を反映する存在として、最初から人間として創造されました。人間社会は、最初の人間アダムから堕落・退化しているとはいえ、最初に神が人間に意図された神に似た特質をある程度反映しています。

ですから、私たちは、最初の人間男女に命を与えてくださった創造者エホバに感謝できるのではないでしょうか。私たちは、神から与えられている命を感謝して、神のご意志を行なうようにしましょう。

[関連する記事]
創世記1章・人類の先祖である猿人は存在しなかった
創世記1章・猿人が現代に生存していないのはなぜか

[ライブドアの最近の更新]
創世記2章・エデンの園にあった善悪の知識の木と命の木