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2015-01-11 涜神の義務と踏み絵と風刺画

涜神の義務と踏み絵と風刺画

ここに襲撃事件についての2つの言説がある
フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る−藤原敏史・監督 | 日仏共同テレビ局フランス10
http://www.france10.tv/international/4581/

前者については、一読して身の毛がよだつようなおぞましさを感じた。
前者のおぞましさは、努力して名誉フランス人になれた、という上から目線があるからだ。そしてその国家体制で居心地がいい、といっているところにある。独裁国家のエリート市民が自分は弾圧されることもないので幸せですっていってるようなもんだ。イスラム団体が非難声明を出したことを賞賛しているが、これも意地の悪い見方をすれば中間団体が如才なく国家権力というか空気に屈服しているともいえるわけだ。もはや従前までの風刺画への抗議も出来まい。犯人と戦って殉職した警察官がイスラム教徒であったのもまたある種の方向性の定まった言説である。
そもそも日本人がノースキル労働者として海外に渡るということはもはやほとんど無くて、すでに専門性の高い技能を持って向こうの社会の一定の階層に食い込むのである。だから向こうのマジョリティやエリートの価値観にどっぷりそまった言説しか出てこない。風刺画に理解を示して糞ジャップどもは違って近代的市民であることを示すのだ。普通の日本人のホンネの「あの風刺画はないわ」は出てこない。

そもそも厳格な政教分離、というのは往々にして”政教分離”というイデオロギーが非寛容な宗教となり、他の宗教への弾圧になる。公有地にお地蔵さんを置くわけにはいかないと撤去して、間違って石材屋で破砕されてしまったという悲惨な「事件」があった。これも厳格でかつ非現実的なイデオロギーがもたらした惨事である。
またフランスにおいても、公教育の場からの宗教的シンボルの排除などが行われ、イスラム教徒との深刻な摩擦を引き起こしている。そもそも、カトリックの影響の強い王朝を革命で破壊し、独裁者ナポレオンが作った寺請制度みたいなもんも打破してフランスの近現代があるそうだ。つまり革命国家なのである。革命国家の理念としての政教分離は、もはや教条的なものになる。政教分離はそれに順応できる宗教もあればそうじゃない宗教もある。近代と折り合いを付けたり、あるいは生活習慣へのしばりが希薄なキリスト教仏教よりも、それらが厳しいイスラム教のほうに過酷に働く。そして政教分離という国家イデオロギーに屈服するか否かを強いるのである。つまり踏み絵である。イスラム教徒はあれらの風刺画を容認することを強いられるのだ。容認できないから近代社会の市民失格であると。そして訴訟などをするも救済がされることはなかった。国家がイスラム教徒イジメを容認していることになる。

モロッコの新聞の風刺画で、みんな前を向いて礼拝しているのに、一人だけ過激派が銃を背負って後ろを向いている、という風刺画があった。別にタブーに踏み込まなくても風刺画は描けるし、より多くの穏健なイスラム教徒から共感を得られる。それでもアッラーコーラン揶揄する風刺画を描く権利がある、すべての権威を嘲笑する必要がある、というのはもはや非寛容な宗教である。近代国家における公正な論争ではなく非寛容な宗教と非寛容な宗教との衝突である。「宗論はどっちが勝っても釈迦の恥」というが、本邦では宗論のあげくに天文法華の乱で京都焼け野原にして先人は懲りたようだ。一線を越えないのはマナーであり、街を焼け野原にされない知恵である。

言論の自由近代国家の根幹であるが、それを実質的に担保しているのは国家権力の統制された暴力である。たけしに殴り込まれたフライデー編集部は警察に通報したし、今回の一件の犯人を捕まえるのはフランスの治安機関であって、事件の発生から解決までという短い期間においては、犯人を批判する記事というペンの力で解決されるものではない。言論の自由に燃えるジャーナリストが、警官軍人や一般市民に対して、俺の言論の自由のためにお前も一緒に死ね、といえるのかどうか。タカ派政治家が戦争を煽り、ハト派政治家が死ぬのはお前じゃなくて若者だ、と批判するのと似たような話だ。けどそういう批判ですら許されないかもしれない。前回の風刺画事件でも政府は自粛を要請したが、ひくわけにはいかないと掲載した。もはや「ジハード」である。多くの巻き添えまで出しての大混乱が問うていることは辛い。

対して後者の藤原監督の意見には納得が出来る。はぶられる側の経験からすれば、マジョリティが強いる踏み絵の恐怖はあるわな。原発がらみでの風刺画について本邦の政府遺憾の意を示して、向こうからは木で鼻をくくったような返答があって、まあバカ相手してもしかたないですなと見下げてすっきりすることが出来た。これは我々が日本国内においてはマジョリティであるからこそ出来ることである。彼らにはすっきりする術などない。踏み絵を強いられているだけだ。そして事件によって抗議することの正当性すら奪われた。日本国内のごたごたなら「どっちもどっち」というメディアの良識とも遠慮とも逃げもともいえるような姿勢が事態の冷却に寄与するが、もはや他のメディアも”ジハード体制である。文明の衝突を自ら招いてどうするんだよ。こっちとしては火の粉がかからないように遠目に見ておくだけである

ちなみにその風刺画を載せていた雑誌の前進は「ハラキリ(アラキリ)」だそうである。フランス人が見たハラキリというと堺事件である。
【関西歴史事件簿】堺事件(上) 血で明けた明治維新の犖充足瓠∈羮緡Δフランス兵に銃撃22人死傷…新政府VS旧幕府牋篋┃瓩誘発「場外乱闘」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140105/wst1401050078-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(中) 処刑者20人「くじ引き」で決めた新政府土佐藩…犢駑廊瓩なわずフランスに屈した「代償」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140112/wst1401120079-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(下) 武士たちは己の内臓を投げつけ、首が落ちるまで何度も介錯した…仏人が目を覆った11人の壮絶・切腹シーン、余りの残酷さに途中で中止 (1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140119/wst1401190074-n1.html
不条理な政治的決定に対しての臓物を引きずり出して投げつけるというすさまじいまでの怒り、どうも伝わっていないような

ここは酷い決まりは決まりだからですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201407/article_47.html
ここは酷いキリスト教の暦ですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201409/article_38.html

2014-12-23 きさらぎ駅奇聞、平成の大合併の悲劇

きさらぎ駅奇聞、平成の大合併の悲劇

今回はこの路線で唯一のひらがな駅名のきさらぎ駅に降り立って見ることにした。
ひらがな駅名というとニュータウンなどを思い起こすが、降り立ってみても、駅前には何もない。うっそうと生い茂る藪の向こうは雑木林で、遠くに国道のバイパスからの車の走行音が聞こえる。この駅に何があったのか、背景には平成の大合併が生み出した悲劇があった。
きさらぎ駅は元々は山田駅という普通の小駅だった。この駅の運命を翻弄したのは、平成の大合併である。山田駅のある自治体の木川町は、皿野町、儀山町は合併を構想に入れて合併の交渉を始めた。新市名については紛糾した。そもそもこの3町は大根市という地域の中核となる十万都市の周辺にあり、大根郡に属する自治体であった。このため、郡名を新市名にすることもできず、また大根市を取り囲むような位置にあり、共有できるような川や山や著名な地物もなく、かといって3町の町名のどれかを新市名にする、ということも、名前と庁舎の位置をそれぞれ分ける、ということに繋がるが政治的に不可能であった。頭を悩ませた合併協議会は苦し紛れに3町の頭文字を繋げて「きさらぎ市」という名前を思いつくに至った。そして候補の中に「きさらぎ市」を入れて3町の町民にアンケートを採り見事、新町名を「きさらぎ市」とすることになった。如月は2月でありまだ新年が始まってまもないのでその初々しい気持ちを、とかひらがなで親しみやすい名前を、と理由づけていた。そして、暫定的に庁舎の築年数の浅い皿野町の町役場を庁舎を暫定的な本庁舎とする分庁舎方式とし、人口の多い木川町が合併特例債の期限までに建設する新庁舎が立地するということまで決定した。木川町は町議会会長の所有する山田駅の駅前の土地を、国道のバイパスが通ることと鉄道駅に近い、ということから「きさらぎ市」の新庁舎にふさわしいとの調査結果を合併協議会に提出した。合わせて老朽化した山田駅の駅舎を特例債でコミュニティセンターと合築で建て直すという計画も公表した。JRに対しては「きさらぎ市」の中心にふさわしく「きさらぎ駅」に改名してほしい、と要望しダイヤ改正を機にに実現した。たとえコストを負担して駅名を改称したとしても、それで新庁舎の計画が確定さうれば、という算段だったのではないかといわれる。
しかしここで納得できないのが暫定庁舎も新庁舎も得られなかった人口の最も少ない儀山町である。町内からは合併反対派の運動が起こり、木川町の町議会議長の土地が新庁舎の予定地になった経緯が不透明である、という点をついて反対運動を起こす。結果として木川町の町議会長は引責辞任し、バーター取引を飲んだ皿野町の町長も体調不良を理由に辞職するなどの混乱が生じ、結果として3町の合併構想は破綻した。
しかし、3町とも人口減少、特に周辺部の過疎化は深刻であり、合併なしでの持続は不可能である、という前提は共有していた。対して大根市は合併関連に事業による庁舎やゴミ処理場などの公共施設の建て替えを構想しており、3町に対して合併を呼びかけた。3町は当初は拒否の姿勢を見せていたが、その3町も加盟しゴミ焼却場や消防などを共同運営している大根郡広域組合の事務局は大根市にあり、大根市はもし合併を拒否するなら事務組合を解消するしかないとの要求をしたといわれる。3町単独での事務組合は財政的にも人員的にも不可能であり、大根市の打診を拒否できなかった。結果として、3町と大根市は合併して新生大根市となったが、実質的には大根市による吸収合併の色合いが強かった。分庁舎方式とは名ばかりで大根市の市庁舎に機能は集約され、新庁舎への建て替えこそなかったものの、大根市中心部のダイエーの撤退した店舗への新市庁舎への移転が決定されて、3町の庁舎にかろうじてのこされていた機能も吸い上げられることになった。
このような平成の大合併のごたごたで、山田駅の駅前から国道のバイパスまでの原野は宙に浮くことになった。大根市は3町に公共施設分散立地させるという構想を打ち出しており、大根市にあった老朽化する広域事務組合のゴミ焼却場をこの地に移転することになった。もうすぐ国道のバイパスからの道路が拡幅され、ゴミ焼却場の建設が始まる。名称は大根市きさらぎクリーンセンターとなることが先月の市議会で決定された。ゴミ焼却場の建設に伴い、当初のコミュニティーセンター併設の新駅舎の構想は変更されて、コミュニティーセンターはクリーンセンターの事務棟に併設となり、古くからある木造の小さな駅舎は老朽化によって取り壊されることとなった。
一部にはホラー話のとして話題に上がることもあるきさらぎ駅ではあるが、実際にはホラー話よりもよほど奇怪は平成の大合併のゴタゴタや、その後の事情のほうがよほど興味深いといえよう。現状の駅舎は来月のクリーンセンター着工に合わせて取り壊されるので、今のこの雰囲気を味わえるのも来月まで、ということになる。

2014-11-07 日本スゴイ番組は何処へいくのか

日本スゴイ番組は何処へいくのか

日本スゴイ系番組が花盛りである。というか各局ともゴールデンタイムがそれだよな
このブームの原因を何に求めるか、日本はすごいからだ、という身も蓋もないけどそれどうなのよ的な見方もあるし、パッケージ化された社会科見学系番組の作りやすさを指摘する向きもあろうし、衰退する日本にとっての都合のいい夢だ、と小馬鹿にする向きもある。それぞれにまあそうだろう、というところがある。

いわゆるテレビ的教養論とかはあって、そこからすればそれなりに質の高い番組ではあるんだよな。国民を統合する物語としても前向きだし、同業者の活躍はそれは誇らしいわけで、誰も損をしていない。元から、微妙な時間帯に1スポンサーでかなり掘り下げた内容の国内の企業とか研究者に密着する番組とかあるけど、それが鉱脈であったと気づいた、ということもあろう。

丸山真男が戦前の天皇制に対しての社会の中の矛盾した2つの考えを説明したものに、顕教密教というのがあるな。庶民が信じている、あるいは信じさせられている天皇制を神聖とする見方を顕教とし、エリートが学ぶ天皇機関説とかの考え方を密教とした。ここでは庶民の信じているものを顕教とし、担当者が知っている不都合な、あるいはマイナーだが重要な事実を密教と再定義する。
かつてにおいて、日本が世界に追いつけ追い越せ、あるいはバブル後の日本は社会的に未成熟だ、みないなものは顕教であり、日本はここが優れている、あるいはがんばっている人がいる、というのは密教だったと思う。バブル後のものづくりはもう古い、みたいなのは顕教であり、それに対しての密教メタルカラーの時代であったのかもしれない。その後は、ものづくりのすごさみたいなのは割と人気のコンテンツになったような気がする。そしてプロジェクトXに至った。この時点で顕教密教は逆になった。というかかつての顕教は力を失った。古い顕教を振り回すのは、戦後に万世一系を叫ぶようなものであり、二重にピントがずれている。

日本スゴイを見て同業者なら誇らしく思うのは当然だろうし、あるいは現場はそう単純でもないと頭が痛くなるかもしれない。ただ何にしろそれに対して参加出来るのは、日本が競争力をもっている業種であったり、内需的なサービス業で働く人なりであったりする。この時点で、例えば日本の会社が性に合わなくてIT系で海外で仕事してるとかは対象を外れてしまう。犬儒みたいなブロガーもたぶん対象にはならないだろう。

日本スゴイという顕教に対しての密教は、現場はそう簡単ではない、という苦悩であり悲鳴である。原発事故であったり、JR北海道の一件であったり、老朽化するインフラだったり、スマホ敗戦だったり、メタルカラーが現場で苦悩し敗れるようなことは今後は増えていくかも知れない。またサービス業でも、おもてなしの裏の悲惨な労働環境はクローズアップされている。しかしそれに対して答えを出すのは犬儒ではなく、その当事者であり、その苦悩に共感しどこまでを求めるかを考え直す国民である。

日本人は落ち目になっているから「日本はスゴイ」、に頼るんだ、という考えももまた、自分にとって気分のいい結論ありきである。日本スゴイが醜いなら、日本醜いもまた醜い。求められている密教はどうすれば状況が改善されるかを考えさせられる話であり、やがては顕教として社会を動かしていくことになろう。そうなってもやはり犬儒には居所などないのだ。

じゃあ外国人に語らせるのはどうか、ということだけど、そりゃ自己評価以外の評価他者からなされるものだから、他者代表としての外国人は出てくるわな。かつてより、外国人をして日本を語らしめるパッケージは手堅い。そこには日本人が外国人を騙っての言説が混じるくらいである。この前、テレ朝のそれ系の番組でバスと地下鉄を取り上げていたが、合理的な設備やシステムは是非導入したい、という反応であったが、合理性が失われた精神的な話については”スゴイデスネ”で終わっていた。また伝統建築的な話も、かなりレベルの高い内容ではあったが、かといってそうそう現代建築に展開できるわけもなく”スゴイデスネ”で終わっていた。やはり他者からの視線有益である、ということを示唆しており、図らずも「現場はそう簡単ではない」という密教に行き当たっているのが興味深かった。

で、当のテレ東であるが、経済系3番組も日本スゴイみたいな傾向はありつつも、それぞれの方向に進んでいる。ガイアの夜明けは企業のアドホックでかつ本質的ではない解決案を取り上げていたが、最近は「現場は簡単ではない」的な業界の宿痾みたいな課題を取り上げるようになった。カンブリア宮殿経営者はハイテンションなブラック企業を取り上げていたが、村上龍もゲンナリしたのか最近は不毛な競争からどう抜け出して自分だけの世界を作るのか、という方向へ向かっている。未来世紀ジパングは外国人をして日本スゴイを語らせる構成だったが、その取り上げる国があまりにも悲惨すぎるか斜め上にバブってて、もう日本の貢献とかほとんどおまけになってしまっている。それぞれに日本スゴイとは別の答えを追い求めていて、テレ東はつねに密教だな、と思わざるを得ない。それぞれに別の答えを追い求める、かくありたいものである。

2014-10-27 御社の話は聞いてない。経済人が社会を語ることについて。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

冨山和彦:我が国産業構造労働市場パラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性PDF
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf
批判を受けているG型L型大学の話である
で、くだんのページでなぜ大型2種なのか気になった人はいないだろうか。これは冨山氏が創設したみちのりホールディングスという地方のバス会社などの再生を手がける企業の存在があると思う。シェークスピアではなく観光を、というのはグループ中のホテルなどで働く人材を想定しており、大型2種をというのは再建中のバス会社の運転手を想定している、と考えると全て納得がいく話である。
会津バス 再生への物語:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110708/221367/
対して工学部で工作機械を、というあたりであまり具体的でないというかピンぼけな発想になっているのは、再建に関わった企業で池貝以外にものづくり系企業がないからだし、会計とか推しなのは会計畑の人が集まって企業再建ファンドを作ったから、そういう人材にのみ着目している、と推察できる。
そもそも資料の前半は地方のおける企業の課題などを検討する会議の資料の転用である。さらにサービス業生産性が低いしばらつきがある、というのも、生産性が高まる手法をグループ企業同士で共有することで再建を行う、という考え方に繋がる。
つまりその資料の前半は我が社の取り組みとそこから見えてきた地方経済の課題、という位置づけが妥当である。前半の部分については妥当だし示唆に富むと思われる。しかしそこから一気に大学改革へ話が飛ぶのは行き過ぎだろう。

例えばユニクロ柳井氏は、大学1年で採用を決めるだの、世界で年収100万円と1億円に収束するから国内もそうなるなどの話をしていた。たとえば後者の話であれば、賃下げは考えてはいないとはいえ世界統一賃金の世界では国内の店舗でユニクロ店員を100万円で採用できる、ということは国内の労働市場が100万円で店員が出来る人材が雇える、ということである。もし他の企業が300万出すよ、とするならユニクロは誰も雇えないか、同じように300万円払うしかない。ということは他企業も同様の雇用体系になっているので、100万円の給料しかもらえない消費者だけになる。そうなればユニクロの服ですら買わない消費者ばかりになるだろう。対して年収1億円の人がユニクロを買うか、というとまあ若干は買いはするが、大多数の消費者が変えなくなった分の穴を埋めることは人数の桁の問題としてあり得ない。結果としてユニクロの服を買う人はいなくなり経営破綻する、と自分で公言しているのである。それ以前にアベノミクスとかブラック企業叩きで人材は逸走してしまい、慌てて人事体系を見直すに至った。
また過労死自己責任と言い放った人材派遣会社のトップがいたが、その人材派遣会社経営者や管理職や高度な専門職を対象としており、大多数の人材派遣の企業とは異なっている。今日はどんな肉が美味いか肉屋に聞いたのに、なぜか魚屋がサンマがうまいと答えるようなものである。聞いてねえよ
ここで我が社の話と社会の話がごっちゃになっている。社会は我が社とは違って社長のいうことは聞いてくれない。その反面で我が社は企業同士の商売上や雇用などの競争で、平準化されてしまう。我が社は競争がないニッチであるか、競争に勝ち続けてそれに社会が追随する状況でない限り、社会に従わざるを得ない。どっちにしろ我が社だけのワガママは我が社だけでしか通用せず、またいずれは社会からしっぺ返しを受けてしまう。

経済人が政府の会議に呼ばれるなり、あるいは社会改革について何かしらの発言をするにあたっても、社会は我が社じゃない、という大前提が重要になる。まずは冒頭に「これからお話するのは弊社の話でございまして、同業種や類似業種には適用できるかも知れませぬが、社会全体に敷衍することが妥当であるかについては難しいものがございます」で始めなければならない。

もう一つ経営コンサルタントとして致命的な点がある。工業大学では基礎的な科目ではなくトヨタで使われている工作機械を、というておるが、トヨタの名前を出すならトヨタ企業内学校豊田工業大学については調べたのだろうか。前者を参考にするなら、学生に給料を出すことを表明すべきであり、後者ならそんな直接的な授業は行っていない、ということくらい調べはつくのである。もし仕事として請け負ったプロジェクトでそんな雑な報告書を書いたら干されるのは目に見えている。
経済人が教育なり何なりの直接自社の経営に関係ない話をする時に、自らの本業と同じような質の分析などは行っているのだろうか。結局は放言放言なのだが、それなら放言ですよ、あくまでも仮説なので専門家のご意見をいただきたい、というべきだろうし、専門家から反論されたら撤回するかブラッシュアップするか、しないと本業での発言にも疑問を持たれるのではないだろうか。
そもそもごく少数のG型の人材だけで社会が回るのか、そもそも地方まで来てくれるのか、ということを自分の資料で課題だとしながらも、それでもG型の人材を輩出する大学を限定しようとしている。それならなるべくG型の人材やG型の人材と連携して仕事が出来る人材を増やそうという発想に至るべきではないのか。長期雇用が増えるであろうといいながら、教育については長期に渡って有効な能力なのか、という検討もしていなさそうである。
L型大学のモデル:ドイツの専門大学の話 - 発声練習
http://d.hatena.ne.jp/next49/20141026/p2
ここでまとめられているドイツのL型大学の総合大学化は重要な指摘だろう。

アニメの評論とかで”セカイ系”という言葉がある。主人公と恋人との関係から一気に世界が滅亡するとかに話が飛ぶ作品についての若干の批判とも軽侮ともつかぬ含意のある分類である。家族がいて学校があって地域があって、という中景を無視するわけである。我が社の経営がいきなり社会をどうする、みたいなところに話が飛ぶのも、業界があって市場があって政府があって、あるいは社員の家族がいて、という中景がない点では立派な”セカイ系”である。
一度自分の経験を突き放して客観化しうるかどうかは、それこそ当人の教養なのである。往々にしてワンマン企業のトップは、企業内で一番の高学歴で、それなりに独りよがりではあるものの勉強をしているわけで、企業内でそれはないと冷や水をかけるような人が他にいないのである。そこが大企業経営者との違いではあるよな。創業家一族なら道楽的な教養もあろうだろうし、サラリーマン社長なら自分を客観化できないようなら出世もおぼつかないわけで。

(お前の会社の話は、というとちょっとぎょっとするのでタイトルを変更)

2014-10-14 JR

JR西日本が企図した革命への闘争と見抜けなかった”意識の高い”人達

堀義人氏 JR西の判断を問題視する(弁解三加) - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/731514
かようなことで炎上している案件があった
もとより、これは去年より主張していることが現実化したことである
高度防災国家におけるエクストリーム出社の是非 - よりぬき障害報告@はてな
http://d.hatena.ne.jp/lm700j/20131024
また、これはJR西日本が仕掛けた一種の革命への闘争だったのではないか、と思い始めた
ご理解とご協力を強制するセルフ順法闘争 - よりぬき障害報告@はてな
http://d.hatena.ne.jp/lm700j/20110217/1297976364

いくつかの報道や周辺情報からから決定に至った事情を整理する
台風の来る連休の末日で行楽客などが少なくなっていたこと
・抑止されたり、立ち往生した列車に乗客が閉じ込められることが問題視されたので
 無理に列車を動かすこと自体がサービスにはならないと判断されたこと
・事前に予告しておいたほうが利用客にとっても有り難いこと
・運転再開には長大な築堤などの点検が必要であること
国交省などから事前行動計画の制定が求められていること
・それにより社会活動自体を抑止しようとしたこと
・直通エリアが広大なので、一部区間の抑止が全体に影響を及ぼすこと
・沿線各所で列車が抑止されると翌日のダイヤに影響があるので
 計画的に運休を行い擬似的に終電として車両を車庫に戻すため
まあそんなところだろう。
対して私鉄では長距離列車が最優等列車間引きながらも、運行できる範囲で運行を行った。これは運転区間が限定されているため、途中で運行不能になっても混乱は限定できる、ということでもある。

単に天候の問題だけを云々するなら、台風前の終電が終着駅に着く時間までは、大阪周辺での間引き運転なども同じリスクとの中で対応可能な手段ではあったろう。またUSJの閉園よりも先に運行を停止したことで陸の孤島になった、という問題もあった。まあこれについてはUSJ側の不手際といえばそれまでである。

ただ、そういうところでまだ出来ることはないか、という従来型のサービス追究の姿勢を捨てて、明確に行動計画を策定してその通りに実行をした、ということに着目したい。また私鉄各社も同様の決断が可能かどうか見守っている状況なので、追随する可能性はそれなりにあるだろう。
これはJR西日本という地域独占に近い企業が仕掛けた闘争なのだ。目指すのは台風が来れば半日社会活動を抑止する未来である。ここに個々のお客様、個々のサービスといった視点は存在せず、社会の価値観をどう変えていくか、という壮大な企みがある。
そしてその企みは大成功に終わった。メディアもそれほど叩いてはいないし、これに異議申し立てをするのはワガママ、という空気も芽生えてきている。


来年の台風シーズンには、国交省JRタイムラインを策定して、それに私鉄が追随をする、ということになるだろう。また文科省台風シーズン前に各学校に明確なルールを策定するように要求はずだ。それもかなり安全側での判断となると思われる。同様に各省庁は業界団体を通じて、業界ごとの企業活動の抑止についてルール化を進めることになる。前回の台風ではトヨタが、今回は三菱自動車が工場の操業停止を決断したが、ピラミッド型の取引業態を持つ業界では、「トヨタカレンダー」のようにトップの大企業の決断一つで統制が取れるし、しかも台風は列島縦断をするので、サプライチェーンも各地方で同じ時間だけ止めれば差し引きゼロだ。小売り外食も不毛な争いにならないように横並びでの閉鎖を行うようになるだろう。逆に難民を収容するような目的で準備をして営業を継続する外食も出てくるだろうな。そして統制を進めて、社会的コストが最小になるように最適化を行っていくだろう。逆に社会機能を維持する仕事はまた厳格な計画に基づいて動く。ここに個人の情念が入り込む余地はない。そして客として要求しようとしても、もはや反社会的要求であると糾弾されるかもしれない。


また炎上した別の要因の一つとして、”意識の高そうな人達”が実は嫌われ者である、ということがあるのかもしれない。我々が、自分が「立ち往生した列車に閉じ込められる」という悲劇は想像しうるし、接客業であれば無理な要求をする乗客に窮する駅員を想像して自分も同じような辛い目にあうことも想像できるだろう。また計画を立てるのが仕事であれば運転指令とかの労苦もまた共感出来る。でも、「意識の高そうな自分が意識の高そうな講座に通う」のは別にしたいとも思わなければしないだろう。待ち望んだ趣味のイベントが開催されるか、というのは近いのかも知れないけど、開催されるべきで参加するのは当然、といった正義を求めるのは奢りだとは分かっている。そこに普通の人達が理解できる接点があるが、逆に意識が高いとその地道な理解をスルーして革命の意図に気づかない、ということになってしまう。

で、氏はエネルギー関連での発言では理にかなったことが多いわけで、巨大システムに対して敵対的ではないし、社会全体での最適化、という点も重視している。だから、本来はこの決定に対して理解するなり、分析的に批判するなりが筋であったと思う。しかし当事者となった時にそれほど理知的には振る舞えないこと、さらに正義を体現してしまったと思った時にその正義に合致する微妙な感じの言葉が出てしまうということを示してしまった。そこにあるのは巨大システムに翻弄された哀れな個人の姿だった。

つうか、次はJR西日本の担当者を呼んで、どういう条件でどういう意志決定を行ったか、という講演などどうだろうか。示唆に富むものになると思う。