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lmnopqrstuの日記

2009-02-20

村上春樹擁護論と「文学的自由主義」

20:29 | 村上春樹擁護論と「文学的自由主義」を含むブックマーク

一 「観客席」への批判について

村上氏を批判する際には、常に、同時に、その背後にいる「自分の問題として引受けない人たち」を批判するべきだ、ということです。僕自身は、「村上氏よりも」そちらを批判することに主眼を置いています。いずれにせよ、絶対に不問にしてはならないのは、村上春樹よりも、「観客席」にいるつもりの人たちのはずです。 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090217/p1

 行為主体である村上春樹を批判するより先に、相対的にしか責任を有さない「観客席」の人々を批判することを主眼とするのは、端的に言って、やはり間違いではないか。パレスチナ問題が自分に無関係な事柄であるかのように生活しながら、都合のよい時だけ観客席から拍手喝采する人々の無責任な偽善ぶりは、確かに批判されるべきだろう。しかしだからといって、このような人々への批判が、村上春樹自身の責任を相対的に不問にする方向へと助勢するとすれば、それは本末転倒というべきだろう。

「マコトシヤカなことをいうやつは」たしかに「偽者」であろう。とはいえ、同時に人はよく「マコトシヤカ」、「にせもの」への拒否を意識的または無意識的な口実にして肝腎かなめの「マコト」、「ほんもの」から逃走しがちなのである。(大西巨人『戦争と性と革命』56頁)

これにならっていえばmojimoji氏は、観客席批判を口実にして肝腎かなめの批判から逃走していると言えるのではないか。


二 責任について

システムは、隅々にまで及んでいます。システム批判さえ、システムの一部としてしかなしえません。常に、どこかでは加担しています。ゆえに、加担を含む抵抗は、抵抗としての価値を認めないとするならば、抵抗などそもそもまったく不可能になるでしょう。結局不可能だ、というシニシズムにゆきたいなら別ですが、そうではないはずです。私たちの足場は、そういう加担を含んだものでしかありえません。/ゆえに、私たちが逃れようのないシステムにおける加担の中で、わざわざエルサレム賞を受け取ることの加担のみを問題にし、それをもってスピーチの内容を全面的に棄却するような理屈に、僕は同意できません。それはダブル・スタンダードであるか、そうではないならば、袋小路=抵抗の終了でしかありえません。

エルサレム賞受賞という積極的加担と、システムにおける不可避の消極的加担は違う、と考える可能性はあります。これについては、また別に議論したいと思います。

いずれにせよ、村上を擁護するのか批判するのかは、ある意味では、どうでもいい問題です。問題解決とは、問題が解決されることであり、誰かが解決されるべき問題に言及することではないのですから。そして、それは村上氏の仕事ではなく、運動家の仕事でもなく、僕の仕事でもなく、それらすべての人々を含む「みんなの」仕事です。つまり、目標はまだ先にあり、その仕事に対する責任は、すべての人にある。シンプルな話です。 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090220/p1

 ここには、現代における個人とシステムの(いささか悲劇的調子をおびた)関係が描写がされており、それ自身、村上春樹の「卵」と「壁」という認識の反復=変奏になっているといってもよいように思われる。ただmojimoji氏が、(一方で)あくまで抵抗の可能性にこだわろうとしつつも、(他方で)「積極的加担」と「消極的加担」の間にある政治については(現段階では)ほとんど「加担」することがないまま、そこから一足飛びに、「「みんなの」仕事」あるいは「責任は、すべての人にある」という政治に「加担」するとき、それは「「国體」における臣民の無限責任」(丸山真男『日本の思想』)の反復=変奏になっているのではないか。つまりmojimoji氏は、「茫として果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力」(同32頁)にはからずも「加担」しているように思われる。「ここでも超近代と前近代が見事に結合」(同34頁)していないかどうか、よく吟味すべきではないだろうか。


三 「文学自由主義」について

戸坂潤の「文学自由主義」批判は示唆にとむ。以下『日本イデオロギー論』岩波文庫より引用。

 文学リベラリズムに就いては一五に述べるが、最近文壇でも注目に値いするテーマになりかけているようだ。之は元来、政治上の哲学的範疇である自由主義が、専ら文学意識によって支えられる他に歴史的に云っても社会的に云ってもその物質的根拠を有たない結果、いつの間には文学的範疇で以って置き換えられた、という日本に著しい一現象を云い表わす言葉なのである。だから今日の日本の可なり多くの文学者が一種の(即ち実は「文学的」な)自由主義者であり、そして今日の日本の自由主義が政治の世界に於てではなく狭義の文学の世界に於てその支柱を見出さねばならぬという現状は、今日の日本の代表的な自由主義が主に文学的範疇としてしか受け容れられていないという関係を物語っているのである。(232頁)

 自由主義はだから経済的な又政治的な範疇であって、元来哲学者的又文学者的範疇ではなかったのであるが、それが現在の日本などでは、自由主義と云えば、政治上の自由の問題などとは無関係に、哲学者的に文学者的に常識界で通用している。今日では自由主義という常識的用語は、もはや政治的範疇ではなくて文学的範疇になっているのである。云わば文化的自由主義自由主義の唯一の故郷となっている。(281頁)

 文化と自然との本当に文学的な又哲学的なリアリティーに対するセンスを持たない「文学者」や「哲学者」で、さりとて又意識的に反動の陣営に投じるだけの悪趣味を有つ気にならぬ者達が、その人間的感官を初めてノビノビさせることの出来る唯一のエレメントが、自由主義の名を以て天降って来たのだから、誰しも自由主義者であり又自由主義者であったことを、喜ばない者はないというわけになる。(283頁)

 文学自由主義者が進歩的に見えるのは、その文化復興主義を他にすれば、単にファシズムや封建意識に対する「反感」(それ以外のものではない)から来るのである。だが之は、彼等が一体から云って党派的なものである政治が嫌いだという、一般的な理由から由来するに過ぎぬのであって、現に彼等はプロレタリアの〔抑圧〕などに対してなら、ファシズムに対する以上に、「進歩的」(!)な役割を演じつつあるという、数限りない事実を参考にしなくてはならない。――結果は凡て、(文学的乃至哲学的)自由主義者の如何にも文学者風な又「哲学者」風な「無論理」から来るのだ。(289頁)

 リベラル派ブロガーたちの村上擁護が、「日本の自由主義が政治の世界に於てではなく」ブログ=文学の「世界に於てその支柱を見出さねばならぬという」近未来の予示とならなければよいのだが。

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