私家版マスメディア〜logo26のシニアの生き方/老婆の念仏

何が出てくるやら、柳は風にお任せ日誌、偶然必然探求エッセイ

2020年、三賀日からこの調子?

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 振り返ってみると(いつも振り返ったばかりだ、一歩下がる、それで2歩進めばいいのだが)、

2018年4月にドイツにまず下見にきた、その前に夫婦で非難の応酬をしてあたしもうんざりしたので理の当然として、奴隷解放的離婚を決意した。

良き時にも悪い時にも、と言い交わしたではないかとさも彼があたしを愛したかのように倫理的DVの旗をかざしたが、事実は良き時などなかったのだ。

心を強く持ってJBに宣言しどんなに恫喝されても引き下がらなかった。どうだ、と言う気持ちがした。覚悟した。


 のだが、翌朝システムがアラームを鳴らし、あたしはパニックになっていた、どこからそんな考えに至ったのか、思い返す暇もなかった。

離婚したらとりあえずJBを殺すことになる、殺人だ、それはしてはいけない、厳然たる自分への禁止の声のみが聞こえたのだ。とんでもないことになる!! パニック心理だった。避けなければ。それしかなかった。


 そして中間策へ飛びついた、介護人としてだが彼を捨てない、あたしは妻とか家族ではなく、単に路傍の人、介護人である。同じ屋根の下には住むとしても。それは理性的な理由からである。

 かくして迷いは一切なく、移住に集中し思いもかけずJBをサイボーグに強化してしまった。それで通常人となれるかと思いきや、JBは腰痛を引き起こし、神経過敏を助長させ、あたしを恐怖させもう心理的肉体的にも限度というところまで追い詰めた、その結果としての非難の応酬の結果、改めてJBから離婚の言葉がでた。


 これに対し、あたしがもうパニックにならなかったのは、周囲の友人たちが共依存だと焚きつけたからで、それをあたしもすんなりと理解、するとその意味での「殺す結果になる」ことへの恐怖を感じなくなっていたからである。おかしな心理だ。こんな飛躍を果たしたのは忘れもしない去年9月26日だった。 

(JBがあたしなしで状況を打開できるか、問題はこれだ、ヘルパーというシステムがある、ホームもある。JBはこれをしかし嫌う。あたしを死ぬまでこき使おうというJB、そうはさせまい、されまいとするあたし。

こき使う、という表現の背後には彼の世話が彼の悪習のために過剰に大変になっているという理由がある、ハウスドクターもあたしが背負いきれなくなっていると見通している、確かにまだ寝たきりではないのだが)

 

 驚きの結論に飛ぼう。新年2日夜、

バスを降りて坂道を持ちきれないほど重たい買い物袋を引きずり、やっとたどり着いた信号、そこで待つ数秒の間、

「車がないからこそのこの苦労!」と思い、

「父の禁止に逆らっても運転を習っておくべきだっただろう。」と思いつつ道を渡った。歩道へと来た、

「あ、そうか、もし車を運転してたらとっくに事故死している! それは佐藤さんの去年の事故であきらかだ」

(佐藤さんというのは日本で、車のないあたしのために無料でその便を提供してくれた既得な友人である。運転上手でいうところなかったのだが、私が去ってからまもなく、車は対向車に衝突され、あたしが座っていた助手席は完全に壊れたのであった)


 あたしは橋を渡りながら、カラカラと笑った。


 あたしのパニックはJBのためではなく、自分の事故死が来るだろうことへのそれだったのだ、彼を捨ててはいけない、と思って、ドイツで死なせようと思って、結局、あたしが避けえた事故死という道!!


 新結論、だからあたしは共依存などではない、


 今や、自分を恐れることなく大きな心で自らの自由な決定権を行使し、理性的にJBの環境を自立可能に整える。


 そこには慈愛のシステムという大きな支え、肯定がある。がしかし、あたしの意識がお利口ぶって、救いようのない彼を憐れんで、彼を改善し、真理へ導き大団円で大往生させようなんて偉そうすぎるな、そう言えば。

 

 ここからはもっと新しい見解だ。あたしの中からふっと湧いてきた。ドーラの嘲笑に対して。

「彼の人生の真理は彼が決める、選ぶだろう、妙な教唆や配慮はしない、彼の自由だ、あたしに自由があるごとく。彼の実相を礼拝するのみだ、あたしのするべきことは、それのみだ、いつものように、ただ、正しく潔く間違わないように」

 

.....

数え上げ

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 どう考えても1年前のことだ。今年は2019年の令和元年という節目の年で去年は2018年まだ平成30年だったのだ。

 1年前のこの時期、十日後くらいに冬至を控えてただでさえ薄暗い曇り空に夕焼けもささずに夜の帳が降りる。四方の小山は近くに迫っているのでたちまちに真っ暗になる、その暗い森の中をタクシーで走った。空に木々の影すら見えない。目が見えなくなったのかとふとゾッとする。と、陽気な光が不意に遠くに見える。その嬉しさ。人の世界があるのだ、クリスマスまで毎週末開かれるこの村の名物の夜市である。

 階段を降りて、無人の家に着くと、左手の庭の上部には樅の大木に半分覆われた、夜空がある。おお、何とその狭い隙間に輝く半月がちょうど引っかかっていた。あたしを見下ろしている、何と言ってもそうだ、ありがとうお月さん。

 そんな去年だったが、今年も変わりなく、紅葉ではなく黄葉の楽しい眺めも、枯れ木が増えるにつれこれまでの邪魔な葉っぱがなくなりナーエ川の様子が様々に見えるのも、その向こうに絵本のようにディーゼル列車が走っていくのも、とりあえずは気候変動の影響も目立たぬ同じさである。

 

 あの頃、7週間の入院中に夫のJBのステント、及ペースメーカー手術がすみ、クリスマスまでには退院帰宅すると騒いでいて、実際にそれを貫徹したのだった。

 

 新年になりすぐに腰痛となり、明るい未来がおじゃんになり、

1つ、JBの毒舌のための毒舌があたしを傷つけ始めた。

2つ、日本からの荷物を家の上下に配置し、あたしの自室ができて、念願の別居形式が実現した。

3つ、新しく知人が与えられる。同級生智子さんと黒服女史ドーラ、一方カフェ女主人ナディアとは縁が切れる。

4つ、腰痛のため身動き取れず、専門医探し、健康保険を使う、介護認定申請、身障者申請などの手続きが遅々として進まない。大いなる悩みであった。

5つ、8月になり在宅介護センターとコンタクトが取れ、マインツ大学病院入院というところまで進んだ。

6つ、あたしの不整脈マインツ扱いとなり薬無しでは危ないと言われる。また関節問題が診察され、リハビリを有料だが受けることになり手首にプロテクターをもらう。74歳になり年寄り臭くしようとする。

7つ、JB怒涛の入院騒動始まる。

 契機は8/23心臓弁膜チタン化手術。退院後すぐに呼吸困難となり救済病院入院、9/1に突如歩行可能となり、味覚異常亢進が起こる。この始まりはどうも、院内ラジオでミサを聞いた時らしい。

 それでも退院、翌々日癲癇的発話不能となり、9/3脳神経科へ収容されるも原因無しで退院、相変わらず味覚と認識昂進甚だしく全能感にみなぎり、快楽殺人心理に触れる発言あり、その時は笑っていた私だったが、有名な食人映画ハンニバルが思い出され、生きながら食べられるという妄想に取り憑かれたのであった。その際にJBが堪能する様子が連想され、身震いして部屋に鍵をかけるしかなかった。

 今思えば、この妄想こそ現在の別居状態へと続く重要な出来事であった。あたしの責任というのか、天から降ってきた賜物と言おうか。

 

 9/6癲癇的発作甚だしくなり、死を間近と思う騒動。三度目の救急車要請で二つの脳神経科を経て、閉鎖病棟行きとなる。JBはほとんど発話不能であったので、あたしの説明と訴えと恐怖が、JBの発言であると誤解されたのである。どうもそうらしい。

 界隈で有名なアルザイキチガイ病院へ、ただしそこでの診察ではただの脳神経科で良いと言われる。

 例の如く早速院内感染するも回復し、検査やテストをするが特に症状を引き起こすような病因が見つからない、それどころが急に癲癇発作がなくなり、元気に歩き同室の患者の世話をするという、おそらく元気に見せるための作戦か? 味覚昂進はあるので、原因はいわゆる気質的なものである、つまり狂気であると見る方向へ治療が、あるいは治療不可能が色濃くなる一方、あたしの同居不安は相変わらずで医者はこれも大いに考慮するようだった。  

 つなぎとしてキチガイ科へ転院させる、つまり退院後は家に帰らずホームに入れる/閉じ込めるということが承知された。

 JBに関わる複数の医者は、開口一番「奥さんを食べたいですか」と尋ねた、そんなふうにいきなり尋ねることで本音が聞けるという方法であるらしかった。JBはそれには引っかからず、テストの結果せいぜい鬱だということが結論づけられた。

 当然のことに、JBはあたしが自分をキチガイ病院に閉じ込めたとみなした。それで物凄く怒り、憎しみに満ちていた。ただ、ここでそれを爆発させあたしを怖がらせると不利だと思ったのだろう、要はともかくここから退院せねば、そうせねば離婚の手続きもできない、と決定的な時期に口にした。理性はあったのだ。

 彼の方から離婚をいう、それこそ万全だった。その気にさせることがあたしにとって受け入れられる事態だった、離婚する気はなかったのだが。簡単に離婚などしない、もっとややこしくなる。もちろんそれでもいいけれども。ややこしくなるのは事実だ。 

 そんなありきたりの世間的な思惑のせいではなく、以前からの、ドイツ移住を決める前から気づいていた、奇妙な恐れがあたしの中に消えずにあった、まだあったのだ、彼の1月以来の憎悪、それからこの時に発生したさらなる憎悪にもかかわらず。

 

8つ、9月末に夫婦で協力体制をとり無理を言って退院、JBは自分からホテルに3泊した。

 その時に末息子が孫とドイツに来たのである、そんなこととはあまり知らされずに。JBには息子が大切であり尊敬もしていたので、ホテルから自宅に戻ってみんなで暮らした。昔懐かしいミュンヘンへみんなで旅行した。それは昔みんなで(孫はいなかったが)イタリア旅行した灼熱の夏、あたしと息子を病気にしてしまったほどのJBの無駄な頑固さを思い出させた。あたしたちは恨んでいた。

 帰りに息子は父親のいつもの他人批判にかっとなり切れて怒鳴り散らし、家には帰らずそのまま日本に発ってしまったのだった。「あんたはクソだ、みんなをクソだという奴はクソだ」可哀想に涙をボロボロ流しながら、大の大人が。あたしはこんなことの原因でありこんなことを引き起こしたJBを許してはならないのだ。

 

9つ、JBに離婚を言わせるまでのこと。その後の変化の次第

 9月初めにアルザイ病院に入ってから、主に携帯のSMSであたしたちは言い合いをした。際限もなく。あたしの別れたいのに別れられないためのあれこれの言い逃れ、JBの方は一人にされると困るので、これまたあたしを愛してるなどという状況ではないのに離せない、そんな二人の地獄の言い合いであったのだけれど、ついにそのうちに、JBがもううんざりだ、離婚すると言った。あたしはやはりほっとした。そこに行って欲しかったのも確かなのだ。その後考え出したらまた堂々巡りだが。

 JBは、離婚を覚悟してから憑物が落ちたかのようで、理性が戻ったかのようだった。

 

 9/26 忘れもしない、この日初めてのセラピーがあった、あたしのためだ。ドーラがあたしに告げた共依存という言葉にずっと煩わせられていたが、認めたくなかったのだが、1時間喋った後ギーホフ医師が「ご主人のことしか話しませんね」と言ったのが心に残っていた。

 バス停で待っている時、急にはっきりした。そうだあたしは共依存なんだ。病気であり洗脳されていたのだ、罪の意識に、と現実を認識できた。そんな明白さは神の言葉である。真実なのだ。それから、急に妙な不安心配恐れを抱かなくなったような気がする。そんなふうに心が流れていかない。その後も何か話すべき神秘な出来事が起こるので毎回セラピストに喋り倒した。そんなふうに「神」を引き合いにして生きているあたしが正常かどうか、それを専門家に見ていてもらいたいのである。

 

 この間に訪問客があった。3組。そして4組目が捻挫関係である。

 智子さんとの万全の捻挫への感謝記録は10月末から10日間のことである。

 捻挫事故によって、確かにある程度JBにも、あたしの脆さが、老化が、その自分への意味がわかったと思うが、その後さらに彼の態度の変化を促すような恵がマイナスプラスの波に洗われて現れていたのである。

 少しでも時間の余裕ができると、懸案のあたしのビザ更新のために(それは11月29日の予約日であった)外国人の夫の妻の呼び寄せについて、という難民用の法律を理解しようとネットをググっていた、という話の続きはもう前々章で書いたように、意外にもあたしの自分への見方がコロリと変化し、大いに低下した、その相対的な動きとして、もちろんJBが軽蔑すべき人ではなく、敬愛すべき人に変化したのであった。

 これは典型的な馬鹿みたいな話だが、不思議な話である。JBにも感じられている、あたしの変化が。あたしは動じなくなっている、彼のどんな態度にも。

 JBのパソコンを壊したというマイナスから自分こそ責任者だったというプラスの波へ。正常な意識の動きとは思えないとはしても、JBの態度の変化、あるいは夫婦の関係変化にほとんど結論的に寄与したと思われるのでここにまとめておこう。

 

 しかしなお二人の態度に基本的に影響を与えたのは、黒服女史ドーラであろう。

  ウクライナ人のナディアは、原因不明の無視行動であたしを辟易させ、彼女の店から撤退させたのだが、同時期に、ドーラが現れ、偶然にお茶を飲んだり語り合ってミニコンサートに行くようになった。そのいずれにも邪魔をするのが定番のJBである。何度でも電話してくる、DVの定番、所有物監視行動である。

 自分が体験したことは、誰かが隠そうとしてもすぐにお見通しである。

 ドーラは自分がしたように、もう絶対に改善するはずもない壊れた人間から離れるように、別居するようにとあたしを説得する。一緒にいることであたしが壊れるのはもちろん、彼も一層自立した一人前の人間から遠ざかる。

 彼女の言葉はとても厳しくてあたしは呆然とするのであった。JBの病状が詐称であろうなんて、とんでもないことに思われたし、第一、あたしはすでに日本で決意したのだ、神の前に、神の愛にかけてJBを立派に死なせると。負けないという背景があった。

 

 そしてこれは数日前に起こったのだが、ドーラは改めてあたしを不誠実な嘘つき、上部を飾り利益をくすねるためには人を破壊して恬としている、あるいはとんでもない弱虫であり嘘を平気でつくと、揶揄した。

 しかし、彼女自身の現在の体調や孤独や批判を見ていると、真っ直ぐに生き抜いたため、二人の夫から殺されかけたり、PTSDのため自殺を何度も試みたりした後、本当に霊気や修行をし、臨死体験など不思議なことも経験した人物とは思えないようなテイタラクであった。

 あたしはむしろ、彼女があたしに救いを求めているように感じる。その逆ではなく。彼女はそう思っているのだが。あたしは彼女を救うためにいるのだとあたしは思う。たとえ双方からそうであるとしても。

  変な表現だが助け合い競争のような二人の態度である。他にもおそらくドーラにはあたしをもっと近づけたいという何か別の魂胆があるような気もする、それは不愉快だし気味が悪い。

 それにしても、あたしはお人好しの莫迦さ加減で、次第にJBにドーラの考えを注進し、我々は心理的病気状態なので別れねばならない、しかし別れるにはあたしには心配が残ると訴えたのである。ヘルパーやホームやあるいは別の女が必要だと。

 そのせいかあらぬか、すでに現に、あるいはあたしがガンとして受け付けないので、一人で病院へ行き、ナディアのケーキを食べに行き、相変わらず腰痛で唸りながら、できることはするようになった。電話をかけて来なくなった。

 あたしは着々と介護体制に他人を引き入れる策を進めた、たとえば、彼の病室に冷蔵庫と電子レンジを買おうと言った。あるいは日に2回無理してでも(どうせ彼には運動が必要なのだ)2回階段をのぼりキッチンに来て食事をすること。これはまだ実行されていないが、あたしが熱いものを階段で運ぶのは事実とても危険だった。嘘ではない、絶えずひやっとする目に遭っているし、捻挫の数日後また、階段を滑り落ち持っていた全てを壊してしまった。運ぶために火を消し忘れることが往々にしてあるのも強調しておく。

 

 これより話が遡るし、すでに書いてもいることなのだが、ことここに至った原因なので触れておくと、10月半ばごろ、ドーラと偶然に出会った時あたしの滞在許可タイトルの話になった。現在の夫と同居している限りの許可で3年という期限つきである。これを不審に思ったドーラに付き添われて役所に行き、彼女の言動に惑わされた職員が予約日をくれた、ただ、ドーラはその理由に、あたしたちが別居していると強調したのであった。

  それから流石のあたしもドーラとの連絡を絶った。ドーラは何を意図しているのか、あたしをドイツから追い出すつもりか。それに職員が新たにどう理解したかも定かでなかった。おまけにドーラは、こんな世話焼きをすれがお金になるはず、とか手引きしたから後は自分で必要なことをするようにとも言った。それであたしは、彼女のもう一つの言葉、書類書きを手伝う、というのも無視した。むしろJBをあてにした。検討した結果、どうも職員はJBを外国人だと感じている節があった。ドイツ人向けの別な書類がネット上には存在していた。

 こうして夫婦で予約日に出かけた。この間に、ドーラにはミュンヘンから一度電話したのみで連絡は全くしなかった。彼女が苦しんでいるのを感じたがどうしようがあろう。彼女の偏屈と思い込みがそうさせるのだから。

 ところで変なことに、彼女には公平さと共感もあった。変な人ではある。そういえばあたしの自室を見て、遊び半分の人だと評したっけ。そんなことは言われたことはない、今、自由な人間になりつつあるのだ。ドーラはあたしをとても誤解している。失礼極まりない。

 さて、当日だが、職員のポン氏は、「で、別れたのですか、友人は別居のことを強調してましたが」と開口一番。あたしはびっくり仰天だ。そうか彼はそこを重要視して聞いたのだ。30年前のデータをミュンヘンに要請したが届いてないと。それではJBが純正ドイツ人だということも不確かなのか。

 あたしは必死で嘘をついた。彼女がどの程度言ったのよかくわかりませんでした、あたしには。夫婦にはいろいろありますから、別れません、一緒に暮らしてますとも。JBと二人揃ってきたので、彼は

「そうなら、誤解だったということで今日は無駄足でしたね、2年後にまたより良いものを」

「あの、夫がドイツ人だということは確信してますか?」

「そうですよ、ドイツ人の妻の滞在許可、ということで扱っています」

「では、どうしても今日永住許可はダメなのですね、昔7年共同生活していたのに」「そうです、それは計算に入らないのです」

 

 やっぱりドーラの策では今頃もう追放されていて今後の生活の汚点となったことだろう。たとえあたしとしては帰国しても何ら差し支えないとしても。別居しているが古い結婚なので永住許可に切り替えてもらうというドーラの魂胆は、薄氷を踏むように危険極まりなかったのは確かである。彼女の試みの危険が見抜けなかったのは、年寄りで、言葉の理解が完全でなかったからである。あたしは今回ラッキーだったとみなすべきだ。

 

10、ドーラ関係追加。

 迷いに迷った末、このままでは失礼だろうと、日本人的な思惑から、最近訪ねて言ったところ、マリファナ治療でこの1週間改善したと言った、それほど最悪だったらしい。あたしを探し回ったりしたと。おかしくない? 過去の自分とこの年寄りを重ね合わせているのか?彼女のいわゆるPTSDの症状は、鬱と攻撃性、日光恐怖、人間嫌悪、身体中の痛み、不眠である。

 ところでその少し前、あたしはあっと気がついて、彼女の実相を拝んでいたのだ。そうか、それで彼女はふと決心して治療用のマリファナを買いに行ったのだ。

 いかに彼女が失礼だろうと、誤解していようと、あたしは神の友達だから壊れようはない、ただただ尊い生命の実相を拝む、これは何とぴったりの言葉だろう。

 昔30年前もあたしはJBを拝んでいた、と思っていた。本当は悪相を拝んでいたのだ、改善するはずがなかった、修行が足らなかった。

 そしておまけに、あたしは勇気を出して、霊気をあんたから学ばせてとドーラに言った。そうすることで彼女に益もあるはずだった。そしてさらにセラピストへの自己申告書のドイツ語を見てくれるようにとも頼んだ。彼女がしっかりするように。

 そしてなお、自然科学雑誌を持って行った。人類と脳のついての最新情報だった。彼女が客観的になれるように。

 これが2019年末、12月15日である。実録。無心に拝む毎日にせねば。それ以外にない。意識など使うも無駄だ。

 

 

 

 

 

万全の捻挫に感謝します!

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 子供の頃、ビタミンBの吸収が悪くて脚気や顔面神経痛になった。大人になってから、何だかやる気がなく、家事のことを考えるのもしんどいとき、アリナミンなどを服用すると、いつの間にか体が勝手に動いて家事をしているので毎度のことながら驚かされた。それで、今でもできるだけBを服用している。すると不思議にも、まるで家事が楽しいことででもあるかのように、よし、明日はキッチンから掃除始めようとか期待までしてしまう。(いつも成功するわけではない)

 今日はそれがうまくいって、家中の床掃除をまず新品のホウキで済ませた。長い柄のホウキを買うにもそれを持って帰るのが難儀だったので、1年間も買うことができなかった。(尤も掃除機のホースと同様、ホウキの柄を動かすのも手首などが痛い、これは思いの外だった)。

 こうして掃除もでき、爪もきれいに切りそろえて、さて執筆態勢に入ったが、例の如く助走が必要らしく、こんなことを書き始めたというわけだ。そうそう、床掃除について、触れておくべきこと。

 掃除体制の全てが整っても、肝心のJBの態勢が大抵はそれを阻止しようとしている。テーブル、その周り、机の下、紙が散乱。テーブルには清らかな紙が一部敷いてあって、そこでインシュリンを打ったり、食事をしたりする。それがすむとパンのカスは散らばったまま、鼻を拭いた紙は少し横に積み重なる、もしさらに清らかな紙が必要な場合は、その食べかすだらけの上にまた敷けばいいので、便利と言えば便利な方法である。

(余談に走るけれども、JBの潔癖症は2000年ごろに野良猫の世話をすると言い張って、実際はあたしがもちろん手を汚したのだけど、そのあと極端になった。彼が触ることを厭わないものは数えるほどしかない、どうしても触らなくてはならない場合は、紙を間に入れる。少数の聖なるものを触る前には徹底的に手を消毒するのだが、この区別の厳密さには今でも虚をつかれる、あたしは呆れ返る軽蔑する。皮膚も爪も破壊されるほどに洗う。洗って濡れた手は大量の紙で拭く) 

 あたしの持論では、いわゆるゴミ屋敷の住人の大部分は潔癖症だと思う。ものを買うまでは清らかなものが、幾ばくかののちには不潔な、捨てることすら不可能なものに変化するので、溜まっていくのはどうしようもないのだ、彼らには。

 同じ系統の人であるJBの療養室が、最近2019年11月12月変化。JBが変化。何となく紙の扱いに留意している、あたしもこれまでのようにつきまとって片付けないので、散乱がひどくなるはずのところ、横に紙用の袋、プラスチックゴミ袋と2つ並べて置いたのへ分けて入れている。厳密にするならば、1、リサイクルできる紙、2、使い切った汚い紙や食べ物の残り、3、野菜果物の残り、4、その他プラスチック、缶を主流としたリサイクルゴミの4種類のゴミ袋が並ぶべきところだ。(その他、ペットボトルはスーパーに、ガラス製品、衣類は捨てる場所が駐車場に備わっている。ただ金属製品、乾電池についてはまだ解明していない)

 あたしもお人好しのため、少しでも彼が自分から片付けようとするとしめた、よしよしとそれを手伝う。彼が最近掃除ロボットを買うと主張した時も、悪い意図はあたしにはお見通しだが、便利なものなのは知っているので買わせた。すると彼の聖なるものに入ったらしく、説明書を研究しているのもよしよし、のうちだ。

 何故、JBが変化するなどということが起こったか。そこには長い長い話がある。

 あたしの案は、冷蔵庫と電子レンジを療養室に置くというものだった。JBはこれに掃除ロボットで対抗してきた。何故なら、理由その1、JBは今年の夏にあたしの目的を叶えて介護認定された、痴呆がないので最も軽い介護度1であるが、自宅介護人の妻がそろそろあてにできないのでヘルパーの家事手伝いを派遣してもらおうと(もちろんあたしの希望であり、JBは性格的に他人を寄せ付けないのでなかなか申請すら実現できなかったのだが)そのための待ちリストにやっと入れてもらった。10週間ののちらしい。この算段がついたのが10月26日であった。(日本で言えば介護保険の地域包括センターのような組織があり、世話人がいる)

 その時、宇宙から余りにもツーカーの配剤が送られてきたのだった。そうでなければJBはいつまでも他人の手に反抗していただろう。ヘルパーに買い物をしてもらい、料理を作って冷蔵庫に保存、それを電子レンジで温める、掃除もしてもらう、それであたしはほとんど自適悠々の自由人になるのだ、こんな悪巧みが許されてもいい、あたしはもう十分尽くしたのだ、自分を許してもいいのだという証拠のように。 

 

 10月28日に、春頃だったろうか、何故だか知らないうちに高校の同級生の一人とメールを交わすようになったのだが、そのドイツびいき、音楽好きの未亡人の智子さんがあたしを訪ねてきてくれた。当時からの彼女の印象では、奥様になって幸せな一生を送る人、であったのだが、まさにその通りの恵まれた体験を積んできたらしい。スーツケースの半分は、海苔、胡麻塩、椎茸などあたしは食べ残しでいいからと頼んだのだが、たくさんのお土産で占められていたのを、ペンション(これはうちの隣)の玄関でもう店開きして袋に詰め替え、軽くしたスーツケースを持って3階の部屋に移動し、一頻りお喋りしてから、木の階段をぼつぼつ二人で降りてきた。

 これからの予定の話をしながら、途中の階段を一番下まで降りてきたと思って、先に床に下ろした左足が意外にも、もっと左の空間にグキっと曲がり、もう一段下まで体ごと落ちた。何と思う暇もない、もう床に座り込んでいた。

 絶望した。せっかくの客人をもてなすことができない、彼女一人であちこち行くなんて大変だろう、いくら旅慣れているとしても。軽い捻挫ではなさそうだった。

 智子さんは薬剤師で亡きご主人が医者という環境なので、荷物の中からすぐに湿布を取り出し貼ってくれた、何故か包帯まで持っていて巻いてくれた。最初の痛みが消えたので恐る恐る立ち上がると、移動は可能なようだった。

 恐るべし、聖霊の配慮。最適の人を捻挫とともに送ってもらったのだ、智子さんは即座に決心した。数日の予定を1週間に伸ばし、名所見物ではなくドイツの日常生活を体験すべくあたしの世話をする(JBも加えて)と。

 こうして魚心と水心が一致して貴重な日々がすぎた、同時におそらくJBにもあたしがいかにあてにならないかという体験でもあったはずだ。百の言葉で語るより効果があったはずだ。こんな手を編み出すとは、本当に「神」の智慧はいつも想定外だ。

 思い返してみると、智子さんは出発前の数ヶ月間、あれこれの思いがけない病気にかかり、旅行できるかまさに運任せのような状態が続いていたのだったが、それも彼女の健康をリセットする結果になったようなのだ。旅行中智子さんは万全の健康だった。一人の病がどんなに多方面に影響するか、他人にも意味を持つかという、人知を超えた運行の見本のようだ。合掌。

 

 そうそう、付け加えることがあった。高校の同級生と言っても、ゆっくり話すことはなかった二人だったので、智子さんはあたしの両親についてどんな人だったのと尋ねるのだった。何か気にかかることがあるせいだとは思いもせずに、あたしの幸せな親子関係を説明した。すると彼女が思い出話を始めた。智子さんはずっと以前、高校の同窓会名簿作りの世話もしていたので、一時期居場所不明だったあたしの住所を聞くために両親を訪ねたそうだ。すると父が厳しい顔で応対して、「娘は勘当したので住所もわからない、二度とこんなことでこないで欲しい」と言うので、何と怖い父親だろうと思って退散した。そんなイメージを持っていると言うのであたしはびっくり仰天、父は最も敬愛する優しく思いやりのある人だった、あたしが再婚してドイツで暮らしていた頃も怒ってなどいなかった。

「それはきっと、あれよ、私の住所が名簿に載ったりすると前夫が知るかもしれないのを恐れたから、意図的にそんな振る舞いをしたのだと思う」

 これには智子さんがびっくり仰天した。

 もちろん、そこらへんの詳しい理由は黙っていた、恥ずべきあたしの過去がある。

 智子さんは翌日散歩に出た時、野草で小さな花束を作ってきた。そして父の写真に供えた。恐ろしい人と長い間思っててごめんなさいと手を合わせた。

 そうか、父の心も智子さんに繋がっていたのか。合掌。

 

 

 

先週のお題?「煮るなり焼くなり好きにして」

 今日という日があと七分という時になって、書く練習でもしようという気になり

やってきたら、今週のお題が「煮るなり焼くなり好きにして」というものだった。今日のタクシーの運ちゃんが、年齢不詳の細身小型の男性、もう数回我々を乗せていると言って、住所をスラスラと暗唱した。その声音となんらかの間隔の置き方がアメリカの有名な俳優を思い出させる、前回もそう思ったと思い出して自分でもおかしい、聞いている英語の歌がどこかカントリー。

 いきなり尋ねてきた、日本語の「おねだり作戦」ってどんな意味ですか?どうしてそんな言葉を知ってるのかというと、歌の歌詞だという。

「舐めたらいかんぜよ」は? は?

 この一年で日本の歌の世界が変わったらしいわね

 いえ、この歌はもう五年くらい前ですよ、三人の女性が。そのギタリストが最近死んだとか、スマホの自撮り中に事故になって。

 (ふ〜ん、ヤフーの記事のタイトルにそんなこと書いてあったような)

 家に着くと、面倒なチップを2ユーロ前後あげる羽目になる。重いドアを渾身の力で開け、鍵束を引きずり出して最初の鍵を最初の鍵穴に突っ込む。自宅のドアにたどり着く間にも、あんな世間を斜めに眺めたような台詞をとおかしい。そしたらここでまた似たような態度の台詞を見てまたおかしい。

 

 2週間ほど前、いきなり自分を罪人と感じ、同時に相対的に価値が上がってしまったうちの旦那のこと(すべてあたしの心のうちの出来事、しかし本人もあたしの心の変化は感じているらしい)、セラピストの40代女性のドクターは、こんなあたしっておかしくないですか?とあたしが尋ねたのに対し、いいんじゃないですか〜 気持ちが軽くなるのなら、と簡単に答えた。

 一応、そうか、と受け取ったあと、人を敬愛できることの嬉しさを感じる日々が続いたのだが、勿論また馬脚も現れるし、日々の問題も生じるわけで少し擦れてきた時、また啓示を受け取った。

 この2年間、プラスとマイナスの出来事の波に翻弄されてきて、マイナスの波に溺れないようにとプラスの予想外のプレゼントを感謝しながら過ごしてきたのだが、マイナスの波の由来については見当もつかないので考えていなかった。そこへ、目覚めてぼんやりした頭に「業・ごう」という概念が生じた。生きていくことは何かを押し除けて潰して利用していくことであるわけだしねー。

 翌日には矢継ぎ早に、もう一つの謎の回答が与えられた。息子にさえ嫌われている父親、ペシミストで非難と誹謗ばかり、つまり自分の偉さを常に確認するタイプの人間とあたしのようなお人好しタイプの間に生まれた理性的平和的心の広い息子、このことをどう意味づけるかの答え、とんでもない答えを教えられたのだ、意識にふっと浮かんだのだ。

 つまり、ペシミストの遺伝子の一系統が途絶えたということである。お人好しの遺伝子が生き残ったのだ。びっくり仰天。息子に伝えたら喜ぶかも。

 

 フライパンのガラスの蓋、そのつまみを固定しているネジが次第に緩んで外れた。部品の一つに小さなプラスチックの黄土色のつなぎ?もあったのを、これは無くしそうだから注意しようと、意識的に調理台に置いた。

 翌朝、それが見当たらない。紙屑に紛れて捨てたのであればもう処置なしに近い。

 午後に、何か踏んだので見ると信じられないことにそれがあった。

 有難い、と思ってまた調理台に注意深く戻した。しばらく後にはまた自然に消えた。目を皿のようにして、まるでサーチライトを照らすように舐め回すように見るがない。そしたら、多分(おかしなことにもう忘れていて思い出せない)また床に転がっていた。

 

 もう一つ面白いことを思いつかせてもらったが、今朝はあまりの眠さに起きてメモするのを怠ったために永遠に失ってしまった。残念、こんなことはいくつかある。

 そして今日のマイナスの波の締めくくりに、またコンロの火を消し忘れて鍋を焦がし、美味しいスープを台無しにした、これは単に老化の結果であるのだろうが。

 そこで、あたしも努力しますし、あとは煮るなり焼くなり好きにしてください、というのがこうして、いつもの神との対話の結句となった。

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頭がまとまらないまま、、

 頭がまとまらない、という言い方はどこかおかしい、とは思うのですが確かにそんな感じなのでお許しいただくことにして、さっさと次に行くことにいたします。
 少なくともわかっていることは何かというと、

 漏れ聞くところによると日本画を描く時、まず薄い色でざっと塗ってから、次第に色味を上塗りして順次、光が物質に反射する結果を模倣して紙に定着させるとか、ですが、それを今思い出したのですが、それは今からあたくしが(今日はなんとなくこんな呼称になりました、自然の動きなので(?)お許しいただくことにして)書こうとしていることもそんな風に、まずは荒いタッチで大まかにスケッチ、色塗りしていき、次第にまとまって現れるようならそれを徐々に再現していく、と言うのはどうだろうと考えたからなのです。

 十分にわかりにくく書いたと思いますが、何しろ、誰にも興味のないようなことを誰も目を止めることもないような年寄りが書こうというのですからこんな自由気ままな有難いことはありません、hatenaさんこの機会には心より感謝しております、何の御礼も致しませんがこれまたお許しいただくことにしまして。

     *****
 現在の時は2019年令和元年11月なかば。13カ月ほど前でしたが、2018年10月、ドイツ移住、ダンナのJBが入院、ペースメーカー装填が終わった年末には、うちのソプラノ歌手の大家さん母娘の年末コンサートに二人で参加するというちょっと晴々しい人並みの行動ができましたっけ。
 さあこれで、感謝したJBがひょっとして、あたくしの願いを全て聞き入れ、下にも置かぬ扱いをしてくれるかと3秒ほどつい思ってしまったのが口惜しい。何故に口惜しいかと言うその口惜しさの始まりが正月4日のこと。ダンナがぎっくり腰になってしまったのです。
 そのきっかけというのが、あたくしの意味嫌う彼の悪癖の一、潔癖症の故なので具体的なことを思い出すさえ腹立たしいのでここでは省かせていただきます。

 息苦しさと腰痛に絶えず直面する朝夕が4カ月、とうとう令和になってしまいました。その間の彼の態度は、簡単に整形外科にでも行けるような制度でも環境でもなく、自動車はない、知人の助けはなし、思い切りがあるでもなく、絶望にふさわしいものでした。そのゆえのJBの悪口雑言には、最初感心してしまいました、こんなにもたくさんの罵る言葉や言い回しがドイツ語にあるものだと。
 しかしそれらは、あまりに単純に理由なくあたくしを誹謗、中傷、蔑視するかなり尋常ではない激しさと憎悪に満ちていました。初めて自分が傷つくのを感じました。その後起こったことを思うと今では、この時の自分の絶望が尾を引いていたのかもしれないとわかります。

 しかし、とりあえずはなんとここから脱することができたのです、あたくしが。それは近くのナーエ川にかかるブール橋に佇んでいた時、誰かの高笑いが響いた瞬間です。おっさんがガハハハと、まるでトトロの口からでも出てくるような胴間声の高笑いです、人間とは思えないほどの声量で川面を移動していきます。
 そうです、人間ではない、あれは笑いカワセミだ。NHK唱歌で流行ったことのある「笑いカワセミに聞かれるなよ、ワハハワハハと笑うだろ」みたいな歌詞が突然湧いてきました。どんな鳥かも知らないが、そんな鳥がいて今鳴いてくれた、笑い飛ばしてくれた、とあたくしには思えたのです。そう思うことが大事でした。
 春から夏にかけて笑いカワセミ観察に夢中になって時間を過ごしました。ちなみに日本の動物園いくつかにも飼われていて、知る人ぞ知る珍しい可愛さのカワセミの仲間だそうです。

      *********

 古い言い回しですが、ドンマイドンマイ、とばかり「困ったちゃん」の「いじめ」を受け流そうと、そんなものに引っかかってはならじ、とばかり今年5月、令和の御代ともなると、まずは末の息子、続いて友人二人の訪問に焦点を当てつつ、日常の買い物や通院その他の社会的通信関係?を整えていく日々の間に、あたくしの自室が2階に完成しました。
 引っ越しの時の段ボールを積み重ねた方丈記並みの簡易ハウスですが。ベッドはなんと空気ベッド、空気の上に寝るのです、仙人のようじゃありませんか!! いい寝心地です、しかもJBは階段を上がれないので下の部屋、さあこれで何の邪魔もないのですから、次第に安定剤も服用しなくなり、今や自称本職となったかの「神の定義の追求」をしながら、自分の健康にも気を使えるかと思い始めた頃。

 なんの因果か、宇宙の思惑などわかるはずもない人間には想定外の出来事が、出会いが準備されておりました。この数年、何者かと語るようになってから驚きの連続、その波に乗ってきたのみのただ今の現在です。(風雲急を告げてきたので、あたくしなどと言うまどろこしい呼称を改めます)
 顔見知りに過ぎなかった近所のドーラ女史が何故かあたしに近づいてきた時(バス停留所で)、あたしにもある直感が働いて笑顔を返しました。お互いに話し相手として不足ない、と感じたわけです。6歳年下で、小太り色白のひとり暮らし。彼女の方から来し方を物語ってくれたところでは、まさに事実は小説より奇なりそのもの、いずれ日本語でひとくさり小説化することになるでありましょう。

 そして自分の実体験と保健関係の仕事の知識から、たちまちJBの本質を見抜き、あたしがその影響で逃げるに逃げられず、もがいているのを察知したのでした。要するに、この手の男は実は弱虫で、相手のエネルギーを吸って自分の小さな世界を守るのが生きる目的であり、そのための手段が妻への道徳的DVである、依存してしがみついてくるのを1日も早く切り離して逃げるのよ! そうでなければもうあなたが滅びてしまうから!  もう遅いのかもね、逃げるのが怖いのでしょ、だから理屈をつけて彼の言いなりで不自由の極み、世話を焼くのをやめられないのよ、その信仰研究なども言い訳に過ぎないのじゃないかしら? 彼女と短時間話している間にも絶えず電話をかけてくるJBを憎々しげに暴いてみせるドーラなのでした。

 それは共依存ともコペンハーゲン症候群とも言うらしいのでした。そのせいでつまりはあたしは精神分裂症みたく、別れたいのか別れたくないのか、その両方に引き裂かれていたのです。しかも片笑みを浮かべながらドーラが言うには、彼の言いなりになって世話を焼くほど彼は深みに落ち壊れていく、あなたのせいよ、あなたが切らなくては。
 これに気付いてから、徐々に話し合いを進めたり入院したりと言う夏を経て、9月には怒鳴り合いを経てJBが「もういい、うんざりだ別れよう」と言うまでになり、10月にはそれでも徐々に、階下と階上の別居生活に慣れてき、流石のJBもあたしのきっぱりとした口調とあたしへの憤怒のために(これについては多々述べるべきことがありますが)、依存的な態度を減らして行きました。ここまでは遅々とはしているものの予想した以上の良さそうな成り行きではありました。

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 数日前、11月17日夜のこと、滞在ビザ更新の件を抱えているあたしは、ネットでドイツのその手の法律を検索していました、ググっていたのです。読んでみても手に余るので、この時ばかりはと検索ページをコピペして彼のメッセージに送信してみましたが、何と見た目とまるで違うアドレスか何かがずらりと並んでいる! そこで追加して「最初の3行のみをコピー検索して」と書きました。

 彼もパソコンで何かしているので嫌がるだろうとは思ったのですが、案の定、面倒なので適当にクリックしたようです。
 すると、現れたサイトはクエッションマークの文字のみでできていたのす。
 Googleに戻ってもそこがクエッションマークの羅列です、試しにウイキペディアを呼び出しても同じでした。ほとんどが使い物になりませんでした。二人とも、どちらも青くなったり赤くなったりして息もつけません。

 これは大変なことになった、とんでもない事態を引き起こした、もちろんJBは怒り心頭で罵り回るのですが、あたしはぐうの音も出ず言い返すことができません。そして不意に、謝罪の言葉を発する準備が心の中でできていました。
 これまで40年近い結婚生活で彼に謝罪したことはありませんでした。あたしの言動は適度なものであるか、せいぜい彼のネガティブ悲観的怨嗟的権力的言動の影響で歪んでしまったことはありますが、根本的にあたしの罪では全くないと感じて恬澹としていることができました。
 妙にスラスラと素直に謝罪の言葉を並べることができました。非常に重要な言葉遣いであり態度でありました。JBもやがて鎮まりました、次の手段を考え始めました。

 翌朝、目覚めてからしばらくいつものように考えるでもなく、問題を提示し直し、隠身と(この古い言葉はかみと言う言葉の由来であるそうです)共に考えてもらっていると、強い考えが浮かび上がってきました。
「これまでの考えの根本は自分は何も悪いことはしていない、全ての苦悩と言動の全ては彼の変な性格の影響でありそれが原因である、と言うものだったが、本当のところ、実は自分が彼の人生を狂わせ、苦しめ、今の姿にしてしまったのだ、おそらく人格の変形も含め」
 確信でした。こんなにもすっくりと浮かび上がってくると言うことは、徒や疎かに考えてはならないとわかりました。途端に、どうしたことでしょう、あたしの心が軽くなりました。彼に罪がないなら、じゃあ、彼は尊敬すべき敬愛に値する人間なのだ、と嬉しくなりました。彼を尊敬し大切な価値あるものと思えることが嬉しかったのです。

 振り返ってみれば、数年前「あなたに罪はありません」と声を聞いてから始まったあたしの真理探究であったのです。今度は逆ですか、またもや心軽く嬉しいとは???

 あたしよ、大丈夫か!!!???
 あたしは一人で笑いました、この嬉しい心はなんとしたことだろう????
 階下から「ごはんもらえる?」と声がするとあたしは優しく「いいわよ」と返事する。心が優しいのがわかる、それが嬉しい。
 あたし、バカじゃなかろうか、おかしすぎる、愛とか和解とか同居とかそんな現実のテーマとは関係ない、なんなのだこれは????

 幸いにも今日は精神科医との予約がありました。待ち構えていたあたしが、強く目を光らせながら受付に行くと、
「あら、取り消されてますよ、ありませんねえ」!!

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やってしまった、海外移住!

ふと暇があるような気がして、トップページで「トランプ大統領天皇陛下に会ったら」という見出しにふらふらと、老いたモンシロチョウのように飛んでみました。

浩宮徳仁さんが人間として天晴れな人物であるとは、じかに観察の機会を得た親友が確約したところなので、あたしはナショナリストでは全くありませんが、付け加えて雅子さんの心情にもシンパシーを感じていることくらいは、まあここに書いてもいいかなと思うものであります。

ちょっと演説口調になりました。その話はしかしここまでで、次に読んだ記事が本題となります。
老夫婦の一方が、亡くなる前に愛の詩を残した云々という話に、避けることのできないエンディング間近となった我がことに思いが波及してきました。

 

70年という年月のもろもろの芥がどっと押し寄せてくるとき、迷いと決断のはざまに立たされたあたしと夫のJBでありました。正確には、彼に迷いはなくあたしにのみでした。

JBは30年来の心不全持ち、両脚は象のように晴れ上がり紫色、唇にもチアノーゼ。まさに絶えず窒息寸前のように見えながらしかし、どこか生かされているのでした。

高齢の母親を前年失くし、息子たちは自立してあたしは用無しとなっていました。

JB曰く;30年我慢して住んでいたが地震と台風と火山があるから日本は嫌だ。療養費がかさみすぎる。
あたしおもへらく;本心は故国ドイツで死にたいということのはず。

あたし迷う:
ここを終の住処と思って暮らしてきたのに、全てを整理して親戚友人皆無のドイツへ30年ぶりに帰って暮らす? 実際問題として無理でしょ、まず住まいはどうする。
まず一度渡独して探すとしても、このJBの体で、このJBを連れて行ける? 
あてが見つかったとして、引越し準備は誰がするの! あたし一人に決まっている。全ての関節が老化し、不整脈の薬を服用中の73歳のあたしに。

ところでその前に、彼の嫌味な性格にもううんざりしていたあたしには、そもそもこの先我慢できるかが問題だったのです。

現にその時点で夫婦仲は最悪、あたしが彼という異邦人を養っているという状態(経済的にという意味ではなく)で、それに対し一言の有難うがあるどころか、高飛車な物言いばかりされて苦悩は限界に達していました。

でも、ドイツで暮らした方があたしには楽になる点がありました。少なくともそう期待したのです。これまでと違い、JBが自分の手続きなどをするだろう、すべてについて、だって自分の故国なのだから。

2つ目には、あたしはドイツがやや好きでした、特に朝食のスタイルとか住まいとか。3つ目にはJBが亡くなった時にはドイツで処理する方が手っ取り早い。

しかしまた堂々巡りして、そもそもJBとさらに不定期間一緒に暮らすことが望ましくありませんでした。彼といたら全くの引きこもり夫婦なのです。どこで暮らしても彼は邪魔でした。したいことをしたかったのです。

ある時ついに勘忍袋の、、という状態になり、あたしは本気で決意しました。離婚です。勇気を振り絞って彼に宣言してへこたれませんでした。

しかし、一夜過ぎ目覚めた時、思いがけないことが起こりました。
あたしは恐怖と不安に打ちのめされていました。
別れることそのものが理由ではなく、その結果が!!

何もできなくなっている彼と今離婚すれば、それは彼を殺すのと同じだ、という確信に襲われたその恐怖でした。
罪の意識と誰かが表現したかも。殺人への恐怖。
決してそうしてはならない、それだけはしたらダメだ、それがあたしの突然の決意でした。決断でした。

 

 

余りに強い恐怖感からの強い決断だったのでそれ以後は微塵も迷いませんでした。

その後早速、あたしは策を模索しました。別れないままでこの状況を耐えやすくする、あたしが少し上座に座れるような方法を。

そしてその具体的な解決法をJBに申しわたしました、あたしはこれから妻ではなく介護人である。あたしの身分は実際はただの介護人、家政婦である、と。

そして実際、これから渡独の準備をして渡独して、環境を整え、また帰国して引っ越ししてのち再渡独、移住、という企画を了承、というより自ら立案企画実行したのです。
最後は故国で、とはあたしのせめてもの思いやりでした、敢えて言えば。


まあ、思いやりと言っても裏側には利己的な面もあったわけですが、もう一つ付け加えればあたしの終活活動の一環でもありました。
ぐちゃぐちゃと絡まった理由です。70年も生きているとゴミ芥のようなものが溜まっていてこんがらかっているものです。

決断の別の重要な要素なのですが、これはなかなか吐露しにくい事柄です。

終活といえば流行りの概念、わかりやすいのでこれに乗ってしまうことにしましょう。長い一筋の川の流れです。淡々と辿ってみます。
岩にぶつかり淵をさまよい、

絶えずうねり泡立ち、

引き込まれそうな渦から渦へ。。。

 

35歳まで順当に思い通りの生活と2人の自慢の息子あり。
JBに出会いふと目が眩んだ途端足をすくわれ、親権なしで離婚と再婚。


これまた自慢の息子誕生。難産体質?で、昔なら出産ごとに命を失っていたでしょう。
たちまちに馬脚をあらわしたJBのDVに耐えながら、父親譲りの宗教心を支えに許し続けること20年間のとき、
最悪の事態、長男の自死に見舞われ暗黒の日々となります。
その数年前からJB罹患。


70歳となり、母親を介護しながら父親に託されたように感じ始め、「嘘でも明るい死後」を探究する人に変身します。

謎解きの糸がスルスルと解けるように逢うべき人が登場し、読むべき本が眼前にあり、導かれて、聖霊の世界が開かれていきました。
母は比較的穏やかに父の元に旅立ち、あたしにはその後いつも母と共にある確信がありました。

こうして今思えば、早世の長男は見えない世界への道先案内人でありましたが、それのみならず、逝ったその日はあたしの父の生日であったのです。これを重視、時を超越した、同じ霊的使命を持つ二人であるはずだとみなし始めた時、ここが神慮の存在を信仰する契機となりました。
自ずと、次は夫JBを母のように立派に旅立たせることがあたしの使命となったわけです。

このような複合的な理由から、海外移住の決断は揺るがぬものとなり、誰もが信じられないというような強さと運の良さであたしは2018年4月から12月までを乗り切って、初志を貫徹し、JBをドイツ式治療の流れにのせることができました。

 

 

しかし、そこまでこぎつけた後、まさにここでJBの一層の醜さが現れました。

治療を受けサイボーグ化したのに結局は苦しさの進行が止まらない上に、腰痛というさらなる苦痛を得たJBはすべての責任があたしにあると思うようになり、これまで聞いたこともないほど口汚く罵るのでした。
これには、あたしも傷つきました。本当の憎悪をJBに感じるようになりました。

環境は整って揃ってきたのに、JBだけがあたしの人生のトゲとしてあたしを苦しめる、その構造が確定してきました。

どうする?! 土壇場です、二進も三進も行かない蟻地獄でした。

 

 

ふと、このあたしの感情、あるいはあたしのこんな見方をどう処理するかに問題が移っていきました。つまり、世間との接触ゼロのJBは世の人々には無いも同然の存在で、あたしの目にのみこの姿として存在しているのです。
あたしがこのようにJBを認識しているのです、この感覚器官とこの神経組織が。

 

ここまでが、あたしの決断の結果です、平成最後の頃までの。
もちろん、上記のような絶望状態に放っておかれるようなことはありません、我々の関係において、あたしと神との友情関係において。

 

アカシアの白い花房が香り、ナイチンゲールが夜もさえずるこの神韻馥郁たる樹々の、緑の光線に包まれて、老婆の無心の念仏が続くのでしょう。

ふむふむ やはりミラクルだ

意味深に、前回の終わりで「橋の上で休むこと」を前触れしておいたのに、今や重要性は薄れてしまい、でも少し説明をとも思いまして。。。

ドイツによくある景色、丘陵地帯がうねうねと続き、教会を中心とした村が点在、と言う景色とは異なり、岩山がナーエ川に迫る山峡の静養地にたどり着いたのですが、

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歩行がおぼつかなくなったお年寄りが押して歩く手押し車、全財産ならぬこんな買い物の山を載せて元気に歩いて行きます。コーラとペーパーをやたらと買い込んで。押して行くのは得体の知れぬ東洋人の老婆、爪だけはマニキュアしてるみたいですね。

橋まで来るとどっかと腰を下ろして、何やら必死に空を見回しています。ここで絶望していた時ワライカセミに笑い飛ばされて、苦笑いして立ち上がったものです。知る人ぞ知る笑いカワセミです、本当にガハハハと笑うんです。

 

ラクルを信じてます、今日もやっぱり!

ラクルに出逢うといっても、突然とばかりは限らなくて、1年近く前から顔見知りだったのがやはりそうだったと今になってわかることもあります。

サリーネで涼んでいると向こうからシックな中年女性がやってきた、黒服、白髪、色白、少し足が悪い。名前も知らないがお向かいのシニアマンションのひときわ窓ガラスが磨き上げられている部屋の。2時間のうちに知った彼女の人生とは、、

 

長女として生まれ、天才と言われるほど利発だったが人助けを願い介護職に就く。自ら医学的知識を獲得して行きレベルアップし、地域のトップの介護職に就く。同時に自由なヒッピー的芸術的生き方を実践し、優れた人と出会い娘を3人得た。その後惚れた男と結婚するがアル中、浮気、暴力、嫉妬深く束縛すると言うキャリアウーマンには最悪の組み合わせ、ついには致死的な暴力を受ける。それ以外にも死にかけた経験もあり、死にたいする恐怖は全くなく、自分の死の尊厳の手配は済ませてある。

仕事場では天使と呼ばれ、実際癒しのパワーにも恵まれていた。仏教的考え、太極拳、レイキなども熟知している。知識欲に溢れた点でよく似た孫がいる。

何故この人との出会いがミラクルか、一つには相似点の多いことです。人助け、を目標にしていたのに実践しなかったのは相違点ですが。JBを助けている?とまでは言えないあたしですが。 人生にトゲが一つあると言う言い方でなら相似。

 

今日のうちに書こうと思って書いてみたのですが、ちょっと消化不良気味です。

そう言えば今の今、思ったのですが、JBはきっと不審に思い理解していないはずです。何故、あたしが今までJBを捨てずに、ドイツくんだりまでこの歳で移住するのを受け入れたのか。それを言おうと思いつきました。

彼女の影響です。これは意味を持つのかも知れません。やっぱり「天から貰い水」ですねー (五木の子守唄より)

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