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”Piano e forte” このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-01-19 前奏曲にはフーガがよく似合う このエントリーを含むブックマーク

子供の歌で、ABCの歌というのがあります。キラキラ星のメロディーに合わせて、「A B C D …」と順に歌っていくあれです。あの歌詞のつけ方、というかアルファベットを区切る場所が日本語版と英語版では違っていて、日本語で「HIJKLMN」と歌うところを英語では「HIJKLMNOP」とPまで無理矢理(?)詰め込んでいます(おかげでその後の歌詞がスカスカになっていたりします)。なんでだろうと実は前から不思議に思っていたのですが、何のことはない、最初の「ABCDEFG」のGと韻を踏むためだったんですね*1。そんなふうに早口言葉のようにしてまで韻を踏もうとする、ことほどさように英語の詩(歌詞)では韻を踏む(rhyme)ということが重視されています*2。逆に日本語では押韻の代わりに字数(音節数)が重視されていると言えるでしょう(これは歌詞はもちろん、和歌俳句などで顕著です)。さらに漢詩のように押韻と字数の両方の規則があるものもあります。

本来、詩歌というものはこのように韻律に関して守るべき規則、決まりごとがあって、それを守った上でいかに作者の思いや感動を伝え、オリジナリティを発揮するか、そこが腕の見せ所となるわけで、受け手もその技(芸)に感嘆するわけです。感じたことを単に自由に書いたというだけではその魅力は半減でしょう*3。そしてこれは音楽でも同じと考えます。古来から先人が編み出してきた様々な形式や作法(ソナタ形式、変奏曲、フーガカノン、…)があり、作曲家たちはこのような形式や作法を守りつつ独創性を発揮してきたわけです。

で、私が気になっているのが前奏曲というもの。本来はある(メインの)曲の前に導入的に演奏される曲*4ということなんですが、これといった形式的な決まりがないという自由さが特にロマン派以降の作曲家達からウケた(?)のか、これだけで独立して(あるいは前奏曲集という形で)作られることが多くなっています。しかし先ほども言ったように本来はその後にフーガなり舞踏組曲なりの確固たる形式のメイン曲があって、これによって(前奏曲の自由さと)バランスが取られるはずです。代表例がJ.S.Bach平均律で、前奏曲で自由に精神を飛翔させた後で、フーガというガッチリとした構造で締める、これが絶妙なバランスになっているわけです*5前奏曲だけで終わるのは、そういった締めるべきものがない、いわば糸の切れた凧、あるいはおいしいところだけを食い逃げするようなものでしょう。またその自由さというか作曲上の敷居の低さから、理論や技術の裏付けのない、単なる感性やアイディア勝負の曲が溢れがちです*6。そういった意味で私は、それに見合うだけのフーガ(または後続曲)を書けない人間に、前奏曲を書いて欲しくないと思っています。

前奏曲集という形を誰が最初に始めたのか知りませんが、最初の有名な曲集はやはりChopinのものでしょう。その後にScriabinやDebussy, Rachmaninovその他無数の追随者を作ってしまったという意味でChopinの罪は重いと思っています(笑)*7

*1:この間子供向けのCDを聴いていてやっと気が付きました。ちなみにその後の「QRSTUV」「W&XYZ」も同様に脚韻しています。

*2:昔セサミストリートを見ていたら、'rhyme'ということをしきりに言っていたのを思い出します。英語圏ではきっと小さい頃から自然に刷り込まれているんですね。

*3:私は自由詩というものには懐疑的です。

*4:メインの曲の前に、楽器が正しく調律されているかどうか確認用に試奏するための曲、というのがそもそもの起源だとか。

*5:「幻想曲フーガ」「トッカータフーガ」なども同様ですね。

*6エチュードも形式的には自由ですが、こちらは特定のテクニックを鍛えるという目的に適うことがある種の縛りになっています。

*7:Chopinを「天才的素人作曲家」を呼んだ人がいますが、私も共感するところ大です。

kohtkoht 2007/01/20 19:24 平均律をよく見ますと、第1巻変ホ長調、第2巻ハ長調のように、厳格な前奏曲に軽いフーガを合わせる、ということもやっています。要は全体のバランスということですね。
日本では連歌という形式の中から発句が分離独立し、連歌の文脈からの精神的自由を獲得して「俳句」として発展しましたが、前奏曲の成立との類似を感じます。
ショパンの場合は、24曲を連奏することが意図されているようでもありますので、これはこれでロマン主義の潮流の中で成立した一つの新形式ともいえましょう。

kyushimakyushima 2007/01/21 10:05 確かにChopinの場合は「24すべての調で」「連続して弾かれる(全体が1つのストーリーになっている)」という点がある種の縛りになって、1つの形式と言えるかもしれませんね。ただ他の人の前奏曲集を見ると、曲どうしの関連(連続)性が薄かったり調を網羅していなかったりして、単なる性格的小品集に留まっていることが多いような気がします。(「前奏曲集」はあまり好きではないので他の人の作品はあまり詳しくないのですが。)
そういう意味では罪深いのはChopinの遺志(?)を継がなかった後生の人かも(笑)。

XXVIIIXXVIII 2007/01/21 18:05 Chopinと同じように24曲を1セットにした前奏曲集はいくつかありますよ。
例えばScriabinのOp.11やShostakovichのOp.34、KapustinのOp.53とか。
曲の配列もChopinと同じで、ハ長調から始まりニ短調で終わる形式ですし。
24曲まとめではない前奏曲に関しては雰囲気で名づけられたような気がします。

通りすがり通りすがり 2007/01/29 15:41 いつも興味深く拝見しています。
自分はchopinがかなり好きでなんとか弁護できないかと思い(笑)
コメントさせていただきました。

chopinは天才的素人作曲家と書かれていますが、
彼の作曲がどこかサロン的で雰囲気をあらわしたものが多く
構造は弱いといわれてしまうのは、彼の構造の作り方、形式の捉え方は、
他の作曲家(殊にドイツ系)と異なっているからだといえると思います。
一般に構造というとそっち側からしか見ないですね・・・。
詳しく書くと長くなってしまうのでやめますが、
分析してみるとかなり精巧に出来ています。
もちろん形式に当てはめることは出来ないですが。
継承者といえるドビュッシーも「ふわふわ系」と思われるのかもしれませんが
倍音までしっかり計算されて響きが作られているあたり驚きです。
話を前奏曲に向けると、調性は五度圏を逆周りに作っていますね。
またこれも各曲の動機を見てみると関連性がかなりあります。
特にフレーズなどはほとんど数学的にできてます。
chopinの前奏曲の場合、確かに主題と主題が対比したり交わったりして競い合いながらできていくソナタ形式のようなものはないですが、
冒頭のc-durを発展させ、様々に変奏している、ある種の変奏曲と考えられます。
でも、各々が独自の個性を持っているあたりがただの変奏曲ではないところで、
ミニマムミュージックのような興味深い世界なんじゃないでしょうか。

弁護できてるのか出来ていないのか・・・・出来ていないでしょうね(笑

kyushimakyushima 2007/01/31 12:37 前奏曲がある種の変奏曲あるいはミニマルミュージックと捉えるというのは今まで聞いたことがなかったのですが、面白い考え方ですね。私は音楽の分析とかしたことがないのでよくわかりませんが(^^;)。
ちなみに素人天才作曲家云々のくだりは、吉田秀和の「名曲300選」の中の「そうして、私は、とかく『ショパンは、天才的素人作曲家である』というルネ・レイボヴィッツの言葉に共感したくなるのである。」というのが出所です。Leibowitzがどのような文脈で言ったのかは知りませんが、曲の構成の問題のほかに、自分の書きたい曲を書きたいように書くという点で、依頼者の求めや需要に応じていかようにも(楽器編成、形式、長さ)曲を書く(書ける)という職業作曲家としても姿勢や能力?に欠けている点もあるのかもという気がしています。(このあたりはロマン派の作曲家にある程度共通しているのかもしれませんが。)
ちなみにChopinについては普段思っていることがあるので今度新たに記事を書こうかなと思っています。