アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

鞦韆(「ヤーコブ・ベーメとその敵」改題・改稿)

自分の中に入っていく糸口が見付からない。自分の中に入って行くことはラクダが針の穴を通るよりも難しいと言われる。涙が出てくる。ぼくはラクダのように涙腺を通って自分の中に入って行かなければならない。

君は子どもにかえって天の高いところで下界を見下ろしながらブランコを漕いでいる。そんな風に思い出してほしかったのか? それともあらかじめ知っておいてほしかったのか? なぜそんなさみしすぎる自画像が気に入ったのか?

輝いていた。うずくまっていた。そして肉体をもっていた。
「復活とは未来のモナドのことである」
輝く肉体をもってうずくまっている人をぼくは見た。

  *

罪と死-義と生命=アダム-キリスト。
双極子-双極子=双極子。
存在と言う言葉を使わないで存在を語ればどうなるか? そのとき世界は善と悪二つに割れてしまう。世界はもはやその断裂から現れる幻影=譬喩としてしか語りえないものになってしまう。あるいは存在が善と悪の微細な双極子で埋め尽くされてしまう。いや世界が。

「これによって彼らは彼らの宮殿を建造しひそかに偽神マンモンに仕えた。こうして彼らの多くは野獣のように生き、驕慢と華美と奢侈において悪い生を送り、富める者が貧しい者の汗と労苦を食いものし、そのうえ彼らを圧迫したのである。」(ベーメ『アウローラ』)

しかし世界という一本の銃身を貫く弾丸はまだ撃ち尽くされてはいないではないか! 天使の愛のなかで地獄を思い出せるかどうかにすべてがかかっている。