『ピーコ伝』_Posted at 00:52

「ピーコさんと話していると、
いわゆるゲイの人たちと会話するのとは
また違う感じがするんですよね」
(p36 糸井)

この本を手に取ったのは
ピーコがゲイだったから
興味を持ったのではない。
「わたしは、
男でもなければ、女でもないの。
ただ、わ・た・し、なのね。」
(p243 ピーコ)
とあったように
私が興味を持った
杉浦そのひとが
たまたまゲイだった
ただそれだけなのである。


ゲイを芸として
ゲイを一種の性的趣向として
捉えるのではなく、
ゲイは「生活」の全てなのだと
(p35)
と言い切れるピーコは、
「ゲイは
男とのセックスのことばかり考えている、
[…](という)
ステレオタイプな偏見」(p36-37)を喝破する。
「ゲイの枠をを超えたゲイ、
ピーコ」に対して
「いやらしさ」を
あまり感じないのは
当然といえば当然の話なのかもしれない。

存在が
「いやらしく」を感じさせないのは
男性でも女性でもない、
その間でもない
「ピーコ=日本のおかあさん」
という式によるものだ。
この式は
糸井によって繰り返し登場する。
その上で
「絶えざるリスク処理をしながら
あたりまえのことを『断言』する人が、
いま世の中にはなくてはならない[…]」
(p279 糸井)という。

まさにいい得て妙だ。



この企画の主眼である
ピーコの人となりはもちろん、
むしろ
糸井のインタビューアとしての
感性に強く惹かれた。

糸井がピーコと面しているとき
相槌程度しかしない。
対談と言うよりは
無駄なやりとりを排した
「事情聴取」に近い。
相手の話に割り込むことなく、
ピーコの話を聞くことにひたすら集中している。
これは
経験によって
培われた能力というより
あくまで感覚や感性に近い。



相手の話を引き出せなくして
時間や空間を共有する意味があるのだろうか?
自分が物事を知っていることは
相手の興味を惹くために必要なこと。

もっと主体的に
人の話に耳を傾けたいなと
この本を読んで思いました。